2025年1月18日土曜日

江漢西遊日記二 その18

P22 東京国立博物館蔵

(読み)

此 者 を吊   ンとて従  者 と二 人して参 リ个る尓漸(ヨウヤク)

このものをとぶらわんとてじゅうしゃとふたりしてまいりけるに  ようやく


昼 比 尓至 リ个る鈴 木氏宿 ニ居て酒 肴 を

ひるごろにいたりけるすずきしやどにいてしゅこうを


出して馳走 春る爰 ニ久保幸 助 と云 者 来ル

だしてちそうするここにくぼこうすけというものくる


十  七 日 雨 時 々 降ル同 藩 尓伊藤 孫 右衛門と

じゅうしちにちあめときどきふるどうはんにいとうまごえもんと


云 者 雪 渓 の門 人 ニて画を描ク鈴 木氏と共

いうものせっけいのもんじんにてえをかくすずきしととも


尓久保氏を吊  フ二十 町  程 隔  リ多る処  なり

にくぼしをとぶらうにじっちょうほどへだたりたるところなり


此 路 河 原能巾 一 町  程 アル砂漠 アリ石磊(ゴロゴロ)として水 なし

このみちかわらのはばいっちょうほどあるさばくありいし ごろごろ としてみずなし


湯能山 青 瀧  と云 瀧 の流 れの末 なり漸  く尓

ゆのやませいりゅうというたきのながれのすえなりようやくに


して至 ル主 人 は文 人 にして風 流  なり坐右 ニ文

していたるしゅじんはぶんじんにしてふうりゅうなりざゆうにぶん


房 をかさり珍 器多し 甚  タ馳走 春る返 ラん

ぼうをかざりちんきおおしはなはだちそうするかえらん

(大意)

(補足)

「吊ンとて」、何度も出てきています。とぶらう『とぶらふ 【訪ふ】

① 訪問する。おとずれる。たずねて行く。たずねて来る。「秋の野に人まつ虫の声すなり我かと行きていざ―・はむ」〈古今和歌集•秋上〉』

「久保幸助」、寛保二(1742)年〜文化五(1808)年。村役人を務め、天明四(1784)年からは代官役を命ぜられ25年間務めるかたわら家塾(修講館)を開いて人材の育成に力を尽くした。とありました。

「十七日」、天明8年七月十七日。1788年8月18日。

「雪渓」、江漢の画の師である宋紫石こと楠本雪渓(1715〜1786)のことか?

「河原能巾」、「原」の左側は「参リ」(一行目にもあります)ともみえますが、ふたつの漢字が似ているので不明です。

「水なし」、たまに「水」のくずし字が使われます。

 

2025年1月17日金曜日

江漢西遊日記二 その17

P21 東京国立博物館蔵

(読み)

羽織 き多る者 ハ巻キ羽織 尓し踊 ル中 尓屋

はおりきたるものはまきはおりにしおどるなかにや


臺 を造 り男  数(ス)人 居て三 味せん尓合 セて

たいをつくりおとこ  す にんいてしゃみせんにあわせて


おんどをう多ふ其 文 句年 々 かわるよし

おんどをうたうそのもんくねんねんかわるよし


さて宮 を越ヘ此 地ハ言 語風 俗 皆 京  ニ

さてみやをこえこのちはげんごふうぞくみなきょうに


属(ソクス)家 能建 方 大家(ヲゝヤ)根(ネ)のノキを長 ク出して

  ぞくす いえのたてかた   おおや   ね ののきをながくだして


隣  の堺  尓ヘキリとてへゐ能様 なる物 を入 ルなり

となりのさかいにへきりとてへいのようなるものをいれるなり


大 火後(ゴ)京  都ニハ此 ヘキリなし

たいか  ご きょうとにはこのへきりなし


十  六 日 曇 ル後 天 氣此 四 日市 日永 よりも四

じゅうろくにちくもるのちてんきこのよっかいちひえいよりもし


里程 あり菰(コモ)野と云 処  土方(ヒシカタ)侯 一 万 石 能領

りほどあり  こも のというところ   ひじかた こういちまんごくのりょう


地なり爰 尓鈴 木久  右衛門とて画の門 弟 あり

ちなりここにすずききゅうえもんとてえのもんていあり

(大意)

(補足)

「宮」、熱田宿。

「十六日」、天明8年七月十六日。1788年8月17日。

「菰野」、日永村より左斜め上に土方大和守在所とあります。 

「土方侯」、当時の藩主は九世土方義苗。天明二年五歳で襲封、天保元(1830)年隠居するまでの48年間、藩主として活躍、名君として数々の逸事を残した、とありました。

「堺」、境。


 

 

2025年1月16日木曜日

江漢西遊日記二 その16

P20 東京国立博物館蔵

(読み)

十  四 日天 氣トナル今 日ハ中  元 能御祝  儀とて

じゅうよっかてんきとなるきょうはちゅうげんのごしゅうぎとて


一 村 皆  々禮 尓至 ル昼  喰 ニハ餅 ニ小 豆を付

いっそんみなみなれいにいたるちゅうじきにはもちにあずきをつけ


て喰  春其 夜も前 夕 能通 りツンツク踊 リあり

てしょくすそのよもぜんゆうのとおりつんつくおどりあり


おと里と云 ニハ非 ス只 手と手を取 伸(ノヒ)多り屈(カゞン)多り

おどりというにはあらずただてとてをとり  のび たり  かがん だり


春る能ミ誠  尓田 舎能おとりなり婦人 も綿帽(ワタボウ)

するのみまことにいなかのおどりなりふじんも   わたぼう


子(シ)をか武里禮 尓歩 くなり

  し をかむりれいにあるくなり


十  五日 天 氣朝 飯 料  理もなしズイキ酢あゐ

じゅうごにちてんきあさめしりょうりもなしずいきすあい


小 豆を坪 ニ入 付 多 能ミ日暮 より亀(キ)六 同 道

あずきをつぼにいれつけたるのみひぐれより  き ろくどうどう


して四 日市 尓行キ盆 踊  を見ル桑 名此 邊 ハ

してよっかいちにゆきぼんおどりをみるくわなこのへんは


川 﨑 おんどとて女 郎 お山 あミ笠 をか武り

かわさきおんどとてじょろうおやまあみがさをかぶり

(大意)

 略

(補足)

「十四日」、天明8年七月十四日。1788年8月15日。

「中元」、『ちゅうげん【中元】〔道教で,人間贖罪(しよくざい)の日として神をまつった日。上元・下元とともに三元の一〕

① 旧暦7月15日のこと。元来,道教の習俗であったが,のちに仏教の盂蘭盆会(うらぼんえ)と混同され,死者の霊を供養する』。

「祝義」、「祝儀」。

「ズイキ酢あゐ」、ズイキ酢和え。ずいきの和物。ズイキは【〈芋茎〉】① サトイモの茎。干したものはいもがらといい,食用とする。

「四日市尓行キ盆踊」、江漢の西遊旅譚一に画があります。

こちらは四日市諏訪明神祭。

 お中元やお歳暮の風習は、わたしが小さかった頃はそれぞれ届ける人がきちんと挨拶を兼ねて直接、家に届けていたことが多かったようにおもいます。現在は宅配業者がほとんどになりました。 

2025年1月15日水曜日

江漢西遊日記二 その15

P19 東京国立博物館蔵

(読み)

晩 方 裏 能田畑 へ出テ歩ス日暮 庭 尓床(セ ウ)机(キ)を

ばんがたうらのたはたへでてほすひぐれにわに  しょう   ぎ を


立テ涼 ム爰 ニ長 右衛門 ハ源 兵衛能おぢなり其

たてすずむここにちょうえもんはげんべえのおじなりその


妻 京  能産 レ京  能話  を聞ク

つまきょうのうまれきょうのはなしをきく


十  三 日 天 氣雨 故 暑 ゆる武晩 方 給  ヲ着(キ)多り

じゅうさんにちてんきあめゆえしょゆるむばんがたあわせを  き たり


此 邊 盆 踊(ヲトリ)とて此 村 ヨリ出スおと里あり四 日市 ヨリ半

このへんぼん  おどり とてこのむらよりだすおどりありよっかいちよりはん


路隔  リ爰 能おとりハツンツク踊  とて十  二三 十  六 七

ろへだたりここのおどりはつんつくおどりとてじゅうにさんじゅうろくしち


能男 女 手と手を取 輪尓なりてツンツク\/  とて

のだんじょてとてをとりわになりてつんつくつんつくとて


おとる也 中 尓十  五六 能男  の子白 きさらし能手

おどるなりなかにじゅうごろくのおとこのこしろきさらしのて


拭(ヌグ)ゐを保うか武里してう多をう多ひて太

  ぬぐ いをほおかむりしてうたをうたいてたい


鞁(コ)を多ゝく

  こ をたたく

(大意)

(補足)

「十三日」、天明8年七月十三日。1788年8月14日。

「給」は「袷」、「鞁」は「鼓」。

「盆踊」、「盆」の上半分「分」のくずし字がちゃんと「彡」+「丶」になっています。

「ツンツク踊り」、現在も「日永つんつくおどり」として行われています。

                                                                        勢州日永村ツンツク踊之図、西遊旅譚一。NDL蔵。

 江漢が描写している通りの踊りです。

 

2025年1月14日火曜日

江漢西遊日記二 その14

P18 東京国立博物館蔵

(読み)

十 日天 氣四 日市 西 町  沢 邊三 益 ハ亀(カメ)の石 ヲ

とおかてんきよっかいちにしちょうさわべさんえきは  かめ のいしを


所 持春見 物 ニ行 昼  喰 出ス明(ミン)能小  僊の

しょじすけんぶつにゆくちゅうじきだす  みん のしょうせんの


画を見ル波 を渡 ル仙 人 也 中  条  木 唇 と云 人 ハ

えをみるなみをわたるせんにんなりちゅうじょうもくしんというひとは


津の町 能茶 人 なり此 者 能云 江戸ニ参 リシ

つのまちのちゃじんなりこのもののいうえどにまいりし


時 江戸橋 と云 処  を江戸能人 をやとゐて

ときえどばしというところをえどのひとをやといて


ともニして通 りし尓茶 人 往 来 能人 を見て云フ

ともにしてとおりしにちゃじんおうらいのひとをみていう


尓ハ今日(キヨウ)ハ何 事 可ありしやとも能者 ヘ尋  多り

には   きょう はなにごとかありしやとものものへたずねたり


江戸ハ人 能多 ヒ処  なりと話 シ个る

えどはひとのおおいところなりとはなしける


十  一 日 天 氣高 尾氏頼 ミの画出来ル

じゅういちにちてんきたかおしたのみのえできる


十  二日 天 氣鴨 能画ツイ立 獅子の画出来ル

じゅうににちてんきかものえついたてししのえできる

(大意)

(補足)

「十日」、天明8年七月十日。1788年8月11日。

数日前まで体調不良でも、頼まれた画を数点仕上げています。もっとも「倡家ニ能ぼ」って「酒を呑ミて日暮かえりぬ」くらいの不快さでしたから、それほどでもなかったのかも。

 

2025年1月13日月曜日

江漢西遊日記二 その13

P17 東京国立博物館蔵

(読み)

行 の時 駕籠へ直奏(ソウ)し多ると状  の中 ニあり

こうのときかごへじき そう したるとじょうのなかにあり


七 日天 氣晩 方 雨 バラツク庭 ニて蝉 能ヌ

なのかてんきばんがたあめばらつくにわにてせみのぬ


ケルを見ル兎角 癪  氣なり

けるをみるとかくしゃっきなり


八 日雨 今 日も不快 夜 も不眠

ようかあめきょうもふかいよるもねむらず


九  日曇 ル後 天 氣不快 少  々  よろし亀(キ)

ここのかくもるのちてんきふかいしょうしょうよろし  き


六 と四 日市 築 地と云 処  ノ高 尾九  兵衛と岡

ろくとよっかいちつきじというところのたかおきゅうべえとおか


三 英 右 の者 と倡  家ニ能ぼる酒 を呑ミて日

さんえいみぎのものとしょうかにのぼるさけをのみてひ


暮 かえりぬ三 英 女  房 吾 ニ向 ヒ行(ユカシツ)てゴサリ

ぐれかえりぬさんえいにょうぼうわれにむかい  ゆかしつ てごさり


マセとハモウお出サルカと云 事 也 サイセンとハ四

ませとはもうおでさるかということなりさいせんとはし


五日 も過 多る事 を云フ此 地能言(コトハ)なり

ごにちもすぎたることをいうこのちの  ことば なり

(大意)

(補足)

「直奏」、駕籠訴(かごそ。江戸時代の越訴(おつそ)の一。幕府の高官や大名などが駕籠で通行するのを待ち受けて,訴状を投げ入れたりして直接訴え出ること)。

「七日」、天明8年七月七日。1788年8月8日。

「亀六」、岩清水亀六。滝沢馬琴も「羇旅漫録」の中で「勢州追分内日永村に、岩清水亀六という人あり」と伊勢の好事家を紹介している、残念ながら会えなかったようです。

「高尾九兵衛」、土地の名家で文学を好み、当時雅人の間に交友が多かった。後年、本居宣長の長女飛騨が再縁した相手である、とありました。

 体調不調の中、セミが脱皮するのを見たとありますが、脱皮するのはたいてい日の出前頃、それとも脱皮した抜け殻を見たのか、どっちにしても気分的なものだったのかもしれません。ちょっと回復したら遊びに出かけているし・・・

 

2025年1月12日日曜日

江漢西遊日記二 その12

P16 東京国立博物館蔵

(読み)

五  時 比 宮 ニ至 ル舟 出ル故 尓舟 ニ乗り桑 名ニ

いつつどきころみやにいたるふねでるゆえにふねにのりくわなに


着ク四 日市 を過 ル事 半 路日永 村 清水 源

つくよっかいちをすぎることはんろひなかむらしみずげん


兵衛宅 ニ至 ル爰 ハ江戸尓出見世あり兄  弟

べえたくにいたるここはえどにでみせありきょうだい


出て話 春六 月 二 日出ノ状(ゼ ウ)を見ル

でてはなすろくがつふつかでの  じょう をみる


四 日天 氣大 暑 爰 尓暫  く滞 留  春父子出

よっかてんきたいしょここにしばらくたいりゅうすふしで


て話 春晩 方 夕 立 冷 氣トナル

てはなすばんがたゆうだちれいきとなる


五 日天 氣暑 シ草 画六 七 枚 出来ル亦 金 の

いつかてんきあつしそうがろくしちまいできるまたきんの


小襖  山 水 能画認  ム少  ゝ  不快 父子世話スル

こぶすまさんすいのえしたたむしょうしょうふかいふしせわする


六 日朝 雨 少  々  冷 氣癪  氣未 タ不快 夜 ニ入

むいかあさあめしょうしょうれいきしゃっきいまだふかいよるにはいり


大 雨 雷   江戸中 橋 の者 白 川 侯 ヘ西 ノ久保ヲ通(ツウ)

おおあめかみなりえどなかはしのものしらかわこうへにしのくぼを  つう


行 の時

こうのとき

(大意)

(補足)

「宮」、尾張の熱田。ここから桑名までが海上七里の船路で「七里の渡し」で有名なところ。

桑名・四日市・日永村の地図。三つの地名が少々わかりにくいですけど確認できます。 

「日永村」、東海道と参宮街道の分岐点にあたり、交通の要所。参宮街道上には大鳥居が街道をまたいで高くそそり立っていた。 

 「六月二日出ノ状(ゼウ)」、約一ヶ月遅れの手紙を受け取ったわけですけど、どんな方法で受け取ることができたのでしょうか。この頃は大阪や江戸の間でお金の手形の決済などが行われていましたから、飛脚や運送業は想像以上に発達していたのではとおもいます。

「四日」、天明8年七月四日。1788年8月5日。

 江漢さん、風邪を引いてしまったようです。

 

江漢西遊日記二 その11

P15 東京国立博物館蔵

(読み)

昼  食 春夫 より舞 木村 など過 て藤 川 尓至 ル

ちゅうじきすそれよりまいきむらなどすぎてふじかわにいたる


岡 崎 ハ能 驛 なり

おかざきはよきえきなり


[白 キハ大 シマ黄ナリ]此虻(アブ)江戸近 在 ニ見春蜂(ハチ)ニ非 スア

 しろきはおおしまきなり この あぶ えどきんざいにみず  はち にあらずあ


ブなり此 虻 熊蜂(ハチ)を喰 付 タルを取

ぶなりこのあぶくま はち をくいつけたるをとり


ウツス此 道 中  筋 ニ多 し

うつすこのどうちゅうすじにおおし


池鯉 鮒鳴 海此 間  矢者゛き能橋 あり亦

ちりゅうなるみこのあいだやは ぎのはしありまた


八ツ橋かき川者゛多能名 所 桶 者ざま今 川

やつはしかきつばたのめいしょおけはざまいまがわ


能亡 ヒタル所  右 ヘ少 シ入  石 碑立ツお王りやと云フ

のほろびたるところみぎへすこしはいりせきひたつおわりやという


家 ニ泊 ル

いえにとまる


三 日天 氣誠  尓大 暑 なり朝 六 比 出  立 して

みっかてんきまことにたいしょなりあさむつころしゅったつして

(大意)

(補足)

藤川・岡崎の地図。 

「道中筋ニ」、「筋」の漢字はいつもながら「竹」+「肋」の二文字のようにみえます。

岡崎(御城の画があるところ)・池鯉鮒・鳴海・熱田(宮)の地図。

「矢者゛き能橋」、矢作(やはぎ)。岡崎から左斜め上の街道を上ると熱田へ至ります。岡崎を出てすぐに矢作川と村があって、江漢の文章とはことなってしまいますので、岡崎から池鯉鮒・鳴海に至る間のという理解か?

「八ツ橋かき川者゛多能名所」、『伊勢物語』など歌枕で有名な名所。八橋伝説地。

「今川能亡ヒタル所」、「タル所」が一行前の「名所」とそっくり。

「三日」、天明8年七月三日。1788年8月4日。

 

2025年1月10日金曜日

江漢西遊日記二 その10

P14 東京国立博物館蔵

(読み)

家(イヱ)能可原 本 野ガ原 此 間  ニして木なく

  いえ のがはらほんのがはらこのあいだにしてきなく


木陰(カケ)なくして誠  尓暑 シ夫 より松 原 を

こ  かげ なくしてまことにあつしそれよりまつばらを


行 事 一 里余  漸  ク尓して御油(ゴユ)往 来 へ出

ゆくこといちりあまりようやくにして   ごゆ おうらいへで


多り掛 川 より入りて爰 迄 五十 町  一 里尓

たりかけがわよりいりてここまでごじっちょういちりに


して二十  七 里大 難 所 なり七 月 朔

してにじゅうしちりだいなんしょなりしちがつつい


日 也 角 屋宿  ヲ出  立 し多る日なりご油ヘ出て

たちなりかどやしゅくをしゅったつしたるひなりごゆへでて


け連ハ誠  尓江戸へかえ里多る心 ちし多り

ければまことにえどへかえりたるここちしたり


赤(アカ)坂 宿  八 文 字や市 三 郎 方 ニ泊 ル

  あか さかしゅくはちもんじやいちさぶろうかたにとまる


七 月 二 日能キ天 氣至  テ暑 シ赤 坂 ヲ正  六ツ

しちがつふつかよきてんきいたってあつしあかさかをしょうむつ


時 尓出  立 して岡 崎 ニ至 ル尓四ツ時 少  過 ナリ

どきにしゅったつしておかざきにいたるによつどきすこしすぎなり

(大意)

(補足)

 一行目の「原」の右下に句点「。」が付いています。

「七月朔日」、天明8年七月一日。1788年8月2日。

「角屋宿ヲ出立し多る」、門屋宿。修正する前は「泊リシ」とあります。

「御油・赤坂・岡崎」、昨日と同じ「秋葉山参詣道法図」、 

よく見ると宿場(村)から宿場(村)まで一リ、一リ半 or 御油から赤坂まで十六丁(東海道の宿場の中で最も短い。また松尾芭蕉「「夏の月 御油より出でて 赤坂や」が有名)などと距離が示されています。

 賑やかな御油宿そして赤坂宿へ出て、江戸が恋しくなてしまった江漢さん、気持ちはわからないでもありません。

 赤坂宿から藤川宿までが2里9町(8.8km)、藤川宿から岡崎宿までが1里25町(6.7km)なのであわせて15.5km。江漢さんは「正六ツ時(朝6時)尓出立して岡崎ニ至ル尓四ツ時(10時)少過ナリ」でしたので約4時間かかっています。一里(4km)を約1時間が歩く標準の速さですから、速くもなく遅くもないという歩調であったことがわかります。

 

2025年1月9日木曜日

江漢西遊日記二 その9

P13 東京国立博物館蔵

(読み)

石 階(サカ)を少 シ下 リて薬 師堂 本 堂 なり末(マツ)

いし  さか をすこしくだりてやくしどうほんどうなり  まっ


社 堂 ノ後 ロニ多 し左  ノ方 岩 尓そふて塔 アリ

しゃどうのうしろにおおしひだりのほういわにそうてとうあり


夫 よりして石 階 を下 ル事 九  町  其 半  ニ十

それよりしていしさかをくだることきゅうちょうそのなかばにじゅう


二坊 天 台 真 言 ノ二派あり学 頭 ニ天

にぼうてんだいしんごんのにはありがくとうにてん


台 尓松  高 院 真 言 ニ醫王 院 の二坊

だいにしょうこういんしんごんにいおういんのにぼう


なり山 を下 リ津くせハ角 屋町  旅 館 多 し

なりやまをくだりつくせばかどやちょうりょかんおおし


爰 ヲ過 て瀧 川 へ出ル舟 ニて渡 ル銭 か免

ここをすぎてたきがわへでるふねにてわたるぜにかめ


村 あり三 里 を行 て新 城 と云 処  人 家續 キ

むらありさんりいをゆきてしんしろというところじんかつづき


て冨商  あり夫 より野田ヘ二里十  六 町  大

てふしょうありそれよりのだへにりじゅうろくちょうおお


木村 ヘ三 里豊 川 左  ニ見テ小ナカフど可原

きむらへさんりとよかわひだりにみてこなこうどがわら

(大意)

(補足)

 江漢の歩いた鳳来寺山から御油への路で村名ののった地図をネットで探すと、この一枚だけしか見つかりませんでした。秋葉山参詣道法図。 

 地図の中央から左よりの部分になります。鳳来寺山を下ると門谷、川の手前が滝川、渡ったところが銭亀村。「三里行て」新城、Y字路の合流地点なので栄えたようです。さらに野田、大木村と地名が確認できます。

「小ナカフど可原」、小奈高戸が原。

 

2025年1月8日水曜日

江漢西遊日記二 その8

P12 東京国立博物館蔵

(読み)

なされるおん方 と問ふ我 等ハ江戸の者

なされるおんかたととうわれらはえどのもの


ニて画を描ク者 なりと云ヒ希れハ左様 なる

にてえをかくものなりといいければさようなる


お方此 邊 ノ地ヘお出 希(マレ)なり何 卒 両  三 日

おかこのへんのちへおいで  まれ なりなにとぞりょうみっか


私   宅 ヘお滞 留  あれと申  个連ど留(トゞマ)ら春゛

わたくしたくへおたいりゅうあれともうしけれど  とどま らず


して去リぬ夫 より鳳 来 寺山 尓かゝる尓

してさりぬそれよりほうらいじさんにかかるに


板 じき川 と云 流 レアリ浅 くして川 の底 皆

いたじきかわというながれありあさくしてかわのそこみな


板 の如 き岩 なり程 なく山 尓登 る尓行

いたのごときいわなりほどなくやまにのぼるにぎょう


者 越 と云 処  一 二町  岩 石 を踏(フミ)攀(よじ)て登 る

じゃごえというところいちにちょうがんせきを  ふみ   よじ てのぼる


頂(イタゞ)きまで五十 町  遥(ハルカ)尓遠 州  海 見へる

  いただ きまでごじっちょう  はるか にえんしゅうかいみえる


山 々 波 能如 し三 四 町  下 リて権 現 の祠  アリ

やまやまなみのごとしさんよんちょうくだりてごんげんのほこらあり

(大意)

(補足)

「希れハ」、「希(マレ)なり」、同じ「希」ですけど、後者はほぼ楷書、前者は変体仮名です。

 前回と同じ地図になりますが、なるほど鳳来寺山からは遠州海が望めそうです。 

 弁喜は天秤棒に衣類や様々な物品をのせて運んだはずですけど、ほんとにこんな「岩石を踏(フミ)攀(よじ)て登る」ようなところを、天秤棒担いで歩んだのでしょうか?

 

2025年1月7日火曜日

江漢西遊日記二 その7

P11 東京国立博物館蔵

(読み)

せけれハあき連て誠  なりとせ春゛吾(ワレ)た王

せければあきれてまことなりとせず   われ たわ


武れ尓曰  之 ハたゞ見セてハならぬ一 人三 十  二文

むれにいわくこれはただみせではならぬひとりさんじゅうにもん


宛 出春へしと云ヘハまことニして各 \/銭 を

ずつだすべしといえばまことにしておのおのぜにを


出し希り山 中  能人 質(シツ)朴(ボク)なる事 かく能如 し

だしけりさんちゅうのひと  しつ   ぼく なることかくのごとし


巣(ス)山 へ一 里カウレ峠  亦 坐頭 轉  シ四十  四曲  坂

  す やまへいちりかうれとうげまたざとうころがししじゅうしまがりさか


を下 リ三河 遠 州  堺  能峠  一 里半 五十 町  一 里ニ

をくだりみかわえんしゅうさかいのとうげいちりはんごじっちょういちりに


して大 難 所 也 殊  尓炎 暑 にしてあせを絞(シホリ)

してだいなんしょなりまことにえんしょにしてあせを  しぼり


个る程 なく大 野と云 へ出テ人 家津ゞけり

けるほどなくおおのというへでてじんかつづけり


爰 能問 屋ハ醫者(イシヤ)なり其 ゐ者 の云フ尓ハあ

ここのとんやは   いしゃ なりそのいしゃのいうにはあ


なタハさし付 多る申  分ンニハ候  得共 何ニを好 ミ

なたはさしつけたるもうしぶんにはそうらえどもなにをこのみ

(大意)

(補足)

「巣山、大野」、大雑把な地図ですけど、参考までに。

「あなタハさし付多る申分ンニハ候得共」、不躾(ぶしつけ)なことをお聞きしますが、のような意味でしょうか。候得共は3文字セットで覚えるくずし字重要語句です。

 江漢さんも人が悪い。「た王武れ」とはいえ「一人三十二文宛出春へし」は、江戸ではかけそば二杯程度の銭でも、この山奥でその貧しさを見てきてわかっているだろうに、しかし「まことニして各\/銭を出し」たのだから、「山中能人質(シツ)朴(ボク)なる事かく能如し」なんて感心してないでくださいな。

 こんな辺鄙な山奥でも銭が流通していたのは、秋葉街道付近は多くの人たちでにぎわっていたからでしょうか。


 

2025年1月6日月曜日

江漢西遊日記二 その6

P10 東京国立博物館蔵

(読み)

廿   九日 天 氣ニて明 方 熊 村 庄  屋孫 右衛門方

にじゅうくにちてんきにてあけがたくまむらしょうやまごえもんかた


を出  立 春四面 能山 より霧(キリ)モヤを起 シ

をしゅったつすしめんのやまより  きり もやをおこし


山 中  能景色 なり人 足 能者 話(ハナシ)尓去 年

さんちゅうのけしきなりにんそくのもの  はなし にきょねん


能事 ニて此 山 中  尓て小童 草を刈(カリ)し尓

のことにてこのさんちゅうにてこどもくさを かり しに


何 ヤラ獣  出て飛 かゝ里个連ハ一 人ハ尓げ

なにやらけものでてとびかかりければひとりはにげ


多り跡 行 見れハ頭  ばかり残 シてあり当 年

たりあとゆきみればあたまばかりのこしてありとうねん


毛大 能男  お和れ个る何 ニと云 獣  ヤラ色 ハ赤 ク

もだいのおとこおわれけるなににというけものやらいろはあかく


覚(ヲホヘ)多るトヤ亦 江戸と申  処  ハと能様 なる処  と聞ク

  おぼえ たるとやまたえどともうすところはどのようなるところときく


故 尓荷の内 ニ我 等造 リ多る覗(ノソキ)目か年を所

ゆえににのうちにわれらつくりたる  のぞき めがねをしょ


持春両  国 橋 の圖江戸橋 能づあり之(コレ)を見(ミ)

じすりょうごくばしのずえどばしのずあり  これ を  み

(大意)

(補足)

「廿九日」、天明8年六月廿九日。西暦1788年8月1日。

「覗(ノソキ)目か年」、18世紀ヨーロッパに各地名所絵とともに流行し、これがまもなく中国、日本に伝来した。円山応挙が1750年代に京都名所の眼鏡絵を制作したのは有名。江漢はこの器具を自作銅版画の眼鏡絵数点とともに携行していた。反射式覗き眼鏡は神戸市立博物館のHPで見ることが出来ます。

「両国橋の圖」、もとの画は反射式眼鏡絵として制作されたので左右反対の構図となってますので、ここではそれを反転させています(題名が鏡文字になっています)。

 手前の出店は両国橋の西岸のにぎわい、両国橋の上にはたくさんの人々が細かく描かれています。隅田川の上流に見える橋は吾妻(東)橋。その左側に大きな屋根は浅草寺でしょう。

「江戸橋能づ」、もと画は色付き。 


 


 

2025年1月5日日曜日

江漢西遊日記二 その5

P7 東京国立博物館蔵

P8P9

(読み)

誠  尓深 山 ニして渓 水 飛ヒ流  ル日も晩 景 ニなり

まことにしんざんにしてけいすいとびながるるひもばんけいになり


け連ハ庄  屋の家 尓泊 ル此 家 障  子なし夜 ニ

ければしょうやのいえにとまるこのいえしょうじなしよるに


なれとも燈 火なし松 の婦しをともしびと春

なれどもとうかなしまつのふしをともしびとす


寝入りて夜更(フケ)猪(シゝ)を追(ヲ)フ聞(コヱ)をきく江戸

ねいりてよ  ふけ   しし を  お う  こえ をきくえど


尓産 れて此 山 中  ニ至 ル事 初 メなりハ奇妙

にうまれてこのさんちゅうにいたることはじめなりばきみょう


尓珍ツラしく思 ヒぬ爰 迄 来ル路 より人 をや

にめずらしくおもいぬここまでくるみちよりひとをや


とゐ荷物 を為持 し尓廿   二三 能女  なり

といにもつをもたせしににじゅうにさんのおんななり


ひ多ゐニて背(セ)負(ヲゝ)なり顔 色 を見れハ相(ソヲ)

ひたいにて  せ   おう なりかおいろをみれば  そう


應 尓見ヘ衣(イ)装(セ ウ)を能くし化粧(ケセ ウ)春るならハ

おうにみえ  い   しょう をよくし   けしょう するならば


美人 とも云 へし可゛かゝる山 家尓産(ウマ)れて

びじんともいうべしが かかるさんかに  うま れて

P8

かゝる王ざを春る事 哉 とて感 じ个連

かかるわざをすることかなとてかんじけれ


熊 村 の圖

くまむらのず

P9

鳳(ホウ)来(ライ)寺ノ方

  ほう   らい じのほう


重  山 かきりなく

ちょうざんかぎりなく


見ヘル

みへる

(大意)

(補足)

「松の婦しをともしび」、松は油分が多いので松明などに使われますが、大きな節の部分は製材するときに除かれて捨てられてしまいます。貧しい庄屋ではそれらも燃やして灯火としたのかもしれません。

「猪(シゝ)を追(ヲ)フ」、山深い地域、獣のほうが優勢でしょうから、夜更けでもなんでもいつでも、作物を守らなければ食べていけなかった。

「ひ多ゐニて背(セ)負(ヲゝ)なり」、「庵原深山の婦人(西遊旅譚一)」の画。「廿二三能女」には見えませんが・・・ 

 熊村の図はなるほど険しい。江漢の手になると、どこかのどかな雰囲気になってしまいますけど。P9の下の方をよく見ると、天秤棒をかついでいる人が小さく描かれています。これはきっと下僕の弁喜に違いありません。

 また囲いのようなものがいたるところにありますが、これが獣よけの柵なのでしょう。

街道の一里とは全く異なり、山路・渓谷・川など乗り越え渡らなければならぬものがたくさんあって、その大変さはちょっと想像がつきません。がんばれ弁喜!


 

2025年1月4日土曜日

江漢西遊日記二 その4

P6 東京国立博物館蔵

(読み)

サイ河 ハ天 龍  河 能源(ミナモト)なり川 原ヒヨ\/

さいかわはてんりゅうがわの  みなもと なりかわらひよひよ


と廣 く此 河 舟 渡 シ何(イツ)くを見ても渡 し

とひろくこのかわふなわたし  いづ くをみてもわたし


舟 見得春゛人 の足 跡 あるを見て行 ハ渡 し

ふねみえず ひとのあしあとあるをみてゆけばわたし


場なりと思 ひし尓人 能足 跡 ニハあら春゛獣

ばなりとおもいしにひとのあしあとにはあらず けもの


の足 跡 なり夫 より大 音 ニて舟 よ\/ と

のあしあとなりそれよりだいおんにてふねよふねよと


呼ヒ个連ハどこかゝら舟 出テ个連ハ其 舟 尓

よびければごこかからふねでてければそのふねに


能里渡 里个る六 月 能炎 暑 なれハ往 来 ノ

のりわたりけるろくがつのえんしょなればおうらいの


人 且 てなき故 なり渡 シ守 一 人二 人を渡 シ

ひとかってなきゆえなりわたしもりひとりふたりをわたし


てハ賃(チン)銭 不取  可故 なりとぞ爰 より石 打チと云フ

ては  ちん せんとれざるがゆえなりとぞここよりいしうちという


処  ヘ出 亦 二里を過 て熊(クマ)村 と云フ処 ロ山 の中  段

ところへいでまたにりをすぎて  くま むらというところやまのちゅうだん

(大意)

(補足)

「ヒヨ\/」、辞書にあるのですけど意味は『① (赤ん坊のひよめきなどが)弱々しく動くさま。ひくひく。② ひな鳥などの鳴き声を表す語。ぴよぴよ』とあって、広くにはつながりません。ヒロビロと広いとしても意味が重なってしまうけど、とても広い河原という意味なら通じそうです。

「此河舟渡シ」、「舟よ\/」、ここの「舟」のくずし字は独特、たびたび出てきています。

「六月能炎暑」にもかかわらず、ニギリ飯を食う場面の江漢さんはやや厚着の旅装束。

「石打」、「熊」の場所はこのあたり。 

 掛川から森・三倉・一ノ瀬宿と北上し、秋葉山で西へ、戸倉・石打・熊宿まできました。

 

2025年1月3日金曜日

江漢西遊日記二 その3

P3 東京国立博物館蔵

P4P5

(読み)

御卦(クワ)保うなる事 かなお江戸ハ能ヒ処  と承    リま

ご  か  ほうなることかなおえどはよいところとうけたまわりま


春爰 ハまあお聞キなされまし米 とてハ一 粒

すここはあまおききなされましこめとてはひとつぶ


もなしヒヱ麦 尓芋(イモ)能食  尓い多しま春其 上

もなしひえむぎに  いも のしょくにいたしますそのうえ


塩可拂(フツ)底(テイ)味噌など得か多く生(ナマ)魚(サカナ)とてハ

しお  ふっ   てい みそなどえがたく  なま   さかな とては


見多者 一 人もごさらぬ昼 ハ猿(サル)の者゛んをい多し

みたものひとりもござらぬひるは  さる のば んをいたし


夜 ハ猪(シゝ)を追(ヲイ)ま春ご覧 の通 リ畑  の廻(メク)りニ

よるは  しし を  おい ますごらんのとおりはたけの  めぐ りに


かこひをい多しま春猿 ハ其 かこひを飛 越して

かこいをいたしますさるはそのかこいをとびこして


麦 ヤヒヱをあらしま春と話(ハナシ)个る握(ニキリ)飯シ能

むぎやひえをあらしますと  はなし ける  にぎり めしの


喰ひ残 リを四 ツ五 ツ能小童(コトモ)尓遣  シ个連ハ誠  ニ

くいのこりをよっついつつの   こども につかわしければまことに


まんぢ うでももろふ多様 尓よろこび个る也

まんじゅうでももろうたようによろこびけるなり

P4P5

サイ川 へ休 ミ多る図

さいかわへやすみたるず

(大意)

(補足)

「卦(クワ)保う」、果報。

 麦やヒエの畑を、昼は猿を夜は猪を追い払い、寝ずの番をしているとあります。鹿の被害もあったことでしょう。

 わたしの住んでいる少し山奥の村では今でも同様で、年寄りたちが育てた農作物を収穫できる時になるときまって猿・猪など獣が食い荒らして台無しにしてしまいます。丹精込めて育てた年寄りたちはがっかりして落ち込みそのままそのまま寝込んでしまう人もいます。そしてそのようなことを繰り返すと楽しみであった農作物の世話をする気力もなくなってしまいます。

 猿は鳥獣保護法で守られていて、捕まえることを禁じられていますから、やりたい放題で、住民が気力をなくしそのまま寝たきりになってしまう人たちも少なくないというのに、役所は知っていても何もしません。

 山の動物達とは共存共栄が一番ではありますが、でしゃばってくる獣には断固、対処しないと彼らもまずいことであると気づくわけがありません。

 捕まえてこらしめて、孫悟空がされたように体のどこかに輪っかをはめて、山奥に放すのがよさそうです。

 図は優しいまなざしが感じられます。子どもの表情がちっとも子どもらしくありません。食べているのはもらったばかりの握り飯でしょう。

 江漢とボクの弁喜の旅姿が詳しくわかって興味深い。天秤棒でかついで、山道を何十キロも歩いたかとおもうと、たしかまだ16歳だった弁喜のたくましさに頭が下がります。

 江漢は左手に箸をもっていますが、右手には竹皮に包んだニギリ飯、左利きだったのでしょうか。

 

2025年1月2日木曜日

江漢西遊日記二 その2

P2 東京国立博物館蔵

(読み)

大 登山 月 丹 の筆 なり堂 ハ南 面 本 尊

だいとざんげったんのふでなりどうはなんめんほんぞん


観 音 を安 置春鎮 守 南 向 権 現 の社  アリ

かんのんをあんちすちんじゅなんこうごんげんのやしろあり


寺 ハ禅 宗  秋 葉寺 と云 是 ヨリ三河 の国 の

てらはぜんしゅうあきばでらというこれよりみかわのくにの


鳳(ホウ)来(ライ)寺ヘ行ク路 也 即  チ寺 の後  ロ より坂 を

  ほう   らい じへゆくみちなりすなわちてらのうしろくちよりさかを


下 ル事 五十  町  戸倉 と云 処  ニ至 ル山 坂 多(ヲゝ)シ

くだることごじゅっちょうとくらというところにいたるやまさか  おお し


半 里過 てサイ河 なり爰 ニて休 ミ昼  食キ

はんりすぎてさいかわなりここにてやすみちゅうじき


せんとて腰 なるコリを取 出しニギリ飯 を喰 ン

せんとてこしなるこりをとりだしにぎりめしをくわん


とて当 リを見し尓老 婆一 人居テ云 ニハあな多(タ)ど

とてあたりをみしにろうばひとりいていうにはあな  た ど


ちら能お国 のお方 でござると申  故 尓吾(ワレ)等ハ

ちらのおくにのおかたでござるともうすゆえに  われ らは


江戸の者 と云イ个連ハ者゛ゞ能云フ様 ハ夫 ハ\/

えどのものといいければば ばのいうさまはそれはそれは

(大意)

(補足)

 前頁に続いて、鳥居の額には「金明嶺」とあり、山門に「最勝関」そして本堂には「大登山」とあって、月丹の筆とあった。堂は南に面していて、本尊は観音様を安置している。鎮守に南向権現の社がある。寺は禅宗秋葉寺という。

「秋葉寺」、大登山秋葉寺、曹洞宗、秋葉権現があり、鎮火・防火の大神として信仰をあつめた。

「鳳来寺」、三河第一の寺。仁王門と東照宮は江戸初期の建物で重要文化財。

「サイ河」、犀川。秋葉路が通るこの遠江から三河にかけての山間部一帯は天領で中泉代官所の支配、とありました。

「コリ」、行李(こうり)に同じ。『こうり かう―行李・梱】

① 竹または柳などで編み,衣類や旅行用の荷物などを入れるのに用いるかぶせ蓋(ぶた)つきの入れもの。こり。』

「当り」、🎯ではなくて「辺り」。

 この頁の次の次にこの話の部分が画に描かれています。 

2025年1月1日水曜日

江漢西遊日記二 その1

P1 東京国立博物館蔵

(読み)

麓  の前 尓瑞 雲 坂 下 り瑞 雲 寺あり夫 よりして

ふもとのまえにずいうんさかくだりずいうんじありそれよりして


小  天 龍  と云 川 亦 乾  川 舟 渡 し乾  村 アリ

しょうてんりゅうというかわまたいぬいかわふなわたしいぬいむらあり


人 家津々く又 麓  迄 ニ坂 アリ爰 まて掛

じんかつづくまたふもとまでにさかありここまでかけ


川 より五十  町  九  里の路 なり山 々 高 く杉 松 の

がわよりごじゅっちょうきゅうりのみちなりやまやまたかくすぎまつの


木茂 ル秋 葉参 詣 能往 来 なれハ山 中  と

きしげるあきはさんけいのおうらいなればさんちゅうと


いえど酒 等 アリ泊 リをスル家 モアリ樵  婦も

いえどさけなどありとまりをするいえもありしょうふも


田婦も山 中  といえとひんさしを入 髪 を結ウ

たふもさんちゅうといえどびんさしをいれかみをゆう


なり麓  より山 尓登 る事 五十  町  なり先

なりふもとよりやまにのぼることごじゅっちょうなりまず


唐 か年能鳥 居尓額 アリ金 明 嶺  とあり

からかねのとりいにがくありきんめいりょうとあり


三 十  町  過 て山 門 尓最 勝  関 とアリ本 堂 ニ

さんじゅっちょうすぎてさんもんにさいしょうかんとありほんどうに

(大意)

(補足)

 あけましておめでとうございます。

本年もよろしくおねがいします。

青空快晴の元旦です。気持ちいいね♪

 本日から、(江漢西遊日記二)のはじまりです。

最初の一文字目から、「林」+「廉」のようなくずし字です。「麓」でした。

「乾川」、「乾村」、ともに「乾」は「犬居」。

 秋葉街道のにぎわいは険しい山路にもかかわらず、かなりなものだったようで、ネットのコトバンクから引用ですが、このようにありました。

『南から登る道が表参道。東海道掛川宿の西にある秋葉鳥居をくぐって秋葉街道に入る。この鳥居は「東海道名所図会」をはじめ各種の浮世絵に描かれ、シーボルトもケンペルも記録している。ここから秋葉山までの間で人馬継立ができるところは森もりと三倉みくら(ともに現森町)、堀之内ほりのうち村の小奈良安こならやすと犬居いぬい(ともに現春野町)であった。森の町は遠州の小京都といわれ、旅籠屋や茶店・商店が並んでいたので「遠州森町なぜ日がささぬ、秋葉道者の笠の蔭」と歌われるほど秋葉道者で賑わっていた。ここから三倉川に沿って進み、曲がりくねった川には橋も渡船もないから川の中を何度も渡って行かなくてはならなかった。このことから三倉川を四十八瀬しじゆうはつせ川とか伊呂波いろは川といった。滝沢馬琴は「いろはにほへとほつあふみや仮名の数四十八瀬も越えていつ京」と歌っている(羇旅漫録)。たくさんの川を渡り終えて一いちノ瀬せ(現森町)に着くと「川祝」の酒を飲む人もいた』。

「ひんさし」、『びんさし鬢差し】

女子の結髪用具の一つ。鬢の髪を振り出させるために,その中へ挿入する具。鯨のひげまたは銅線をまげて弓のような形にしたもの。江戸中期に流行した。上方では「鬢張り」と称した』。

「五十町九里の路なり」、一町は六十間、約109m。一里は36町、約3927.3m。この距離を求めると、なんと約40.796km。平坦な道ではなくて、急峻な山坂に幾筋もの川があるところでのこの距離です。昔の人達はまったく恐ろしいほどに健脚なことかとおもいます。そしてたくさんの人たちで秋葉参詣の街道はにぎわったのですから、うーん、すごい!