2025年2月14日金曜日

江漢西遊日記二 その45

P55 東京国立博物館蔵

(読み)

へかえら春゛夫 故 老 人 出てあな(アナタ)ハどち

へかえらず それゆえろうじんでて   あなた はどち


羅からお出 と問フ故 尓私  ハ江戸の者 ニ

らからおいでととうゆえにわたしはえどのものに


て兼 て子息 可七 様 とハ御懇 意ニて

てかねてしそくかしちさまとはごこんいにて


此 度 長 崎 能方 へ参  候   可 是 より京  へ

このたびながさきのほうへまいりそうろうべくこれよりきょうへ


参  候   序  尓此 日野へお尋  可   申とお約

まいりそうろうついでにこのひのへおたずねもうすべしとおやく


束 い多しまし多可゛未 タお返 りハなきヤと

そくいたしましたが いまだおかえりはなきやと


申  け連ハ左様 なら先 お上 リなされま

もうしければさようならまずおあがりなされま


しと云フ然 し此 ぢゝ様 一 向 尓物 好キ

しというしかしこのじじさまいっこうにものずき


毛なさふ(ナササウ)ニ見へる人 ニて家内 を見れハ

も    なさそう にみえるひとにてかないをみれば


人 も春くなく然 シ家 ハ能 婦志ん尓て

ひともすくなくしかしいえはよきふしんにて

(大意)

(補足)

「子息可七様」、前頁「其子息ハ四十位」のこと、漢字は喜七のようです。

「家内を見れハ人も春くなく」、全国に出店をだし商網が整うと、江州日野の本家では商品を取り扱わず、光武自身がここで全国の出店から月次の営業報告を受け采配をふるった。現業から離れたため、本家にも支配人以下手代をおいた。二百数十年前とはいえ、現在の商社の体制とかわることがないのでした。

 『近江商人中井家の研究』(雄山閣)には「中井家コンツェルン」ともいうべき、当時としては極めて進んだ近代的合理的な経営方法によって営まれた、史上注目すべき存在であることが明らかにされている、とありました。

 文化八(1811)年の江漢の随想集『春波楼筆記』には、このときの訪問ことがかなり詳しく記されています。

 歴史上の大商人の会話や家でのもてなしの様子がタイムマシンに乗って時代を遡り、見ているよう。

 

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