P41 東京国立博物館蔵
(読み)
春爰 を過 て津尓至 ル藤 堂 侯 三 十 万
さんけいすここをすぎてつにいたるとうどうこうさんじゅうまん
石 能城 下富商 軒 を連ラ子繁 昌 能地
ごくのじょうかふしょうのきをつらねはんじょうのち
なり雨 路 より大 降リ茶 人 木 唇 ハ日永 ニて
なりあめみちよりおおふりちゃじんもくしんはひながにて
逢ひ申 して云フ私 ハ津能町 ニ居 申 候 必 スお
あいもうしていうわたしはつのまにちおりもうしそうろうかならずお
通 筋 尓候 間 私 方 へお泊 リ可被成 と申 候 故 尓
とおりすじにそうろうあいだわたくしかたへおとまりなさるべしともうしそうろうゆえに
此 茶 人 方 ヘ参 茶 人 出て迷惑(メイワク)さふなる
このちゃじんかたへまいるちゃじんでて めいわく そうなる
顔 色 をしてコレハ\/ 雨 ニてお困 サア\/コレヱ\/ と
かおいろをしてこれはこれはあめにておこまりさあさあこれえこれえと
云 故 ニ先 うへ尓あかり見ル尓家内 三 人 なり
いうゆえにまずうえにあがりみるにかないさんにんなり
家 ハ借 家と見へ町 並 にして門 ハ廣 し三 十 三
いえはしゃくやとみえまちなみにしてもんはひろしさんじゅうさん
四五能女 房 十 八 九能娘 どれもふき里よふ美なら春
しごのにょうぼうじゅうはっくのむすめどれもぶきりょうびならず
(大意)
略
(補足)
「津尓至ル藤堂侯三十万石能城下」、津は藤堂和泉守居城とあるところ。当時の津藩主は第9代・藤堂高嶷(たかさと)。
娘を「十八九」としながらも、女房は「三十三四五」と細かく刻んでいる。さらには「どれもふき里よふ美なら春」と手厳しい。この日記は一巻から六巻まで江漢は言い放題なので、出版されなかったのでしょう。そのかわりに西遊旅譚が出版されています。
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