P54 東京国立博物館蔵
(読み)
二 ツ渡 ル夫 より山 尓登 る二里を経てかゐ
ふたつわたるそれよりやまにのぼるにりをへてかい
掛 と云 処 人 家アリ爰 ニて昼 喰 を春る未(イマ)多
がけというところじんかありここにてちゅうじきをする いま だ
四ツ半 比 なり夫 より田能間 タを行クさて日野岡 本 町 ト
よつはんころなりそれよりたのあいだをゆくさてひのおかもとちょうと
云 処 尓至 ル尓爰 ハ家 並 てあれとも前 ハマサ
いうところにいたるにここはいえならびてあれどもまえはまさ
木能生 垣 ニして少 シ引 込ミて見世の様
きのいけがきにしてすこしひきこみてみせのよう
子あり薬 種 屋多 し爰 ニ中 井源 左
すありやくしゅやおおしここになかいげんざ
衛門 とて一 代 尓三 十 万 両 能金 持 尓
えもんとていちだいにさんじゅうまんりょうのかねもちに
なり多る人 也 源 左衛門 隠 居 して其 比 七
なりたるひとなりげんざえもんいんきょしてそのころなな
十 六 七 ニなる老 人 ニて其 子息 ハ四十 位
じゅうろくしちになるろうじんにてそのしそくはしじゅうくらい
ニて奥 州 仙 臺 尓見世ありて未 タ日野
にておうしゅうせんだいにみせありていまだひの
(大意)
略
(補足)
「四ツ半比」、午前11時頃。
「かゐ掛」鎌掛(かいがけ)。『鎌掛の屏風岩(かいがけのびょうぶいわ)は、滋賀県蒲生郡日野町にある国の天然記念物に指定された巨岩の露頭である』とウィキペディアにありました。
「日野岡本町」、近江蒲生郡日野。この辺一帯は、全国的に商網をはって活躍、商業界を制した近江商人の根拠地である、とありました。
わたしはずっと長いこと近江商人の本拠地は琵琶湖南端大津付近だと勝手に思い込んでいました。大間違いでした、お恥ずかしい。こんな山奥だったのですね。先に松坂が三井越後屋から現在の三越になった本拠地と記しましたが、ここはまぁ海からも近いからなんとなくそうかと納得できましたが、ここ日野付近は山奥、とても不思議です。
「薬種屋」、蒲生郡日野から甲賀郡一帯にかけては、今でも売薬業の盛んなところである。他に編み笠・麻布・蚊帳・漆器・畳表などが産物。
「中井源左衛門」、近江商人の中でも第一流の巨商。江戸時代を通じて近江商人中第一位の座を保ち続けた。江漢の随想集『春波楼筆記』(文化8(1811)年)にはこのときの訪問の様子がさらに詳しく記されています。
「一代尓三十万両能金持」、中井家の財産は、享和4(1804)年に11万5375両1分と計上されているので、これはうわさか、とありました。
「其比七十六七ニなる老人」、中井家初代源左衛門光武(享保元(1716)〜文化2(1805))はこのとき72歳。こののち寛政6(1794)年79歳で隠居。
「其子息ハ四十位」、光武の次男彦太郎。本名光昌。宝暦7(1757)年〜文化5(1808)年。長男が早世したので二代目をつぎ、仙台・相馬の支店をまかされた。
「奥州仙臺尓見世あり」、初代源左衛門時代には、全国に出店十店を開設した。仙台開店は三番目、明和6(1769)年。仙台店では、奥州地方から関東北部にわたる物産(ex.生糸・紅花」・青苧(あおからむし。麻の一種)・蝋・大豆・小豆・漆など)を買い入れ、おもに京阪地方に送り、奥州地方へは、古手・綿・木綿を送り、歓迎された。仙台店ではこの産物回しの商法で最も繁盛した店で、こうした出店は本家から派遣された支配人が統括した、とありました。
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