P53 東京国立博物館蔵
(読み)
八 日天 氣西 風 六 軒 を正 六 時尓出 立 して
ようかてんきにしかぜろっけんをしょうろくじにしゅったつして
三 里程 過 て津尓出て夫 ヨリ窪田(クホタ)と云フ処
さんりほどすぎてつにでてそれより くぼた というところ
ヘ一 里半 アリ亦 椋 本 と云 ヘ二里を経て松
へいちりはんありまたむくもとというへにりをへてまつ
山 な王手を過 て楠 原 と云 処 へ一 里あり
やまなわてをすぎてくすはらというところへいちりあり
亦 関 ヘ一 里坂 の下 ヘ一 里二十 町 余来 リ
またせきへいちりさかのしたへいちりにじっちょうよきたり
て坂 能下 尓泊 ル爰 まて皆 山 路 なり
てさかのしたにとまるここまでみなやまみちなり
九 日上 天 氣夜 の引 明 尓坂 の下 を出 立 して
ここのかじょうてんきよるのひきあけにさかのしたをしゅったつして
山 中 尓て明 ル往 来 皆 山 路 ニして土 山 尓
やまなかにてあくるおうらいみなやまみちにしてつちやまに
い多る宿 の者川れより右 尓入 日野へ行 路
いたるやどのはずれよりみぎにいりひのへゆくみち
なり山 路 ニかゝ里小川 ニ 瀬越ヘ亦大 河 を
なりやまみちにかかりおがわふたせこえまおおかわを
(大意)
略
(補足)
「八日」、天明8年八月八日。1788年9月7日。
「六時」、午前6時。
津・窪田・椋本(むくもと)・楠原・関・坂下と宿場名が続きます。津より左斜め上に上る街道です。
坂の下宿に泊まり、さらに山路を歩きます。坂下・山中・土山・鎌掛です。
山路という言葉が何度も出てきてます。恐らくではなく絶対に山深き難所に違いありません。これだけの山路を歩いて、暑く汗でびっしょりな様子の記述がないのは、標高があってそれなりに気温が高くないからなのでしょうか。
古地図の地名がいくつも上の画像にのっています。現在の地図でもそれらが、市町村合併で古い地名が失われているのですが、ほぼすべて残っているのに驚きました。
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