2025年10月26日日曜日

江漢西遊日記六 その23

P32 東京国立博物館蔵

(読み)

町  とて遊 里アリ是 ハ至  てザット志多る所  也

ちょうとてゆうりありこれはいたってざっとしたるところなり


此 地姪 の濱 より福 岡 まて一 里余  福 岡

このちめいのはまよりふくおかまでいちりあまりふくおか


ヨリ博 多迄 十  八 町  人 家續 キて繁昌(ハンゼ ウ)

よりはかたまでじゅうはっちょうじんかつづきて   はんじょう


能地なり西 ハ海 南  ハ山 なり

のちなりにしはうみみなみはやまなり


十  六 日 天 氣出  立 せんと春老 婦色 \/取

じゅうろくにちてんきしゅったつせんとすろうふいろいろとり


揃 ヘ飯 出須茶 梅 干 外 ニ金 子を添ヘて

そろえめしだすちゃうめぼしほかにきんすをそえて


餞 別 と春五  時 少 シ過 て發 足 し程 なく箱

せんべつとすいつつどきすこしすぎてはっそくしほどなくはこ


崎 八 幡 往 来 なり参 詣 春海 の中 路 見へる

さきはちまんおうらいなりさんけいすうみのなかみちみえる


玄 海 じま鹿 の嶋 なと云 嶋 \/見へ能キ景色

げんかいじましがのしまなどいうしまじまみえよきけしき


夫 より松 原 を通 里昼 比 より雨 降 出して

それよりまつばらをとおりひるごろよりあめふりだして

(大意)

(補足)

「ザット」、大雑把ということですが、現在でも日常的に使われ、この時代でも同じ意味だったのでしょう。古い文献では余り見ません。

「十六日」、天明9年1月16日。1789年2月10日。

「博多迄十八町」、「五時少シ過て」、迄と過の区別に注意。

「鹿の嶋」、志賀嶋。箱崎八幡は赤い印のところ。

 古地図と比べても、ほとんど同じです。右下に箱崎村、箱崎宿があり、すぐそばにある青い屋根が筥崎宮だとおもいます。 

 博多には結局12日から3日間過ごし、16日朝8時頃出立。「玄海じま鹿の嶋なと云嶋\/見へ能キ景色」を楽しみましたが、「昼比より雨降出して」しまいました。

 

2025年10月25日土曜日

江漢西遊日記六 その22

P31 東京国立博物館蔵

(読み)

付 を者き和らんじニて福 岡 能城  内 ヘ入リて

つけをはきわらんじにてふくおかのじょうないへいりて


玄 関 ニ酒 盃 アリ夫 を呑ミ帰 ル事 なり

げんかんにしゅはいありそれをのみかえることなり


今 ハ祭 り能様 尓なり頭  ニハ紫(ムラサキ)。亦紅(モミ)。色 \/尓

いまはまつりのようになりあたまには  むらさき  また もみ  いろいろに


染 多るちりめんの投(ナゲ)頭巾 をか武里腰 尓三(サン)

そめたるちりめんの  なげ ずきんをかぶりこしに  さん


尺  手拭(テヌグイ)をしめ手ニ扇  を持 行クなり往 来

じゃく   てぬぐい をしめてにおおぎをもちゆくなりおうらい


さしきを掛ケ家中  能婦女 見 物 春夫 尓

ざしきをかけかちゅうのふじょけんぶつすそれに


たゐして色\/能ザレ口(クチ)を云ツても失 禮 ニ

たいしていろいろざれ  ぐち をいってもしつれいに


あら春゛とぞ又 福 人 能造 り物 捅(ヲトリ)屋臺(ヤタイ)

あらず とぞまたふくじんのつくりもの  おどり    やたい


夜半 過 迄 三 味せん太 鞁ニて者や春也

やはんすぎまでしゃみせんたいこにてはやすなり


櫛田(クシタ)能宮 博 多第 一 能大 社 なり又 柳

   くしだ のみやはかただいいちのたいしゃなりまたやなぎ

(大意)

(補足)

「和らんじ」、『わらんじ わらんぢ 【〈草鞋〉 】

「わらじ(草鞋)」に同じ。「やつちの糸の―をはき」〈幸若舞・山中常盤〉』

「捅」、踊。

「夜半過迄」、「過」と「迄」のくずし字はまぎらわしいのですけど、ふたつくっついて並ぶのは珍しいかも。くずし字は、「過」は「る」+「辶」、「迄」は「白」+「辶」、のような感じ。

「鞁」、鼓。江漢さんは太鼓をいつも太鞁とかきます。

「櫛田(クシタ)能宮」、『櫛田神社を指す言葉で、博多祇園山笠の発祥の地であり、祭りの中心となっています』。


 

2025年10月24日金曜日

江漢西遊日記六 その21

P30 東京国立博物館蔵

(読み)

なり硫黄 の氣能燃 ルなり扨テ冨士能画

なりいおうのきのもえるなりさてふじのえ


を認  メ亭 主 ニ贈(ヲクル)酒 菓子を出し馳走 春此

をしたためていしゅに  おくる さけかしをだしちそうすこの


地も暖 土ニして多゛い\/の木を家 毎 ニ植へて

ちもだんどにしてだ いだいのきをいえごとにうえて


酢ニ用 ユ

すにもちゆ


十  四 日雨天 此 日出  立 せんと春主 人 云 明

じゅうよっかうてんこのひしゅったつせんとすしゅじんいうあ


日ハ爰 もと松 林  と申  て先祭(マツリ)能様 なる事

すはここもとまつばやしともうしてまず まつり のようなること


ニて家 々 煉(ネリ)酒 を造 里祝(イワウ)元 来 此 松 林

にていえいえ  ねり さけをつくり  いわう がんらいこのまつばやし


と云フハ昔 シ此 博 多尓唐 舩 能著(ツキ)多る処  ニて

というはむかしこのはかたにからぶねの  つき たるところにて


天 領  なり今 黒 田侯 能領  地となる昔 シ

てんりょうなりいまくろだこうのりょうちとなるむかし


能遺風 残 りて町  人 麻 の肩衣(カタキヌ)下 ハタチ

のいふうのこりてちょうにんあさの   かたぎぬ したはたち

(大意)

(補足)

「十四日」、天明9年1月14日。1789年2月8日。

「松林」、松囃子(まつばやし)。『まつばやし【松囃子・松拍子】

① 中世,正月に行われた囃子物。町村で組を作って趣向をこらし,権門勢家を訪れて祝言を述べたもの。のち,猿楽の太夫が将軍家などで勤めた。現在,民俗芸能として熊本県菊池市・福岡市などに残る。飾り囃子。

② 江戸時代,正月に行われた謡初め。将軍家や公家では3日に各座の能楽太夫を招いて行い,一般では3日から15日の間に行なった』

「煉(ネリ)酒」、『ねりざけ【練り酒・煉り酒】

白酒の一。蒸した米に酒と麴(こうじ)をいれて熟成させ,石臼(いしうす)でひき,漉(こ)したもの。博多の名産であった。練貫(ねりぬき)酒』

 12日に博多に着き、今日14日出立しようとするも、主人に引き止められた様子。

 

2025年10月23日木曜日

江漢西遊日記六 その20

P29 東京国立博物館蔵

(読み)

母 親 出て者なし春此 者ゝさ満門 徒宗  ニて

ははおやでてはなしすこのははさまもんとしゅうにて


ぼ多゛ひ所 能和尚  を内 々 生  写 し尓い多し度

ほだ いじょのおしょうをないないしょううつしにいたしたく


とて此 家 能老 奴と一 所 尓寺 ヘ参 り院 主

とてこのいえのろうどといっしょにてらへまいりいんじゅ


尓面 會 して帰 りぬ此 寺 能庭(ニワ)尓木能

にめんかいしてかえりぬこのてらの  にわ にきの


化石 あり大 キサ一 間 余  なり淡(ウス)墨(スミ)色 ニ

かせきありおおきさいっけんあまりなり  うす   すみ いろに


て後 ロ能方 を見れバ真(シン)黒 なる処  あり

てうしろのほうをみれば  しん こくなるところあり


形 ち松 の木ニして枝 あり是 ハ石 炭 能

かたちまつのきにしてえだありこれはせきたんの


中(ナカ)より出 多る者 なり此 邊 豆腐(フ)や餅

  なか よりいでたるものなりこのへんとう ふ やもち


や風呂や皆 石 炭 を焚(タク)故 尓臭(クサシ)此 石

やふろやみなせきたんを  たく ゆえに  くさし このせき


炭 ハ山 能根より堀 出ス開 闢  以前 能化石

たんはやまのねよりほりだすかいびゃくいぜんのかせき

(大意)

(補足)

「堀出ス」、「扌」偏の掘もありますが、ここのは「土」偏です。二つの違いは『扌のほうは手でほること。土のほうは土地をほって水を通したところ(お城の堀など)』とあって、別の字とありました。

「開闢」、『かいびゃく【開闢】(名)スル 〔古くは「かいひゃく」とも〕

① 天地のはじまり。世の中のはじまり。「―以来の最大珍事」』

 

2025年10月22日水曜日

江漢西遊日記六 その19

P28 東京国立博物館蔵

(読み)

尓馬 尓能里来 ル夫 より博多(ハカタ)ニ至  半 里あり爰 ハ

にうまにのりきたるそれより   はかた にいたるはんりありここは


黒 田侯 三 十  万 石 能領  地ニて姪 の濱 より

くろだこうさんじゅうまんごくのりょうちにてめいのはまより


爰 まで人 家續(ツゞ)けり博 多鰯(イワシ)町  由岐屋

ここまでじんか  つづ けりはかた  いわし ちょうゆきや


甚 兵衛生 月 能問 屋なり昼 時 爰 尓着(ツク)也

じんべえいきつきのとんやなりひるどきここに  つく なり


見世能向 フ尓別 家アリ我 等能ミ爰 ニ居ル

みせのむこうにべっかありわれらのみここにいる


奇麗 ニして起居 安 し菓子茶 を出春兎

きれいにしてききょやすしかしちゃをだすと


角 僕 弁 吉不快 なり平 戸より之(コレ)まで能往

かくぼくべんきふかいなりひらどより  これ までのおう


来 人 行 希 なり誠  尓寒 氣能節 昨 日 と一

らいじんこうまれなりまことにかんきのせつさくじつといっ


昨 日 風 雪 能山 路 誠  尓難 渋  なりき

さくじつふうせつのやまみちまことになんじゅうなりき


十  三 日 雨天 滞 畄  春主 人 出テ話 ス主 人 能

じゅうさんにちうてんたいりゅうすしゅじんでてはなすしゅじんの

(大意)

(補足)

「博多鰯(イワシ)町」、『博多の「鰯町」は、かつて存在した豪商の町で、明治時代の風情を残しています。かつては川端町の一部でしたが、1945年の福岡大空襲で全焼し、現在は「須崎町(すさきまち)」となっています』とAIの概要にありました。

「奇麗」、綺麗。「弁吉」、弁喜。

「人行」、『じんこう ―かう【人行】人の往来。「街には―絶えたり」〈即興詩人•鷗外〉』

「誠」、「殊」かもしれません。すぐ左に「誠尓」があって、比較すると偏のくずし字が異なっています。3行目に「續」があり、この糸偏とも形がことなっています。

「十三日」、天明9年1月13日。1789年2月7日。

 生月島を出立してから、せっせせっせと帰路を急ぐような雰囲気が文章に感じられます。

 

2025年10月21日火曜日

江漢西遊日記六 その18

P27 東京国立博物館蔵

(読み)

唐 津屋利吉 方 へ泊 ル生 月 嶋 ニて逢ヒタル幸 左

からつやりきちかたへとまるいきつきしまにてあいたるこうざ


衛門 と云フ人能弟(ヲトゝ)なり扨 爰 ハ間(アイ)ノ宿  ニヤ松

えもんというひとの おとと なりさてここは  あい のしゅくにやまつ


並 木能間 タ能家 ニて埒 もなき大 いなかなり

なみきのあいだのいえにてらちもなきおおいなかなり


坐(サ)志き様 なる処  茅(ホヲ)屋(ヲク)天 井  なし煙 りいぶ

  ざ しきようなるところ  ぼお   おく てんじょうなしけむりいぶ


せくして屋(ヲク)中  を廻 る是 まで行(キタ)ル路 雷  チ

せくして  おく じゅうをめぐるこれまで  きた るみちいかずち


山 雪 降り各 \/ま多゛ら上 尓瀧 アリとぞ

やまゆきふりおのおのまだ らうえにたきありとぞ


十  二日 天 氣無風 暖  カなり僕(ホク)昨 夜より何ニ

じゅうににちてんきむふうあたたかなり  ぼく さくやよりなに


ヤラ当 り多る歟亦 ハ寒 氣故 可吐シ或(アルヒ)ハ下 シ不

やらあたりたるかまたはかんきゆえかとし  あるい はくだしふ


快 なり夫 故 少  々  能荷物 を為持 姪(メイ)能濱 ま

かいなりそれゆえしょうしょうのにもつをもたせ  めい のはまま


て先 ヘ行キ亦 福 岡 ニて次(ツク)爰 ニて待 合ヒ个る

でさきへゆきまたふくおかにて  つぐ ここにてまちあいける

(大意)

(補足)

「間(アイ)ノ宿」、『あいのしゅく あひ― 【間の宿】江戸時代,旅人の休憩のために宿場と宿場の中間に設けられた宿。宿泊は禁止されていた。間の村。あい。』

「茅屋」、『ぼうおく ばうをく【茅屋】① かやぶきの家。② みすぼらしい家。また,自宅をへりくだっていう語。』

「十二日」、天明9年1月12日。1789年2月6日

「姪(メイ)能濱」、古地図の中央の河口の西側。東側には福岡城。

 当時の旅人は道中で病死したり、追い剥ぎにあって殺されたりなどしたときのために、どこに葬られても異存はないという書状を持っていました。

 

2025年10月20日月曜日

江漢西遊日記六 その17

P21 東京国立博物館蔵

P22P23

P24P25

P26

(読み)

P21

有 田山

ありたやま


墨 ニ藍 ヲ入

すみにあいをいれ


タル色

たるいろ


冬 山

ふゆやま


黄 土色

おうどいろ


今 利ヨリ有 田

いまりよりありた


ヘ三 里アリ

へさんりあり


今 利宿

いまりしゅく

P22

調(ツキノ)川(カハ)ヨリ

  つきの   かわ より


御厨(ミクリヤ)ノ路

   みくりや のみち


七 ツ嶋 ト云 所

ななつしまというところ


佐賀領

さがりょう


有 田山

ありたやま


焼 物 ヲ

やきものを


ヤク所

やくところ


佐賀山

さがやま

P23

唐 津

からつ


冨士

ふじ


ニ似タ

ににた


やま


ハゼ村

はぜむら

P24

志作 ヨリ今 福 ノ間

しぜんよりいまふくのあいだ


北 ノ方 ヲ望 ム

きたのほうをのぞむ


ホシカノ浦

ほしかのうら


ウキセイロウ

うきせいろう


ト云

という


シビ見

しびみ


シヲ

しお


ニンバルト云 処

にんばるというところ


P25

其 二

そのに


イキ

いき(壱岐)


平 戸ノ方

ひらどのほう


志作 村

しぜんむら

P26

唐 津ノ内

からつのうち


二里ノ松 原

にりのまつばら


徳末(トクスエ)ヘ出 路 ナリ

   とくすえ へでるみちなり


雪 サラ\/降

ゆきさらさらふる


景色 ヨシ

けしきよし

(大意)

(補足)

P21 江戸時代の浮世絵や錦絵など摺師への色の指示はこのようにしてました。そして版元・絵師・彫師・摺師が出来上がった見本をみながら出来栄えを検討したようです。

 画には「有田山」という山の名前のようになっています。しかし調べてみると「「有田山」は有田町を中心とした陶磁器生産地のことで、「皿山(さらやま)」という言葉の元になっています」とありました。さて?

P24 「志作」は「しぜん」と読むのだそうです。そして『現在、「志作」という町名はありませんが、「志佐町」の読み方として「志作」が使われることがあります』とAIの概要にはありました。調川(つきのかわ)のすぐ西に志佐村や志佐浦があって、きっとそのあたりが志作だったのでしょう。

P26 「二里ノ松原」は古地図の「虹ノ松原」でしょうか。「二里」と「虹」は音が同じ。 

 随分大きな荷物をしょっての歩き旅、そして従者はひとり、くたばってしまいそうです。

 江漢さんたち、生月島を出立してからの道のりを現在の地図でどのあたりにいるかを確認すると、 

 拡大すると、


 です。 

2025年10月19日日曜日

江漢西遊日記六 その16

P20 東京国立博物館蔵

(読み)

徳 末 と云 コレ迄(マテ)四里夫 より田畑 の路 右 左

とくすえというこれ  まで しりそれよりたはたのみちみぎひだり


山 々 高 シ日暮 前 唐 津能城 の脇キ濱(ハマ)

やまやまたかしひぐれまえからつのしろのわき  はま


﨑 と云フ処  筑 前 や庄  助 と云 家 ニ泊 ル能 宿

さきというところちくぜんやしょうすけといういえにとまるよきやど


なりき直(スク)尓居(スヱ)風呂やヘ行キし尓此 邊 ミナ

なりき  すぐ に  すえ ふろやへゆきしにこのへんみな


石 炭 を焚く路 \/風 雪 霰  降 漸  く人 心(コゝ)

せきたんをたくみちみちかぜゆきあられふるようやくひと  ここ


持(チ)春る

  ち する


十  一 日 天 氣ニハあれど甚  タ寒風(カンフウ)濱 﨑 と云フ

じゅういちにちてんきにはあれどはなはだ   かんぷう はまさきという


処  を出テ吉 井能間  川 アリ夫 より濱 邊ヘ出テ

ところをでてよしいのあいだかわありそれよりはまべへでて


右 ハ西 海 唐 津の城 見ユ深(フカ)江と云 処  より馬

みぎはにしうみからつのしろみゆ  ふか えというところよりうま


尓乗ル前 原 より駕籠ニ能里漸  ク日暮 今 宿

にのるまえばるよりかごにのりようやくひぐれいましゅく

(大意)

(補足)

「徳末」、徳須恵。古地図の左隅が徳末村、街道沿いに北上すると唐津のお城があり、虹ノ松原を東へすぐのところが濱崎村。 

「十一日」、天明9年1月11日。1789年2月5日。

「濱崎」、古地図の左下が濱崎村、そのまま海沿いをすすんで、中央あたりの楕円型の入江の右浜が深江村、そして右隅に前原村。 

「濱﨑と云フ 処を出テ吉井能間川アリ夫より濱邊ヘ出テ 右ハ西海唐津の城見ユ」、地図を見ると、進行方向に向かって左が海です。濱崎村を出立して、振り返って来た路をながめると唐津のお城がみえたのでしょう、なので振り返れば右が海になります。

「今宿」、左端が今宿村、右端が福岡でお城が描かれています。

 長崎に来る途中の日記にもありましたが、当時から石炭は家庭でも、ここの風呂屋のようにも、日常で使われていたようです。

 途中、馬に乗ったり、駕籠をつかったりと、懐はあたたかかったようであります。

 

2025年10月18日土曜日

江漢西遊日記六 その15

P19 東京国立博物館蔵

(読み)

ヤミけ連爰 を出  立 して見れハ泊  やも一 二

やみけれここをしゅったつしてみればとまりやもいちに


軒 あり夫 より一 里を過 て今 福 と云 処  ニ

けんありそれよりいちりをすぎていまふくというところに


至 り七 ツ時 過 尓今 利と云 宿 ニ泊 ル問 屋をベットフ

いたりななつどきすぎにいまりというやどにとまるとんやをべっとう


と云 旅 人 宿 一 向 尓なし巡  礼 宿 一 軒 ある能ミ夫

というたびにんやどいっこうになしじゅんれいやどいっけんあるのみそれ


故 平 戸の者 と云 けれハ夫 故 焼 物 問 ヤニ泊  ニ喰

ゆえひらどのものといいければそれゆえやきものとんやにとまるにしょく


事等 よし内 もよし扨 爰 まで能路 々 入 海 ニ

じとうよしうちもよしさてここまでのみちみちいりうみに


して能キ景色 多 し皆 寫 春

してよきけしきおおしみなうつす


十 日夜 より風 雪 五  時 尓爰 出  立 して行ク皆

とおかよるよりふうせついつつどきにここしゅったつしてゆくみな


山 路 なり唐 津ノ堺  西 ノ方 屋しき野と云 所  山

やまみちなりからつのさかいにしのほうやしきのというところやま


能尓村 あり雪 ま多ら尓積ミ景 よし夫 より

のにむらありゆきまだらにつみけいよしそれより

(大意)

(補足)

「今福」、調川(つきのかわ)の東側。

 そのまま入り海にそって南東へ、奥まったところが伊万里。 


 現在の地図ではこんな感じ。

「扨爰まで能路々入海ニ して能キ景色多し皆寫春」、このあと、6頁もそれらの画のために費やしています。とても感動した様子です。

「十日」、天明9年1月10日。1789年2月4日。

「屋しき野」、現在の地図です。

 九州とはいえ、真冬の山路、「雪ま多ら尓積ミ」とありますけど、大変な旅路だろうと想像できます。

 

2025年10月17日金曜日

江漢西遊日記六 その14

P17 東京国立博物館蔵

(読み)

油  水 と云 処  氣ヲ吹ク

あぶらみずというところきをふく


コレハ穴 アリ其 穴 ノ

これはあなありそのあなの


口 迄 潮 ヲ満チ

くちまでしおをみち


波 穴 ヲ閉ツ

なみあなをとず



セマツテ氣ヲ

せまってきを


吹くなり

ふくなり


予潮 ノ此 穴 ニ

よしおのこのあなに


満 ル時 通  し故 ニ視タり

みつるときとおりしゆえにみたり

(大意)

(補足)

 この画は「四日天氣よし亦之助と同舟して此生月 嶋を發して多嶋大嶋右ニ白岳能絶(セツ) 壁(ヘキ)を見て油水と云処ニ舟をよせ鮪納 屋ニ至り喰事春」とある1月4日の船旅で見たもの。

 沖に帆船二艘が描かれてますけど、これは実際のものではなく絵師としての習い性。

 

2025年10月16日木曜日

江漢西遊日記六 その13

P16 東京国立博物館蔵

(読み)

家 ハ一 尺  程 も横 尓まがり裏 口 尓戸なし

いえはいっしゃくほどもよこにまがりうらぐちにとなし


夜半 比 迄 主 人 不帰  夫 故 尓股 引 のまゝニて

やはんころまでしゅじんかえらずそれゆえにももひきのままにて


横 尓なり个連ハ何 ヤラキタナキ蒲(フ)とんを可け

よこになりければなにやらきたなき  ふ とんをかけ


希り一 向 不眠  して居ルうち破(ヤフレ)者かまを者き

けりいっこうねむれずしておるうち  やぶれ ばかまをはき


たもと尓ゴロ\/と鈴(スゞ)の音 をして高(タカ)間(マ)可原 なり

たもとにごろごろと  すず のおとをして  たか   ま がはらなり


正  月 故 尓五里も六 里も遠方(ヱンホウ)を竃(カマ)じめ尓

しょうがつゆえにごりもろくりも   えんぽう を  かま じめに


歩(アル)くなりとぞ

  ある くなりとぞ


九  日曇 ル大 風 寒 しさて主 人 ハ夜 比 未 タ明

ここのかくもるおおかぜさむしさてしゅじんはよるころいまだあけ


ぬ尓出で行キ个里程 なく我 ホも起(ヲ)き正  月

ぬにいでゆきけりほどなくわれらも  お きしょうがつ


能事 なれハ埒(ラチ)もなき雑 煮を出し个里雨 も

のことなれば  らち もなきぞうにをだしけりあめも

(大意)

(補足)

「破(ヤフレ)者かま」、たっつけばかま【裁着袴】のことか?『男子袴の一。膝から下を細く仕立てたもの。活動に便利なため,江戸中期から武士が旅行・調練などに用い,また奉公人・行商人が用いた。現在は相撲の呼び出しなどが用いている。伊賀袴』

「高(タカ)間(マ)可原」、高天原(たかまがはら)、神主のことか?

「竃(カマ)じめ」、『年末に行われる日本の伝統行事で、竃(かまど)の神様に感謝し、新しい年を迎えるために竃に注連縄を張って締めくくることです。これには、台所や火を司る三宝荒神(さんぽうこうじん)などの神様をお祀りし、新年の災厄除けを祈願する意味があります』とありましたが、正月にも行うのかもしれません。竃あけですね。

「九日」、天明9年1月9日。1789年2月3日。

 「家ハ一尺程も横尓まがり裏口尓戸なし」の貧しい家の正月の精一杯の雑煮を「埒(ラチ)もなき」とは、罰当たり江漢!

 

2025年10月15日水曜日

江漢西遊日記六 その12

P15 東京国立博物館蔵

P18

(読み)

泊 ル尓未 タ七  時 過 なり雨 いよ\/降 甚  タさ武し

とまるにいまだななつどきすぎなりあめいよいよふりはなはださむし


さて大 いな可ニてこの社 人 の家 尓老 婆二 人

さておおいなかにてこのしゃじんのいえにろうばふたり


若 ヒ女  一 人居。多宮 ハ畄主なり夫 故 手紙

わかいおんなひとりおりたみやはるすなりそれゆえてがみ


ハよめ春゛一 向 ぶあゐさ川なり大 蔵 の手紙

はよめず いっこうぶあいさつなりおおくらのてがみ


ニハ此 人 ハ殿 様 のお客  なりと申  遣  スと有(アリ)

にはこのひとはとのさまのおきゃくなりともうしつかわすと  あり


希れど手 紙を讀む人 なし夫 故 王らじ

けれどてがみをよむひとなしそれゆえわらじ


をぬき多るまゝ尓てあがり莚(ムシロ)じき能上 尓

をぬぎたるままにてあがり  むしろ じきのうえに


坐し个里イロり尓生 松 を燃(モシ)いぶし。

ざしけりいろりになままつを  もし いぶし


タバコ能ヤニだらけ扨 々 キタナけれど寒

たばこのやにだらけさてさてきたなけれどさむ


き故 イロリ尓当 里个る。そこらを見れバ

きゆえいろりにあたりける そこらをみれば

P18

正  月 九  日武野多宮 宅 調(ツキノ)川(カワ)と云 処

しょうがつここのかむのたみやたく  つきの   かわ というところ


此 家 ニ泊

このいえにとまる


なんき春る朝 出  立

なんぎするあさしゅったつ


せんとて

せんとて


雑 煮を

ぞうにを


出ス盃   を

だすさかずきを


出ス

だす

(大意)

(補足)

「七時過」、午後4時過ぎ。

「多宮」、宮のくずし字は何度か出てきていますが、最初は読めませんが形が特徴的なので、忘れないくずし字の一つになります。

「畄主」、留守。

P18が多宮の家の画。莚(むしろ)は囲炉裏のまわりだけに敷かれていると想像したのですが、部屋いっぱいにありました。奥には大きな水瓶が見えています。

「九日」、天明9年1月9日。1789年2月3日。

 正月なので、雑煮を出し、盃までも出しています。貧しいながらも精一杯のおもてなしです。

 

2025年10月14日火曜日

江漢西遊日記六 その11

P14 東京国立博物館蔵

(読み)

取レ多るを聞キ夜 の内 行ク又 々 大 蔵 参 リて

とれたるをききよるのうちゆくまたまたおおくらまいりて


遠 眼鏡 を餞 別 尓贈 ル亦 之助 へも手紙

とおめがねをせんべつにおくるまたのすけへもてがみ


を残 し安 兵衛案 内 して田比羅(タヒラ)の渡 し

をのこしやすべえあんないして    たひら のわたし


場(バ)まで送 る渡 里一 里なり爰 ニて平 戸

  ば までおくるわたりいちりなりここにてひらど


嶋 を離  ル後(ウシロ)をかえ里見ル尓平 戸能方 より

じまをはなれる  うしろ をかえりみるにひらどのほうより


雲 を起(ヲコ)し忽  チ雨 となる厨(ミクリヤ)と云 所  ニて豆(トウ)ふ

くもを  おこ したちまちあめとなる  みくりや というところにて  とう ふ


やニより昼  喰  春此 邊  一 向 能田舎 なり爰

やによりちゅうしょくすこのあたりいっこうのいなかなりここ


も鮪 漁  を春夫 よりツキ能カワと云フ処  ニ至

もしびりょうをすそれよりつきのかわというところにいた


る雨 いよ\/降(フル)爰 尓大 蔵 神 主 能下タ武野

るあめいよいよ  ふる ここにおおくらかんぬしのしたむの


多宮 と云フ者 アリ大 蔵 の手紙 を持チ爰 ニ

たみやというものありおおくらのてがみをもちここに

(大意)

(補足)

「田比羅(タヒラ」、田平。平戸市と記してある向かいが田平。海沿いにすすんで松浦市のところにある駅マークがJR調川(つきのかわ)駅。これからゆくところです。

「厨(ミクリヤ)」、御厨(みくりや)。海沿いの路をたどって、御厨村がありその先に調川村があります。 

 平戸島を離れ、九州北部海岸沿いを歩き始めました。

 

2025年10月13日月曜日

江漢西遊日記六 その10

P13 東京国立博物館蔵

(読み)

出し是 ハ上 ヨリ被下候     と能事 私   より貴公 尓

だしこれはかみよりくだされそうろうとのことわたくしよりきこうに


上ケ可申   と

あげもうすべしと


七 日天 氣朝 六 時 半 比 麻 上 下 を着(チヤク)して

なのかてんきあさむつどきはんころあさかみしもを  ちゃく して


社 内 ニ参  居ル五  時 過 壱岐(イキ)能守(カミ)侯(コウ)装  束

しゃないにまいりおるいつつどきすぎ   いき の  かみ   こう しょうぞく


ニて社 参 大 紋 の武士三 人 付 添ヒ神 主。

にてしゃさんだいもんのぶしさんにんつきそいかんぬし


別 當。神 女。太 鞁。打 笛 吹キ。相 結 る拝 殿

べっとうしんにょたいこ うちふえふき あいつめるはいでん


ニてお話 し申  て。し里ぞく夫 より亦 安 兵

にておはなしもうして しりぞくそれよりまたやすべ


衛方 へよる一 生  能別 レなりとて又 々 酒 を出シ

えかたへよりいっしょうのわかれなりとてまたまたさけをだし


別 レをおしミ个る

わかれをおしみける


八 日天 氣益 冨 氏ハ大 嶋 尓て鯨  数 々

ようかてんきますとみしはおおしまにてくじらかずかず

(大意)

(補足)

「被下候」、よく出てくるかたちなので、この三文字で一文字のようにして覚えます。

「七日」、天明9年1月7日。1789年2月1日。

「朝六時半比」、朝の7時頃。

「大紋」、『だいもん【大紋】① 大形の紋様。

② 大形の家紋を五か所に染めた直垂(ひたたれ)(大相撲の行司の装束)。袴にも五か所に紋をつける。室町時代に始まり,江戸時代には五位以上の武家の通常の礼服となった』。

「太鞁」、太鼓。

「結る」、詰る。


 

2025年10月12日日曜日

江漢西遊日記六 その9

P12 東京国立博物館蔵

(読み)

百  疋之(コレ)を贈 ル新 四郎 より千 疋 僕 尓銀(キン)

ひゃっぴき これ をおくるしんしろうよりせんびきぼくに  ぎん


子古れをおくる。冬 小  寒 より春 の土用 まで

すこれをおくる ふゆしょうかんよりはるのどようまで


鯨  を取ル備 へあり人 夫二千 人 を育(ヤシノ)フ此ノ

くじらをとるそなえありにんぷにせんにんを  やしの うこの


嶋 能一 人也

しまのひとりなり


六 日天 氣さて平 戸ハ都  能景色 ニして門 松

むいかてんきさてひらどはみやこのけしきにしてかどまつ


軒(ノキ)を並 へ上 下 着(キ)多る禮(レイ)者 行 ちがふ足 軽

  のき をならべかみしも  き たる  れい しゃゆきちがうあしがる


安 兵衛方 へ行ク倅  猶(ナヲ)ハ 皆 々 出て雑 煮酒

やすべえかたへゆくせがれ  なお はちみなみなでてぞうにさけ


吸 物 を出春夫 より川 﨑 やへ帰 ると爰 尓神

すいものをだすそれよりかわさきやへかえるとここにかん


主 大 蔵 と云 人 参  明日上(カミ)社 参 あり其 節(セツ)

ぬしおおくらというひとまいりあす  かみ しゃさんありその  せつ


お逢(ア)ヒなされ申  とて懐 中  より目 録 千 疋 取

お  あ いなされもうすとてかいちゅうよりもくろくせんびきとり

(大意)

(補足)

「六日」、天明9年1月6日。1789年1月31日。

「目録」、『もくろく【目録】⑤ 贈り物としての金。「いはぬ色なる山吹の花を包みし―も,明けては見ねど五十両」〈歌舞伎・天衣紛上野初花〉』。文書などの意味ばかりと思ってましたが、お金そのものを指す言葉でもありました。

 江漢御一行はゆく先々で歓待されてます。狭い嶋の中のことですから、かれらのことはすっかり知られていて、先ぶれもでているはずで、今回も足軽安兵衛宅でおもてなしされ、宿泊先川崎やでは神主大臓が待ち受けていました。


 

2025年10月11日土曜日

江漢西遊日記六 その8

P11 東京国立博物館蔵

(読み)

あり是 を呼フ名ハ玉 川 と云フ産 れハ長 崎 能元(モト)

ありこれをよぶなはたまがわといううまれはながさきの  もと


古川町(フルカワマチ)能者 と云 亦 姫 靏 と云 お山 予(ワレ)之(コレ)を

    ふるかわまち のものというまたひめつるというおやま  われ   これ を


愛 春此 所  能上  品 なり各 \/紋(モン)縮 緬 花 色

あいすこのところのじょうひんなりおのおの  もん ちりめんはないろ


模様(モヨウ)能小袖 を着(キ)両  婦とも美人(ヒシン)なり

   もよう のこそでを  き りょうふとも   びじん なり


夜半 大 風 雨波 能音。耳 尓聳(ソハダ)ち。掛 り舩

やはんだいふううなみのおとみみに  そばだ ち かかりふね


カケ声 して何 ヤラ引(ヒク)。浦(ウラ)邊(ベ)能趣(ヲモム)きなり

かけごえしてなにやら  ひく    うら   べ の  おもむ きなり


五 日大 風 雨昼 比 ヤム爰 より亦 舟 尓能里

いつかだいふううひるごろやむここよりまたふねにのり


岩 石 尓ふれる白 波 を見て平 戸浦 尓至 ル

がんせきにふれるしらなみをみてひらどうらにいたる


川 﨑 屋と云 家 ニ参  雑煮(ソウニ)飯 酒 を出 又 之

かわさきやといういえにまいる   ぞうに めしさけをだすまたの


助 金 千 五百  疋 画帖  能料  とて千 疋。僕 尓

すけきんせんごひゃくひきがちょうのりょうとてせんひきぼくに

(大意)

(補足)

 文章全体に、意識的に句点「。」が使われています。

「お山」、『おやま をやま【〈女形〉 ・〈女方〉 ・御山】

〔江戸初期に小山次郎三郎が使った遊女の人形から出た語という。 →おやま人形〕

② (上方で)遊女のこと。「あの上手な絵書殿によい―を十人程書いてもらひ」〈浄瑠璃・傾城反魂香〉』

「聳(ソハダ)ち」、『そばだ・つ【峙つ・聳つ】〔古くは「そばたつ」と清音。稜(そば)立つ,の意〕岩・山などが,ほかよりひときわ高くそびえる。「山ガ―・ツ」〈和英語林集成〉「緑蔭水畔を彩り危巌四岸に―・ち」〈日本風景論•重昂〉〔「そばだてる」に対する自動詞〕』

「五日」、天明9年1月5日。1789年1月30日。

「金千五百疋」、『金には「両」、「分」、「朱」、「疋【ひき】」があり、小判(一両)と一分金が基本貨幣となっていて、それぞれの比率は一両=4分、一分=4朱、一分=金100疋で、これ以外に額面十両の大判は、金相場にあわせて両替する、別途扱いでした』とありますが、「江戸時代の貨幣価値については、場所や時代によってよく変わるのでいくらというのは非常に難しい」ともあります。50疋=1250文で、おおよそ770円~1560円くらいとなる、という換算も。わたし自身は、二八そばのかけそばが16文でしたので、それを基準に換算しています。

 江漢さん、「姫靏と云お山予(ワレ)之(コレ)を愛春」、そして「両婦とも美人(ヒシン)なり」と、いたくご満足の様子であります。

 

2025年10月10日金曜日

江漢西遊日記六 その7

P8P9 東京国立博物館蔵

P10

(読み)

此 魚  アミナシ

このさかなあみあし


亦 カジキ通 シ舟 ノ底 ヲツラヌク

またかじきとおしふねのそこをつらぬく


尾ヨリ目ノ當 リまて壱 丈  余

およりめのあたりまでいちじょうあまり


又 右衛門方 ノ臺 所  尓釣(ツ)りてあるを

またえもんかたのだいどころに  つ りてあるを


寫 ス正  月 ノ焼 物 尓春るよし

うつすしょうがつのやきものにするよし


P9

背ノ色 鮪 ノ如 く

せのいろしびのごとく


腹 ハ白 し

はらはしろし

P10

平 戸嶋

ひらどじま


田助 浦

たすけうら

(大意)

(補足)

「此魚アミナシ」、「西遊旅譚四」でこの魚の画(二匹でした)を紹介しましたが、再度登場。

「寫」、「写」の旧字。

「平戸嶋田助浦」、古くから捕鯨の基地として栄えた。また風待ち・潮待ちの港でもあった。幕末、上方行きの薩摩船の寄港地でもあり、多くの志士がたちよったとありました。現在でも重要な港です。

 

2025年10月9日木曜日

江漢西遊日記六 その6

P7 東京国立博物館蔵

(読み)

ライ鳥

らいちょう


此 鳥 常 ニ見へ春鯨  漁

このとりつねにみえずくじらりょう


の時 何 方 より可来 ル

のときいずかたよりかきたる


鯨  を解く時 其 か多和ら

くじらをとくときそのかたわら


尓来 りて肉 能おち多るを

にきたりてにくのおちたるを


喰フ事 かきりなし

くうことかぎりなし


陸(ヲカ)尓歩(アユ)む事

  おか に  あゆ むこと


あ多王春゛大 キサ

あたわず おおきさ


白 鳥  能如 し

はくちょうのごとし


頭  ウス黄

あたまうすき


者し

はし


ウス

うす


あか


沖(ヲキ)カモメ

  おき かもめ


と云 者 歟

というものか


全 身 白

ぜんしんしろ


スコシ黒 キ

すこしくろき


フアリ

ふあり

(大意)

(補足)

「者し」、嘴(くちばし)。

 かもめだろうとおもわれます。

「司馬江漢 鳥 画」で検索すると、<AIによる概要>が次のように示しました。

『司馬江漢の鳥の絵の特徴

写実性:彼の鳥の絵は、羽の繊細さや体の表現に顕著な写実性があり、観察に基づいた確かな描写が特徴です。

南蘋派の影響:江漢は中国の南蘋派(なんびんは)の画風を学び、その影響が鳥の表現にも見られ、日本に写実的な花鳥表現を広めたとされています。

学術的な正確さ:鳥を学術的に正しく描こうとする姿勢が感じられ、身近な存在である鳥を的確に捉えています。

油彩画での表現:晩年には油彩画で鳥を描くこともあり、紫陽花文鳥図のように、花鳥部分に油彩を用いて立体感を表現した希少な作品も残されています。』

 

2025年10月8日水曜日

江漢西遊日記六 その5

P6 東京国立博物館蔵

(読み)

へ生 大 根 二 ツ尓切 下 ニ由春゛里葉をしき右

へなまだいこんふたつにきりしたにゆず りはをしきみぎ


ニ生 鰯(イワシ)を二足 腹ラ合 セニ付 ル昨 今 大 嶋 ニ

になま  いわし をにひきはらあわせにつけるさっこんおおしまに


て四 ツ鯨  を取 と云

てよっつくじらをとるという


四 日天 氣よし亦 之助 と同 舟  して此 生 月

よっかてんきよしまたのすけとどうしゅうしてこのいきつき


嶋 を發 してタク嶋 大 嶋 右 ニ白 岳 能絶(セツ)

しまをはっしてたくしまおおしまみぎにはくたけの  ぜっ


壁(ヘキ)を見て油  水 と云 処  ニ舟 をよせ鮪 納

  ぺき をみてあぶらみずというところにふねをよせしびな


屋ニ至 り喰  事春夫 より田助 浦 釜 屋と

やにいたりしょくじすそれよりたすけうらかまやと


云 家 尓登 ル爰 ハ此 地能揚 屋なり土蔵

いういえにのぼるここはこのちのあげやなりどぞう


造(ツクリ)尓して二階 ニ能ぼり見ル尓油  樽 ヤラ物

  つくり にしてにかいにのぼりみるにあぶらだるやらもの


置 能様 なる所  なり爰 尓亦 之助 なしミ能お山

おきのようなるところなりここにまたのすけなじみのおやま

(大意)

(補足)

「二足」、二疋。お正月料理なのでしょうか、おいしそうです。

「四日」、天明9年1月4日。1789年1月29日。

「タク嶋」、度嶋。多嶋ではありませんでした。

「大嶋」、古地図です。 

 左端が生月島。一番右上が大嶋、その下が度島、さらにその下に平戸島の白岳(しらたけ)があって、その南側に田助浦があります。

 なお白岳は標高約250mで、1904年(明治37年)の日露戦争中には白岳に海軍の無線所が設置され、日本海海戦における「敵艦見ゆ」の第一報がこの地で受信されたと伝えられています、とありました。 

  白岳のすぐ右下に「油水」という地名があります。

 「田助浦釜屋と云家尓登ル爰ハ此地能揚屋」、揚屋評論家でもある江漢さん、入念・綿密な調査をおこない、細かく記しています。

 ここの揚屋は土蔵造りのようで、「油樽ヤラ物置能様なる所」でも、なかなか味がありそうだという好印象を持ったようであります。

 

2025年10月7日火曜日

江漢西遊日記六 その4

P5 東京国立博物館蔵

(読み)

能段 なり我 等と又 右衛門家内 娘  床(セ ウ)ぎを二

のだんなりわれらとまたえもんかないむすめ  しょう ぎをに


キヤク程 ならへ先 さしき能か多ちなり見 物

きゃくほどならべまずざしきのかたちなりけんぶつ


春あとハ皆 土間ニて田夫漁  夫老 若  男 女

すあとはみなどまにてたふりょうふろうにゃくなんにょ


数 百  人 おし合 へし合 大 さ王きなり中(ナカ)尓七 十

すうひゃくにんおしあいへしあいおおさわぎなり  なか にしちじゅう


位  能老 婆能見 物 せんとて押(ヲサ)レて難渋(ナンシ ウ)春

くらいのろうばのけんぶつせんとて  おさ れて   なんじゅう す


るを見て感 し个る此 小嶋 尓産 れ一ツ生涯(セ ウカイ)

るをみてかんじけるこのこじまにうまれいっ   しょうがい


都會 能地を知ら春゛誠  尓悲(カナシ)き事 なりと

とかいのちをしらず まことに  かなし きことなりと


思 ヘハ涙  可浮 ミ个る十  六 七 能女  保う尓紅 ヲ付 ル

おもへばなみだがうかみけるじゅうろくしちのおんなほうにべにをつける


三 日天 氣鯨  取ると云 事 又 三崎 へ行ク帰 り

みっかてんきくじらとるということまたみさきへゆくかえり


又 左衛門 と同 舟  春此(コ〃ノ)列(レイ)とて雑 煮能向 フ

またざえもんとどうしゅうす  ここの   れい とてぞうにのむこう

(大意)

(補足)

「三日」、天明9年1月3日。1789年1月28日。

「列(レイ)とて」、例とて。

 昨日のブログのP3P4の画のとおり、何百人のにぎわい、お正月の楽しみなのでしょう。お年寄りにとてもやさしい目をもつ江漢さん、やはりそんな混雑の中に一人の「七十位能老婆」をみつけ、涙します。

 しかしながら、おばあさんはおばさんでちっともそんなことをおもってなく、その土地で生まれ死んでゆくという、ましてや鯨漁でうるおっている土地、楽しく暮らしてきているのではないでしょうか。

 

2025年10月6日月曜日

江漢西遊日記六 その3

P3 東京国立博物館蔵

P4

(読み)

生 月 嶋 ニテ

いきつきしまにて


又 右衛門發 起

またえもんほっき


シテ濱 邊ニ

してはまべに


小屋を可けて

こやをかけて


芝居 をスル

しばいをする


正  月 二 日

しょうがつふつか


なり

なり

P4

王し能段

わしのだん


山 中 左衛門

やまなかさえもん


の人 形

のにんぎょう

(大意)


(補足)

P4「王し能段」、『鷲の段(花衣いろは縁起)』少々長いですが物語のあらすじです。

『「花衣いろは縁起」は、三好松洛、竹田出雲作の人形浄瑠璃で、寛保2年(1742)に竹本座で初演されたとある。物語は、〈山中左衛門慰義継は社寺再建奉行として京都に滞在中に小督という女性と契り、男児をもうけ三之助と名付ける。左衛門には許嫁があるが、夫婦は幼児をつれて近江の志賀の里に隠れ農夫となる。ある日、大鷲が飛来し幼児の三之助はさらわれ、ふたりは狂気する。左衛門の死後、母小督は諸国を訪ね歩き、幡随院随波上人に拾われて成長し幻想上人となっていることを知り、幻想上人の法談の席で再会をはたす〉』とありました。

 後年、これを江戸時代末期の絵師である絵金(絵師金蔵)(弘瀬金蔵(ひろせきんぞう)1812-1876)が描いた作品群『花衣いろは縁起』の中の一つの「鷲の段」が有名です。 

 この作品は屏風絵で、人形のようでいて情熱的な筆致で描かれた絵が特徴的で、高知県の香南市赤岡町に伝わる名作とされています。

 P3の海辺のにぎわい、これは大げさに描いたのではなく本当にこのようだったのだとおもいます。浜辺の近辺で暮らす人たちの正月で楽しそうな表情が豊かです。浜に打ち上げてある小舟に乗って見物している人もいます。

 P4人形遣いは又右衛門。床几に腰掛けているのは奥様とお嬢様、左端が江漢かもしれません。親子の髪型、なるほど念入りに凝っています。身分が低い人達は垣根の外からの見物のようです。

 それにしても、生月島は長崎に近いとはいえ、文化レベルの高さが維持されていることに驚きます。

 

2025年10月5日日曜日

江漢西遊日記六 その2

P2 東京国立博物館蔵

(読み)

尓嫁し来 ルと云 娘  一 人あり十  六 位  ニして同  く

にかしきたるというむすめひとりありじゅうろくくらいにしておなじく


能キ生 れ付 なり皆 緋縮 緬 能上 ヘ模様

よきうまれつきなりみなひちりめんのうえへもよう


能打 掛 着(キ)多り此 地ツムキを紫   或  ハ藤 色

のうちかけ  き たりこのちつむぎをむらさきあるいはふじいろ


ニして紫   ちりめんより之(コレ)を貴(タツト)ふ髪 ハ江

にしてむらさきちりめんより  これ を  たっと ぶかみはえ


戸風 尓似多り此 家 能臺 所  尓カヂキ通(トヲシ)

どふうににたりこのいえのだいどころにかじき  とおし


と云 魚  正  月 能焼 物 尓春るとて釣(ツリ)てある

というさかなしょうがつのやきものにするとて  つり てある


を寫 春

をうつす


二 日天 氣右 ノ又 右衛門發 起ニて海 邊へ小屋(ヤ)

ふつかてんきみぎのまたえもんほっきにてうみべへこ  や


を掛け芝 居を初 メ个る兼 て又 右衛門人 形  を

をかけしばいをはじめけるかねてまたえもんにんぎょうを


遣 フ其 比ロ浄  畄理をか多る者 来 リ个連ハ鷲(ワシ)

つかうそのころじょうるりをかたるものきたりければ  わし

(大意)

(補足)

「此地ツムキを紫」、「此」と「紫」の上半分が同じ漢字なのでくずし字も同じになっています。

「カジキ通」、『「カジキ」という和名は、その吻(フン)で舵木(船の舵をとる硬い木板)を突き通すことから舵木通し(カジキドオシ)と呼ばれ、それを略したものとする説が有力』とあって、なるほどと、今まで名前の由来すら考えたことはありませんでした。

「釣(ツリ)てあるを寫春」、『西遊旅譚四』にその画があります。 

「二日」、天明9年1月2日。1789年1月27日。

「浄畄理」、浄瑠璃。

 亦右衛門の奥様とお嬢様の姿を詳しく記しています。最上の着物のようで、髪型は江戸風に似てるとあって、やはり相当に鯨で潤っている嶋であることがわかります。

 

2025年10月4日土曜日

江漢西遊日記六 その1

P1 東京国立博物館蔵

(読み)

天 明 己   酉 元 日 天 氣寒 し朝 明ケ七  時 に

てんめいつちのととりがんじつてんきさむしあさあけななつどきに


起 家 内  者 我 等も共 尓雑 煮を祝 フ事

おきいえうちのものわれらもともにぞうにをいわうこと


也 餅 丸 シ芋 あ王び昆布(コンブ)を入 ル四 時 比

なりもちまるしいもあわび   こんぶ をいれるよつどきころ


せち料  理を喰ヒ夫 より衣服 を改  メ大 主

せちりょうりをくいそれよりいふくをあらためおおしゅ


人 又 左衛門 方 へ行ク酒 出ル又 左衛門 ハ六 十  ニちか

じんまたざえもんかたへゆくさけでるまたざえもんはろくじゅうにちか


き人 ニて内 方 ハ五十  位  能婦人 金 入 錦

きひとにてうちかたはごじゅうくらいのふじんきんいりにしき


能津末(マ)裏 付 て打 かけ縮緬(チリメン)惣 模様

のつ  ま うらつけてうちかけ   ちりめん そうもよう


を着(キ)多り夫 より爰 の親 族 亦 右衛門と云

を  き たりそれよりここのしんぞくまたえもんという


人 能方 へ行ク爰 能主 人 ハ五十  位  にして婦(フ)

ひとのかたへゆくここのしゅじんはごじゅうくらいにして  ふ


人 ハ三 十  一 二と見ヘ美なり筑 前 より此 嶋

じんはさんじゅういちにとみえびなりちくぜんよりこのしま

(大意)

(補足)

「天明己酉元日」、天明9年1月1日。1789年1月26日。

「朝明ケ七時」、午前4時頃。

「四時比」、午前10時頃。

「内方」、『うちかた。② 他人の妻の敬称。奥方。裏方。「―は悋気(りんき)ふかし」〈浮世草子・好色一代女4〉』

 明け方4時頃に起床して、まず雑煮で祝い、つづいて10時頃におせち料理を食べてます。それから挨拶まわり。なんともゆったりした元日の時間の流れです。

 江漢さんはやはり着物好き、だけではなくかならずなんらかの品定めを行います。

 

2025年10月3日金曜日

江漢西遊日記五 その69

P76 東京国立博物館蔵

(読み)

廿   八 日 朝 日照 春又 曇 ル雨 ムラ\/降ル昨 日

にじゅうはちにちあさひてらすまたくもるあめむらむらふるさくじつ


搗(ツキ)多る餅 三 寸 位  饅頭(マンチ ウ)能如 くして小豆(アツキ)を

  つき たるもちさんすんくらい   まんじゅう のごとくして   あずき を


少シ付 ケ椀 尓も里出ス喰  ま袮して飯 ニ替 る

すこしつけわんにもりだすしょくまねしてめしにかわる


汁子(シルコ)自在 餅 なし

   するこ じざいもちなし


廿   九日 天 氣此 間  中  認  メル画尓名 印 を春

にじゅうくにちてんきこのあいだじゅうしたためるえにめいいんをす


る夜 尓入  大 風

るよるにはいりおおかぜ


大 晦 日曇 ル正  月 尓なるとて門 松 を立 ル何

おおみそかくもるしょうがつになるとてかどまつをたてるなに


も變  多る事 なし只 閑 カなる能ミ

もかわりたることなしただしずかなるのみ

(大意)

略。

(補足)

「廿八日」、天明8年12月28日。1789年1月23日。

「雨ムラ\/降ル」、雲がむらむら立ち昇るとは言いますが、この頃は雨にも使ったよう。

「自在餅」、『じざいもち。あんころ餅の大きなもの。自在煮』

「大晦日曇ル正月尓なるとて門松を立ル」、大晦日に門松を立てるのは「一夜飾り」といって、縁起が悪く神様に失礼であると、母に何度も説教されたことをよく覚えています。しかし、この頃はそんなこと関係なかった様子。

 天明8年12月30日の大晦日、江漢さん「閑カ」な夜を過ごしたようであります。除夜の鐘は聞こえてきたのでしょうかね?