P52 東京国立博物館蔵
(読み)
坂 と云 処 尓森 嶋 平 四良 と云フ者 能処 へ
さかというところにもりしまへいしろうというもののところへ
津能茶 人 の手紙 を添ヘ我 等尓よるへしと
つのちゃじんのてがみをそえわれらによるべしと
云 故 尋 け連ハ入 口 ニ札 を掛 多り曰 儒 者
いうゆえたずねければいりぐちにふだをかけたりいわくじゅしゃ
学 者 虚 名 の者 並 尓物 もらい不可入 と
がくしゃきょめいのものならびにものもらいいるべからずと
あり夫 故 よら春゛爰 ハ山 田への往 来 ニて
ありそれゆえよらず ここはやまだへのおうらいにて
埒 もなき色 \/能者 よ里て難ン義なる
らちもなきいろいろのものよりてなんぎなる
事 なるべし夫 より櫛(クシ)田川 を越へ又 よ程
ことなるべしそれより くし だかわをこえまたよほど
行 松 阪 なり一 里手前 より三 宝 かう神 能
ゆきまつざかなりいちりてまえよりさんぽうこうじんの
馬 尓初 メて乗りて見多り漸 ク六 軒 茶 や尓
うまにはじめてのりてみたりようやくろっけんじゃやに
参 爰 尓てあしき家 尓泊 ル
まいるここにてあしきいえにとまる
(大意)
略
(補足)
「森嶋」、「森」のくずし字の下半分がへんてこりんです。調べてみてもなるほどこんな形でした。
「三宝かう神」、江漢さん、ほぼこれと同じようなものに乗ったのでは。
「六軒茶や」、地元松阪市六軒町の説明板の内容です。
『六軒茶屋の賑わい
伊勢街道沿いの宿場町であった六軒茶屋はお伊勢参りの人々で江戸時代に大いに栄えた。文政13年(1830年)におかげ参りが流行した時には、日に数万人の人々が六茶屋を往来したとある。伊勢音頭道中歌にも「明日はお発ちか、お名残り借しや、六新茶屋まで送りしょ・・・」と唄われている』
江漢さん、北上し亀山から琵琶湖方面をめざします。
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