2025年10月5日日曜日

江漢西遊日記六 その2

P2 東京国立博物館蔵

(読み)

尓嫁し来 ルと云 娘  一 人あり十  六 位  ニして同  く

にかしきたるというむすめひとりありじゅうろくくらいにしておなじく


能キ生 れ付 なり皆 緋縮 緬 能上 ヘ模様

よきうまれつきなりみなひちりめんのうえへもよう


能打 掛 着(キ)多り此 地ツムキを紫   或  ハ藤 色

のうちかけ  き たりこのちつむぎをむらさきあるいはふじいろ


ニして紫   ちりめんより之(コレ)を貴(タツト)ふ髪 ハ江

にしてむらさきちりめんより  これ を  たっと ぶかみはえ


戸風 尓似多り此 家 能臺 所  尓カヂキ通(トヲシ)

どふうににたりこのいえのだいどころにかじき  とおし


と云 魚  正  月 能焼 物 尓春るとて釣(ツリ)てある

というさかなしょうがつのやきものにするとて  つり てある


を寫 春

をうつす


二 日天 氣右 ノ又 右衛門發 起ニて海 邊へ小屋(ヤ)

ふつかてんきみぎのまたえもんほっきにてうみべへこ  や


を掛け芝 居を初 メ个る兼 て又 右衛門人 形  を

をかけしばいをはじめけるかねてまたえもんにんぎょうを


遣 フ其 比ロ浄  畄理をか多る者 来 リ个連ハ鷲(ワシ)

つかうそのころじょうるりをかたるものきたりければ  わし

(大意)

(補足)

「此地ツムキを紫」、「此」と「紫」の上半分が同じ漢字なのでくずし字も同じになっています。

「カジキ通」、『「カジキ」という和名は、その吻(フン)で舵木(船の舵をとる硬い木板)を突き通すことから舵木通し(カジキドオシ)と呼ばれ、それを略したものとする説が有力』とあって、なるほどと、今まで名前の由来すら考えたことはありませんでした。

「釣(ツリ)てあるを寫春」、『西遊旅譚四』にその画があります。 

「二日」、天明9年1月2日。1789年1月27日。

「浄畄理」、浄瑠璃。

 亦右衛門の奥様とお嬢様の姿を詳しく記しています。最上の着物のようで、髪型は江戸風に似てるとあって、やはり相当に鯨で潤っている嶋であることがわかります。

 

2025年10月4日土曜日

江漢西遊日記六 その1

P1 東京国立博物館蔵

(読み)

天 明 己   酉 元 日 天 氣寒 し朝 明ケ七  時 に

てんめいつちのととりがんじつてんきさむしあさあけななつどきに


起 家 内  者 我 等も共 尓雑 煮を祝 フ事

おきいえうちのものわれらもともにぞうにをいわうこと


也 餅 丸 シ芋 あ王び昆布(コンブ)を入 ル四 時 比

なりもちまるしいもあわび   こんぶ をいれるよつどきころ


せち料  理を喰ヒ夫 より衣服 を改  メ大 主

せちりょうりをくいそれよりいふくをあらためおおしゅ


人 又 左衛門 方 へ行ク酒 出ル又 左衛門 ハ六 十  ニちか

じんまたざえもんかたへゆくさけでるまたざえもんはろくじゅうにちか


き人 ニて内 方 ハ五十  位  能婦人 金 入 錦

きひとにてうちかたはごじゅうくらいのふじんきんいりにしき


能津末(マ)裏 付 て打 かけ縮緬(チリメン)惣 模様

のつ  ま うらつけてうちかけ   ちりめん そうもよう


を着(キ)多り夫 より爰 の親 族 亦 右衛門と云

を  き たりそれよりここのしんぞくまたえもんという


人 能方 へ行ク爰 能主 人 ハ五十  位  にして婦(フ)

ひとのかたへゆくここのしゅじんはごじゅうくらいにして  ふ


人 ハ三 十  一 二と見ヘ美なり筑 前 より此 嶋

じんはさんじゅういちにとみえびなりちくぜんよりこのしま

(大意)

(補足)

「天明己酉元日」、天明9年1月1日。1789年1月26日。

「朝明ケ七時」、午前4時頃。

「四時比」、午前10時頃。

「内方」、『うちかた。② 他人の妻の敬称。奥方。裏方。「―は悋気(りんき)ふかし」〈浮世草子・好色一代女4〉』

 明け方4時頃に起床して、まず雑煮で祝い、つづいて10時頃におせち料理を食べてます。それから挨拶まわり。なんともゆったりした元日の時間の流れです。

 江漢さんはやはり着物好き、だけではなくかならずなんらかの品定めを行います。

 

2025年10月3日金曜日

江漢西遊日記五 その69

P76 東京国立博物館蔵

(読み)

廿   八 日 朝 日照 春又 曇 ル雨 ムラ\/降ル昨 日

にじゅうはちにちあさひてらすまたくもるあめむらむらふるさくじつ


搗(ツキ)多る餅 三 寸 位  饅頭(マンチ ウ)能如 くして小豆(アツキ)を

  つき たるもちさんすんくらい   まんじゅう のごとくして   あずき を


少シ付 ケ椀 尓も里出ス喰  ま袮して飯 ニ替 る

すこしつけわんにもりだすしょくまねしてめしにかわる


汁子(シルコ)自在 餅 なし

   するこ じざいもちなし


廿   九日 天 氣此 間  中  認  メル画尓名 印 を春

にじゅうくにちてんきこのあいだじゅうしたためるえにめいいんをす


る夜 尓入  大 風

るよるにはいりおおかぜ


大 晦 日曇 ル正  月 尓なるとて門 松 を立 ル何

おおみそかくもるしょうがつになるとてかどまつをたてるなに


も變  多る事 なし只 閑 カなる能ミ

もかわりたることなしただしずかなるのみ

(大意)

略。

(補足)

「廿八日」、天明8年12月28日。1789年1月23日。

「雨ムラ\/降ル」、雲がむらむら立ち昇るとは言いますが、この頃は雨にも使ったよう。

「自在餅」、『じざいもち。あんころ餅の大きなもの。自在煮』

「大晦日曇ル正月尓なるとて門松を立ル」、大晦日に門松を立てるのは「一夜飾り」といって、縁起が悪く神様に失礼であると、母に何度も説教されたことをよく覚えています。しかし、この頃はそんなこと関係なかった様子。

 天明8年12月30日の大晦日、江漢さん「閑カ」な夜を過ごしたようであります。除夜の鐘は聞こえてきたのでしょうかね?

 

2025年10月2日木曜日

江漢西遊日記五 その68

P75 東京国立博物館蔵

(読み)

尓此 嶋 舩 を乗(ノリ)出(イタ)春砂濱(スナハマ)両  三 ケ所 能ミ尓

にこのしまふねを  のり   いだ す   すなはま りょうさんかしょのみに


して皆 岸 大 盤(ハン)石  なり其 大 石 尓登 り

してみなきしおお  ばん じゃくなりそのおおいしにのぼり


越ヘ\/   して行ク事 一 里大 なんきして漸  く

こへのぼりこえしてゆくこといちりだいなんぎしてようやく


三崎 へ行 津く鯨  ハ座頭(ザトウ)と云 魚 なり四丈

みさきへゆきつくくじらは   ざとう といううおなりしじょう


程 あり潮 の内 ニて切 解(トク)全 身 見へ春゛此 間

ほどありしおのうちにてきり  とく ぜんしんみえず このあいだ


又 之助 可゛云 通 り時節 あし个連ハ全 身 を

またのすけが いうとおりじせつあしければぜんしんを


見多る者 鮮(スクナ)し誠  尓極 月 より正  月 松

みたるもの  すくな しまことにごくげつよりしょうがつまつ


能内 此 間  盛(サカリ)尓漁  春る能時 なり故 尓平

のうちこのあいだ  さかり にりょうするのときなりゆえにひら


戸の者 一 人も鯨  能象(カタチ)を知ら春゛尤   能

どのものひとりもくじらの  かたち をしらず もっともの


事 なり此 日餅 津き

ことなりこのひもちつき

(大意)

(補足)

「座頭(ザトウ)と云魚」、右上の鯨。魚ではありません。

「四丈程」、『① 尺貫法の長さの単位。一〇尺。1891年(明治24)100メートルを三三丈と定めた』ので、約13.2m。

「極月」、『ごくげつ【極月】〔年の極(きわ)まる月の意から〕12月の異名。しわす。ごくづき』

「此日」、天明8年12月27日。1789年1月22日。

 三崎へゆくのに、海岸の岩場を一厘(約4km)も歩くわけで「大なんき」に違いありませんけど、気分沈んでいる江漢さん元気です。

 

2025年10月1日水曜日

江漢西遊日記五 その67

P74 東京国立博物館蔵

(読み)

廿   五日 朝 霰  婦る後 天 氣山 形 新 四郎 方 へ

にじゅうごにちあさあられふるのちてんきやまがたしんしろうかたへ


行 壱 州  ニて取り多る鯨  を喰(クフ)大 主 人 又 左衛

ゆくいっしゅうにてとりたるくじらを  くう おおしゅじんまたざえ


門 方 へ行 菓子出ツ

もんかたへゆくかしでず


廿   六 日 又 大 風 雨霰  寒 し今 日春ゝ取リ

にじゅうろくにちまただいふううあられさむしきょうすすとり


小豆(アツキ)飯(メシ)平(ヒラ)ハあ王び唐(トウ)能芋 能かしら尓

   あずき   めし   ひら はあわび  とう のいものかしらに


菜(ナ)をあしらへ汁 ハ鯨  の肉 筑 前 能人 来 リ居

  な をあしらへしるはくじらのにくちくぜんのひときたりおり


し尓話(ハナシ)尓先 日 時 津能渡 リニて大 坂 の藝(ケイ)

しに  はなし にせんじつときづのわたりにておおさかの  げい


子七 八 人 能り多る舩 破舩 し多ると云フ

こしちはちにんのりたるふねはせんしたるという


廿   七 日 天 氣新 四郎 方 尓居ル時 尓鯨  取レ多る

にじゅうしちにちてんきしんしろうかたにおるときにくじらとれたる


と云 夫 より三崎 へ行ク尓海 岸 を越 て行く

というそれよりみさきへゆくにかいがんをこえてゆく

(大意)

(補足)

「廿五日」、天明8年12月25日。1789年1月20日。間違いをなおそうと重ね書きしてます。「五」はずです。

「霰」、江漢さんの天気の見立ては、あきらかに「雪」でないものはすべて「霰(あられ)」のようです。

「春ゝ取リ」、『すすはらい ―はらひ【煤払い】② 年末,正月の準備に家の内外を大掃除すること。江戸時代には,12月13日が恒例であった。すすはき。すすとり』。地域によって行う日はいろいろだったようです。

「唐(トウ)能芋」、『とうのいも たう―【唐の芋】サトイモの一品種。葉柄は紫色で長い。主に茎と親芋を食用にする。あかいも』。店頭には「海老芋」として売られているもの。

 日記の天気には現地の天候が不安定で大荒れの時もあって、江漢さん一行のたどってきた海路では破船などで亡くなっている人もいるようです。いつ我が身にもと感じ入るところがあるのだとおもいます。