P36 東京国立博物館蔵
(読み)
京 都の画師應 擧 なり鯉 二 ツ藻也 亦タ
きょうとのえしおうきょなりこいふたつもなりまた
か王せミ能飛ヒタル図なり誠 尓上 手なり裏
かわせみのとびたるずなりまことにじょうずなりうら
ハ曲 水 蘭 亭 の圖之(コレ)ハ描(カキ)手別 なり風 土
はきょくすいらんていのず これ は かき てべつなりふうど
放 言 長 崎 と同 し水 仙 蘭 石 解 風 蘭
ほうげんながさきとおなじすいせんらんせっこくふうらん
自 ラ野ニ生 春゛人 能声 ヲあけ亦 ハ声高(コハタカ)尓
みずからのにしょうず ひとのこえをあげまたは こわだか に
笑(ハラフ)事 をウラブと云フ
わらう ことをうらぶという
廿 九日 天 氣此 日晩 方 より表 具細 工能
にじゅうくにちてんきこのひばんがたよりひょうぐざいくの
者 能方 へ行ク酒 肴 を出し何 カナ饗應(キヨウゝ)
もののかたへゆくしゅこうをだしなにかな きょうおう
せんとて自分 能妹(イモト)を杓(シヤク)取 ニ出し个り其
せんとてじぶんの いもと を しゃく とりにだしけりその
衣服 黒 キ木綿 能色 入り尓模様(モヨウ)を染 出シ
いふくくろきもめんのいろいりに もよう をそめだし
(大意)
略
(補足)
「應擧」、ご存知円山応挙。享保18(1733)年〜寛政7(1795)年。
江漢「春波桜筆記」新画法と京都江戸、の項に次のようにあります。
『京都に円山応挙という画人がいる。生まれは丹波篠山の人である。京に出て一風を開いた。唐画でもなく和風でもなく、自分の工夫で新意を出したので、京都じゅうで妙手と讃えられ、誰もかもみなその真似をしてたいへん流行したものであった。いまになってはそれももう見あきて、すたれてしまった。』
「曲水」、『きょくすい【曲水】
① 庭園または林,山麓(さんろく)をまがりくねって流れる水。ごくすい。』
「水仙蘭石解風蘭」、水仙、闌、石斛(せっこく せき― 【石斛】ラン科の常緑多年草。山中の樹木や岩上に生え,また観賞用に栽培。茎は高さ20センチメートル)、風闌。
「廿九日」、天明8年11月29日。西暦1788年12月26日。
「春波桜筆記」には応挙のことを上記のように記していますが、ここでは「誠尓上手なり」と、彼にしては最上の褒め言葉をもらしています。すばらしい画だったのでしょう。