P61 東京国立博物館蔵
(読み)
此 圓(マルイ)と丸 と能間 か者なれてある処 ハ皆ナ
この まるい とまるとのあいだがはなれてあるところはみな
天ンてござる爰 で活(イキて)歩(アルイ)ていかれぬ
てんでござるここで いきて あるい ていかれぬ
此 天 を飛(ト)フ尓ハ神(タマシヒ)尓なら袮ハ飛ハれ
このてんを と ぶには たましい にならねばとばれ
ぬと云ヒ聞カ春れハ其 婦人 至極 ニがてん
ぬといいきかすればそのふじんしごくにがてん
していよ\/阿弥陀様 をお頼 ミ申 事 とて
していよいよあみださまをおたのみもうすこととて
重 尓菓子ニシメを贈 个る此 婦人 此 ノ
じゅうにかしにしめをおくりけるこのふじんここの
家 より近 所 ヘ嫁して今 屋も女(メ)となり多
いえよりきんじょへかしていまやも め となりた
るなりと只 極 楽 へ行ク事 能ミ願 ふ人 也
るなりとただごくらくへゆくことのみねがうひとなり
十 二日 上 天 氣爰 ノ親類(ルイ)尓助 右エ門 と云ふ
じゅうににちじょうてんきここのしん るい にすけえ もんという
人 其 比 五十 位 ニて此 日案内 して先ツ
ひとそのころごじゅうくらいにてこのひあないしてまず
(大意)
略
(補足)
「十二日」、天明8年八月十二日。1788年9月11日。
御婦人の「極楽というところはどこにございましょうや。その極楽に私は生きて参りとうござります。死んでいてはその極楽も見ることはできません。どうぞ生きたまま参りたく、そしてその極楽はどこにござります」と、畳にしかれた「地球ノ圖」を見ながら、江漢さんに迫ったのでしょう。手を合わせて祈る民衆の根源的な問いかけであります。
くそ坊主なら、「えぇ〜っい!信心が足りぬ、祈りが足りぬ、もっともっと無心になって祈るのじゃ。祈りが足りぬから、そのような邪念をもつのだ」とでもいって、煙に巻くでしょうね。
「生きて歩いて行かれぬこの天を飛ぶには神(たましい)にならねば飛ぶことができない」との、江漢さんのこの説法は妙な説得力があって、御婦人は至極納得、お重にお菓子やら煮しめをつめて贈られ、江漢さんはしんみりしつつもうれしかったことでありましょう。
何度読み返しても、今そこで、隣の部屋で行われている出来事のように思われて仕方がありません。
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