P23 東京国立博物館蔵
(読み)
廿 日天 氣爰 ニ来 りて初 て能 天 氣となる亦
はつかてんきここにきたりてはじめてよきてんきとなるまた
正 右衛門方 へ行ク銅 板 目鏡 取 よせ見セル
しょうえもんかたへゆくどうはんめかがみとりよせみせる
家 能者 出て見 物 春酒 吸 物 飯 を出春
いえのものでてけんぶつすさけすいものめしをだす
明日壱岐 守 使者 屋 ニてお逢ヒと申 事 也
あすいきのかみししゃおくにておあいともうすことなり
ヒシキ生(ナマ)なるハ緑 色 ニして先キの方 ハ平(ヒラミ)なり
ひじき なま なるはみどりいろにしてさきのほうは ひらみ なり
初 メて喰 春爰
はじめてしょくすここ
ハ此 国 の法 ニて
はこのくにのほうにて
大 小 を帯ヒ多る者 ニハ町 の者 下駄(タ)を
だいしょうをおびたるものにはまちのものげ た を
をぬき禮 をな春軽 キ者 も同 し夫 故 尓
をぬぎれいをなすかろきものもおなじそれゆえに
脇 差(サシ)一 本 ニて出けれと僕(トモ)一 人連レると
わき ざし いっぽんにてでけれど とも ひとりつれると
(大意)
略
(補足)
「廿日」、天明8年11月20日。西暦1788年12月17日。
「初て能天氣」、ここの「能」は、格助詞「の」のくずし字になっていません。この二行あと「家能者出て」の「能」のくずし字が格助詞「の」のくずし字(Hのようなかたち)で、このふたつは、しっかり区別されています。
「ヒシキ」、海藻のひじきのことですけど、江戸周辺の江戸湾や相模湾あたりでは普通にとれていたし、浜周辺の住民は食していたはずです。当時でもふつうに江戸では食されていたはずで、単に江漢さんが食べたことがなかっただけであろうとおもわれます。
農林水産省のHPに『文献に登場するのは江戸時代の初期、寛永15年(1638年)発行と言われる「毛吹草」(俳諧の理論や各地の名産品を紹介)の中で、すでに伊勢の国の名産品として「鹿尾菜(ひじき)」が紹介されている。
流通網が拡大するに伴って寛政年間(1789~1800年)の頃には、伊勢産のひじきは全国的に知られるようになった。伊勢ひじきの名前もこの頃、江戸でその名で売り出されたのが始まりと言われている』とありました。