2025年5月31日土曜日

江漢西遊日記四 その13

P18 東京国立博物館蔵

(読み)

毛多てづ

もたてず


二 日曇  六 時 尓山 中 を出  立 して河 を渡 り

ふつかくもりむつどきにやまなかをしゅったつしてかわをわたり


峠  あり小坂 ありニ里半 行 て舟 木ニ至 ル

とうげありこさかありにりはんゆきてふなきにいたる


爰 ハ能 所  ニて商  人 軒 を並 べ大 名  お泊 り

ここはよきところにてしょうにんのきをならべだいみょうおとまり


ある処  本 陳 アリ此 邊  石 炭 を焚く故

あるところほんじんありこのあたりせきたんをたくゆえ


尓往 来 自然 と煙(ケムリ)仍(ヨツ)て息(クサシ)此 節 十  月

におうらいしぜんと  けむり   よっ て  くさし このせつじゅうがつ


霜(シモ)枯(カレ)時分 なれハ往 来 能人 一 向 尓なし

  しも   かれ じぶんなればおうらいのひといっこうになし


一 日 尓向 フから来ル者 二三 人 皆 六 部能類(ルイ)

いちにちにむこうからくるものにさんにんみなろくぶの  るい


なり一 人大 どてらを着(キ)おそろしき顔 色

なりひとりおおどてらを  き おそろしきかおいろ


能者 あとへなり亦 先 へ行キ路 連れ尓ならん

のものあとへなりまたさきへゆきみちづれにならん

(大意)

(補足)

「二日」、天明8年10月2日。西暦1788年10月30日。

「本陳」、本陣。「息」、臭。

「煙(ケムリ)仍(ヨツ)て息(クサシ)」、大変に安くて便利だったらしいのですが、匂いと煙がひどくて、いくらか貧しい農民が使用していたらしい。『西遊旅譚二』には石炭に「イシスミ」とフリガナがありました。

「山中」、「舟木」、山中は地名でした。地図では舩木村となってます。

「六部」、『ろくじゅうろくぶ ろくじふろく【六十六部】の略。

法華経を六六部書き写し,日本全国六六か国の国々の霊場に一部ずつ奉納してまわった僧。鎌倉時代から流行。江戸時代には,諸国の寺社に参詣(さんけい)する巡礼または遊行(ゆぎよう)の聖。白衣に手甲・脚絆(きやはん)・草鞋(わらじ)がけ,背に阿弥陀像を納めた長方形の龕(がん)を負い,六部笠をかぶった姿で諸国をまわった。また,巡礼姿で米銭を請い歩いた一種の乞食』。

 

2025年5月30日金曜日

江漢西遊日記四 その12

P17 東京国立博物館蔵

(読み)

脇差(ワキサシ)を二本 さして一(イ)ツ保゜んミじかゐとて

   わきざし をにほんさして  い っぽ んみじかいとて


笑 ヒけり此 節 稲 の出来秋 百  性  いそ

わらいけりこのせついねのできあきひゃくしょういそ


可゛し爰 を出て程 なく戸石 と云 処  へ出ツ

が しここをでてほどなくといしというところへいず


往 来 なり夫 より徳 山 なり之 まで四

おうらいなりそれよりとくやまなりこれまでし


里の路 なり夫 より福 川 冨(トノ)ミへ二里宮 市 へ二里

りのみちなりそれよりふくかわ  との みへにりみやいちへにり


此 間  舟 渡 しありおかう里四里あり山中(ヤマナカ)ヘニ

このあいだふなわたしありおごうりしりあり   やまなか へに


里半 此 間  長 門能城  下萩(ハキ)へ行 路 アリ此

りはんこのあいだながとのじょうか  はぎ へゆくみちありこの


山中(ヤマナカ)尓泊 ル爰 ハ一向(コウ)尓旅 人 宿 なし宿  内 一 町

   やまなか にとまるここはいっ こう にたびびとやどなししゅくないいっちょう

者かり

ばかり


あり此 日短 日 尓十  四 里程歩(アルキ)多りハタコ料  理ハ

ありこのひたんじつにじゅうよんりほど あるき たりはたごりょうりは


シン菊 能ひ多し物 能ミ薪(タキキ)高 シとて風呂(フロ)

しんぎくのひたしもののみ  たきぎ たかしとて   ふろ


毛多てづ

もたてず

(大意)

(補足)

「一(イ)ツ保゜ん」、ここでも半濁点「゜」の◯がはっきりです。

「出来秋」、『できあき。秋の,稲の実る頃』。知らない単語でした。

「百性」、は百姓。

「戸石」「徳山」「福川」「富海(とのみ)」「宮市」「小郡」「長門」「萩」など村や街の名前が続きます。古地図でもいくつかの村が確認できます。 

「此日短日尓十四里程歩(アルキ)多り」、なんとナント56kmです!日本橋から平塚宿の手前辺りまで、短日ですから丸一日かからないで、歩いていることになります、いやいや健脚で健康。

 疲れ果てているだろうに、おかずは「シン菊能ひ多し物能ミ」(シンギクは春菊)とは、それに風呂にも入れず。不平をいうのもわかります。

 

2025年5月29日木曜日

江漢西遊日記四 その11

 

P16 東京国立博物館蔵

(読み)

又磯(イソ)邊大 石 アリ夫 より塩 濱 ヘ出て向

また いそ べおおいしありそれよりしおはまへでてむかう


尓寺 能如 き処  見ユ漁  夫尓問ヒ个連ハ戸

にてらのごときところみゆりょうふにといければと


永 と云フ処  磯 邊際(キワ)右衛門と云フ者 能宅(タク)

ながというところいそべ  きわ えもんというものの  たく


なりと是 ハ殿 様 お入りのある家 と云 爰 ハ毛

なりとこれはとのさまおいりのあるいえというここはもう


利家ノ分 地徳(トク)山 能領  地なり爰 より

りけのぶんち  とく やまのりょうちなりここより


山 能腰しを廻 りて人 家一 村 ニ入 爰 ニて昼(チユウ)

やまのこしをめぐりてじんかいっそんにいりここにて  ちゅう


食(ジキ)せんとて百  姓  の家 ニ入 我 等ハ徳 山 へ

  じき せんとてひゃくしょうのいえにいりわれらはとくやまへ


通 ル者 なり茶 を一 者゜いもらゐ多しと云ヘバ

とおるものなりちゃをいっぱ いもらいたしといえば


床(ヱン)尓ゴザなとしきて茶 を出し希里傍(カタハ)ラ

  えん にござなどしきてちゃをだしけり  かたわ ら


ニ六ツ七 ツ能小童(コトモ)吾 を見て云フ様 あ能人 ハ

にむつななつの   こども われをみていうさまあのひとは

(大意)

(補足)

「殿様お入りの」、「出入」かとおもったら「お入」のようです。

「徳山」、

「一者゜い」、濁点「゛」、半濁点「゜」の区別は意外と曖昧で、半濁点の音でも濁点を使って表記してあることが多いのですけど、ここははっきりとした◯です。

 

2025年5月28日水曜日

江漢西遊日記四 その10

P15 東京国立博物館蔵

(読み)

入 个る尓一 袮入 して目覚(サメ)聞ク尓人 声 能して

いりけるにひとねいりしてめ  ざめ きくにひとごえのして


外 を通 リける芝 居春ミ見 物 能者 ノかえ

そとをとおりけるしばいすみけんぶつのもののかえ


るなり程 なく鳥 能声 烏(カラス)津げ渡 リて

るなりほどなくとりのこえ  からす つげわたりて


夜も明 て着(キ)多る物 を見ル尓誠  尓戸板 能

よもあけて  き たるものをみるにまことにといたの


様 尓厚 くさし糊(ノリ)を剛(コハク)付くる蒲(フ)とん

ようにあつくさし  のり を  こわく つくる  ふ とん


なり彼 目くされ女  と老 婆手鼻 をかミ\/

なりかのめぐされおんなとろうばてばなをかみかみ


こしらへ喰  事を出し个り

こしらえしょくじをだしけり


廿   九日 天 氣朝 六 時 尓爰 を出て一 二町

にじゅうくにちてんきあさむつどきにここをでていちにちょう


行 と河 アリ舟 なし渡 ル水 誠  尓津め多し

ゆくとかわありふねなしわたるみずまことにつめたし


半 里行 て濱 邊尓出て松 原 を通 り越シ

はんりゆきてはまべにでてまつばらをとおりこし

(大意)

(補足)

「一袮入して」、変体仮名「袮」(ね)はよく出てきます。

「彼目くされ女と老婆手鼻をかミ\/」、ラーメンに指を突っ込んで、よぼよぼ運んでくる婆さんと同じようなことでしょうけど、江漢さんはちっとも冗談のつもりで言ってないとおもいます。それにしてもなんともおかしく笑えます。

「廿九日」、天明8年9月29日。西暦1788年10月28日。

「水誠尓津め多し」、「水」のくずし字はなんともとらえどころのない形。しかし特徴的なので覚えやすい。変体仮名「津」(つ)は変体仮名「保」(ほ)とにています。3行目「津げ渡リて」にもあります。

 

2025年5月27日火曜日

江漢西遊日記四 その9

P14 東京国立博物館蔵

(読み)

揚 代 ハ十  七 匁 なりとぞ大 笑  してやめぬ

あげだいはじゅうななもんなりとぞおおわらいしてやめぬ


夫 より芝 居を見ンとて行 个る尓畠(ハタケ)中 へ菰(コモ)

それよりしばいをみんとてゆきけるに  はたけ なかへ  こも


張リして夜 芝 居の人 形  なり人僅(ハツカ)尓見

はりしてよるしばいのにんぎょうなりひと わずか にけん


物 春至  て寒(サム)し芝 居能内 尓に うめんを

ぶつすいたって  さむ ししばいのうちににゅうめんを


賣ル先ツ之(コレ)ヲ喰ヒ芝 居を出て右 ノ方 ニ行ケ

うるまず  これ をくいしばいをでてみぎのほうにゆけ


ハ明 家を俄  尓竹 を打 付 てコウシとして

ばあきやをにわかにたけをうちつけてこうしとして


遊 女 四五人 並 フ何 レも赤 キ装  束 なりき

ゆうじょしごにんならぶいずれもあかきしょうぞくなりき


コー(ウ)シ能側(ソハ)へ寄(ヨリ)見ル者 ナシ大 道 能真中(マンナカ)

こ  う しの  そば へ  より みるものなしおおみちの   まんなか


尓立チ吾 ハコウシニよりて見 物 してキタナキ宿

にたちわれはこうしによりてけんぶつしてきたなきやど


へかえりぬ夫 より又 酒 を呑 酔(ヨツタ)まき連尓寝(ネ)

へかえりぬそれよりまたさけをのみ  よった まぎれに  ね

(大意)

(補足)

 江漢さんの会話文はかまえることなく、普段のままのような感じで、とても味があります。きっとこのままの会話がされていたのではと二百数十年前に気持ちはとんでしまいます。

 また、江漢さん、遊女の取材というか様子も事細かく描写していて、当時の風俗がわかってこれまた貴重な資料となります。

 五街道の宿場には必ず揚屋はあって、またその枝路や山間の村にも遊女がいたのが江漢さんのこの日記からだけではなく、そのころの旅日記などを読むとでてきて驚かされる一方、そのような労働でしか日銭を稼げなかった貧しさがありました。

 

2025年5月26日月曜日

江漢西遊日記四 その8

P13 東京国立博物館蔵

P12

(読み)

市(イチ)町(マチ)とて芝 居もアリ遊 女 なども来 リ居(イル)

  いち   まち とてしばいもありゆうじょなどもきたり  いる


と云 さて家 ニ鼻 で者う様 なる老婆(ロウバ)

というさていえにはなではうようなる   ろうば


目能た々れ多る女  二 人居て喰  事をコシラヱ

めのただれたるおんなふたりいてしょくじをこしらえ


燈火(トモシヒ)くらく(クラク)一 向 尓喰(クヱ)春゛夫 故 此 様 なる時

   ともしび     くらく いっこうに  くえ ず それゆえこのようなるとき


ハ酒 を呑ミ心  を転 シ亦 夜具(ク)あるや定 メて

はさけをのみこころをてんじまたや  ぐ あるやさだめて


キタナからんと思 ヒしうち尓向 フを紫(ムラサキ)の色

きたなからんとおもいしうちにむこうを  むらさき のいろ


能さ免切ツ多る衣服 着(キ)て女  能通 リ个る故

のさめきったるいふく  き ておんなのとおりけるゆえ


あれハ何ンシヤと老 婆ニ聞キし尓あれハ遊女(シヨ ロ)

あれはなんじゃとろうばにききしにあれは   じょろう


なりと云 さらバ遊 女 屋ヘ行(ユキ)て遊 ふべし何(イツク)尓有(アリ)

なりというさらばゆうじょやへ  ゆき てあそぶべし  いずく に  あり


やと問ふ尓遊 女 屋ハなし爰 へおよびヤレ

やととうにゆうじょやはなしここへおよびやれ

P12

田夫の家 ニて

たふのいえにて


石 炭 をたく

せきたんをたく


保能う出て

ほのおでて


燃 ル

もゆる


亦 一 ぺん炭 ニ

またいっぺんすみに


燃 多るハ保のふ

もえたるはほのお


出て春゛

いでず

(大意)

(補足)

「鼻で者う様なる老婆」とは、これまたあまり耳に目にしない表現。そしてもう一人は「目能た々れ多る女」ときては、「燈火(トモシヒ)くらく」て食事がすすまないと灯りを理由にしてますが、こんな二人じゃ食えるものも食えないなと言っているようなものです。

 P12は「石炭をたく」のがめずらしかったためでしょうか、画にしています。ここ嶋田村より西へしばらくゆけば、日本有数の宇部炭鉱があります。

「保能う」「保のふ」、変体仮名「保」(ほ)はしばらく出てきてませんでした。

 炉端の老女、つぎのある衣服ですけど火付けの様子は暖かそう。炉端には薪や枝ではなく、石の塊のような石炭があります。

 

2025年5月25日日曜日

江漢西遊日記四 その7

P10 東京国立博物館蔵

P11

(読み)

古ろより續(ツゝヒ)て今 ニありとぞ江能浦 と云 処

ころより  つづい ていまにありとぞえのうらというところ


尓元 信 能筆 拾 松 アリ爰 ヨリ坪 生村 アリ

にもとのぶのふですてまつありここよりつぼおむらあり


赤 松 村 アリ嶋 田村 まて二里能路 なり爰

あかまつむらありしまだむらまでにりのみちなりここ


ニ泊 ル往 来 ニ非 ざれハ旅 人 宿 なし庄  屋

にとまるおうらいにあらざればたびびとやどなししょうや


より差 づにして宿 を取ル此 所  町 ニテ埒(ラチ)もな

よりさしずにしてやどをとるこのところまちにて  らち もな


きキタナキ農夫(ノウフ)三(サン)ジヨウしき程 能所 ロ

ききたなき   のうふ   さん じょうじきほどのところ


内 ニ俵  ヤラコモヤラ物 置 能様 なる処  故 ニ先ツ

うちにたわらやらこもやらものおきのようなるところゆえにまず


掃除(ソウジ)せんとて吾(ワレ)ハ杖(ツヱ)を持 てタゝミを打(ウ)ち

   そうじ せんとて  われ は  つえ をもちてたたみを  う ち


多々きボク弁 喜ハ笠(カサ)ニてあお里微塵 の

たたきぼくべんきは  かさ にてあおりみじんの


こみを出して漸(ヨウヤク)坐し希り此 節 此 所  尓ハ

ごみをだして  ようやく ざしけりこのせつこのところには

P11

嶋 田村 ニ

しまだむらに


泊  タル

とまりたる


(大意)

(補足)

「古ろより」、変体仮名「古」(こ)は意外と盲点、「こ」よりもこちらのほうがよく使われます。

「元信能筆拾松」、絶景の景勝地にこのように呼ばれる松があちこちにあるようです。元信は狩野元信のこと。

「室積村」から「嶋田村」への古地図、「坪生村」と「赤松村」は確認できません。


 P11の画。三畳敷の「俵ヤラコモヤラ物置能様なる」様子を隙間なく細かく描いています。江漢さんはとにかく老婆をやさしく暖かい筆致で描くのが上手い。とても絵筆を出すのを面倒がる人とはおもえません。

 老婆は右手人差し指を指差し、江漢は左手を同じようにして(江漢はどうやら左利きのようです)、対話の雰囲気を醸し出しているところなどなかなかであります。うしろにいるのはボクの弁喜でしょう。右奥には何やら鍋を持ち、料理しているもうひとりの老婆がいます。むさっ苦しい小屋のような中でもどこかほのぼのとする画であります。

 

2025年5月24日土曜日

江漢西遊日記四 その6

P6 東京国立博物館蔵

P8P9

(読み)

山 路 ニ入 かや生  して木少(スクナ)し峠(トヲケ)ニ至 リて

やまみちにいりかやしょうじてき  すくな し  とおげ にいたりて


室 積 と(ト)云フ処  を一 目尓見おろ春甚  タお

むろづみと   いうところをひとめにみおろすはなはだお


毛しろき所  なり爰 ハ長  州  防 州  能堺  ナリ

もしろきところなりここはちょうしゅうぼうしゅうのさかいなり


岩 国 領  柳 井津より五里能路 なり爰 ヨリ

いわくにりょうやないつよりごりのみちなりここより


案 内 能人足(ニンソク)をかえ春山 を下リて人 家アリ

あんないの   にんそく をかえすやまをおりてじんかあり


昼  喰 せんとて柿(カキ)など賣ル家 ニより茶 を乞(コフ)

ちゅうじきせんとて  かき などうるいえによりちゃを  こう


て喰  事春此 所  邊 土故 尓喰  店 なしさて

てしょくじすこのところへんどゆえにしょくてんなしさて


爰 ハ家 千 余軒 あり昔 シ聖  空 上  人 と云

ここはいえせんよけんありむかししょうくうしょうにんという


出  家能墓(ハカ)あり舩 かゝ里能処  故 尓遊 女 あり

しゅっけの  はか ありふながかりのところゆえにゆうじょあり


遊 女 家(ヤ)尓大 黒 屋ゑび春や能二軒 ハ其

ゆうじょ  や にだいこくやえびすやのにけんはその

P8P9

室 積 の圖

むろづみのず


豊 後山

ぶんごやま


象 の鼻 山

ぞうのはなやま


普賢 山

ふげんやま


性  空 上  人 碑

しょうくうしょうにんひ

P9

海 蔵 寺

かいぞうじ


元 信 筆 捨 松

もとのぶふですてまつ


江ノ浦

えのうら


柴 カヤ

しばかや


国 木山

くにきやま

(大意)

(補足)

「室積」の古地図。普賢寺や海蔵寺が確かめられます。 

 古地図は1738年ですので、それからちょうど50年後が「室積の圖」となって、ほとんどかわっていません。「爰ハ家千余軒」とありますが、当時は近隣では大きな街であったようです。

 

2025年5月23日金曜日

江漢西遊日記四 その5

P5 東京国立博物館蔵

(読み)

めんどふ故 只 能筆 ニて認  メ遣  ス五  時 尓出

めんどうゆえただのふでにてしたためつかわすいつつどきにしゅっ


立 春此 国 能風 とて先ツ飯 前 ニむ春びを

たつすこのくにのふうとてまずめしまえにむすびを


出し茶 を出春夫 より膳 を出しけりさて

だしちゃをだすそれよりぜんをだしけりさて


二 人能者 先 ヘ立 町 者川れ橋 ある所  まで

ふたりのものさきへたちまちはずれはしあるところまで


送(ヲク)ル所  能者 是 ハ何ン人 なるやと見物(フツ)春案

  おく るところのものこれはなんびとなるやとけん ぶつ すあん


内 者 一 人荷物 を持 せる此 所  ハ麻布(アサヌノ)ヲ晒 ス所

ないものひとりにもつをもたせるこのところは   あさぬも をさらすところ


なり夫 より一 里半 来 リて多武瀬村 アリ

なりそれよりいちりはんきたりてたぶせむらあり


染 物 屋多 し之(コレ)より岩 国 領  尓非 ス亦 羽の

そめものやおおし  これ よりいわくにりょうにあらずまたうの


市 と云 村 を過キ爰 ニて休 ムヱソと云 魚  アリスバ

いちというむらをすぎここにてやすむえそというさかなありすば


シリ尓似て少 シ長 シさて夫 ヨリ国 木山 と云フ

しりににてすこしながしさてそれよりくにきやまという

(大意)

(補足)

「多武瀬村」、田布施村。現在の地図です。 

「羽の市(鵜の市?)」「国木山」ともに地図では見つかりませんでした。

 画を描く専用の筆を荷物から取り出すのが面倒とは!ずいぶんお世話になっているだろうに。

 

2025年5月22日木曜日

江漢西遊日記四 その4

P4 東京国立博物館蔵

(読み)

てい主 役 人 両  人 者かまを者き挨 拶 ヲ春

ていしゅやくにんりょうにんはかまをはきあいさつをす


我 等申  ニハ岩 国 滞 畄  中  毎 \/お料  理ニ肴

われらもうすにはいわくにたいりゅうちゅうまいまいおりょうりにさかな


ありて殊 ノ外 あき者て難ン義い多し申

ありてことのほかあきはてなんぎいたしもうす


夫 故 喰  事ニハ決(ケツ)して魚 類 無用 なりと

それゆえしょくじには  けっ してぎょるいむようなりと


断  リ申  故皿(ヒラ)尓玉 子を湯出(ユテ)多るをあし

ことわりもうすゆえ ひら にたまごを   ゆで たるをあし


ろふ能ミ其 夜ハ心  持 能ク寝(イネ)けり

ろうのみそのよはこころもちよく  いね けり


廿   八 日 天 氣よし今日 も両  人 能者 出て

にじゅうはちにちてんきよしきょうもりょうにんのものでて


てゐ袮以尓尊敬(ソンキヨウ)春故 尓画を認  メ可申   と云 け

ていねいに   そんきょう すゆえにえをしたためもうすべしといいけ


連ハ夫 ハありか多き事 なりとて唐 紙 持 来

ればそれはありがたきことなりとてからかみもちきた


里希れハ画かく筆 ハ荷物 能内 ニあり出(タス)毛

りければえかくふではにもつのうちにあり  だす も

(大意)

(補足)

「毎」のくずし字は、上部の「ノ一」の「一」がほとんどなくなってしまうような形。

「断」のくずし字。部首は斤部(おのづくり)でその左側の部分「L」+「米」のくずし字は「己」のようになって、とても特徴的です。

「寝(イネ)」、『い・ぬ 【寝ぬ】(動ナ下二)〔名詞「寝(い)」と動詞「寝(ぬ)」の複合した語〕寝る。眠る。「旅衣八つ着襲ねて―・ぬれども」〈万葉集•4351〉』

「廿八日」、天明8年9月28日。西暦1788年10月27日。

 ここでの会話も、いつもながら映像で見るように活写されていて、味わい深い。

江漢さん、魚は喰い飽きたから絶対に出さないでくれと、強い調子で断りをいれています。まぁ正直というかわがままというか、もてなすほうにとっては助かるかもしれませんけど。ゆで卵がおもてなしごちそう料理。なんか愉快♪

 しかしながら、江漢さん満足したようで夜はぐっすり寝ることができました。

 

2025年5月21日水曜日

江漢西遊日記四 その3

P3 東京国立博物館蔵

(読み)

火を焚(タ)き其 魚  を買ヒ取リ煮(ニ)テ昼 喰 能替(カワリ)

ひを  た きそのさかなをかいとり  に てひるめしの  かわり


尓喰ヒ个り夫 より其 村 を過 て柳 井津と云フ

にくいけりそれよりそのむらをすぎてやないつという


所  尓至 ル尓爰 ハ能 所  ニて瓦  屋あり爰 ニ久保

ところにいたるにここはよきところにてかわらやありここにくぼ


利右衛門と云 者 ノ方 ヘ内 坂 より能手紙 あり

りえもんというもののかたへうちさかよりのてがみあり


此 者 此 所  能役 人 と見へ多り我 等を坐しき

このものこのところのやくにんとみえたりわれらをざしき


へ通 シ先 暫   おひ可へ玉 へと云 うち絹衣(ケンフ)能

へとおしまずしばらくおひかえたまえといううち   けんふ の


夜具を出し希連ハ爰 ニて宿 を春る可と思

やぐをだしければここにてやどをするかとおも


ヘハさ尓ハ非 ス亭 主 案 内 して二町  程 行 て

へばさにはあらずていしゅあんないしてにちょうほどゆきて


大 さうなる大 家へ参 リ是(コレ)へお宿 申  付 おん

たいそうなるおおやへまいり  これ へおやどもうしつけおん


入  とある上  段 能間金 屏  風ニてかこゐて

はいりとあるじょうだんのまきんびょうぶにてかこいて

(大意)

(補足)

 しばらく、日付がありませんがこの部分の日記は天明8年9月27日(1788年10月26日)。

「爰ハ能所ニて」、ここの「能」のくずし字は、他の部分の変体仮名「能」(の)とはことなっていて使い分けているようです。

 魚屋でアカエイの切り身を買って、そのままそこのヘッツイを借りて煮魚(当然調味料もその店で借りているはず)にして、昼飯代わりにしてしまうとは、旅の醍醐味、愉快です。

 

2025年5月20日火曜日

江漢西遊日記四 その2

P2 東京国立博物館蔵

P7大畠能瀬戸

(読み)

砂 路ニして歩  か多し葦(ヨシ)能一 丈  余  なる者

すなじにしてあゆみがたし  よし のいちじょうあまりなるもの


枝 ありて太 シ之 ハ濱 よしと云 物 可一 方 ニハ

えだありてふとしこれははまよしというものかいっぽうには


一 面 尓生(ハヱ)てあり一 向 人 能往 来 なき所

いちめんに  はえ てありいっこうひとのおうらいなきところ


故 尓我 等を見て何(イツ)く能人 と問(トフ)夫 より山

ゆえにわれらをみて  いず くのひとと  とう それよりやま


尓登 リ見(ミル)尓嶋 能間  僅(ワツカ)尓して潮ヲ瀧(タキ)能如 ク

にのぼり  みる にしまのあいだ  わずか にしてしお  たき のごとく


急流(キ ウリ ウ)なり岩 石 数 \/出て舩 其 間(アイ)タ

   きゅうりゅう なりがんせきかずかずでてふねその  あい だ


を乗(ノル)事 也 爰 を大 畠  の瀬戸と云 爰 ヲ

を  のる ことなりここをおおばたけのせとというここを


過 しハ大 畠  村 尓入 ル空腹(フク)ニなり个連ど喰

すぎしはおおばたけむらにはいるくう ふく になりけれどしょく


店(テン)なし爰 ニ肴  屋ありて赤えゐと云 魚  の

  てん なしここにさかなやありてあかえというさかなの


切 可けあり傍 尓土(ト)竃(ヘ ヅイ)あり个連ハ吾カボク

きりかけありわきに  ど   へっつい ありければわがぼく

P7

大 畠  能瀬戸

おおばたけのせと


潮 ノミチニ乗ル

しおのみちにのる


舩 走 ル事 如矢

ふねはしることやのごとし

(大意)

(補足)

「丈」、『① 尺貫法の長さの単位。一〇尺。1891年(明治24)100メートルを三三丈と定めた』。約3.3mなので、かなり背の高い葦です。

説明文の画がP7です。

江漢さんの筆致は柔らかく丸いので、「潮ヲ瀧(タキ)能如ク急流(キウリウ)」でも、どこかのどかなのんびりした様子になってしまいます。

 しかし「西遊旅譚巻二」の同じ「大畠の瀬戸」では、いくらか荒々しい急流として描かれています。 

 川下りの急流では長い竿を船頭は使います。ここでもそのように操船しているようですけど、こちらは海、それほど深いところではなかったのでしょうか?

 調べてみると『柳井市大畠地区と屋代島の間の大畠瀬戸は、昔から海上交通の要衝として知られ、干潮の急流で発生する渦潮は、日本3大潮流にも数えられています。最狭部約700m、最大潮流約9ノット、水深約20mで、その渦潮は万葉集にも詠われており、全長1020mの大島大橋の橋上からは迫力のある渦潮を眼下に望むことができます』とあって、長い竹竿は岩石にぶつからないように使ったのでしょう。

「土(ト)竃(ヘ ヅイ)」、土でつくった竈(かまど)。

 

2025年5月19日月曜日

江漢西遊日記四 その1

 

P1 東京国立博物館蔵

(読み)

跡 の嶋 ハあら王れ申  と云フ夫 より由(ヨシ)と云 処

あとのしまはあらわれもうすというそれより  よし というところ


尓至 ル全 躰 此 路 ハ往 来 尓てハなし濱

にいたるぜんたいこのみちはおうらいにてはなしはま


邊通 リ尓て岩 国 能領  分 柳井津と云

べとおりにていわくにのりょうぶんやいづという


処  を見せんとて此 路 をおしへ示しとそ

ところをみせんとてこのみちをおしえせしとぞ


七 八 里能廻(マワリ)路 なり爰 より右 ハ山 ニて

しちはちりの  まわり みちなりここよりみぎはやまにて


左  ハ海 なり漁  人尓聞く尓前 嶋 ハ一 里アリ

ひだりはうみなりりょうしにきくにまえしまはいちりあり


大 嶋 ハ十  里其 余 小嶋 尓小馬 嶋 小ヲゝ

おおしまはじゅうりそのほかこじまにこうまじまこおお


ケ嶋 小黒 嶋 小新 五郎 嶋 其 数 二百

がしまこくろしまこしんごろうしまそのかずにひゃく


毛アルよし磯 邊岩 石 多 し飛 越し

もあるよしいそべがんせきおおしとびこし


\/  往 事 也 人 家なく一 向 ニ休 ミ処  ナシ

とびこしゆくことなりじんかなくいっこうにやすみどころなし

(大意)

(補足)

「由(ヨシ)と云処」、岩国から下って「由」という漢字がつく村はここ「由宇村」しかありません。

「柳井津」、柳井津町(やないつちょう)は、山口県玖珂郡にあった町。現在の柳井市の中心部、山陽本線・柳井駅の周辺にあたる。 やないつちょう 柳井津町. 廃止日, 1905年1月1日.

 現在の地図。 

 古地図。 


 大畠はこの地図の右側にあります。

上の地図で確かめるとなるほど「七八里能廻(マワリ)り路」であります。

島が「其数二百毛アルよし」とありますけど、ウ~ン🤔

 

2025年5月18日日曜日

JAPANESE STORY-TELLERS その28

奥付・広告 個人蔵

裏表紙

(読み)

(大意)

(補足)

『BOOKS ON CRÊPE PAPER』とあって、すでに出版したちりめん本広告の見開き2ページとなっています。

 裏表紙は他のちりめん本では絵があって楽しかったのですが、このちりめん本では無地でした。残念。

 さて、次回より『江漢西遊日記』巻四から再開します。

 

2025年5月17日土曜日

JAPANESE STORY-TELLERS その27

P25 個人蔵

(読み)

なし

(大意)

なし

(補足)

 寄席囃子(よせばやし)とか出囃子(でばやし)とよばれている、太鼓や三味線などで賑やかに奏でる。ここでは大太鼓と三味線。現在でもまったく同様にしています。

 子どもが踊りでも披露するのでしょうか、左手に桃色の扇を広げて高座に上がるところのよう♪振り袖に橙色の濃淡がきれい、裾は明るい桜色。

 三者がとても丁寧に描かれているのが印象的であります。

 板戸のような引き戸があって、これどうなってるのでしょう?

 

2025年5月16日金曜日

JAPANESE STORY-TELLERS その26

P24 個人蔵

(読み)

The room shook with thunders of ap-

plause, when he left the platform. I was

touched and gratifed at the same time,

for it almost seemed as though the ova-

tion, coming from Asiatics, was partly

meant for me, since I, too, was European.

I hastily left the room anxious to intro-

duce myself and congratulate my friend

with all my heart, bUt he had already

gone, to avoid the triumphant reception

awaiting him in the street. Leaping into

a jinrickisha, I drove to his hotel, having

fortunately procured his address. Alas!

I arrived about as opportunely as Offen-

bach's carbineers: the bird had flown.

He had gone by the midnight - train to

fulfil an engagement in an important town

in the South.

Osman Edwards.

Tokyo.

(大意)

 彼が壇上を去ったとき会場はわれんばかりの拍手喝采で揺れた。わたしは感動し同時に感謝した。その拍手喝采は彼と同じヨーロッパ人のわたしにとって、アジア人から認められているようにおもわれ、意味のあるものだったからである。

 わたしはいそいで寄席を出て、彼に自己紹介をして、誠心誠意今夜の公演の素晴らしさを讃えようとしたが、かれはすでに去ってしまっていた。街なかで彼の出を待っている聴衆を避けるためだろう。

 人力車に飛び乗り、彼のホテルへととばした。幸いにも住所は入手してあった。あぁっ、わたしはオッフェンバックのカービン銃隊のように折よく到着した。

 が、鳥は飛び去ってしまっていた。彼は南部の大きな街での興行のために真夜中の列車に乗って行ってしまったのであった。

  オスマン・エドワーズ、

東京にて。

(補足)

「オッフェンバックのカービン銃隊」、オッフェンバックのいずれかの喜歌劇の中の出てくる場面のひとつをたとえているのでしょうけど、不明であります。

 快楽亭ブラックは結局つかまえることはできずに、神戸で高座を見るにとどまってしまいました。

 現在、ブラックに関する本も何冊か出版され、またネットでもいろいろ確かめることができます。写真もありました。

 この当時、日本語を習得し、プロとして高座にあがる英国人がいて、人気があったということは、とてもとても興味深いことです。

 

2025年5月15日木曜日

JAPANESE STORY-TELLERS その25

P23 個人蔵

(読み)

denser, and more than one was talking

loudly of the celebrated, foreign hanashika,

At last, then, I had caught him! I

entered and had the good fortune to hear

him for the first time.

I was astounded.

(大意)

さらに大声でその著名な外国の噺家のことをはなしていた。

 そしてついに、わたしはかれをつかまえた!

中に入り、幸運にもはじめてかれの噺しを聞くことができた。

 驚愕した。

(補足)

 地味なテーブル掛けを自然な感じでなじむように描いているところがうまいですね。急須と湯呑、当時は必ず脇に置かれるものだったようです。

 堂々たる講釈ぶりで、見栄えがします。実際にこのようにして、また先に紹介した『落語家_懐かしき人たち』の中にあるブラック氏の語り口そのままの文章に、この姿を重ねるとちょっと感動します。

 

2025年5月14日水曜日

JAPANESE STORY-TELLERS その24

P22 個人蔵

(読み)

hot springs, situated in a mountain - district

at a height of 2,500 feet.  The hotel-

servant showed me a room, saying " This

room, Sir, has just been occupied by a

fellow - country man of yours,"(to most

Japanese all foreigners are English,) " the

 celebrated hanashika, Mr. B..." " And

where is he ? I cried wildly. " He

went away, Sir, yesterday." In could not

ascertain in what direction. Some months

afterwards I happened to be at Kobe, a

large town about 376 miles from the

capital. After dinner I was strolling through

the picturesque and crowded streets of that

liveley port, when suddenly, passing before

a yosè, I caught sight of the portrait of

my evasive friend, conspicuous among

many others on the enormous poster.

He was to recite that evening. Every

minute the crowd at the door grew

(大意)

 ホテルの従業員が部屋を見せて言うには、「お客様、この部屋はあなたと同じお国の方がお泊りになっていました」(ほとんどの日本人にとって外国人といえば英国人のことなのだが)、「著名な噺家である某B様で」「で、彼はどこにいる?」わたしは大声で叫んだ。「かれは昨日お発ちになられました、お客様」。どちらへ向かったかは確かめることはできなかった。

 数カ月後、わたしは神戸にいた。そこは首都から376マイル離れた大きな街である。夕食後、わたしは活気ある港町の絵のように美しくにぎやかな通りを散歩していた。ある寄席の前を通り過ぎたとき突然に、巨大な看板のなかで誰よりもひときわ目立って、わたしから逃げ回っているかのような友人の似顔絵が目に入ったのだった。彼はその晩、高座に上がることになっていた。刻々とドアの前の人だかりはこくなっていき、

(補足)

 はじめて見るような単語も多く、ひとつひとつ調べてみるも、意味が今ひとつ?いつもながら文章全体の流れをつかんで、意味がよくわからない部分にあう訳を当てはめ埋めてゆくような作業を繰り返しました。 

2025年5月13日火曜日

JAPANESE STORY-TELLERS その23

P21 個人蔵

(読み)

the very moment, when

 I thought to overtake

 him, for his profession

drives him from place to

 place like a wandering

Jew.  In the June of

last year I arrived one

 day at Ikao, a 

 fashionable

     summer

     resort

       with

(大意)

昨年6月のある日、わたしは標高750mの山間にある高級な伊香保という温泉地にいた。

(補足)

 伊香保温泉の一室からの山のながめ、昨年夏の旅行で描いた1枚といわれても、誰もがうなずいてしまうくらいの、空気感。

 煙草盆は寄席で案内人が持っていたものと同じです。側板のくり抜きは指を掛けられるようにするためのようです。

 奥の黒い塊は、黒電話ではなく鞄でしょう。

欄干に温泉でいくらか汗をかいた浴衣をほしかけてあるのが温泉風情です。

 

2025年5月12日月曜日

JAPANESE STORY-TELLERS その22

P20 個人蔵

(読み)

the shores of Nippon? He has grown

up in the midst of this delicate people; an

artist himself, he has fallen in love with

this artistic race, with this beautiful land;

others have been seduced and captivated,

while he has been wholly and solely

absorbed. I had been haunted for a

long time by a secret longing to become

acquainted with this phenomenon, dilettante,

or outcast 一 I know not what to call

him 一 for whom cherished а strange

admiration mingled with sympathy and

curiosity. I wished to question him, to

study him, to turn over page after page

of his life, as one might be a book or a

document. What interesting things might

be learned from such a man! How much

he must know about Japan, so little known

yet!  Many a time on my travels I had

searched for him and was always eluded at

(大意)

 芸術家である彼はこの繊細な国民のなかで育った。彼はこの芸術的な民族、美しい国土に恋に落ちてしまった。彼以外の他の人たちも惹きつけられ魅了されてしまっていたが、彼は完全に心からそれらのことを自分のものにしてしまっていたのだ。

 わたしは長いこと、彼のことを、奇人、好事家、もしくは、はみ出し者など、なんとよんでいいのかわからないのだが、知り合いになりたいという密かなおもいにとりつかれていた。そんな彼にたいして、わたしは共感と好奇心の入り混じった複雑なあこがれをもち続けていた。

 わたしは彼に質問をして、かれについて研究してみたいとおもった。彼の人生を、まるで一冊の本や文書のように、いちページいちページめくってみたいとおもった。このような人物から、どんな興味深い事柄を学ぶことができるだろうか!かれはまだほとんど知られていない日本について一体どれほど知っていることだろうか。

 わたしは旅先で何度も彼を探したのだがそのたびごとに、さまよえるユダヤ人のような彼の職業のためか、先んじて捕まえたと思ったその瞬間に、逃げられてしまっていた。

(補足)

 文章が「;」や「,」、または「ー」などで続けられ、いささか散文的であり、わかりにくいところがありますが、まずは全体の意味をとらえてからという読み方で、理解するしかありませんでした。それでもまぁ何を言いたいかはぼんやりとわかります。

 

2025年5月11日日曜日

JAPANESE STORY-TELLERS その21

P19 個人蔵

(読み)

mode of life. I imagine that he has

almost forgotten his mother-tongue and

became a naturalised Japanese citizen some

years ago. At present he is a man of

about forty, who manipulates his adopted

language with the ease not only of an

accomplished scholar but of a veritable

virtuoso, displaying infinite talent. More-

over, he is an artist, who by remaining

in Europe would assuredly have cut an

excellent figure there. Only those, who

have studied the most difficult of lan-

guages,一Japanese一 who have lifted,

however slightly,the veil, which covers its

mysterious idiom, can understand how this

man must have worked to arrive at such

perfection. Surely, the peculiar case of

this Englishman must be unique. By

what accident, through what vicissitudes of

fortune,was this European stranded on

(大意)

 わたしは彼が母国語を忘れたのではないかとおもっている。また数年前に彼は日本に帰化した。現在彼は40歳前後の男であり、熟達した学者というだけでなく、正真正銘の名人、無限の才能を発揮していて、帰化した国の言葉を自由に操っている。

 さらに、彼は芸術家であり、もし欧州に残っていれば間違いなく際立った業績をそこに刻み込んだろう。

 もっとも習得が困難な言語、日本語を学んだものだけが、またその日本語は神秘的な言語で、覆われているベールをほんの少し持ち上げようとしたものだけが、この男があのような完璧さに達するためにどのような研鑽を積まなければならなかったを理解することができるのである。

 確かに、この英国人の特異な事実は特別のことだったに違いない。いったいどのような出来事があって、またはどのような運命の導きによって、この欧州人は日本という土地にとどまることになったのであろう。

(補足)

 当時というか今でも、「the most difficult of lan-guages,一Japanese一 」のように日本語は外国人が習得するには難しい言語といわれています。しかし、言語学関係の書物を読んでみますと、特に難しい言語ではないようです。むしろ文法的には簡単であるというふうにも記されていました。

 確かに、漢字・ひらがな・カタカナなど表記される記号が多いので、それに振り回され、難しく感じてしまうのでしょうね。 

2025年5月10日土曜日

JAPANESE STORY-TELLERS その20

 

P18 個人蔵

(読み)

ment at each yosè (for in one evening they

will appear at five or six different establish-

ments) does not extend beyond a fortnight.

Often they are summoned to the houses

of rich persons, who desire to give their

guests a particular treat; in such a case

they receive from three to ten yen for their

performance.

 I will conclude this short study of the

hanashika with a curious fact. This as-

sociation of artists includes among its mem-

bers 一 you would scaresly believe it一an

Englishman, Mr.B. ....;how he came

to Japan no-one knows. He is always

moving from one important town to an-

other; his name heads the bills of the

best yosè; he has married a woman of the

country, by whom he has several children,

and has given up entirely his European

habits in order to adopt the Japanese

(大意)

 彼らのそれぞれの寄席での契約は、一晩に5,6ヶ所の高座に上がるのであるが、2週間をこえることはない。しばしば噺家たちは金持ちの家に招かれ、かれらの招待客に特別な出し物をすることを求められることがあり、そのような場合でも噺家たちが受け取る報酬は3円から10円である。

 わたしは最後にとても興味を引く事実をもって、この短い噺家の研究をしめくくりたいとおもう。

 この芸術家協会の中に、あなたはとても信じられないであろうが、英国人某B氏がいる。かれがどのように日本にやって来たのか知っている人は誰もいない。かれはいつも主要な街を転々としている。大きな寄席の演目のトップに名を連ねている。日本の女性と結婚し子どもを数人もうけ、日本の生活様式に慣れ親しむようヨーロッパの習慣は完全に断ち切っている。

(補足)

「 Mr.B. ....」、快楽亭ブラックのこと。中表紙見返しの寄席入口の2階の看板に「英國人ブラツク」とあります。『落語家_懐かしき人たち』という本にブラック自身の当時の落語界にたいする考えがのっています。 

 ブラックのお墓は横浜外人墓地にあるらしいです。

 

2025年5月9日金曜日

JAPANESE STORY-TELLERS その19

P17 個人蔵

(読み)

his audience. At pathetic moments, when

the traitor is on the point of being seized,

or the lovers of being at length reunited

after a long separation, he stops....." To

be continued to-morrow night" he says

quietly, bows, and disappears. And the

next night the audience returns to know

if the traitor has really been taken and

whether the lovers were actually reunited.

 The hanashika is a true artist, at

times a distinguished writer like HAKUEN

and ENCHO, who are also shin-uchi of un-

paralleled ability. The best known, after

HAkUEN and ENCHO, are ENRIN, JOEN, RIUSHI,

Kösan, and HAKUZAN. When a hanashika

enjoys the favour of the public, he makes

as much as a hundred yen (£ 10) a month.

Some receive no fixed salary, but take sixty

per cent of the receipts, while the impresario

takes the remaining forty. The engage-

(大意)

 裏切り者がまさに捕まえられるときや、あるいは長い間、離れ離れになっていた恋人同士が再会するというその一番よいところで、彼は噺をやめ、間(ま)をとって「ちょうど時間となりました。続きはまた明日の晩に」と静かに言って、お辞儀をして、下がる。

 そして、翌日の夜、観客は裏切り者はその後確かに捕まり連れ去られたのか、あるいは恋人同士は本当に再会できたのかどうかを知りたくて戻って来る。

 噺家は真の芸術家であると同時に、ハクエン(伯円 (講釈師松林伯円))やエンチョウ(円朝)のようなすぐれた作家でもある。かれらは並ぶもののない才能をもち、真打ちでもある。

 ハクエンとエンチョウにつづくもっとも知られているのは、エンリン(燕林(講釈師桃川燕林))、ジョエン(如燕(桃川如燕))、リュウシ(柳枝)、コサン(小さん)、ハクザン(伯山(講釈師神田伯山))である。

 噺家が大衆の人気になると、一月に百円(£10(十ポンド))程度も稼ぐ。固定給を受け取らずに、高座収入の6割を取るものもいる。興行主は残りの4割ということになる。

(補足)

 現在でも、講釈師は噺の一番いいところで「〽ちょうど時間となりました〜〜♪」の決め台詞で噺を切っています。ここにあげられている講釈師たちは、今活躍している講釈師の2,3(or4)世代前くらいですから、芸風がころっと変わるわけがありません。

 

2025年5月8日木曜日

JAPANESE STORY-TELLERS その18

P16 個人蔵

(読み)

His gestures, though re-

strained,

are striking and his

diction is perfect. He

excites and subjugates

(大意)

 彼の手振り身振りは、緊張感があるのだが印象的であり、その語りは完璧なのである。観客をワクワクさせたりまた圧倒する。

(補足)

 いっせいに出入り口に殺到するお客さんたち、履物の木札を差し出しています。一番左の茶色のフロックコートを着た方、この姿を見るとどうしても、父方の祖父を思い出してしまいます。色も同じでした。

 出入り口敷居のところにあった、盛り塩は片付けられてしまったよう。ドアの格子部分が異様に背が高いのですけど・・・

 

2025年5月7日水曜日

JAPANESE STORY-TELLERS その17

P15 個人蔵

(読み)

Reaching out his hand from time to time,

he seizes the kettle and pours himself out

a cup of warm water, which he drinks in

a very leisurely manner so as to re-

cover breath and choose his

next phrase.

(大意)

 時折、手を伸ばし、やかんを手にとり、茶碗に湯を注ぐ。彼はゆったりとした動作で飲むのだが、それはまるで息を整え、次の言葉をさがすためにしているようにも見える。

(補足)

 真打ちの高座(羽織には柄が入ってます)、背筋をキリッと伸ばし、おもむろに白湯を飲むながら今夜のお客さんたちを右から左、上から下へとゆっくり眺めわたします、絵師もうまいものです。古風な昔の高座を演出して、現在の浅草演芸場でやっているといわれても、何の違和感もありません。

 しかし、お客さんたちは当時の方々。最前列、右から二人目と三人目は年寄り夫婦のように見えます。女性の方が少し背中が丸くなっているのでそうなのかと、そしてその左隣に孫でしょうかね、絵師は人物をよく見ています。

 

2025年5月6日火曜日

JAPANESE STORY-TELLERS その16

P14 個人蔵

(読み)

A second zenza takes his place, followed

by a second interlude, and so the pro-

gram proceeds. Towards ten o'clock the

shin-uchi comes, bows with the assurance

of a man, who knows his audience,

and begins his story. He modulates

his voice to suit the incidents and passes

from laughter to tears, from emphasis to

fury, according to the characters,whom

he represents and with whom for the

moment he is identified.Every class in

society with its virtues and its vices 一

especially, its vices 一encounters his criticism,

and mothers-in-law come off as badly as in

other countries. His storics are generally

very long and occupy ten, twenty, some-

times thirty performances. Often his com-

ments verge on impropriety and he lays

stress on risky scenes, knowing that his

audience delights in and expects them.

(大意)

 代わって、二人目の前座が登場し、二度目の幕間が続き、そのようにして出し物は進行してゆく。10時になる頃、真打ちが登場し聴衆に一瞥をくれると、堂々とした所作でお辞儀をし、はなしをはじめる。

 彼は噺の出来事にあわせて、滑稽なことから悲しい感情まで声の調子をかえ、また噺に出てくる人物の性格に応じて、さらにあるときには登場人物にすっかりなりきって、表情や感情を強調してみたり怒りを爆発させてみたりする。

 社会のあらゆる階層には美徳と悪徳があり、特に悪徳はかれの噺の舌鋒の的となる。そして継母は他のどこの国でもおなじように、ひどい目に合うこととなる。

彼の噺は概して大変に長い。10回20回ときには30回にも及ぶ。しばしば彼の話しぶりは無作法になったりもする。彼は観客がどうしたら喜んだり、何を期待しているのかを知っているので、きわどいところではそのような緊張感を持つよう仕向けているのである。

(補足)

 テレビで現在寄席を定期的に放送しているのは、チバテレビの「浅草お茶の間寄席」くらいだろうか。ついさきごろまでTVKで放送されていたのを見ていたが、室内アンテナにしたので見ることができなくなってしまいました。

 地デジで見ることができるようにどこかの局で放映してくれないかな。 

2025年5月5日月曜日

JAPANESE STORY-TELLERS その15

P13 個人蔵

(読み)

otoshi-banashi, amusing little stories and

very short, which only take half an hour

at most. Then,to vary the program,

comes an interlude or nakairi. Either the

samisen sends forth its plangent notes to

every corner of the room or perhaps

a prestidigitator, a tezuma, performs his

tricks and swallows swords, which reap-

pear in the shape of eggs in the hat of

some gentleman in the audience. Mean-

while the zenza has slipped away in haste

to recite his otoshi-banashi in a different

locality, where another audience awaits him.

(大意)

 前座たちは長くても30分程度の短い愉快な小話を語る。それから、出し物に変化をつけるために、幕間または中入りとなる。その間、物悲しい三味線の音色が寄席の小屋の隅々にまで鳴り響いたり、あるいは手妻とよばれる奇術師が芸を披露したり、剣を飲み込んでそれが再び、聴衆の中のある紳士の帽子の中から卵の形のようなものとなってあらわれるようなものを見せたりもする。その間に、前座は急いでそこから抜け出て、彼を待っている他の聴衆の寄席に行って落とし噺を演じる。

(補足)

 挿絵の寿司がうまそうで、つられて調べてみました。

このように重ねて盛られているのを「積み込み」というのだそうです。浮世絵に描かれる寿司はきまって積み重ねられているとあります。

 またこのような文章もありました。『天保8年(1837年)より刊行された『守貞謾稿』には図入りですしが紹介されている。一番上が握りの玉子、2番目は玉子の巻きずし。今と違って魚介より玉子が重宝された時代背景がうかがわれる』。この挿絵でも玉子が一番上にきていますね。

 詳しくは以下HPをご覧ください。

 味の素食の文化センター『賑やかな宴席の料理(春)林綾野(はやしあやの)』。

 https://www.syokubunka.or.jp/publication/column/experts/post004.html

 

2025年5月4日日曜日

JAPANESE STORY-TELLERS その14

 

P12 個人蔵

(読み)

You accept, therefore, the delicious bever-

age (which is not sugared, of course,

and generally draws a grimace from the

European) and pay in advance for your

seat your cushion, and your cup of tea.

If you have a fancy to indulge in an

orgy, you may just as well offer yourself

sundry delicacies, - such as little balls of

rice soaked in vinegar and wrapt in a

slice of fish, dried sea-weed, radish, tiny

morsels of cuttle fish, and other dainties.

 But now everyone is silent, for the

fine curtain has risen and a hanashika ap-

pears. He is quite young, a débutant,

or, as they say here, a zenza; the consum-

mate artist, the shin-uchi, is reserved until

last, as the pièce de résistance, since he

is more likely to elicit the applause of

the audience, and, above all,to make

them come again. The zenza relates

(大意)

 それゆえ、あなたはおいしい飲み物(もちろん、砂糖は入ってなく、欧州人にとってはおおむね顔をしかめるようなものだが)を受けとりますが、それらは前もって席料として、お茶と座布団の料金として支払ってあります。

 あなたがもしもっと豪華にやりたいのならば、様々な珍味、それらは酢で湿した米を球状にしたものに、魚を薄切にしたものや、乾燥した海藻や大根、小さな切り身にした甲イカ、その他おいしいものを巻き付けてあるものを注文すればよろしい。

 しかし誰もが今は、すばらしい幕が上がり、噺家があらわれるのを待って、静かにしている。その人物は異様に若く、デビューしたばかりなのか、客たちは彼のことを前座と言い、修行を積んだ噺家を真打ちと呼び最後の舞台をまかされている。真打ちは料理で言えばメインディッシュであり、聴衆の喝采をあびやすいだろうし、そしてなによりも、再び寄席に足を向けさせることができるからである。

(補足)

 P13のお寿司だけを切り抜きました。 

 文中の説明通り、おいしそうです。今なら寿司桶ですが、この当時は仕出しはお皿だったのでしょう。思い出しましたが、ちょっと前でも寿司屋からではなく、魚やをかねた仕出し屋からお寿司を注文すると、必ずお皿に盛ってありました。

 配達するには、寿司桶のほうが重ねることができますからほとんどがそうなってしまったのかも。お皿に盛るのはご近所さんだけになってしまったのでしょうか。

 百年以上前のお寿司をカラーで見ることができるなんて、なんか不思議であります♪

 

2025年5月3日土曜日

JAPANESE STORY-TELLERS その13

P11 個人蔵

(読み)

nasai (Deign to accept).' You are not

offered tea to prevent you from sleeping

through the most interesting performance,

which is about to take place (that would

be indecorous to the last degree), but

simply because it is the custom, as every-

one drinks tea, and you would be thought

an eccentric person, if you refused.

(大意)

 あなたはこれから行われる、ある程度不適切なところがあるかもしれないが、もっとも興味深い演芸の最中に居眠りをしてしまわないように、お茶が供されるのではない。簡単に言ってしまえば、単に習慣なのだ。多くの人たちがお茶を飲んでいるときにあなただけがもし断れば、あなたは風変わりな人だとおもわれるだろう。

(補足)

 地元の名士風の人や、ちょんまげ姿の人もいますし、特にご婦人方はお化粧をしてるのか、顔がことのほか白くなっています。日本髪も美しい。

 座敷席ならではのにぎやかさです。

 

2025年5月2日金曜日

JAPANESE STORY-TELLERS その12

P10(P11) 個人蔵

(読み)

なし

(大意)

なし

(補足)

 P10P11は見開きで、その8では2階席の様子でした。今回は1階席、開演前の様子でしょうか。煙草盆と座布団を持ってきた案内係の半纏は一見無地のように見えますが、拡大すると柄が入っています。その後ろの黒の羽織を着ている御婦人も同じような柄入りです。遠目からは黒無地に見えても、近づくと何らかの柄が入っているというおしゃれ。

 左隅では、左手を振り上げて何かわめいている男性の表情が、顎がはずれそう。すぐ後ろには、家族で来たのか男の子女の子母親祖母という雰囲気です。

 どうでもよいこととおもいますけど、煙草盆の側面の窓は何のためにあるのでしょうか?意匠ではなさそうだし・・・

 

2025年5月1日木曜日

JAPANESE STORY-TELLERS その11

P9 個人蔵

(読み)

the gift of some local Macaenas, who wishes

to be talked about, since his name is

embroidered on it in large letters, that

everyone as well as the recipient, be he

artist or impresario, may know of his

generosity. Close to the Platform is a

hibachi, or small brazier, indispensable and

ubiquitous, supporting on its ardent coals

a copper kettle, or yakan. Directly you

have settled down in your place, one of

the numerous naka-uri* approaches and

smilingly prostrates herself at your feet;

then offers you a velvet or leather

cushion according to the season and a

tabakobon, in which you will find a small

porcelain edition of the hibachi, serving to

light your pipe; and a tiny bamboo tube,

which answers the purpose of a spittoon.

Gently and gracefully she offers you a

cup of tea with the words, 'O-agan-

 * Waiter, mostly female.

(大意)

 そののれんは地元の後援者の贈り物で、自分の名前を大きな文字でのれんに刺繍して、知ってもらおうと願っているのである。贈られた者だけでなくたくさんの人たち、また芸人や興行主は後援者のその気持ちをよく理解している。

 台のそばにはヒバチもしくは小さい火鉢があり、欠くことのできぬどこにでもあるものである。火鉢の中の真っ赤な炭の上には銅製のやかんがのっている。

 自分の席に腰を下ろすとすぐに大勢のナカウリ(ウエイター、たいていは女性)のうちの一人がやって来て、にこやかにあなたの脚元にひれ伏す。そして、季節に応じてベルベットか皮の座布団とtabakobonを差し出す。煙草盆の中には磁器製の火鉢があることに気づくだろう。それはパイプに火を付けたり、また小さな竹筒のようなものは吸い殻を落とすためのものである。

 ナカウリの彼女は「おあがんなさい(おがりください)」という言葉とともに、そっと優雅にお茶を供する。

(補足)

 はじめてみる単語がたくさんあります。しかし、日本人には馴染のある寄席風景で何を説明しているかがある程度わかっているので、いくらかはなるほどなとおもいつつ読み進めます。

「spittoon」は辞書に「たんつぼ」とありました。吸殻入れのはずです。でも・・・。