2025年8月31日日曜日

江漢西遊日記五 その36

P36 東京国立博物館蔵

(読み)

京  都の画師應 擧 なり鯉 二 ツ藻也 亦タ

きょうとのえしおうきょなりこいふたつもなりまた


か王せミ能飛ヒタル図なり誠  尓上  手なり裏

かわせみのとびたるずなりまことにじょうずなりうら


ハ曲  水 蘭 亭 の圖之(コレ)ハ描(カキ)手別 なり風 土

はきょくすいらんていのず  これ は  かき てべつなりふうど


放 言 長 崎 と同 し水 仙 蘭 石 解 風 蘭

ほうげんながさきとおなじすいせんらんせっこくふうらん


自  ラ野ニ生  春゛人 能声 ヲあけ亦 ハ声高(コハタカ)尓

みずからのにしょうず ひとのこえをあげまたは   こわだか に


笑(ハラフ)事 をウラブと云フ

  わらう ことをうらぶという


廿   九日 天 氣此 日晩 方 より表  具細 工能

にじゅうくにちてんきこのひばんがたよりひょうぐざいくの


者 能方 へ行ク酒 肴 を出し何 カナ饗應(キヨウゝ)

もののかたへゆくしゅこうをだしなにかな   きょうおう


せんとて自分 能妹(イモト)を杓(シヤク)取 ニ出し个り其

せんとてじぶんの  いもと を  しゃく とりにだしけりその


衣服 黒 キ木綿 能色 入り尓模様(モヨウ)を染 出シ

いふくくろきもめんのいろいりに   もよう をそめだし

(大意)

(補足)

「應擧」、ご存知円山応挙。享保18(1733)年〜寛政7(1795)年。

 江漢「春波桜筆記」新画法と京都江戸、の項に次のようにあります。

『京都に円山応挙という画人がいる。生まれは丹波篠山の人である。京に出て一風を開いた。唐画でもなく和風でもなく、自分の工夫で新意を出したので、京都じゅうで妙手と讃えられ、誰もかもみなその真似をしてたいへん流行したものであった。いまになってはそれももう見あきて、すたれてしまった。』

「曲水」、『きょくすい【曲水】

① 庭園または林,山麓(さんろく)をまがりくねって流れる水。ごくすい。』

「水仙蘭石解風蘭」、水仙、闌、石斛(せっこく せき― 【石斛】ラン科の常緑多年草。山中の樹木や岩上に生え,また観賞用に栽培。茎は高さ20センチメートル)、風闌。

「廿九日」、天明8年11月29日。西暦1788年12月26日。

 「春波桜筆記」には応挙のことを上記のように記していますが、ここでは「誠尓上手なり」と、彼にしては最上の褒め言葉をもらしています。すばらしい画だったのでしょう。

 

2025年8月30日土曜日

江漢西遊日記五 その35

P35 東京国立博物館蔵

(読み)

罕干世。有古法眼画其筆意如雲

雖然筆勢為妙可愛と表  具尓

        とひょうぐに


裏 書 春誠  尓傍 若  無人 也 文 吉 松  益

うらがきすまことにぼうじゃくむじんなりぶんきちしょうえき


か多わらニ者んべ里个る夜 尓入 帰 ル

かたわらにはんべりけるよるにいりかえる


廿   六 日 雨 天爰 ニ山 形 六 良 ハ鯨  津きなりし可゛

にじゅうろくにちうてんここにやまがたろくろうはくじらつきなりしが


御用 金 数 千 出しけれハ侍(サムラヒ)尓取 立 られ今

ごようきんすうせんだしければ  さむらい にとりたてられいま


ハ平 戸尓住  ス此 日彼 ガ所  ヘ参 ル酒 菓子を

はひらどにじゅうすこのひかれがところへまいるさけかしを


出春爰 ニも蔵 春る画あり山 水 二幅 明人(ミンヒト)

だすここにもぞうするえありさんすいにふく   みんびと


の画なり金碧(キンヘキ)山 水 名(メイ)アリ千 里ト亦 鶴 能

のえなり   こんぺき さんすい  めい ありせんりとまたつるの


画林 良  なとゝ云フへき者 坐しき四 枚 襖(フスマ)

えりんりょうなどというべきものざしきよんまい  ふすま

(大意)

(補足)

「誠尓傍若無人也」、表具に裏書きした「筆勢為妙可愛」は褒めているのでしょうけど、文章ではそうはなっていません。さて?

「廿六日」、天明8年11月26日。西暦1788年12月23日。前回と日付が逆のようです。

 文章後半がわかりにくい。以下のような内容でしょうか。

『明の人の山水画が二幅あって、金碧山水で千里と名がある。また、鶴の画は林良というものの名がある』。

 

2025年8月29日金曜日

江漢西遊日記五 その34

P34 東京国立博物館蔵

(読み)

婦  ハ長 崎 邊  能産(ウマ)れ名ハ国 の江と云 婦  の曰 く

おんなはながさきあたりの  うま れなはくにのえというおんなのいわく


婦しきな事 ニて江戸のお方 尓逢ヒしと云フ妾(セ ウ)

ふしぎなことにてえどのおかたにあいしという  しょう


何奈以幸為妓(イカンテサイハイタリギ)得即今逢君(エタソツコンアウキミ)二 人の者 能

                               ふたりのものの


婦  ハ松 風 二 葉と云 名ハ春さましき者 歟

おんなはまつかぜふたばというなはすさまじきものか


廿   七 日 天 氣となる田助 浦 より帰 り安 兵衛可゛

にじゅうしちにちてんきとなるたすけうらよりかえりやすべえが


方 ニ居ル。周  文 吉 来ル之(コレ)ハ君 邊 を務(ツトメル)者 昼

かたにおる しゅうぶんきちくる  これ はくんぺんを  つとめる ものひる


よ里魚 の店 と云 所  商  人 の方 へ行キ襖  と

よりうおのたなというところしょうにんのかたへゆきふすまと


袋  戸を描(カク)酒 菓子を出して馳走 春る此

ふくろどを  かく さけかしをだしてちそうするこの


家 尓蔵(ソウ)春る画アリ鑑(カン)定 を乞フ如 川 周 信

いえに  ぞう するえあり  かん ていをこうじょせんちかのぶ


暮年得法眼之位階而卒此品

(大意)

(補足)

「婦ハ」「婦しきな」、婦(おんな)と変体仮名「婦」(ふ)で漢字を変えています。

「春さましき」、『すさまじ・い❷ ① 物足りずさびしい。荒涼としている。情趣がない。「白馬(あおうま)やなどいへども,心地―・じうて七日も過ぎぬ」〈蜻蛉日記•下〉「―・じきもの,昼ほゆる犬。春の網代」〈枕草子•25〉

② さむざむしい。ひえびえする。季秋「十一月十九日の朝なれば,河原の風さこそ―・じかりけめ」〈平家物語•8〉〔動詞「すさむ」の形容詞形。本来,興ざめがするさまを表す』

「廿七日」、天明8年11月27日。西暦1788年12月24日。

「如川周信」、狩野周信(かのうちかのぶ)。万治3(1660)年〜享保13(1728)年は、日本の江戸時代前期から中期にかけて活躍した絵師。江戸幕府に仕えた御用絵師で、狩野派(江戸狩野)の中で最も格式の高い奥絵師4家の1つ。

「如川周信

暮年得法眼之位階而卒此品罕干世。有古法眼画其筆意如雲 雖然筆勢為妙可愛」、『如川周信

晩年に法眼の位階を得てこの品で没す 世に稀なる。古の法眼の画あり、その筆意は雲の如し

とはいえ筆勢こそ妙にして愛すべきなり』。

 相手をした婦の名前に興ざめしてしまったように記してますけど、そんことはなかったとおもいます。楽しくすごしたにきまっています。

 

2025年8月28日木曜日

江漢西遊日記五 その33

P33 東京国立博物館蔵

(読み)

クロ能事 をあざと云フ其 嫁 三 味せんを弾(ヒク)

くろのことをあざというそのよめしゃみせんを  ひく


先ツ江戸能イタコさ王き能節(フシ)なりよんヤ

まずえどのいたこさわぎの  ふし なりよんや


な婦しと云フ〽王しハ多ミ能者 ちこふよ川て

なぶしという わしはたみのものちこうよって


たもれ情(ナサケ)ありしと親(ヲヤ)尓春る〽松 尓下 り藤(フシ)

たもれ  なさけ ありしと  おや にする まつにさがり  ふじ


美(ミ)事 な物 よ人 能花 なら只(タゝ)見多者゛かり

  み ごとなものよひとのはななら  ただ みたば かり


よんヤな\/  其嫁(ヨメ)木綿 の布 子麻 の葉を

よんやなよんやなその よめ もめんのぬのこあさのはを


染 多る前 多゛れ帯 も木綿 なり二 人能連レ其

そめたるまえだ れおびももめんなりふたりのつれその


なり竒妙  なり二百  年 程 昔 しハ此 様 なるべし

なりきみょうなりにひゃくねんほどむかしはこのようなるべし


と心  能内 おかしくぞ思 ひ个る其 一 間隔(ヘタテ)て閨(ネヤ)アリ

とこころのうちおかしくぞおもいけるそのひとま  へだて て  ねや あり


夜具木綿 なれどサツパリとしてよし予(ワレ)愛(アヒス)

やぐもめんなれどさっぱりとしてよし  われ   あいす

(大意)

(補足)

「さ王き能節」、『さわぎうた【騒ぎ唄】

① 民謡で,お座敷唄のうち,テンポが速く,にぎやかで明るいもの。

② 江戸時代に遊里や酒宴の席などで,三味線や太鼓に合わせて唄ったにぎやかな唄。

③ 下座音楽の一。郭(くるわ)・茶屋など遊興の騒ぎの場面に使われる,大鼓・小鼓・太鼓の入るにぎやかなもの』

「花」、ここのくずし字、学んだはずなのですけど、初めて見るような・・・

 江漢さん、ここの雰囲気をとても気に入って、居心地がよさそうです。ごきげん♪

 

2025年8月27日水曜日

江漢西遊日記五 その32

P32 東京国立博物館蔵

(読み)

小豆 嶋 屋と云 揚 屋能様 なる家 あり二 人の者

あずきしまやというあげやのようなるいえありふたりのもの


案 内 して爰 尓至 ル尓先 二階 へ登 り見る尓

あんないしてここにいたるにまずにかいへのぼりみるに


色 \/の物 有 て物 置 能様 なる坐しきなり

いろいろのものありてものおきのようなるざしきなり


此 家 爰 ニ一 軒 なり彼 二 人の者 能春ゝ免ニ

このいえここにいっけんなりかのふたりのもののすすめに


て遊 女 を呼フ尓衣装  ハち里めん模様 なり

てゆうじょをよぶにいしょうはちりめんもようなり


裏紅(モミ)なり帯 ハとん春能様 なる物 尓して一寸(チヨツト)

うら もみ なりおびはどんすのようなるものにして   ちょっと


春そを。さぐり見ル尓袷  小袖 を上 へ着(キ)多る

すそを さぐりみるにあわせこそでをうえへ  き たる


者 なり髪(カミ)結ヒ様 先ツ大 坂 風 ニて竒妙  也

ものなり  かみ ゆいさままずおおさかふうにてきみょうなり


さて其 家 の嫁(ヨメ)とて廿   一 二歳 㒵(カヲ)ハ白 けれ

さてそのいえの  よめ とてにじゅういちにさい  かお はしろけれ


ど黒子(ホクロ)能いかゐ事 ある女  なり此 国 ニてハホ

ど   ほくろ のいかいごとあるおんななりこのくににてはほ

(大意)

(補足)

「小豆嶋」、淡路島のとなりに小豆島(しょうどしま)がありますが、ここの読みはなんでしょうか?

「㒵(カヲ)ハ白けれ」、この「㒵(カヲ)」は顔のこと、古文書によく使われています。

「いかゐ事」、『厳いこと。多いこと。多いさま。たいへんなこと。「ひる見たれば,瓜が―見えたが」〈狂言記・瓜盗人〉』。『いか・い 【厳い】(形)《文ク いか・し》〔中世・近世語〕① 荒々しい。勇猛だ。恐ろしい。「かく―・う猛き身に生まれて」〈宇治拾遺物語8〉② 大きい。多い。「聞き及うだより―・い河ぢや」〈狂言記・鈍根草〉

③ (程度が)はなはだしい。大層である。「それはほんに―・いお力落しで」〈滑稽本・浮世床2〉「あつしは此家の先代には―・い世話になつたし」〈くれの廿八日魯庵〉』

 ここの遊女の頭の先から裾先までなめるように観察描写しています。好きですねぇ。でもこのような目があるから、生き生きとした人物画が描けるのでしょう。

 しかし、この頁から始まって、次の頁まるまる、さらにその次の頁までつづき、なみなみならぬ熱情を傾けています。

 

2025年8月26日火曜日

江漢西遊日記五 その31

P31 東京国立博物館蔵

(読み)

見へ遥(ハルカ)尓ハ對馬 壱岐を能ぞミ是 北 能方タ

みえ  はるか にはつしまいきをのぞみこれきたのかた


なり近 ク尓小嶋 二 ツアリ二タかミと云 北 ノ方 ヨリ

なりちかくにこじまふたつありふたかみというきたのほうより


東  尓よりてマダラ嶋 あり之(コレ)ハ唐 津の領  也

ひがしによりてまだらじまあり  これ はからつのりょうなり


西 ヨリ南  尓生 月 嶋 見ユ南  能方 安万(ヤスマン)嶽

にしよりみなみにいきつきしまみゆみなみのほう   やすまん だけ


平 戸第(タイ)一 能高 山 なり西 方 日本 の地なし

ひらど  だい いちのこうざんなりにしかたにほんのちなし


朝  鮮 国 見へ春゛夫 より白 岳 を下 り田助 浦

ちょうせんこくみえず それよりしらたけをくだりたすけうら


尓至 ル城  下能裏(ウシロ)半 里あり長 崎 の方 より能舩

にいたるじょうかの  うしろ はんりありながさきのほうよりのふね


着(ツキ)なり故 ニ遊 女 あり廿   人 程 アルよし亦 地下

  つき なりゆえにゆうじょありにじゅうにんほどあるよしまたじげ


能者 とて安(ヤス)者 六 七 十  人 あるとぞ遊 女 揚 代

のものとて  やす ものろくしちじゅうにんあるとぞゆうじょあげだい 


十  七 匁  雑 用 ハ別 なりさて吾カ連レ二 人アリ

じゅうしちもんめざつようはべつなりさてわがつれふたりあり

(大意)

(補足)

「西遊旅譚四」に白獄頂からの眺望図があります。 

 白獄頂にちゃんと「石の小き宮居」が描かれています。

「田助浦」、おなじく西遊旅譚四の画です。 

 いつもながら、遊郭があると江漢さんは遊女揚代から遊女の着ているもの髪形など、細かく観察して記しています。今となっては、江戸から長崎・平戸までの風土文化的な比較ができて貴重な記録であります。

 

2025年8月25日月曜日

江漢西遊日記五 その30

P30 東京国立博物館蔵

(読み)

支那(カラ)ノ僧 なり故 ニ此 日をまつる俗家(ソツカ)ニても

   から のそうなりゆえにこのひをまつる   ぞっか にても


家 々 餅 を津き祝 ふ此 所  能者 短 日 と

いえいえもとをつきいわうこのところのものたんじつと


いえど喰(シヨク)を四 度春

いえど  しょく をよんどす


廿   四 日天 氣ニして町 能商  家尓行キ四 枚 襖(フスマ)

にじゅうよっかてんきにしてまちのしょうかにゆきよんまい  ふすま


裏 表  墨 画を描ク色 \/馳走 春る小野

うらおもてぼくがをかくいろいろちそうするおの


尚 益 と云 画師と共 尓帰 ル

なおますというえしとともにかえる


廿   五日 上  天 氣如春    四 時 ヨリ白 獄 ヘ登 ル其 路

にじゅうごにちじょうてんきはるのごとしよつどきよりしらたけへのぼるそのみち


一 里半 あり城  下を過 て家中  町 アリ夫 より

いちりはんありじょうかをすぎてかちゅうまちありそれより


野山 へ出テ野馬 を見ル絶頂ニ至リ石ノ小キ宮

のやまへでてのうまをみるぜっちょうにいたりいしのちいさきみや


居ありカヤ生  シて木なし眼 下尓大 嶋 宅 しま

いありかやしょうじてきなしがんかにおおしまたくしま

(大意)

(補足)

「家々餅を津き祝ふ」、冬至の日に餅をついて祝う風習でしょうか。現在残っている風趣はゆず湯かな。「此日」は「廿三日」、天明8年11月23日で西暦1788年12月20日ですから、旧暦だとこの頃が冬至となります。

「廿四日」、天明8年11月24日。西暦1788年12月21日。

「白獄」、現在の地図で赤い印のところが白岳(公園)。

 古地図でも全く同じ。


  一番北に位置するのが(的山)大島、その手前が度島。

 平戸文化観光商工部観光課HPに「標高250mだが、ここからは平戸島の北部、生月島、度島、的山大島、壱岐がキレイに見渡せる地元の人しか知らない隠れた絶景スポット。車で行けるが、途中、離合が困難な箇所があるため十分お気をつけて運転を」とありました。

「宮居」、『みやい ―ゐ【宮居】① 神が鎮座すること。また,その所。神社。「神代よりつもりの浦に―して」〈千載和歌集神祇〉② 皇居を定めること。また,その所。皇居。「乙訓に―し給ふ」〈平家物語5〉』

 どこへいっても、江漢さん近所の名所観光だけでなく、山々のてっぺんをめざし、その眺望を望んで画にしています。健脚のなせる技なのでしょうけど、やはり風景が大好きで得意な絵師ということであります。

 

2025年8月24日日曜日

江漢西遊日記五 その29

P29 東京国立博物館蔵

(読み)

桜  ハ八重一 重能まし里

さくらはやえひとえのまじり


サツマ桜  と云

さつまざくらという


此 塔 ハ此 地の者 冨人 ニして娘  ヲ

このとうはこのちのものふじんにしてむすめを


支那(カラ)へ嫁セし尓支那より是 を建 ルと云

   から へかせしにからよりこれをたてるという


亦 爰 尓半 田助 右衛門と云 者 甚  タ冨人 ニして

またここにはんだすけえもんというものはなはだふじんにして


右 の堂 塔 を建て亦 自身 能家 能前 ヲ

みぎのどうとうをたてまたじしんのいえのまえを


大 石 を以 テ往 来 能路 を五六 十 間 能間  を

おおいしをもっておうらいのみちをごろくじっけんのあいだを


しき津免今 尓其 まゝ在 今 其 末 甚  タ

しきつめいまにそのままありいまそのすえはなはだ


能貧 乏 となり居(スヱ)へ風呂(フロ)屋をしてかなしき

のびんぼうとなり  すえ へ   ふろ やをしてかなしき


暮(クラ)しなり此 日冬 至なり寺 々 開基(キ)ハ皆

  くら しなりこのひとうじなりてらでらかい き はみな

(大意)

(補足)

「此塔」、コルネリアの塔として知られているとありました。コルネリアは、亡父第5代平戸オランダ商館長コルネリウス・ファン・ナイエンローデの50回忌の1682年、供養塔を西の久保本成寺境内に建立した。これが『コルネリアの塔』である。そのあと、瑞雲寺境内に移された。 

 江漢さん、年よりや子ども、またここのように落ちぶれてしまった人たちには「かなしき暮らしなり」とそのまなざしはやさしくあたたかい。

 画に「年号 天和トアル」。天和年間は延宝の後、貞享の前、1681年から1684年までの期間、江戸の大火(八百屋お七の火事)などがあった。将軍は徳川綱吉。

 

2025年8月23日土曜日

江漢西遊日記五 その28

 

P28 東京国立博物館蔵

(読み)

観 音 院 聖  護院 御願  所  奉 施入

かんのんいんしょうごいんおねがいどころほうしいる


鐘 一 口 應 永 十  二年 未十  二月 之 ハ彫

かねひとくちおうえいじゅうにねんみじゅうにがつこれはほり


付 てあり傍   尓観 音 堂 アリ小松 の茂 盛

つけてありかたわらにかんのんどうありこまつのしげもり


能所 持と云フ 本 所  寺ニ在

のしょじという ほんじょうじにあり


石 塔 高 サ

せきとうたかさ


二丈  余

にじょうあまり


大 石 を以 テ

おおいしをもって


造 ル

つくる


正  面 ニハ康 永 五年 亦 弘安

しょうめんにはこうえいごねんまたこうあん


壬   ノ年 トアル

みずのえのとしとある

(大意)

(補足)

ここに記されている内容にちかい事柄をネットで探しました。このような小論文『明治廃仏毀釈と肥前平戸松浦藩「本成寺」について 三浦成雄』がありました。

 本成寺跡の大五輪塔 塔高五メートル 

 彫られている元号も一致しています。 

 本所寺が本成寺であるかどうかはわかりませんけど、江漢さんは字をよく間違えるので、さてどうでしょうか。

 

2025年8月22日金曜日

江漢西遊日記五 その27

P27 東京国立博物館蔵

(読み)

と云 処  屏(ヘ ウ)風岩 アリ山 上  尓長  者 と云 者 アリ

というところ  びょう ぶいわありさんじょうにちょうじゃというものあり


四 ツありし尓一 ツハ堀 て門 より金 多 く出多り

よっつありしにひとつはほりてもんよりきんおおくでたり


亦 海 邊尓穴 二 ツ並  てアリ一 ツハ上ミ十  五日

またうみべにあなふたつならびてありひとつはかみじゅうごにち


水 湧(ワク)一 ツハ下モ十  五日 水 湧クと云 深 キ事 ハ

みず  わく ひとつはしもじゅうごにちみずわくというふかきことは


一 向 知レ春となり亦 国 分 寺ノ跡 岩 屋アリ

いっこうしれずとなりまたこくぶんじのあといわやあり


石 を畳(タゝン)で家 を造 ル亦 針 尾の瀬戸

いしを  たたん でいえをつくるまたはりおのせと


より真 珠 を出春

よりしんじゅをだす


廿   三 日 曇 ル四 時 比 より安 兵衛案 内 して

にじゅうさんにちくもるよつどきころよりやすべえあんないして


観 音 院 此 寺 内 ニ鐘 アリ播 州  尾 上能

かんのんいんこのてらうちにかねありばんしゅうおのえの


鐘 と同 物 ニして天 人 を鋳多り平 戸嶋

かねとどうぶつにしててんにんをいたりひらどじま

(大意)

(補足)

「堀て」、掘て。土(つちへん)と扌(てへん)の違いですけど、どちらも意味はおなじようなもの。御城のまわりの堀(ほり)と穴を掘(ほ)る、のように使い分けられそう。

「廿三日」、天明8年11月23日。西暦1788年12月20日。

「四時比より」、朝10時頃より。

「尾上能鐘」、天明8年九月朔日、江漢西遊日記三 その26 に出てきました。

 西遊旅譚四に図があります。 

「岩屋アリ」、山石屋ではありません。

 壱岐の島のことを興味深く語っていますが、足を運ぶことはなかったようです。

 

2025年8月21日木曜日

江漢西遊日記五 その26

P26 東京国立博物館蔵

(読み)

兵衛とて足 軽 舩 方 能頭  役 夫 故 西 国

べえとてあしがるふなかたのかしらやくそれゆえさいごく


諸 大 名  より付 届  あ里故 ニ軽(カル)き者 なれ共

しょだいみょうよりつけとどけありゆえに  かる きものなれども


勝 手よし夫 故 小坐しき寄麗(キレイ)ニして在

かってよしそれゆえこざしき   きれい にしてある


故 ニ宮 能町  より爰 ニ移 ル安 兵衛ハ六 十  余  能

ゆえにみやのちょうよりここにうつるやすべえはろくじゅうあまりの


老 人 ニて悴  もあり孫 もアリ皆 \/出て敬 尊

ろうじんにてせがれもありまごもありみなみなでてけいそん


春其 坐しき尓白 張リ能小襖  あり先ツ之(コレ)

すそのざしきにしろはりのこぶすまありまず  これ


ニ墨 画を描(カ)く安 兵衛話  尓壱岐能国 ハ五

にぼくがを  か くやすべえはなしにいきのくにはご


万 石 能処  と云 爰 より十  三 里を隔(ヘタツ)嶋 なり

まんごくのところというここよりじゅうさんりを  へだつ しまなり


京  大 坂 邊 能流人 の来ル嶋 なり寺 ハ

きょうおおさかへんのるにんのくるしまなりてらは


五十  ケ寺あると云 冨 貴なる者 あり八 幡

ごじゅっかじあるというふうきなるものありはちまん

(大意)

(補足)

「寄麗(キレイ)」、綺麗。

「悴」、倅。悴は「かじかむ。やつれる。スイ」

 お殿様じきじきもらったお菓子をみなにみせびらかし、またそのときの様子を語って聞かせたのがきいたのか、宿もランクアップして、江漢さんはご満悦であります。


 

2025年8月20日水曜日

江漢西遊日記五 その25

P25 東京国立博物館蔵

(読み)

今 日の様 子ヲ者なし殿(トノ)様 身(ミツ)可ら薄 茶 を

きょうのようすをはなし  との さま  みず からうすちゃを


多て此 菓子を下タされ多ると話(ハナシ)聞カ春れ

たてこのかしをくだされたると  はなし きかすれ


ハ亭主(テイシユ)肝 を津婦゛し此 様 なる事 竟 ニうけ

は   ていしゅ きもをつぶ しこのようなることついにうけ


多ま王ら春゛殿 様 のあれへお出 ニてお逢(アヒ)と

たまわらず とのさまのあれへおいでにてお  あい と


云フ事 希しから須゛重 き事 なりあな多

いうことけしからず おもきことなりあなた


様 のお宿 仕    候  得ハ即  ち殿 様 お入 あるも

さまのおやどつかまつりそうらえばすなわちとのさまおいりあるも


同 前 ありか多き事 なり此 菓子ハ誠  ニい多

どうぜんありがたきことなりこのかしはまことにいた


だく事 能ならぬ者 ニて疫病(ヤクヒヨウ)除 尓なり申

だくことのならぬものにて   やくびょう よけになりもうす


とて涙(ナミタ)を流 して恐(オソ)れ个る

とて  なみだ をながして  おそ れける


廿   二日 天 氣此 宿 餘 りあしく故 尓小崎 安(ヤス)

にじゅうににちてんきこのやどあまりあしくゆえにおざき  やす

(大意)

(補足)

「希しから須゛」、『けしから◦ず 【怪しからず】① 普通ではない。「かく―◦ぬ心ばへは使ふものか」〈源氏物語•帚木〉⑤ 格別である。「一夜―◦ず摂して候ひしよ」〈謡曲・鵜飼〉』

「即」、吊のようなかたちのくずし字もあるようです。

「同前」、同然。

「廿二日」、天明8年11月22日。西暦1788年12月19日。

 江漢さん、宿の主人に、殿様に招かれたときのことをはなしながら、どうですわたしはこのように名のある画人なのですよとまわりのひとたちに知らしめ、鼻高々である一方、どこか冷めた目で、殿様を神のように崇める宿の主人や町の人々を、なにそんなにたいしたことではないのですよと、涙を流して恐れている主人に、言葉がないようでもあります。

 身分社会の形苦しさや馬鹿らしさに、どこかで江漢さんはそんな社会のすみづらさを感じているようでもあります。


 

2025年8月19日火曜日

江漢西遊日記五 その24

P24 東京国立博物館蔵

(読み)

同  く禮 をな春失 禮 を春る者 あれハ切捨(キリステ)

おなじくれいをなすしつれいをするものあれば   きりすて


と云 事 とぞ

ということとぞ


廿   一 日 亦 雨 夜 ニ入 大 風 雨晩 八 時 ヨリ客

にじゅういちにちまたあめよるにいりだいふううばんやつどきよりきゃく


家ヘ参 ル町 能中 尓門 玄 関 付 なり八 時 比 ニて

かへまいるまちのなかにもんげんかんづけなりやつどきころにて


侯 馬 ニてお入 り小納 戸方 平 兵衛案 内 ニて

こううまにておはいりこなんどかたへいべえあんないにて


門 の入 口 ニて出向 ヒ直 尓お逢ヒあり子小性

もんのいりぐちにてでむかいじかにおあいありここしょう


七 人 次 能者 四人 紅 毛 書 物 数 々 拝 見

しちにんつぎのものよにんこうもうしょもつかずかずはいけん


夫 より席 画ヲ認  メ酒 肴 菓子薄 茶 ハ自

それよりせきがをしたためしゅこうかしうすちゃはじ


身 茶 室 ニて被下  夜 能四 時 過 ニ旅 宿 尓

しんちゃしつにてくださるよるのよつどきすぎにたびやどに


帰 りぬ町 中  大 さ王き春る旅(リヨクワン)の主 人 云 曰(イハク)

かえりぬまちじゅうおおさわぎする  りょか ん のしゅじんいう  いわく

(大意)

(補足)

「廿一日」、天明8年11月21日。西暦1788年12月18日。

「晩八時」、午後の2時なので、晩ではありません。

「客家」、松浦静山の書斎である楽歳堂(らくさいどう)のこと。松浦史料博物館HPに『静山は平戸城内に楽歳堂(らくさいどう)という現在の博物館のような施設を設置しました。そこに当時としても貴重な文物を収蔵します。対象は国内、海外の様々な分野に及んでいます』とあります。

 文章後半は江漢さんの自慢話。いつもながら、このようなときは謙虚さなど、これっぽっちもうかがえません。

 静山、このとき31歳でした。

 

2025年8月18日月曜日

江漢西遊日記五 その23

P23 東京国立博物館蔵

(読み)

廿 日天 氣爰 ニ来 りて初  て能 天 氣となる亦

はつかてんきここにきたりてはじめてよきてんきとなるまた


正  右衛門方 へ行ク銅 板 目鏡  取 よせ見セル

しょうえもんかたへゆくどうはんめかがみとりよせみせる


家 能者 出て見 物 春酒 吸 物 飯 を出春

いえのものでてけんぶつすさけすいものめしをだす


明日壱岐 守 使者 屋 ニてお逢ヒと申  事 也

あすいきのかみししゃおくにておあいともうすことなり


ヒシキ生(ナマ)なるハ緑  色 ニして先キの方 ハ平(ヒラミ)なり

ひじき  なま なるはみどりいろにしてさきのほうは  ひらみ なり


初 メて喰  春爰

はじめてしょくすここ


ハ此 国 の法 ニて

はこのくにのほうにて


大 小  を帯ヒ多る者 ニハ町 の者 下駄(タ)を

だいしょうをおびたるものにはまちのものげ  た を


をぬき禮 をな春軽 キ者 も同 し夫 故 尓

をぬぎれいをなすかろきものもおなじそれゆえに


脇 差(サシ)一 本 ニて出けれと僕(トモ)一 人連レると

わき  ざし いっぽんにてでけれど  とも ひとりつれると

(大意)

(補足)

「廿日」、天明8年11月20日。西暦1788年12月17日。

「初て能天氣」、ここの「能」は、格助詞「の」のくずし字になっていません。この二行あと「家能者出て」の「能」のくずし字が格助詞「の」のくずし字(Hのようなかたち)で、このふたつは、しっかり区別されています。

「ヒシキ」、海藻のひじきのことですけど、江戸周辺の江戸湾や相模湾あたりでは普通にとれていたし、浜周辺の住民は食していたはずです。当時でもふつうに江戸では食されていたはずで、単に江漢さんが食べたことがなかっただけであろうとおもわれます。

 農林水産省のHPに『文献に登場するのは江戸時代の初期、寛永15年(1638年)発行と言われる「毛吹草」(俳諧の理論や各地の名産品を紹介)の中で、すでに伊勢の国の名産品として「鹿尾菜(ひじき)」が紹介されている。

 流通網が拡大するに伴って寛政年間(1789~1800年)の頃には、伊勢産のひじきは全国的に知られるようになった。伊勢ひじきの名前もこの頃、江戸でその名で売り出されたのが始まりと言われている』とありました。

 

2025年8月17日日曜日

江漢西遊日記五 その22

P22 東京国立博物館蔵

(読み)

と云 人 江戸屋しきニテ度 々 結メ多る人 ニて懇(コン)

というひとえどやしきにてたびたびつめたるひとにて  こん


意之(コレ)へ尋  ル酒 出春鮪  鰯(イハシ)のさかななり

い  これ へたずねるさけだすまぐろ  いわし のさかななり


此 日平 戸松 浦侯 へ我 等参  候   事 を申

このひひらどまつらこうへわれらまいりそうろうことをもうし


上 ルとぞ

あげるとぞ


十  九日 風 雨 雪 あられ亦 ハ日照 し青 天

じゅうくにちふうせつゆきあられまたはひでりしせいてん


を見ル甚  タ寒 し旅 館 主 人 の云 爰 ハ盗賊(トウソク)ハ

をみるはなはださむしりょかんしゅじんのいうここは   とうぞく は


なき所  と云フ然  とも戸も風屏(ひようふ)モなくてハ寒 し

なきところというしかれどもとも   びょうぶ もなくてはさむし


夜 尓入 正  右衛門方 より申  来 ル明日明後日

よるにいりしょうえもんかたよりもうしきたるあすあさって


能うち壱岐能守 お目尓かゝられ可申   と申

のうちいきのかみおめにかかられもうしべしともうし


来ル

くる

(大意)

(補足)

「結メ」、詰め。

「平戸松浦侯」、第9代松浦静山(まつらせいざん)。宝暦7(1757)年〜天保12(1841)年。文政4(1821)年以降書き続けた『甲子夜話』は江戸時代の随筆として有名。ウイキペディアに『清(静山)は17男16女に恵まれた。そのうちの十一女・愛子は公家の中山忠能に嫁いで慶子を産み、この慶子が孝明天皇の典侍となって宮中に入り、明治天皇を産んでいる。よって清は明治天皇の曽祖父にあたる』とありました。

「参候事」、「候」が「ら」のように見えますけど、ながれから「候」のくずし字というより、簡略記号。

「十九日」、天明8年11月19日。西暦1788年12月16日。

 天候は相変わらずめちゃくちゃのようであります。

「風屏」、屏風ですけど、逆さまになっちゃってます。

「壱岐能」、安永3年(1774年)4月18日将軍徳川家治に御目見する。同年12月18日従五位下・壱岐守に叙任する。安永4年(1775年)2月16日祖父の隠居により、家督を相続した。

 

2025年8月16日土曜日

江漢西遊日記五 その21

P21 東京国立博物館蔵

(読み)

四五百  里能海 上  七 八 日 ニして江戸尓着(ツク)十  二

しごひゃくりのかいじょうしちはちにちにしてえどに  つく じゅうに


月 五嶋 マグロと云 物 なり兼 て舩 尓塩 を貯(タクハ)

がつごとうまぐろというものなりかねてふねにしおを  たくわ


へ舩 滞(トゝコヲ)る時 ハ塩 漬(ツケ)尓春其 價  十  分  一 となる

へふね  とどこお るときはしお  づけ にすそのあたいじゅうぶんのいちとなる


此 地其 後追 \/漁  春る物 ハ皆 油  ニ春鮪(シヒ)

ことちそのごおいおいりょうするものはみなあぶらにす  しび


一 ツ舩 より舩 尓買 尓金 四十  五匁  位  なり故 ニ

ひとつふねよりふねにかうにきんしじゅうごもんめくらいなりゆえに


塩 ニしてハ大 損(ソン)とぞ鮪  一 斤 ニて三 十  二文 なり

しおにしてはおお  ぞん とぞまぐろいっきんにてさんじゅうにもんなり


肉 黒 赤 し毒 アリ伊豆海 ニて漁  春る鮪(マクロ)

にくくろあかしどくありいずうみにてりょうする  まぐろ


とハ亦 別 種 なるベシ唐 蘇州  邊  ニてハ大 キ

とはまたべっしゅなるべしとうそしゅうあたりにてはおおき


サ八 九尺  大 毒 ありて人 不喰 とぞ

さはっくしゃくおおどくありてひとくわずとぞ


十  八 日 今 日も時雨 風 雨なり山 本 庄  右衛門

じゅうはちにちきょうもしぐれふううなりやまもとしょうえもん

(大意)

(補足)

「四五百里能海上七八日ニして江戸尓着(ツク)十二

月五嶋マグロと云物なり」、地図で大まかに平戸〜東京の海上路を測ってみると、約1600km程あり、8日間かかったすれば、1日に約200km。風だけがたよりで8日間ずっと西風に恵まれなければなりません。いつもがいつも、そのようにできたとはとてもおもえません。

 しかし江戸では五島鮪という言葉があるので、届けられていたということは確かなようであります。

「十八日」、天明8年11月18日。西暦1788年12月15日。

「金四十五匁」「鮪一斤ニて三十二文」「大キサ八九尺」と度量衡がいろいろあって大変。

 

2025年8月15日金曜日

江漢西遊日記五 その20

P20 東京国立博物館蔵

(読み)

ごとしと云 此 宿 雨 戸なし障  子婦春まなし

ごとしというこのやどあまどなししょうじふすまなし


天井(テン セウ)を張(ハラ)春゛扨 \/寒 し爰 も風 土長 崎 能

   てんじょう を  はら ず さてさてさむしここもふうどながさきの


如 し時雨(シクレ)ニて大 雨 風 雪 あられ降りて

ごとし   しぐれ にておおあめかぜゆきあられふりて


東 方 ノ氣色 なしさて平 戸城  下海 岸

とうほうのけしきなしさてひらどじょうかかいがん


尓人 家並 ヒて此 節 鮪(シヒ)漁  ニて大 舩 岸 ニ

にじんかならびてこのせつ  しび りょうにておおふねきしに


着(ツキ)鮪 を積ム事 一 艘 尓何 萬 数 艘 尓積ム

  つき しびをつむこといっそうになんまんすうそうにつむ


故 海 能潮 鮪 の血(チ)流 レて赤 し鮪 舩 此 時(シ)

ゆえうみのしおしびの  ち ながれてあかししびふねこの  し


雨(グレ)能嵐  尓帆を張り玄 界 灘(ナタ)を過 て下 能関

  ぐれ のあらしにほをはりげんかい  なだ をすぎてしものせき


尓至 り防 州  灘 を越へ阿波能鳴 戸を渡里

にいたりぼうしゅうなだをこえあわのなるとをわたり


志摩の国 鳥羽浦 ニ掛ケ伊豆能東  洋 を経(へ)

しまのくにとばうらにかけいずのひがしなだを  へ

(大意)

(補足)

「平戸城下」、平戸藩6万1700石。古地図と現在のもの。黒子島、牛首(平戸牛ヶ首灯台)など地形はほとんどかわっていません。また平戸オランダ商館HPに1621年平戸図(平戸城下の絵図)があります。 


  一艘に何万匹も鮪を積んだ船が数艘ということで、港の浜は血だらけで海が赤いとあります。その鮪満載の船が平戸から玄界灘をへて下関にいたり、坊州灘を越え鳴門をわたり、鳥羽の浦でひと休み、伊豆を経て、江戸に向かうわけです。ホントかなと疑ってしまいます。

 木村蒹葭堂「日本山海名産圗會」にこの鮪の説明と画があります。 

 当時も今も平戸五島付近はすぐれた鮪漁場であったようです。

 

2025年8月14日木曜日

江漢西遊日記五 その19

P19 東京国立博物館蔵

(読み)

十  七 日 なり天 氣舩 より上 り舩 頭 能宅 尓行 て

じゅうしちにちなりてんきふねよりあがりせんどうのたくにゆきて


喰  事春夫 より長 崎 宿  あり宮 能町  橋 口 次

しょくじすそれよりながさきしゅくありみやのちょうはちぐちじ


兵衛と云 爰 尓藤 五郎 とて幸 作 能外 料  能

へえというここにとうごろうとてこうさくのがいりょうの


弟子四五日 以前 尓参 り居ル其 者 先ツ酒 を買

でししごにちいぜんにまいりおるそのものまずさけをかう


シビ能さしミニて呑ム平 戸ハシビマグロイワシ

しびのさしみにてのむひらどはしびまぐろいわし


皆 其 毒 ニ当 り湿瘡(シツサウ)を病 者 多 し宿 能主

みなそのどくにあたり   しっそう をやむものおおしやどのしゅ


人 眼のあしき人 故 之(コレ)を聞く尓私   惣 毒 能

じんめのあしきひとゆえ  これ をきくにわたくしそうどくの


病 ヒありて両  眼 ぬけ出テ一 寸 程 さかり申

やまいありてりょうがんぬけでていっすんほどさがりもうす


時 尓熱 病  を王川゛らひし尓大 熱 の為(タメ)ニ

ときにねつびょうをわず らいしにおおねつの  ため に


其 湿 毒 殊(コト)\/くぬけ夫 故 尓眼(マナコ)かく能

そのしつどく  こと ごとくぬけそれゆえに  まなこ かくの

(大意)

(補足)

「十七日」、天明8年11月17日。西暦1788年12月14日

「外料」、『がいりょう ぐわいれう 【外療・外料】

外科的治療。また,外科医。「―へいさぎよく行く向ふきず」〈誹風柳多留•18〉』

「シビ」、『しび【鮪】① マグロの異名。② クロマグロの成魚で,大形のものの異名。 』『めじ。クロマグロの若魚で,1メートル 以下のものの異名。メジマグロ。』

「惣毒」、瘡毒(そうどく さう【瘡毒】梅毒の異名。かさ。)。

「湿瘡」、『疥癬(かいせん)、疥癬虫の寄生によっておこる伝染性皮膚病。かゆみが激しい。指の間・わきの下・陰部など皮膚の柔らかい部分を冒す。皮癬(ひぜん)。湿瘡(しつそう)。』

 マグロはあしがとても早いので、刺し身で食していろいろあたって、病気になることが多かったのだろうとおもいます。

 

2025年8月13日水曜日

江漢西遊日記五 その18

P18 東京国立博物館蔵

(読み)

喰  事せ春゛横 に伏し个連ハ何 ヤラうゑ尓

しょくじせず よこにふしければなにやらうえに


かけ个る可゛トロ\/と一 寝(ネイ)里し个る可゛僕 来て云フニハ

かけけるが とろとろとひと  ねい りしけるが ぼくきていうには


今 風 可直 り申  故 ニ舟 を出春と目を覚(サマシ)け

いまかぜがなおりもうすゆえにふねをだすとめを  さまし け


る氣可゛さ川者゜里快(コゝロモ)ち能 夫 より舟 へ行ク尓

るきが さっぱ り  こころも ちよくそれよりふねへゆくに


夜 能八 時 比 なり満 月 浪 を照 シ寒 風 肌(ハタヱ)ヲ

よるのやつどきころなりまんげつなみをてらしかんぷう  はだえ を


とふ春東風吹ヒて舟 走 ル事 者やし牛 ガ

とうすこちふいてふねはしることはやしうしが


首(クヒ)など云 嶋 を見ル重 キ流人 ハ爰 尓来ルと云

  くび などいうしまをみるおもきるにんはここにくるという


夫 ヨリ九十  九嶋 能外 海 を乗り行ク誠  尓

それよりくじゅうくしまのそとうみをのりゆくまことに


西 ハ朝  鮮 唐 能大 洋 なり風 追(ヲイ)てニて忽  チ

にしはちょうせんとうのたいようなりかぜ  おい てにてたちまち


夜明 て四 時 過 ニ平 戸嶋 尓着(チヤク)岸 春

よあけてよつどきすぎにひらどしまに  ちゃく がんす

(大意)

(補足)

「肌(ハタヱ)」、『はだえ ―へ【肌・膚】① 皮膚。はだ。「―は雪の如くにて」〈朱雀日記•潤一郎〉』

「九十九嶋」、平戸島の対岸の細々した島々。北松浦半島西岸(相浦〜小佐々町〜鹿町町)に連なる五島灘に面したリアス式海岸の群島。

「平戸嶋」、ウイキペディアに詳しい。その中で『1609年(慶長14年)にオランダ商館、1613年(同18年)にウィリアム・アダムス(三浦按針)によってイギリス商館が設立された。しかしその後の鎖国政策によって1623年(元和9年)にイギリス商館閉鎖、オランダ商館も1641年(寛永18年)に長崎の出島へ移転して、平戸港における南蛮貿易は終わった』というのが印象的であります。

 満月の下、夜中の2時に肌に刺すような寒風の東風で、追手(追い風)で疾走しても平戸島に着いたのは朝10時過ぎでありました。

 

2025年8月12日火曜日

江漢西遊日記五 その17

P17 東京国立博物館蔵

(読み)

用 ユる事 なり漸  く尓して爰 を越へ小鯛 可浦 と云フ

もちゆることなりようやくにしてここをこえこたいがうらという


処  ニ七  時 かゝる山 尓社  あり舟 よりあか里磯 邊へ

ところにななつどきかかるやまにやしろありふねよりあがりいそべへ


歩 き向 フ能祠  へ参 ル尓見所  なし舩 頭 其 外 能

あるきむこうのほこらへまいるにみどころなしせんどうそのほかの


乗 合 能者 も爰 ニ知ル者 ありて何 クへ可行 帰 り尓

のりあいのものもここにしるものありていずくへかゆきかえりに


求 メ多るやドフロクとて濁  酒 を我 尓進 メ个る故

もとめたるやどぶろくとてにごりざけをわれにすすめけるゆえ


一 口 呑て 顔 をシカメて止メぬ夫 より其 酒 能

ひとくちのみてかおをしかめてやめぬそれよりそのさけの


当 り多るや昨 夜舟 尓伏し寒 氣能当 里タル

あたりたるやさくやふねにふしかんきのあたりたる


歟頭痛 などして氣分 あしゝ夫 より程 なくして

かずつうなどしてきぶんあししそれよりほどなくして


大 鯛 ガ浦 ニ掛 ル爰 ハ皆 平 戸領  なり因 て田夫能

おおたいがうらにかかるここはみなひらどりょうなりよってたふの


家 尓あか里火ニ当 り个る可゛氣分 あしき故 尓

いえにあがりひにあたりけるが きぶんあしきゆえに

(大意)

(補足)

「心を用ユる」、用心はレ点読みでした。

「大鯛が浦」「小鯛が浦」、大小とあるのである程度大きい浦なのかと地図で探しましたが見つけられませんでした。

 どぶろくの質はともかくとして、日本中どこにでもあったといわれています。

 

2025年8月11日月曜日

江漢西遊日記五 その16

P16 東京国立博物館蔵

(読み)

雪 まし里あられ風 吹き又 ハ上  天 氣となる

ゆきまじりあられかぜふきまたはじょうてんきとなる


時 甚  タ暖 氣となる言 語ハ東 方 と甚  タ異  り

ときはなはだだんきとなるげんごはとうほうとはなはだことなり


十  六 日 天 氣小串 と云 処  ニて舟 ニて夜を明(アカ)し

じゅうろくにちてんきおぐしというところにてふねにてよを  あか し


朝 舩 を出して六 里程 走 りて針 尾能瀬戸

あさふねをだしてろくりほどはしりてはりおのせと


なり右 ハ大 村 領  左  ハ平 戸領  なり山 両  方 ヨリ

なりみぎはおおむらりょうひだりはひらどりょうなりやまりょうほうより


入 込ミ其 間  僅  ニして波 なく潮(ウシヲ)雲珠巻

いりこみそのあいだわずかにしてなみなく  うしお うずまき


木 目能如 し或   岩 石 ニ觸れ白 浪 飛んで

もくめのごとしあるいはがんせきにふれしらなみとんで


沸騰(ホツトウ)能如 し引 しをニう川゛へ乗り入ル時 ハ舟 忽

   ほっとう のごとしひきしおにうず へのりいるときはふねたちまち


巻 込 と云 夫 故 潮 能満チ多る時 渡 ル也 此 瀬戸

まきこむというそれゆえしおのみちたるときわたるなりこのせと


能間  を能る事 凡  半 里程 あるべし舩 頭 甚  タ心  を

のあいだをのることおよそはんりほどあるべしせんどうはなはだこころを

(大意)

(補足)

「十六日」、天明8年11月16日。西暦1788年12月13日。

「針尾能瀬戸」、渦潮といえば、鳴門の渦潮しかしりませんでした。大村湾が外海と唯一つながっているところなので、潮の出入りが激しい。

 「西遊旅譚四」に画があります。 

 江漢さん、旅の最初の頃は、船に乗ると緊張感が伝わってきましたが、何度か命がけの乗船で慣れてきたのでしょう、冷静な目で状況を観察できているようであります。

 

2025年8月10日日曜日

江漢西遊日記五 その15

P15 東京国立博物館蔵

(読み)

さて長 﨑 より此 邊(ヘン)能風 土三 十  二三 度

さてながさきよりこの  へん のふうどさんじゅうにさんど


能処  ニして尤  モ海 邊故 夏 ハあ川く冬 ハ至

のところにしてもっともうみべゆえなつはあつくふゆはいたっ


て暖   ニして雪 霜 希(マレ)なり家 \/尓タイ\/

てあたたかにしてゆきしも  まれ なりいえいえにだいだい


能樹(キ)を植(ウユ)恒 ニ酢ニ用 ユザボンとて九年 母ニ

の  き を  うゆ つねにすにもちゆざぼんとてくねんぼに


十  倍 能物 辻 \/尓賣ル大 根 太 ク短  シケラ能

じゅうばいのものつじつじにうるだいこんふとくみじかしけらの


尾と云 亦 ほそ大 根 白 赤 能二品 サツマ芋

おというまたほそだいこんしろあかのにしなさつまいも


も同 し蕪 亦 同 し茶 釜 なし土瓶(ヒン)ニて

もおなじかぶまたおなじちゃがまなしど  びん にて


茶 を煎(センス)口 取 ボール黒 砂糖(トウ)或  ハ蕪(カブ)を酒

ちゃを  せんず くちとりぼーるくろざ  とう あるいは  かぶ をさけ


醤  油ニ漬(ツケル)婦人 生  涯 眉(マユ)を剃(ソラ)春゛手能指 ニ

しょうゆに  つける ふじんしょうがい  まゆ を  そら ず てのゆびに


金 輪を者める十  月 より此 方 時雨 とて大 雨

かなわをはめるじゅうがつよりこのほうしぐれとておおあめ

(大意)

(補足)

「風土」「土瓶」、「土」のくずし字に注意です。

「三十二三度」、この「度」はなんでしょうか?長崎・小串の直線距離は約36kmです。「里」や「町」の間違いではありませんし、経度でもなさそう。さて?

「九年母」、『くねんぼ。ミカン科の常緑低木。インドシナ原産。葉はミカンに似るがやや大きい。果実は球形で秋にオレンジ色に熟す。果皮は厚く,果肉は香りと酸味が強い。香橘(こうきつ)。季秋』

 当時の地元の果物や野菜の様子がわかっておもしろい、でもそれほど変わってはなさそうです。

「口取」、『くちとり 【口取り】①酒や茶などに添えて供する食べ物。㋐ 「口取り肴(ざかな)」の略。㋑ 「口取り菓子」の略。』

 江戸時代、女の人は結婚すると眉を剃りお歯黒でとよくいわれますが、そうでもないことがわかります。また「手能指ニ金輪を者める」のはきっと南蛮人の風習を取り入れたでしょうか。またはキリシタン信仰からのものでしょうか。

 フランス革命の遠因は気象異常とはよくいわれますが、この18世紀後半は地球上いたるところで天候不順だったようで、ここ九州でも南国で雪や霜があったことがわかります。

 

2025年8月9日土曜日

江漢西遊日記五 その14

P14 東京国立博物館蔵

(読み)

ハ扨 々 キタナキ家 尓泊 ル事 かなと云 个り此

はさてさてきたなきいえにとまることかなといいけりこの


所  能者 喰  事春るを見ル尓且 て米 麦 を不喰

ところのものしょくじするをみるにかつてこめむぎをくわず


瑠  球  芋 を蒸(ム)して籠 ニ入 夫 能ミ喰ヒ菜(サイ)ニハ

りゅうきゅういもを  む してかごにいれそれのみくい  さい には


生(ナマ)大 根 う春く切リ塩 ニてもミ多るなり

  なま だいこんうすくきりしおにてもみたるなり


十  五日 とかく時雨 なり朝 五 ツ時 尓舩 を出ス風

じゅうごにちとかくしぐれなりあさいつつどきにふねをだすかぜ


津よし波 高 し大 村 領  小串(グシ)と云 ニ舩 を掛

つよしなみたかしおおむらりょうお  ぐし というにふねをか


け又 亀(カメ)ガ浦 ニ入 ル雪 と雨 降ル小舟 なれハト

けまた  かめ がうらにはいるゆきとあめふるこぶねなればと


マをかけれハ立ツ事 なら春゛舩 頭 よりキタナキ蒲

まをかければたつことならず せんどうよりきたなきふ 


とん一 枚 かり夫 をか婦り寝(フセ)るニ鼻(ハナ)先 へ雪

とんいちまいかりそれをかぶり  ふせ るに  はな さきへゆき


トマ能間  より降り込 積ム大 難 渋  者なし能多袮

とまのあいだよりふりこみつむだいなんじゅうはなしのたね

(大意)

(補足)

「瑠球芋」、琉球芋。「瑠」はるり。

「十五日」、天明8年11月15日。西暦1788年12月12日。

「大村領小串(グシ)」、来るとき10月8日に泊まった彼杵(そのぎ)が地図の右にあります。小串(おぐし)はそこから10時方向のナスみたいな岬の左側のヘタ部分にあります。亀(カメ)ガ浦はきっと、そのあたり。

 長崎なのに、雪も降ってずいぶんと天気は乱れてます。

 

2025年8月8日金曜日

江漢西遊日記五 その13

P13 東京国立博物館蔵

(読み)

能かけ多る人 也 幸 作 ヘ弟子(デシ)入 故 尓おらん多

のかけたるひとなりこうさくへ   でし いるゆえにおらんだ


二階(カイ)タアフル四人 結メ来 ル者 予カ名を知ル

に  かい たあふるよにんづめきたるものよがなをしる


十  三 日 時雨 なり石 原 休  甫外 ニ一 人幸 作 の

じゅうさんにちしぐれなりいしはらきゅうほほかにひとりこうさくの


像 を認  メ遣  春皆 〃 謝 銀 を贈 ル

ぞうをしたためつかわすみなみなしゃぎんをおくる


十  四 日時雨 幸 作 方 を出  立 せんと春酒 吸

じゅうよっかしぐれこうさくがたをしゅったつせんとすさけすい


物 を出しおらん多ヒイドロ。コツフを贈 ル者かま

ものをだしおらんだびいどろ こっぷをおくるはかま


ニて外 迄て送 る利助 伯 民 ハ西 坂 まて送 ル

にてそとまでおくるりすけはくみんはにしざかまでおくる


平 戸屋しきへより夫 より時津(トキツ)能方 ニ趣(ヲモム)く雨 ニテ

ひらどやしきへよりそれより   ときづ のほうに  おもむ くあめにて


路 春べ里晩 七  時 ニ至 ル参 りシ時 泊 リ多る隣  能家

みちすべりばんななつどきにいたるまいりしときとまりたるとなりのいえ


二泊 る昨 夜迄 ハ能(ヨキ)夜具尓て寝多る尓今 夜

にとまるさくやまでは  よき やぐにてねたるにこんや

(大意)

(補足)

「四人結メ」、四人詰メ。

「十三日」、天明8年11月13日。西暦1788年12月10日。

 ようやく平戸(北へ約100km)へ向けて出立しました。14日は16時過ぎに時津に着き、来るときに泊まった家の隣に泊。足元が滑るので時間がかかったようでした。

 

2025年8月7日木曜日

江漢西遊日記五 その12

 

P12 東京国立博物館蔵
(読み)
様 尓なし我 等可 作 ル処 の銅 版 画を見せ个る
さまになしわれらがつくるところのどうはんがをみせける

尓甚  タ肝(キモ)を津婦゛春是 ハおらん多銅 版 画ハ
にはなはだ  きも をつぶ すこれはおらんだどうはんがは

且 て日本 ニてハ出来ぬと云 事 を知ル故 なり
かってにほんにてはできぬということをしるゆえなり

十  二日 大 風 雨此 地の時雨(シグレ)なり幸 作 能像 を
じゅうににちだいふううこのちの   しぐれ なりこうさくのぞうを

草 \/多る墨画(スミヱ)尓して者かま羽織 ニして坐し手
そうそうたる   すみえ にしてはかまはおりにしてざして

ニ蘭 書 を持チ上 尓ヱンゲル。ルーフを吹き居る
にらんしょをもちうえにえんげる るーふをふきいる

圖なり是 ハ備 中  倉 舗 と云 処  能伯 駒 と云 醫
ずなりこれはびっちゅうくらしきというところのはくこまというい

ニ贈 ル張  仲  圭 能像 を認  メ由良泰 伯 と云 醫
におくるちょうちゅうけいのぞうをしたためゆらたいはくというい

尓遣  春讃 州  能人 にして長 崎 尓住  春晩 方 石 見
につかわすさっしゅうのひとにしてながさきにじゅうすばんがたいわみ

能人 松 平  周防 侯 能醫者 名ハ齢 文 と云 鼻(ハナ)
にひとまつだいらすおうこうのいしゃなはれいぶんという  はな
(大意)
(補足)
「十二日」、天明8年11月12日。西暦1788年12月9日。
「ヱンゲル。ルーフ」、天使。らっぱ。オランダ語でラッパを調べたところルーフという音はありませんでしたが。
「伯駒」、小谷伯駒。宝暦13(1763)年〜文化11(1814)年。倉敷戎(えびす)町生まれ。天明8年25歳から寛政2年27歳まで吉雄幸作に医学を学び、帰郷後開業しはやった。
「張仲圭」、張 機(ちょう き、150年 - 219年)は、中国後漢末期の官僚・医師。張璣とも。字は仲景。荊州南陽郡涅陽県の人。張仲景として知られ、その功績から医聖と称えれている。
 幸作の像は代々引き継がれてどこかの蔵に残っているのでしょうか、見てみたい。忙しく画をしたためあちこちに遣わしています。これもふくめて、肝をつぶすほど銅版画を称賛されて、江漢さん鼻高々、気持ちよさそう。

2025年8月6日水曜日

江漢西遊日記五 その11

P11 東京国立博物館蔵

(読み)

亦 何 ヤラ魚  尓タイ\/能酢を入 又 梅 干 能肉 尓

またなにやらさかなにだいだいのすをいれまたうめぼしのにくに


ニンニクをあしらへ味噌ニて幸 作 朝 ヨリ酒

にんにくをあしらえみそにてこうさくあさよりさけ


を呑 吾 等尓進 メルさて\/困  入ル夫 よりして

をのみわれらにすすめるさてさてこまりいるそれよりして


サツマ芋 能粥(カユ)を喰フサツマ能国 能醫者 幸

さつまいもの  かゆ をくうさつまのくにのいしゃこう


作 能弟子となり居ル此 者 申  ニハ在 所 ヘ舩 中  七

さくのでしとなりおるこのものもうすにはざいしょへせんちゅうなな


十  里近 日 爰 元 を出  立 見 物 なからお出デ

じゅうりきんじつここもとをしゅったつけんぶつながらおいで


あらん歟と申  个連と竟  いか春゛此 者 サツマ

あらんかともうしけれどついにいかず このものさつま


琵琶(ヒワ)を弾 个り古風 なる物 なり夫 よりして

   びわ をひきけりこふうなるものなりそれよりして


猪能又 と云 鉄 細 工人 の処  へ参 ル細 工道 具等(トフ)

いのまたというてつざいくじんのところへまいるさいくどうぐ  とう


砥(ト)車  など皆 おらん多風 ニて日本 の鍛冶能

  と くるまなどみなおらんだふうにてにほんのかじの

(大意)

(補足)

「幸作能弟子」、吉雄幸作は通詞職のかたわら、数名の蘭館医師より直接医術の伝習をうけ、蘭方医術をみにつけ、自宅に成秀館を開塾し、多くの門弟を教え導いた。入門を請うものはひきをきらなかったという。

 前野良沢・杉田玄白らとの交流は深く、2人が携わった『解体新書』に幸作は序文を寄せている。 

 ヌタもうまそうですが、ダイダイの酢味噌に梅肉とニンニクを入れて食している魚もきっと刺し身かやはりヌタのようなものじゃないかとおもいます。これもうまそう。


 

2025年8月5日火曜日

江漢西遊日記五 その10

P10 東京国立博物館蔵

(読み)

十 日天 氣晩 七  時 比 役 所 ヨリ幸 作 を呼ヒ尓参

とおかてんきばんななつどきころやくしょよりこうさくをよびにまいる


帰 りて承    レバ紅 毛 舩 能小舟 鍋 嶌 領  地ヘ吹 流

かえりてうけたまわればこうもうせんのこぶねなべしまりょうちへふきなが


され多るを漂  流  と云 立 し故 尓表  向 となる

されたるをひょうりゅうといいたてしゆえにおもてむきとなる


昼 比ロより大 徳 寺ヘ行ク方 丈  ニ逢 十  四 日尓出

ひるごろよりだいとくじへゆくほうじょうにあいじゅうよっかにしゅっ


立 せん事 を云 酒 吸 物 を出し唐 人 書 外 ニ

たつせんことをいうさけすいものをだしとうじんしょほかに


おらん多指 輪鉄 ニて作 ルタバコ入 餞 別 尓贈 ラ

おらんだゆびわてつにてつくるたばこいれせんべつにおくら


る此 方 からも紙 の画三 枚 絹 地画一 枚 遣  ス

るこのほうからもかみのえさんまいきぬじえいちまいつかわす


平 戸屋しきより飛脚  舟 参 り十  三 日 尓出  舩

ひらどやしきよりひきゃくふねまいりじゅうさんにちにしゅっこう


と申  来 ル

ともうしきたる


十  一 日 雨 天朝 鰯(イワシ)のヌタ尓蕃菽(トウカラシ)ネギを入 シ

じゅういちにちうてんあさ  いわし のぬたに   とうがらし ねぎをいれし

(大意)

(補足)

「十日」、天明8年11月10日。西暦1788年12月7日。

「承」、このくずし字は一度見れば特徴的なので覚えられそう。

「嶌」、普通は「嶋」ですが、「嶌」や「㠀」もあっていろいろです。

「方丈」、『② 〔インドの維摩(ゆいま)居士の居室が一丈四方であったという故事から〕寺の住職の居室。また,住職の俗称。維摩の方丈』

「贈ラる」、江漢さんは人から贈られたときも贈るときも、この日記の中では「贈る」としてますが、ここでは「贈らる」と受け身になっています。

 

2025年8月4日月曜日

江漢西遊日記五 その9

P9 東京国立博物館蔵

(読み)

八 日曇  四 時 より平 戸屋しきへ参  ツイ立 ニ墨(ホク)

ようかくもりよつどきよりひらどやしきへまいりついたてに  ぼく


梅(ハイ)を認  メ其 外 画色 \/描(カキ)酒 を呑 帰 ル夫

  ばい をしたためそのほかえいろいろ  かき さけをのみかえるそれ


より大 村 町  定 之助 へ参 ルブタを煮て夜

よりおおむらちょうさだのすけへまいるぶたをにてや


喰  を出春至(イタッテ)うまし

しょくをだす  いたって うまし


九  日曇  て大 西 風 寒 し頼(タノ)れまれ多る画を

ここのかくもりておおにしかぜさむし  たの れまれたるえを


所 々 へ遣  春幸 作 をおぢ様 と云フ四 歳 位

しょしょへつかわすこうさくをおじさまというよんさいくらい


能小童 あり實 ハ妾(セ ウ)腹 能子と云 蘭 語ヲ

のこどもありじつは  しょう ばらのこというらんごを


能ク覚 へて牛  肉 をクウベイスと云 馬 をパー

よくおぼえてぎゅうにくをくうべいすといううまをぱー


ルドと云 サツマ芋 を与(ヤレ)ハレツケル\/  とて喰ひ

るどというさつまいもを  やれ ばれっけるれっけるとてくい


个り今 幸 作 跡 ハ此 童  なり。レツケルハ美味ノ事

けりいまこうさくあとはこのわらわなり れっけるはびみのこと

(大意)

(補足)

「八日」、天明8年11月8日。西暦1788年12月5日。

「四歳位能小童」、後の吉雄権之助、天明5(1785)年〜天保(1831)2年。オランダ語は非常に巧みで、英・仏語にも通じ、蘭医レッケより外科を学んだ。シーボルトとも親交があり、その門下の日本人にオランダ語を教えた。著作も多数ある。

「實ハ妾(セウ)腹能子と云」、吉雄耕牛(幸作)(享保9(1724)年〜寛政12(1800)年)の妾の子で、耕牛62歳のときの子なので幼名を六二郎とよんだ。

「クウベイス」、オランダ語kooesvlees(コウエスヴレス)を調べると牛の肉とありました。

「パールド」、paard。「レツケル」、lekker。

 歴史上の人物の普段の姿が出てきています。

 

2025年8月3日日曜日

江漢西遊日記五 その8

P8 東京国立博物館蔵

(読み)

見 物 春土間ニしてろくロ挽キ鍛冶道 具

けんぶつすどまにしてろくろひきかじどうぐ


其 餘 奇妙  なる形 チの物 数 々 あり

そのほかきみょうなるかたちのものかずかずあり


幸 作 細 工ハせ袮と好 事ニ色 \/あ川め

こうさくさいくはせねどこうずにいろいろあつめ


多る者 なり此 日田舎(イナカ)者 病  氣とて薬

たるものなりこのひ   いなか ものびょうきとてくすり


をもろふ幸 作 の云フシヤンスを\/   と云ふ

をもらうこうさくのいうしゃんすをしゃんすをという


何(ナン)能事 歟と思 ヒし尓相思(シヤンス)とて唐 音 ニ

  なん のことかとおもいしに   しゃんす とてとうおんに


て色 情  を云フ事 とぞ

てしきじょうをいうこととぞ


七 日天 氣風 立 おらん多正  月 十  五日 立 色 \/

なのかてんきかぜたつおたんだしょうがつじゅうごにちたついろいろ


調  求  多る物 荷こしらへし此 便 ニ江戸へ遣  春

しらべもとめたるものにごしらへしこのびんにえどへつかわす


べしとて頼 ム

べしとてたのむ

(大意)

(補足)

「相思(シヤンス)」、発音を調べると、シャンスーときこえます。しかし意味は色情ではなく、漢字二文字そのままでお互いに思い合うでありました。

「七日」、天明8年11月7日。西暦1788年12月4日。

 お土産をいっぱいかっているので、どう運ぶのかとおもっていたら、船便で江戸へおくるとは、送料けっこう高いはず。宅配はこの時代から当たり前のようでした。


 

2025年8月2日土曜日

江漢西遊日記五 その7

P7 東京国立博物館蔵

(読み)

ヤギ豕(ブタ)ニハ鳥 を飼(カイ)賣ルなり夫 より幸

やぎ  ぶた にわとりを  かい うるなりそれよりこう


作 方 へ返 り枕(マクラ)元(モト)へ火者゛ち二 ツ置キドンス

さくかたへかえり  まくら   もと へひば ちふたつおきどんす


縮 面 能夜具を着(キ)て彼ノおらん多二階 ニ

ちりめんのやぐを  き てかのおらんだにかいに


休 ミ个る

やすみける


六 日曇 ル寒 し朝 起キ勝 手ノ方 を見ル尓皆

むいかくもるさむしあさおきかってのほうをみるにみな


何尓毛かもおらん多風 なり夫 より二階 尓

なにもかもおらんだふうなりそれよりにかいに


登 り倚子(イス)尓よりヤギ小鳥 を焼 てボウ

のぼり   いす によりやぎことりをやきてぼう


トルを付 喰フ飯 のさ以ヤギ尓油  醤(セウ ユ)ヲ付 焼ク

とるをつけくうめしのさいやぎにあぶら  しょうゆ をつけやく


晩 甲  子祭  小豆 飯 出来ル幸 作 悴  定

ばんきのえねまつりあずきめしできるこうさくせがれさだ


之助 定 五良 参 ル亦 細 工場と云 処  あり

のすけさだごろうまいるまたさいくばというところあり

(大意)

(補足)

「六日」、天明8年11月6日。西暦1788年12月3日。

「ボウトル」、boter。オランダ語でバター。

「甲子祭」、『きのえねまつり【甲子祭り】、きのえねまち【甲子待ち】に同じ。甲子の日の前夜,子の刻(午前零時頃)まで起きていて,二股大根・黒豆などを供え,大黒天をまつる風習。江戸時代,商家で行われた。きのえね祭り』

 江漢さん、絵の修業よりも、オランダ船に乗船したり唐船をまじかでみて写生したり、ヤギや鶏、また豚も食ったり、それもバターを付けてと、こちらのほうの修行に忙しそうです。文字通り血となり肉となる修行。

 

2025年8月1日金曜日

江漢西遊日記五 その6

P6 東京国立博物館蔵

(読み)

べしと云 夫 尓決 春

べしというそれにけっす


五 日天 氣亦 \/平 戸屋しき三平 次方 へ

いつかてんきまたまたひらどやしきさへいじかたへ


参 ル酒 吸 物 を出ス亦 鶏肉(ケイニク)を喰フ皮(カワ)骨(ホネ)

まいるさけすいものをだすまた   けいにく をくう  かわ   ほね


共 尓切 タル者 なり江戸能鶏 肉 ハ皮 武き

ともにきりたるものなりえどのけいにくはかわむき


皮 至  てコハシ骨(ホネ)至  てか多し肉 も筋 多 く

かわいたってこわし  ほね いたってかたしにくもすじおおく


して剛(コワシ)爰 ニて喰ヒ多るハ魚  能煮タル如 く箸(ハシ)ニテ

して  こわし ここにてくいたるはさかなのにたるごとく  はし にて


肉 骨 を能ク離(ハナ)ル肉 至  てや王らかなり帰 リ

にくほねをよく  はな るにくいたってやわらかなりかえり


て幸 作 ニ話(ハナシ)个連ハ何ンぞ鶏 尓か王る事 なし

てこうさくに  はなし ければなんぞとりにかわることなし


酒 ニて半 時 煮多る者 と云 浦 上 ニて賣ルなり

さけにてはんときにたるものといううらがみにてうるなり


五文 銭 を出セハ羽(ケ)を引 テうる此 浦 上 ト云 処  ハ

ごもんぜにをだせば  け をひきてうるここうらがみというところは

(大意)

(補足)

「五日」、天明8年11月5日。西暦1788年12月2日。

 江戸の鶏肉の食べ方や、皮や骨が硬いこと、肉も筋が多くこれまた固いこと、興味深いはなしであります。