2025年1月31日金曜日

江漢西遊日記二 その31

P39 東京国立博物館蔵

(読み)

見 物 所  々  散 歩して其 所  能風 俗 を見ル尓

けんぶつところどころさんぽしてそのところのふうぞくをみるに


婦人 總 て越 後縮 ミ次 ハさらし呂(ロ)ハさら尓なし

ふじんすべてえちごちじみつぎはさらし  ろ はさらになし


宮 参 リ春る婦人 呂(ロ)ニて綿 帽 子の如 ク之 を

みやまいりするふじん  ろ にてわたぼうしのごとくこれを


戴(イタ々)く町  数 五六 町  四方 也 江戸より暖 氣

  いただ くちょうすうごろくちょうしほうなりえどよりだんき


地面 も砂 地ニして雨 ヤムと忽  チ草 履ニテ

じめんもすなちにしてあめやむとたちまちぞうりにて


よろし江戸能様 尓ぬかる事 なし蚊

よろしえどのようにぬかることなしか


多 くして蚊甚  タ大 キし

おおくしてかはなはだおおきし


廿   八 日 天 氣少  々  曇 ル晩 方 雨 雷   も少  々  なる

にじゅうはちにちてんきしょうしょうくもるばんがたあめかみなりもしょうしょうなる


八 部山 眺  望 能冨士大 横 物 出来ル

はちべさんちょうぼうのふじおおよこものできる


福 禄 寿 の画三 省 ニ贈 ル

ふくろくじゅのえさんせいにおくる

(大意)

(補足)

「呂」、『ろ【絽】からみ織りの一種。たて糸とよこ糸をからませて透き目を作った絹織物。涼感があり,盛夏用。絽織り』。同じ夏の着物に『しゃ【紗】生糸を用いた搦(から)み織りの一。二本のたて糸がよこ糸一本ごとにからみ合う織物。織り目が粗く,薄くて軽い。夏の衣服地とする。うすぎぬ。うすもの。紗織り』があります。

「江戸能様尓ぬかる事なし」、江戸はもともと湿地であったし、埋立地が多かったので、どこでもぬかるみがひどかったといわれています。

「廿八日」、天明8年七月廿八日。1788年8月29日。

「八部山眺望能冨士」は江漢西遊日記一にあった画ですが、ほぼこれと同じだったでしょうか。


 道中せっせと請われるままに筆を振るって路銀を稼いでいます。

 

2025年1月30日木曜日

江漢西遊日記二 その30

P38 東京国立博物館蔵

(読み)

    春三 省 方 ヘ参 リ喰  事酒 肴 出タ春日暮(クレ)

けんぶつすさんせいかたへまいりしょくじしゅこうでだすひ  くれ


て山 参  とて其 山 尓テ ウチン数 \/とほし

てやままいりとてそのやまにちょうちんかずかずとぼし


夫 ヘ参 ル事 也 夜 ニ入  日永 源 兵衛も来 ル亀(キ)

それへまいることなりよるにはいりひながげんべえもきたる  き


六 お山 一 人連レ来 ル此 間  湯の山 ニて見タル

ろくおやまひとりつれきたるこのあいだゆのやまにてみたる


婦  なり亦 近 邊 能娘  十  七 八 の者 参 ル美(ヒ)

おんななりまたきんぺんのむすめじゅうしちはちのものまいる  び


人 なり物 云 よし髪 ハ京  風 嶋 田く津し

じんなりものいいよしかみはきょうふうしまだくずし


を後 ロ能曲(ワケ)を多 く出し前 能方 ハ少 しニして

をうしろの  わげ をおおくだしまえのほうはすこしにして


竿   尓ヒツかけ津と毛春こし出シ多り江戸能

こうがいにひっかけつともすこしだしたりえどの


女  より至  てよし赤(アツキ)飯(メシ)家ゴトニ出来 ルなり

おんなよりいたってよし  あずき   めし いえごとにできるなり


廿   七 日 天 氣暑 シ四時より四 日市 へ参 ル祭 り

にじゅうしちにちてんきあつしよじよりよっかいちへまいるまつり

(大意)

(補足)

「三省」、久保幸助のことか。

「竿」、「笄(こうがい)」の誤字。『こうがい かう―【笄】〔「髪搔(かみかき)」の転〕① 髪を整えるための道具。毛筋を立てたり,頭のかゆいところをかいたりするための,箸に似た細長いもの。男女ともに用いた。象牙・銀などで作る。

② 江戸時代の女性用髪飾りの一。髷(まげ)などに挿す。金・銀・鼈甲(べつこう)・水晶・瑪瑙(めのう)などで作る』

「つと」、『つと 【髱】→たぼ(髱)に同じ』『たぼ【髱】

① 日本髪で,後方に張り出た部分。たぼがみ。たぶ。つと。

② 若い婦人。「いい―でもあつたら,此むすこをだしぬくめえよ」〈滑稽本・東海道中膝栗毛•初〉』

「廿七日」、天明8年七月廿七日。1788年8月28日。

「四時」、午前十時。

 絵師だからなのか、女好きだからなのか、婦人や娘たちを入念に観察しています。しかしながら、日常の文化風俗の観察結果でもあります。 

2025年1月29日水曜日

江漢西遊日記二 その29

P37 東京国立博物館蔵

(読み)

あり又 川 ありて水 車 能樋(トイ)の中 を行キて

ありまたかわありてすいしゃの  とい のなかをゆきて


向 フへ越し夫 より程 なく日暮 日永 ヘ二十

むこうへこしそれよりほどなくひぐれひながへにじゅう


四五町  を過 て行 付ける

しごちょうをすぎてゆきつける


廿   四 日朝 天 氣晩 方 大 雨 夜中 ヤマズ主 人

にじゅうよっかあさてんきばんがたおおあめよなかやまずしゅじん


と咄 春よくそや帰 リ多り菰 野山 中  嘸 々

とはなすよくぞやかえりたりこものさんちゅうさぞさぞ


大 水 ならんと申  个り

おおみずならんともうしけり


廿   五日 天 氣時 々 雨 四 枚 襖  墨 画認  メル

にじゅうごにちてんきときどきあめよんまいふすますみがしたためる


廿   六 日 天 氣アブラ照 暑 シ四 日市 諏訪

にじゅうろくにちてんきあぶらでりあつしよっかいちすわ


祭  ナリ夜 営 ニて亀六 と参 ル京  風 能山 と

まつりなりよいみやにてきろくとまいるきょうふうのやまと


云フ物 出ル冨士能巻 狩(カリ)の袮里物 を見 物

いうものでるふじのまき  がり のねりものをけんぶつ

(大意)

(補足)

「日永」、今まで読みを間違えていました。「ひなか」です。西遊旅譚一には日永村「ひながむら」と振り仮名があります。

「廿四日」、天明8年七月廿四日。1788年8月25日。

「嘸々」、読みをおもいだそうと試みるもダメでした。漢字変換「さぞ」で出てきます。

「四日市諏訪祭」、往古から毎年七月二七日と定まっていた。戦争により諏訪神社をはじめ練りもの(袮里物)も焼失し、往時の豪華な姿をしのぶことはできない、とありました。 

                                                                     西遊旅譚一の図

 屋根の隣家との境にある衝立みたいなものが特徴的です。七月十五日に「家能建方大家(ヲゝヤ)根(ネ)のノキを長ク出して隣の堺尓ヘキリとてへゐ能様なる物を入ルなり」とあったのが、これでしょう。

「夜営」、『よいみや よひ―【宵宮】〔「よみや」とも〕

神社の本祭りの前夜,時には数日前に行われる祭り。宵祭り。宵宮祭り。夜宮。季夏』

「四枚襖墨画認メル」、これはけっこうな大作。ちょうどお祭りのときで、たくさんの人が見に来たのではないでしょうか。

 

2025年1月28日火曜日

江漢西遊日記二 その28

P34 東京国立博物館蔵

P35

(読み)

日永 ヘ帰 るべしとて鈴 木氏を出て行ク事

ひえいへかえるべしとてすずきしをでてゆくこと


一 里大 雨 ヤマヅ佐倉 一 色 村 と云 処  アリ

いちりおおあめやまずさくらいっしきむらというところあり


爰 尓御瀧 河 の末 と云 巾 八 九間 アリ手と

ここにおたきかわのすえというはばはっくけんありてと


手を組ンて渡 ル尓向 フ能土手の後 ロより人 出て

てをくんでわたるにむこうのどてのうしろよりひとでて


云フ其 橋 能落チ多る跡 ハ首 も多ゝ春゛と教 へ

いうそのはしのおちたるあとはくびもたたず とおしえ


多り夫 より路(ミチ)なし田能あぜを四五町  者か

たりそれより  みち なしたのあぜをしごちょうばか


里行ク四面 人 家なし雨 ハま春\/降リて

りゆくしめんじんかなしあめはますますふりて


日ハ暮れかゝ里个連ハ心  細(ホソ)くなり个る路一(イツ)

ひはくれかかりければこころ  ほそ くなりけるみち いっ


向(コウ)フ志れ春゛田ハ深 田ニて婦ミ込メハ和らじをシタ

  こう うしれず たはふかだにてふみこめばわらしをした


ヘ置 て足 をぬく漸 \/尓して堤  ヘ至 ル家 一 軒

へおきてあしをぬくようようにしてつつみへいたるいえいっけん

P35

菰 野路なんき

こものじなんぎ


の図

のず


誠  ニ此 時 ノ

まことにこのときの


なんき不可言

なんぎいうべからず


其 時 ひろい多る

そのときひろいたる


石 を持 返 リて

いしをもちかえりて


難 義石 と

なんぎいしと


名ツケ碁 石 を

なずけそのいしを


見て其 時 の

みてそのときの


事 を思 ひ出し个連

ことをおもいだしけれ

(大意)

(補足)

「佐倉一色村」、四日市に流れ込む川を遡り、二股に分かれる右の支流を少し上ると「櫻一色村」がありました。またその付近に佐倉村もあります。 


「漸\/」、この3行まえに「ま春\/」があり、そこの「\/」とおなじかたちになってます。

 こんな暴風の中でも腰に刀をさしています。従者はさすがに天秤棒はなし。大嵐なので雨は線でなく、筆ではらって恐ろしさを強調したようです。

 

2025年1月27日月曜日

江漢西遊日記二 その27

P33 東京国立博物館蔵

(読み)

三 ツ能谷 川 を越ヘ人 足 をかえし夫 ヨリ二 人して

みっつのたにかわをこえにんそくをかえしそれよりふたりして


一 里ある原 ニ至 ル尓雨 ハ頻 リ尓大 婦りとなり

いちりあるはらにいたるにあめはしきりにおおふりとなり


原 ハ小 サキ笹 の生  して芝 の如 くニして細(ホソ)キ

はらはちいさきささのしょうじてしばのごとくにして  ほそ き


路 僅(ワツカ)尓して其 歩 武路(ミチ)瀧 の如 し誠  ニ

みち  わずか にしてそのあゆむ  みち たきのごとしまことに


なんきなり亦 一 ツ能川 あり谷 川 尓ハ非ラサレ

なんぎなりまたひとつのかわありたにかわにはあらざれ


とも水 出ン事 を恐 レいそぎ行 个る尓者多して

どもみずでんことをおそれいそぎゆきけるにはたして


水 まし股 切リ尓て越へ个る夫 より松 原 ヘ出テ

みずましももきりにてこえけるそれよりまつばらへでて


漸  く鈴 木氏能宅 ヘかへ里ぬ飯 酒 を出シ

ようやくすずきしのたくへかえりぬめしさけをだし


个る比 ハ八 時過 ニて雨 頻 リ尓降リヤマヅ日

けるころははちじすぎにてあめしきりにふりやまずひ


永 迄 参 ル路 ニ川 あり水 能出ン事 を恐(ヲソ)れて

えいまでまいるみちにかわありみずのでんことを  おそ れて

(大意)

(補足)

「鈴木氏能宅ヘかへ里ぬ」の画(P36)。

菰野

鈴木久右

衛門宅

「股切リ尓て」、「股(ももだち)立を取る」は「動作を便利にするために,股立をつまみあげて,帯または袴(はかま)の紐(ひも)にはさむこと」で、ここでは濡れないように「はしょ・る〔「はしおる」の転〕① 着物の裾をからげて端を帯などにはさむ。「裾を―・ってかけ出す」というような意味でしょう。

「八時」、昼の二時頃。お八(やつ)どき。

 土地の人たちの助言に従っていればよいものをと、(しつこいですが)苦言を呈したくなります。

 

2025年1月26日日曜日

江漢西遊日記二 その26

P32 東京国立博物館蔵

(読み)

を見せる皆 々 感 心 春る

をみせりみなみなかんしんする


廿   三 日 朝 ヨリ風 雨山 々 雲 を吐キい川天 氣尓

にじゅうさんにちあさよりふううやまやまくもをはきいつてんきに


なるべしとも見ヘ春゛夫 故 何ニ分 ニも帰 リ多し

なるべしともみえず それゆえなにぶんにもかえりたし


と云 ニ不返(カヘサツ)昨 日 ところ能者 彼の谷 川 ニテあやまつて死ケリ

というに   かえさず さくじつところのものかのたにがわにてあやまってしけり


爰 元 ヘ御出 能時 お飛ヒなされ多る石 皆 水

ここもとへおいでのときおとびなされたるいしみなみず


底 となり流 レ尤  モ急  尓して其 石 尓春べ

ぞことなりながれもっともきゅうにしてそのいしにすべ


里てたをれ个連ハ石 尓觸れて忽  チ死ニ申  候

りてたおれければいしにふれてたちまちしにもうしそうろう


と云 然 レとも甚  タ躰(タイ)屈(クツ)しけれハ何 分 かえり

というしかれどもはなはだ  たい   くつ しければなにぶんかえり


多しと云 尓付ケ人 足 八 人 がゝ里ニして彼 谷 ノ

たしというにつけにんそくはちにんがかりにしてかのたにの


急  流  を渡 リ誠  尓あやうき事 命  かけなり

きゅうりゅうをわたりまことにあやうきこといのちがけなり

(大意)

(補足)

「皆々感心春る」その銅版画ときっと同じものだろうとおもわれるものがネットで何枚か確かめることができます。 

「廿三日」、天明8年七月廿三日。1788年8月24日。

「ところ能者」、『ところのひと 【所の人】その土地の人。所の者。「―にたづねばやと存ずる」〈狂言・通円•虎寛本〉』

 江漢さんは旅に出てすぐに家に帰りたくなること数度、また地元の人が暴風雨大嵐の川を渡るときに死んでしまったりという最悪の天候の中、それでも鈴木氏の家に戻りたいと八人もの人足を頼んで(その人たちことなど心配はこれっぽちもしてない模様)、帰ろうとしています。不安感の強い人というか、気分の浮き沈みの激しい人というか、どこか常人とはことなった心の持ちようをする人だったような気がします。

 「何分かえり多しと云尓付ケ」と、しつこく子どものように「帰りたい帰りた〜い」と駄々をこねるようなことをしたのかと・・・いい歳をしたおじさんならば山奥でこんな大荒れのときは、じっと待つのが大人の判断だとおもうのですけど、そんなことはおかまいなし、困ったものです。

 

2025年1月25日土曜日

江漢西遊日記二 その25

P31 東京国立博物館蔵

(読み)

埋(ウツ)め四面 山 高 く常 尓雲 霧(ム)を生  じ其

  うず めしめんやまたかくつねにうん  む をしょうじその


比ロ兎角 雨 振り四 日市 の方 を望 ム尓遥  尓

ころとかくあめふりよっかいちのほうをのぞむにはるかに


見ヘ日照ラして青 天 なり返 リ度 思 へとも谷

みえひてらしてせいてんなりかえりたくおもえどもたに


川 水 出 帰 ル事 不能  困 リ个る

がわみずでるかえることあたわずこまりける


廿   一 日 大 雨 亭 主 画を請フ此 山 中  ニ唐 紙

にじゅういちにちおおあめていしゅえをこうこのさんちゅうにからかみ


二三 枚 持 来 ル冨士能づ両  国 橋 の圖芝 能

にさんまいもちきたるふじのずりょうごくばしのずしばの


増 上  寺の川゛三 枚 を認  メ遣  ス日暮 より又

ぞうじょうじのず さんまいをしたためつかわすひぐれよりまた


大 風 雨なり四 日市 お山 五人 居 申  候   ニ之(コレ)も

だいふううなりよっかいちおやまごにんおりもうしそうろうに  これ も


返 ル事 不能

かえることあたわず


廿   二日 昨 夜より大 嵐  なり銅 板 画目鏡

にじゅうににちさくやよりおおあらしなりどうはんがめかがみ

(大意)

(補足)

「望ム」、初めてでしたら読めませんでしたけど、もう何度も出てきたくずし字ですので大丈夫。

「廿一日」、天明8年七月廿一日。1788年8月22日。

「冨士能づ両国橋の圖芝能増上寺の川゛」、「づ」を変えています。日記・手紙・黄表紙などの古文書を読んでいると、このようにひらがなやカタカナや変体仮名などで変化させるのがたしなみであったようです。

「お山」、『おやま をやま【〈女形〉 ・〈女方〉 ・御山】

〔江戸初期に小山次郎三郎が使った遊女の人形から出た語という。 →おやま人形〕

① 歌舞伎で女役を演ずる男性の役者。また操り人形で,女役の人形。おんながた。

② (上方で)遊女のこと。「あの上手な絵書殿によい―を十人程書いてもらひ」〈浄瑠璃・傾城反魂香〉』

「返ル」、帰る。

「銅板画目鏡」、道中で気が向くと周りの人たちに見せているので、もう何度か出てきています。『めがね‐え‥ヱ【眼鏡絵】凸レンズの眼鏡を通して見る絵。透視図法を用いて描いたもので、箱の一方にはめた絵を他方に置いたレンズで拡大して見るだけの「のぞき絵」と、覗絡繰(のぞきからくり)に用いる「からくり絵」とがある。一八世紀前半に中国経由で日本に伝来し、円山応挙や司馬江漢らも制作した』。折りたたみ式になっているとはいえ、こんな山奥の険しい山道にまで持ち運ぶとは、やはり江漢さんはちょっと・・・

 

2025年1月24日金曜日

江漢西遊日記二 その24

P30 東京国立博物館蔵

(読み)

勇 氣尓なる者 と話  希り宿 能亭 主 能話

ゆうきになるものとはなしけりやどのていしゅのはな


しける尓内 の男  山 仕事 ニ参  返 り尓木をせ

しけるにうちのおとこやましごとにまいりかえりにきをせ


おひて行 跡 より狼   送 リ来ル此 男  石 なん

おいてゆくあとよりおおかみおくりくるこのおとこいしなん


と打 付 ツゝ歩 ミし尓遂 尓宿 へ帰 る夫 より急

どうちつけつつあゆみしについにやどへかえるそれよりきゅう


なる用 事ニて下 菰 野へ日暮(クレ)て出て个る尓

なるようじにてしもこものへひ  ぐれ てでてけるに


さ以せん能狼   彼 渓 川 能石 ニ能里て待ツ

さいぜんのおおかみかのたにがわのいしにのりてまっ


て居希り夫 故 不行 してかえると云 狼   ハ兎

ていけりそれゆえゆかずしてかえるというおおかみはと


角 まける事 を耻 る者 とぞ此 地冬 ハ雪

かくまけることをはずるものとぞこのちふゆはゆき


深 く爰 ハ冷 氣尓して野菜 不生 土 なく皆ナ

ふかくここはれいきにしてやさいならずつちなくみな


岩 能破 レ多る小石 の如 くして山 くだけ路 を

いわのやぶれたるこいしのごとくしてやまくだけみちを

(大意)

(補足)

「耻」、恥の異体字。

 菰野と温泉で検索すると湯の山温泉(標高400m)が出てきて、「湯の山温泉はなぜ廃れたのですか?」という項目に「菰野の湯の山温泉と一志郡の榊原温泉だけであり、北伊勢地方では唯一の温泉でした。 天明の大飢饉、寛政の改革によって奢侈の禁止、男女混浴の禁制など、幕府や藩の倹約令の強行によって取り締まりが厳しくなると、湯の山へ訪れる湯治客や行楽客も次第に少なくなってきました」とありました。

 しかし、現在でもお湯は枯れることなく湧き出していて、旅館も数件あり、北伊勢の貴重な温泉地となっています。

 

2025年1月23日木曜日

江漢西遊日記二 その23

P29 東京国立博物館蔵

(読み)

衣(コロモ)能両  の袖 ヲ翻(ヒルカシ)个り熊 一 向 人 能来ル事 を不

  ころも のりょうのそでを  ひるかし けりくまいっこうひとのくることをしら


知風意(フイ)なる故 尓熊 人 の如 く尓両  手を揚 て

ず   ふい なるゆえにくまひとのごとくにりょうてをあげて


立 ける勢(イキヲイ)尓あを能け尓谷 底(ソコ)へ落チ个り

たちける  いきおい にあおのけにたに  そこ へおちけり


夫 故 あとをも見春゛して尓げ返(カヱ)リ个る故 尓

それゆえあとをもみず してにげ  かえ りけるゆえに


瀧 を見春゛亦 江戸ヤと云 旅 人 宿  アリ其 主

たきをみず またえどやというたびびとしゅくありそのしゅ


人 下 菰 野ヘ行キかえるニて甚  タ酒 を呑 て

じんしもこものへゆきかえるにてはなはださけをのみて


酔(ヨイ)一 里方 なる彼 原 中 ニて狼   三 足 出て

  よい いちりほうなるかのはらなかにておおかみさんぴきでて


飛ヒかゝ里しをよい多る勢  ヒ尓樫(カシ)の木能棒(ボウ)ヲ

とびかかりしをよいたるいきおいに  かし のきの  ぼう を


腰 尓指シて居シが其 棒 尓て三 足 なか

こしにさしていしがそのぼうにてさんびきなか


ら打 殺 し多り酒 と云フ物 ハ春ざましき

らうちころしたりさけというものはすざましき

(大意)

(補足)

「翻(ヒルカシ)」、ひるがえし。

「三足」、三疋。

「なから」、『【半ら・中ら】① およそ半分。なかば。「盤渉調(ばんしきちよう)の―ばかり吹きさして」〈源氏物語•横笛〉「おそろしかりけむけしきに―は死にけむ」〈落窪物語•1〉』『なからじに 【半ら死に】死にかかっていること。半死半生。「男は浅疵(あさきず)―殺してくれい死なしてくれと泣き叫ぶ」〈浄瑠璃・卯月の潤色•上〉』

 この頃は、まだまだ狼が普通に野山にたくさんいたようです。かのシーボルトもニホンオオカミの剥製を持ち帰っていました。

 

2025年1月22日水曜日

江漢西遊日記二 その22

P28 東京国立博物館蔵

(読み)

 菜 不生 五穀(コク)尤  モなし宿 の主 人 鉢(ハチ)尓

やさいならずご  こく もっともなしやどのしゅじん  はち に


朝 顔 を植 シ尓其 砂 へ植 多り朝 顔 之(コレ)を

あさがおをうえしにそのすなへうえたりあさがお  これ を


土 と思 ヒし尓や花 咲 个連客館(ヤドヤハ)橘(タチバナ)ヤと

つちとおもいしにやはなさきけれ   やどやは   たちばな やと


云 家 尓居し尓ある時 青 瀧 を見シとて一 人

いういえにいしにあるときあおだきをみしとてひとり


衣(コロモ)を着(キ)多る出  家を案 内 者 として行 个る尓

  ころも を  き たるしゅっけをあんないしゃとしてゆきけるに


山 能さん道 を行ク事 ニて下 ハ深 キ谷 一 方 ハ山 也

やまのさんどうをゆくことにてしたはふかきたにいっぽうはやまなり


其ノ路曲(キヨク)\/と巡 リ行ク路 ニて向 フより熊 能

そのみち きょくきょくとめぐりゆくみちにてむこうよりくまの


来 リし尓や熊 も此 行ク者 モ一 向 尓知ら春゛して

きたりしにやくまもこのゆくものもいっこうにしらず して


山 のさん道 能曲(マカリ)可とニて不思 不知  熊 尓出

やまのさんどうの  まがり かどにておもわずしらずくまにで


合 け連ハ先 ニ立ツ多る出  家肝(キモ)を津婦して

あいければさきにたつたるしゅっけ  きも をつぶして

(大意)

(補足)

「尤モ」、『② (打ち消しの語を伴って)少しも。全然。決して。「ふつつり心残らねば―足も踏み込まじ」〈浄瑠璃・心中天網島•上〉』

「朝顔」、「顔」のくずし字が「白」+「ハ」となっていますけど、くずし字でなくても「㒵」という漢字がありました。読み方には、ボウ / バク / かお / かたちなど。相貌の「貌」の旁がこれ。

「山能さん道」、山の桟道。

 橘屋という宿屋の主人のはなし、うそかまことか、きっと本当のこととおもいます。まだはなしは続きます。

 

2025年1月21日火曜日

江漢西遊日記二 その21

P25 東京国立博物館蔵

P26

P27

(読み)

P25

湯の山 谷 川

ゆのやまたにかわ

P26

湯能山

ゆのやま


湯 治場

とうじば

P27

向 フ能石 ヘ飛ヒ越ヘる事 也 落チ連ハ深 し四面

むこうのいしへとびこえることなりおちればふかししめん


皆 山 の間(アイ)なり思 ヒ切 て飛ヒ渡 リし尓二三 町

みなやまの  あい なりおもいきりてとびわたりしににさんちょう


行 と亦 同 シ様 なる谷 川 あり以上  三 ツ渡 里て

ゆくとまたおなじようなるたにかわありいじょうみっつわたりて


程 なく湯 治塲尓至 ル山 合 ニ家 を造 ル事

ほどなくとうじばにいたるやまあいにいえをつくること


十 軒 者゛か里半  尓湯屋あり湯能湧ク処  は

じっけんば かりなかばにゆやありゆのわくところは


山 能根尓あり水 能如 シ火ヲ以 テ王か春浴 春る

やまのねにありみずのごとしひをもってわかすよくする


者 多 し近 江水 口 ノ奥く日野より山 を越ヘ

ものおおしおおみみなくちのおくひのよりやまをこえ


来 ル四里を隔 ツ人 家なし渓 川 三 ツあり

きたるしりをへだつじんかなしたにがわみっつあり


狼   熊 住武總 て此 山 中  家 なく土 なく

おおかみくますむすべてこのさんちゅういえなくつちなく


(図)如此    なる石 能くだけ多る物 尓て野(菜)

   かくのごとくなるいしのくだけたるものにてや さい

(大意)

(補足)

「近江水口ノ奥く日野より山を越ヘ」、現在の地図。菰野町の西に湯の山があって、ずっと西、地図の左端に日野と水口があり、そのすぐ西は琵琶湖です。 

 こちらは当時の地図。右上が菰野村、左端中段に水口村。

 昔も今も、山深いところで、湯の山温泉は今でも観光地のようです。

湯治場の画で、右の崖の中腹にも家があります。崖の下は川が段々の滝のよう。

 

2025年1月20日月曜日

江漢西遊日記二 その20

P24 東京国立博物館蔵

(読み)

鈴 木氏ヘかえる谷 川 尓て取 多るウナギ

すずきしへかえるたにがわにてとりたるうなぎ


蒲 焼 ニして喰ヒ希る至  て美味然 シ皮 コハ

かばやきにしてくいけるいたってびみしかしかわこわ


シ鈴 木氏ニ泊 ル

しすずきしにとまる


廿 日雨 天湯能山 ヘ行 ンと欲 ス一 人案内 ノ者 を

はつかうてんゆのやまへゆかんとほっすひとりあないのものを


連し 爰 より二里を隔 ツ先 一 里を過ク一 里方

つれしここよりにりをへだつまずいちりをすぐいちりほう


なる原 アリ其 比 秋 なれハ萩 桔梗(キコ ウ)おミなへし

なるはらありそのころあきなればはぎ   ききょう おみなえし


白  シン花 さかり小松 小笹 を生  し又 山 ハ皆 土(ツチ)

びゃくしんはなさかりこまつこざさをしょうじまたやまはみな  つち


尓あら須石 能く多゛け多る物 尓て色 赤 く白 シ谷

にあらずいしのくだ けたるものにていろあかくしろしたに


河 あり中 尓大 石 能いくらもありて水 碁 石 ニ

かわありなかにおおいしのいくらもありてみずそのいしに


觸(フ)れて飛ヒ流 ルおそろしき処  なり碁 石 より

 ふ  れてとびながるおそろしきところなりそのいしより

(大意)

(補足)

「廿日」、天明8年七月廿日。1788年8月21日。

「一里方なる原アリ」、「西遊旅譚一」の同日の日記に「廿日湯山(ユノヤマ)尓行(ユクコト)菰野より二里餘一里過天方(ホウ)一里程の原有小笹おほし」とあります。ここでもですが、こんな山奥に一里四方の広さの野原があるとは思えないのですけど、解釈が間違っているのかもしれません。

「白シン」、『イブキの別名。ヒノキ科の常緑高木。本州以西の暖地の海岸に生え,庭木・生け垣として栽培される。葉は普通鱗片(りんぺん)状で枝に密生するが,スギ葉状のもの(別名ビャクシン)もある。雌雄異株。四月頃開花。材は鉛筆・床柱・器具材など,用途が広い』

「萩桔梗(キコウ)おミなへし」、ちなみに秋の七草は、ハギ・ススキ(オバナ)・クズ・ナデシコ・オミナエシ・フジバカマ・キキョウ。

 新暦では8月下旬に入る頃です。山の奥なのではやくも秋の始まりだったよう。

 

2025年1月19日日曜日

江漢西遊日記二 その19

P23 東京国立博物館蔵

(読み)

と春る時 右 尓云 巾 二百  間 もある河原 一 面 ニ

とするときみぎにいうはばにひゃっけんもあるかわらいちめんに


大 河となり渡 ル事 不能  故 尓爰 ニ一 宿  春

たいがとなりわたることあたわずゆえにここにいっしゅくす


主 人 ハ吾 を待ツ事 数 年 也 先 生 を爰 尓畄 メんとて砂漠 漲    

しゅじんはわれをまつことすうねんなりせんせいをここにとどめんとてさばくみなぎ  


リ多りと云

りたりという


十  八 日 雨天 爰 尓滞 留  して画を数 枚 認  メ

じゅうはちにちうてんここにたいりゅうしてえをすうまいしたため


る書 斎 尓修  講 館 の額 あり終  日 雅談

るしょさいにしゅうこうかんのがくありしゅうじつがだん


不盡

つきず


十  九日 雨天 青 瀧  を見ン事 不能  故 尓

じゅうくにちうてんせいりゅうをみんことあたわずゆえに


伊藤 孫 右衛門方 ヘ参 ル茶 人 也 カコイありて

いとうまごえもんかたへまいるちゃじんなりかこいありて


茶 酒 等 出し芋 茄  を煮て馳走 春亦

さけちゃとうだしいもなすびをにてちそうすまた

(大意)

(補足)

「二百間」、一間は約1.818メートルなので363.6mとなるが、山奥でこんなに川幅のある大河があるだろうか?二十間ならわかるのですけど。

「十八日」、天明8年七月十八日。1788年8月19日。

「修講館」、久保幸助の家塾。

「雅談」、雑談かとおもって雑のくずし字を調べると、違ってました。この熟語は知りませんでした。

 

2025年1月18日土曜日

江漢西遊日記二 その18

P22 東京国立博物館蔵

(読み)

此 者 を吊   ンとて従  者 と二 人して参 リ个る尓漸(ヨウヤク)

このものをとぶらわんとてじゅうしゃとふたりしてまいりけるに  ようやく


昼 比 尓至 リ个る鈴 木氏宿 ニ居て酒 肴 を

ひるごろにいたりけるすずきしやどにいてしゅこうを


出して馳走 春る爰 ニ久保幸 助 と云 者 来ル

だしてちそうするここにくぼこうすけというものくる


十  七 日 雨 時 々 降ル同 藩 尓伊藤 孫 右衛門と

じゅうしちにちあめときどきふるどうはんにいとうまごえもんと


云 者 雪 渓 の門 人 ニて画を描ク鈴 木氏と共

いうものせっけいのもんじんにてえをかくすずきしととも


尓久保氏を吊  フ二十 町  程 隔  リ多る処  なり

にくぼしをとぶらうにじっちょうほどへだたりたるところなり


此 路 河 原能巾 一 町  程 アル砂漠 アリ石磊(ゴロゴロ)として水 なし

このみちかわらのはばいっちょうほどあるさばくありいし ごろごろ としてみずなし


湯能山 青 瀧  と云 瀧 の流 れの末 なり漸  く尓

ゆのやませいりゅうというたきのながれのすえなりようやくに


して至 ル主 人 は文 人 にして風 流  なり坐右 ニ文

していたるしゅじんはぶんじんにしてふうりゅうなりざゆうにぶん


房 をかさり珍 器多し 甚  タ馳走 春る返 ラん

ぼうをかざりちんきおおしはなはだちそうするかえらん

(大意)

(補足)

「吊ンとて」、何度も出てきています。とぶらう『とぶらふ 【訪ふ】

① 訪問する。おとずれる。たずねて行く。たずねて来る。「秋の野に人まつ虫の声すなり我かと行きていざ―・はむ」〈古今和歌集•秋上〉』

「久保幸助」、寛保二(1742)年〜文化五(1808)年。村役人を務め、天明四(1784)年からは代官役を命ぜられ25年間務めるかたわら家塾(修講館)を開いて人材の育成に力を尽くした。とありました。

「十七日」、天明8年七月十七日。1788年8月18日。

「雪渓」、江漢の画の師である宋紫石こと楠本雪渓(1715〜1786)のことか?

「河原能巾」、「原」の左側は「参リ」(一行目にもあります)ともみえますが、ふたつの漢字が似ているので不明です。

「水なし」、たまに「水」のくずし字が使われます。

 

2025年1月17日金曜日

江漢西遊日記二 その17

P21 東京国立博物館蔵

(読み)

羽織 き多る者 ハ巻キ羽織 尓し踊 ル中 尓屋

はおりきたるものはまきはおりにしおどるなかにや


臺 を造 り男  数(ス)人 居て三 味せん尓合 セて

たいをつくりおとこ  す にんいてしゃみせんにあわせて


おんどをう多ふ其 文 句年 々 かわるよし

おんどをうたうそのもんくねんねんかわるよし


さて宮 を越ヘ此 地ハ言 語風 俗 皆 京  ニ

さてみやをこえこのちはげんごふうぞくみなきょうに


属(ソクス)家 能建 方 大家(ヲゝヤ)根(ネ)のノキを長 ク出して

  ぞくす いえのたてかた   おおや   ね ののきをながくだして


隣  の堺  尓ヘキリとてへゐ能様 なる物 を入 ルなり

となりのさかいにへきりとてへいのようなるものをいれるなり


大 火後(ゴ)京  都ニハ此 ヘキリなし

たいか  ご きょうとにはこのへきりなし


十  六 日 曇 ル後 天 氣此 四 日市 日永 よりも四

じゅうろくにちくもるのちてんきこのよっかいちひえいよりもし


里程 あり菰(コモ)野と云 処  土方(ヒシカタ)侯 一 万 石 能領

りほどあり  こも のというところ   ひじかた こういちまんごくのりょう


地なり爰 尓鈴 木久  右衛門とて画の門 弟 あり

ちなりここにすずききゅうえもんとてえのもんていあり

(大意)

(補足)

「宮」、熱田宿。

「十六日」、天明8年七月十六日。1788年8月17日。

「菰野」、日永村より左斜め上に土方大和守在所とあります。 

「土方侯」、当時の藩主は九世土方義苗。天明二年五歳で襲封、天保元(1830)年隠居するまでの48年間、藩主として活躍、名君として数々の逸事を残した、とありました。

「堺」、境。


 

 

2025年1月16日木曜日

江漢西遊日記二 その16

P20 東京国立博物館蔵

(読み)

十  四 日天 氣トナル今 日ハ中  元 能御祝  儀とて

じゅうよっかてんきとなるきょうはちゅうげんのごしゅうぎとて


一 村 皆  々禮 尓至 ル昼  喰 ニハ餅 ニ小 豆を付

いっそんみなみなれいにいたるちゅうじきにはもちにあずきをつけ


て喰  春其 夜も前 夕 能通 りツンツク踊 リあり

てしょくすそのよもぜんゆうのとおりつんつくおどりあり


おと里と云 ニハ非 ス只 手と手を取 伸(ノヒ)多り屈(カゞン)多り

おどりというにはあらずただてとてをとり  のび たり  かがん だり


春る能ミ誠  尓田 舎能おとりなり婦人 も綿帽(ワタボウ)

するのみまことにいなかのおどりなりふじんも   わたぼう


子(シ)をか武里禮 尓歩 くなり

  し をかむりれいにあるくなり


十  五日 天 氣朝 飯 料  理もなしズイキ酢あゐ

じゅうごにちてんきあさめしりょうりもなしずいきすあい


小 豆を坪 ニ入 付 多 能ミ日暮 より亀(キ)六 同 道

あずきをつぼにいれつけたるのみひぐれより  き ろくどうどう


して四 日市 尓行キ盆 踊  を見ル桑 名此 邊 ハ

してよっかいちにゆきぼんおどりをみるくわなこのへんは


川 﨑 おんどとて女 郎 お山 あミ笠 をか武り

かわさきおんどとてじょろうおやまあみがさをかぶり

(大意)

 略

(補足)

「十四日」、天明8年七月十四日。1788年8月15日。

「中元」、『ちゅうげん【中元】〔道教で,人間贖罪(しよくざい)の日として神をまつった日。上元・下元とともに三元の一〕

① 旧暦7月15日のこと。元来,道教の習俗であったが,のちに仏教の盂蘭盆会(うらぼんえ)と混同され,死者の霊を供養する』。

「祝義」、「祝儀」。

「ズイキ酢あゐ」、ズイキ酢和え。ずいきの和物。ズイキは【〈芋茎〉】① サトイモの茎。干したものはいもがらといい,食用とする。

「四日市尓行キ盆踊」、江漢の西遊旅譚一に画があります。

こちらは四日市諏訪明神祭。

 お中元やお歳暮の風習は、わたしが小さかった頃はそれぞれ届ける人がきちんと挨拶を兼ねて直接、家に届けていたことが多かったようにおもいます。現在は宅配業者がほとんどになりました。 

2025年1月15日水曜日

江漢西遊日記二 その15

P19 東京国立博物館蔵

(読み)

晩 方 裏 能田畑 へ出テ歩ス日暮 庭 尓床(セ ウ)机(キ)を

ばんがたうらのたはたへでてほすひぐれにわに  しょう   ぎ を


立テ涼 ム爰 ニ長 右衛門 ハ源 兵衛能おぢなり其

たてすずむここにちょうえもんはげんべえのおじなりその


妻 京  能産 レ京  能話  を聞ク

つまきょうのうまれきょうのはなしをきく


十  三 日 天 氣雨 故 暑 ゆる武晩 方 給  ヲ着(キ)多り

じゅうさんにちてんきあめゆえしょゆるむばんがたあわせを  き たり


此 邊 盆 踊(ヲトリ)とて此 村 ヨリ出スおと里あり四 日市 ヨリ半

このへんぼん  おどり とてこのむらよりだすおどりありよっかいちよりはん


路隔  リ爰 能おとりハツンツク踊  とて十  二三 十  六 七

ろへだたりここのおどりはつんつくおどりとてじゅうにさんじゅうろくしち


能男 女 手と手を取 輪尓なりてツンツク\/  とて

のだんじょてとてをとりわになりてつんつくつんつくとて


おとる也 中 尓十  五六 能男  の子白 きさらし能手

おどるなりなかにじゅうごろくのおとこのこしろきさらしのて


拭(ヌグ)ゐを保うか武里してう多をう多ひて太

  ぬぐ いをほおかむりしてうたをうたいてたい


鞁(コ)を多ゝく

  こ をたたく

(大意)

(補足)

「十三日」、天明8年七月十三日。1788年8月14日。

「給」は「袷」、「鞁」は「鼓」。

「盆踊」、「盆」の上半分「分」のくずし字がちゃんと「彡」+「丶」になっています。

「ツンツク踊り」、現在も「日永つんつくおどり」として行われています。

                                                                        勢州日永村ツンツク踊之図、西遊旅譚一。NDL蔵。

 江漢が描写している通りの踊りです。

 

2025年1月14日火曜日

江漢西遊日記二 その14

P18 東京国立博物館蔵

(読み)

十 日天 氣四 日市 西 町  沢 邊三 益 ハ亀(カメ)の石 ヲ

とおかてんきよっかいちにしちょうさわべさんえきは  かめ のいしを


所 持春見 物 ニ行 昼  喰 出ス明(ミン)能小  僊の

しょじすけんぶつにゆくちゅうじきだす  みん のしょうせんの


画を見ル波 を渡 ル仙 人 也 中  条  木 唇 と云 人 ハ

えをみるなみをわたるせんにんなりちゅうじょうもくしんというひとは


津の町 能茶 人 なり此 者 能云 江戸ニ参 リシ

つのまちのちゃじんなりこのもののいうえどにまいりし


時 江戸橋 と云 処  を江戸能人 をやとゐて

ときえどばしというところをえどのひとをやといて


ともニして通 りし尓茶 人 往 来 能人 を見て云フ

ともにしてとおりしにちゃじんおうらいのひとをみていう


尓ハ今日(キヨウ)ハ何 事 可ありしやとも能者 ヘ尋  多り

には   きょう はなにごとかありしやとものものへたずねたり


江戸ハ人 能多 ヒ処  なりと話 シ个る

えどはひとのおおいところなりとはなしける


十  一 日 天 氣高 尾氏頼 ミの画出来ル

じゅういちにちてんきたかおしたのみのえできる


十  二日 天 氣鴨 能画ツイ立 獅子の画出来ル

じゅうににちてんきかものえついたてししのえできる

(大意)

(補足)

「十日」、天明8年七月十日。1788年8月11日。

数日前まで体調不良でも、頼まれた画を数点仕上げています。もっとも「倡家ニ能ぼ」って「酒を呑ミて日暮かえりぬ」くらいの不快さでしたから、それほどでもなかったのかも。

 

2025年1月13日月曜日

江漢西遊日記二 その13

P17 東京国立博物館蔵

(読み)

行 の時 駕籠へ直奏(ソウ)し多ると状  の中 ニあり

こうのときかごへじき そう したるとじょうのなかにあり


七 日天 氣晩 方 雨 バラツク庭 ニて蝉 能ヌ

なのかてんきばんがたあめばらつくにわにてせみのぬ


ケルを見ル兎角 癪  氣なり

けるをみるとかくしゃっきなり


八 日雨 今 日も不快 夜 も不眠

ようかあめきょうもふかいよるもねむらず


九  日曇 ル後 天 氣不快 少  々  よろし亀(キ)

ここのかくもるのちてんきふかいしょうしょうよろし  き


六 と四 日市 築 地と云 処  ノ高 尾九  兵衛と岡

ろくとよっかいちつきじというところのたかおきゅうべえとおか


三 英 右 の者 と倡  家ニ能ぼる酒 を呑ミて日

さんえいみぎのものとしょうかにのぼるさけをのみてひ


暮 かえりぬ三 英 女  房 吾 ニ向 ヒ行(ユカシツ)てゴサリ

ぐれかえりぬさんえいにょうぼうわれにむかい  ゆかしつ てごさり


マセとハモウお出サルカと云 事 也 サイセンとハ四

ませとはもうおでさるかということなりさいせんとはし


五日 も過 多る事 を云フ此 地能言(コトハ)なり

ごにちもすぎたることをいうこのちの  ことば なり

(大意)

(補足)

「直奏」、駕籠訴(かごそ。江戸時代の越訴(おつそ)の一。幕府の高官や大名などが駕籠で通行するのを待ち受けて,訴状を投げ入れたりして直接訴え出ること)。

「七日」、天明8年七月七日。1788年8月8日。

「亀六」、岩清水亀六。滝沢馬琴も「羇旅漫録」の中で「勢州追分内日永村に、岩清水亀六という人あり」と伊勢の好事家を紹介している、残念ながら会えなかったようです。

「高尾九兵衛」、土地の名家で文学を好み、当時雅人の間に交友が多かった。後年、本居宣長の長女飛騨が再縁した相手である、とありました。

 体調不調の中、セミが脱皮するのを見たとありますが、脱皮するのはたいてい日の出前頃、それとも脱皮した抜け殻を見たのか、どっちにしても気分的なものだったのかもしれません。ちょっと回復したら遊びに出かけているし・・・

 

2025年1月12日日曜日

江漢西遊日記二 その12

P16 東京国立博物館蔵

(読み)

五  時 比 宮 ニ至 ル舟 出ル故 尓舟 ニ乗り桑 名ニ

いつつどきころみやにいたるふねでるゆえにふねにのりくわなに


着ク四 日市 を過 ル事 半 路日永 村 清水 源

つくよっかいちをすぎることはんろひなかむらしみずげん


兵衛宅 ニ至 ル爰 ハ江戸尓出見世あり兄  弟

べえたくにいたるここはえどにでみせありきょうだい


出て話 春六 月 二 日出ノ状(ゼ ウ)を見ル

でてはなすろくがつふつかでの  じょう をみる


四 日天 氣大 暑 爰 尓暫  く滞 留  春父子出

よっかてんきたいしょここにしばらくたいりゅうすふしで


て話 春晩 方 夕 立 冷 氣トナル

てはなすばんがたゆうだちれいきとなる


五 日天 氣暑 シ草 画六 七 枚 出来ル亦 金 の

いつかてんきあつしそうがろくしちまいできるまたきんの


小襖  山 水 能画認  ム少  ゝ  不快 父子世話スル

こぶすまさんすいのえしたたむしょうしょうふかいふしせわする


六 日朝 雨 少  々  冷 氣癪  氣未 タ不快 夜 ニ入

むいかあさあめしょうしょうれいきしゃっきいまだふかいよるにはいり


大 雨 雷   江戸中 橋 の者 白 川 侯 ヘ西 ノ久保ヲ通(ツウ)

おおあめかみなりえどなかはしのものしらかわこうへにしのくぼを  つう


行 の時

こうのとき

(大意)

(補足)

「宮」、尾張の熱田。ここから桑名までが海上七里の船路で「七里の渡し」で有名なところ。

桑名・四日市・日永村の地図。三つの地名が少々わかりにくいですけど確認できます。 

「日永村」、東海道と参宮街道の分岐点にあたり、交通の要所。参宮街道上には大鳥居が街道をまたいで高くそそり立っていた。 

 「六月二日出ノ状(ゼウ)」、約一ヶ月遅れの手紙を受け取ったわけですけど、どんな方法で受け取ることができたのでしょうか。この頃は大阪や江戸の間でお金の手形の決済などが行われていましたから、飛脚や運送業は想像以上に発達していたのではとおもいます。

「四日」、天明8年七月四日。1788年8月5日。

 江漢さん、風邪を引いてしまったようです。

 

江漢西遊日記二 その11

P15 東京国立博物館蔵

(読み)

昼  食 春夫 より舞 木村 など過 て藤 川 尓至 ル

ちゅうじきすそれよりまいきむらなどすぎてふじかわにいたる


岡 崎 ハ能 驛 なり

おかざきはよきえきなり


[白 キハ大 シマ黄ナリ]此虻(アブ)江戸近 在 ニ見春蜂(ハチ)ニ非 スア

 しろきはおおしまきなり この あぶ えどきんざいにみず  はち にあらずあ


ブなり此 虻 熊蜂(ハチ)を喰 付 タルを取

ぶなりこのあぶくま はち をくいつけたるをとり


ウツス此 道 中  筋 ニ多 し

うつすこのどうちゅうすじにおおし


池鯉 鮒鳴 海此 間  矢者゛き能橋 あり亦

ちりゅうなるみこのあいだやは ぎのはしありまた


八ツ橋かき川者゛多能名 所 桶 者ざま今 川

やつはしかきつばたのめいしょおけはざまいまがわ


能亡 ヒタル所  右 ヘ少 シ入  石 碑立ツお王りやと云フ

のほろびたるところみぎへすこしはいりせきひたつおわりやという


家 ニ泊 ル

いえにとまる


三 日天 氣誠  尓大 暑 なり朝 六 比 出  立 して

みっかてんきまことにたいしょなりあさむつころしゅったつして

(大意)

(補足)

藤川・岡崎の地図。 

「道中筋ニ」、「筋」の漢字はいつもながら「竹」+「肋」の二文字のようにみえます。

岡崎(御城の画があるところ)・池鯉鮒・鳴海・熱田(宮)の地図。

「矢者゛き能橋」、矢作(やはぎ)。岡崎から左斜め上の街道を上ると熱田へ至ります。岡崎を出てすぐに矢作川と村があって、江漢の文章とはことなってしまいますので、岡崎から池鯉鮒・鳴海に至る間のという理解か?

「八ツ橋かき川者゛多能名所」、『伊勢物語』など歌枕で有名な名所。八橋伝説地。

「今川能亡ヒタル所」、「タル所」が一行前の「名所」とそっくり。

「三日」、天明8年七月三日。1788年8月4日。

 

2025年1月10日金曜日

江漢西遊日記二 その10

P14 東京国立博物館蔵

(読み)

家(イヱ)能可原 本 野ガ原 此 間  ニして木なく

  いえ のがはらほんのがはらこのあいだにしてきなく


木陰(カケ)なくして誠  尓暑 シ夫 より松 原 を

こ  かげ なくしてまことにあつしそれよりまつばらを


行 事 一 里余  漸  ク尓して御油(ゴユ)往 来 へ出

ゆくこといちりあまりようやくにして   ごゆ おうらいへで


多り掛 川 より入りて爰 迄 五十 町  一 里尓

たりかけがわよりいりてここまでごじっちょういちりに


して二十  七 里大 難 所 なり七 月 朔

してにじゅうしちりだいなんしょなりしちがつつい


日 也 角 屋宿  ヲ出  立 し多る日なりご油ヘ出て

たちなりかどやしゅくをしゅったつしたるひなりごゆへでて


け連ハ誠  尓江戸へかえ里多る心 ちし多り

ければまことにえどへかえりたるここちしたり


赤(アカ)坂 宿  八 文 字や市 三 郎 方 ニ泊 ル

  あか さかしゅくはちもんじやいちさぶろうかたにとまる


七 月 二 日能キ天 氣至  テ暑 シ赤 坂 ヲ正  六ツ

しちがつふつかよきてんきいたってあつしあかさかをしょうむつ


時 尓出  立 して岡 崎 ニ至 ル尓四ツ時 少  過 ナリ

どきにしゅったつしておかざきにいたるによつどきすこしすぎなり

(大意)

(補足)

 一行目の「原」の右下に句点「。」が付いています。

「七月朔日」、天明8年七月一日。1788年8月2日。

「角屋宿ヲ出立し多る」、門屋宿。修正する前は「泊リシ」とあります。

「御油・赤坂・岡崎」、昨日と同じ「秋葉山参詣道法図」、 

よく見ると宿場(村)から宿場(村)まで一リ、一リ半 or 御油から赤坂まで十六丁(東海道の宿場の中で最も短い。また松尾芭蕉「「夏の月 御油より出でて 赤坂や」が有名)などと距離が示されています。

 賑やかな御油宿そして赤坂宿へ出て、江戸が恋しくなてしまった江漢さん、気持ちはわからないでもありません。

 赤坂宿から藤川宿までが2里9町(8.8km)、藤川宿から岡崎宿までが1里25町(6.7km)なのであわせて15.5km。江漢さんは「正六ツ時(朝6時)尓出立して岡崎ニ至ル尓四ツ時(10時)少過ナリ」でしたので約4時間かかっています。一里(4km)を約1時間が歩く標準の速さですから、速くもなく遅くもないという歩調であったことがわかります。

 

2025年1月9日木曜日

江漢西遊日記二 その9

P13 東京国立博物館蔵

(読み)

石 階(サカ)を少 シ下 リて薬 師堂 本 堂 なり末(マツ)

いし  さか をすこしくだりてやくしどうほんどうなり  まっ


社 堂 ノ後 ロニ多 し左  ノ方 岩 尓そふて塔 アリ

しゃどうのうしろにおおしひだりのほういわにそうてとうあり


夫 よりして石 階 を下 ル事 九  町  其 半  ニ十

それよりしていしさかをくだることきゅうちょうそのなかばにじゅう


二坊 天 台 真 言 ノ二派あり学 頭 ニ天

にぼうてんだいしんごんのにはありがくとうにてん


台 尓松  高 院 真 言 ニ醫王 院 の二坊

だいにしょうこういんしんごんにいおういんのにぼう


なり山 を下 リ津くせハ角 屋町  旅 館 多 し

なりやまをくだりつくせばかどやちょうりょかんおおし


爰 ヲ過 て瀧 川 へ出ル舟 ニて渡 ル銭 か免

ここをすぎてたきがわへでるふねにてわたるぜにかめ


村 あり三 里 を行 て新 城 と云 処  人 家續 キ

むらありさんりいをゆきてしんしろというところじんかつづき


て冨商  あり夫 より野田ヘ二里十  六 町  大

てふしょうありそれよりのだへにりじゅうろくちょうおお


木村 ヘ三 里豊 川 左  ニ見テ小ナカフど可原

きむらへさんりとよかわひだりにみてこなこうどがわら

(大意)

(補足)

 江漢の歩いた鳳来寺山から御油への路で村名ののった地図をネットで探すと、この一枚だけしか見つかりませんでした。秋葉山参詣道法図。 

 地図の中央から左よりの部分になります。鳳来寺山を下ると門谷、川の手前が滝川、渡ったところが銭亀村。「三里行て」新城、Y字路の合流地点なので栄えたようです。さらに野田、大木村と地名が確認できます。

「小ナカフど可原」、小奈高戸が原。

 

2025年1月8日水曜日

江漢西遊日記二 その8

P12 東京国立博物館蔵

(読み)

なされるおん方 と問ふ我 等ハ江戸の者

なされるおんかたととうわれらはえどのもの


ニて画を描ク者 なりと云ヒ希れハ左様 なる

にてえをかくものなりといいければさようなる


お方此 邊 ノ地ヘお出 希(マレ)なり何 卒 両  三 日

おかこのへんのちへおいで  まれ なりなにとぞりょうみっか


私   宅 ヘお滞 留  あれと申  个連ど留(トゞマ)ら春゛

わたくしたくへおたいりゅうあれともうしけれど  とどま らず


して去リぬ夫 より鳳 来 寺山 尓かゝる尓

してさりぬそれよりほうらいじさんにかかるに


板 じき川 と云 流 レアリ浅 くして川 の底 皆

いたじきかわというながれありあさくしてかわのそこみな


板 の如 き岩 なり程 なく山 尓登 る尓行

いたのごときいわなりほどなくやまにのぼるにぎょう


者 越 と云 処  一 二町  岩 石 を踏(フミ)攀(よじ)て登 る

じゃごえというところいちにちょうがんせきを  ふみ   よじ てのぼる


頂(イタゞ)きまで五十 町  遥(ハルカ)尓遠 州  海 見へる

  いただ きまでごじっちょう  はるか にえんしゅうかいみえる


山 々 波 能如 し三 四 町  下 リて権 現 の祠  アリ

やまやまなみのごとしさんよんちょうくだりてごんげんのほこらあり

(大意)

(補足)

「希れハ」、「希(マレ)なり」、同じ「希」ですけど、後者はほぼ楷書、前者は変体仮名です。

 前回と同じ地図になりますが、なるほど鳳来寺山からは遠州海が望めそうです。 

 弁喜は天秤棒に衣類や様々な物品をのせて運んだはずですけど、ほんとにこんな「岩石を踏(フミ)攀(よじ)て登る」ようなところを、天秤棒担いで歩んだのでしょうか?

 

2025年1月7日火曜日

江漢西遊日記二 その7

P11 東京国立博物館蔵

(読み)

せけれハあき連て誠  なりとせ春゛吾(ワレ)た王

せければあきれてまことなりとせず   われ たわ


武れ尓曰  之 ハたゞ見セてハならぬ一 人三 十  二文

むれにいわくこれはただみせではならぬひとりさんじゅうにもん


宛 出春へしと云ヘハまことニして各 \/銭 を

ずつだすべしといえばまことにしておのおのぜにを


出し希り山 中  能人 質(シツ)朴(ボク)なる事 かく能如 し

だしけりさんちゅうのひと  しつ   ぼく なることかくのごとし


巣(ス)山 へ一 里カウレ峠  亦 坐頭 轉  シ四十  四曲  坂

  す やまへいちりかうれとうげまたざとうころがししじゅうしまがりさか


を下 リ三河 遠 州  堺  能峠  一 里半 五十 町  一 里ニ

をくだりみかわえんしゅうさかいのとうげいちりはんごじっちょういちりに


して大 難 所 也 殊  尓炎 暑 にしてあせを絞(シホリ)

してだいなんしょなりまことにえんしょにしてあせを  しぼり


个る程 なく大 野と云 へ出テ人 家津ゞけり

けるほどなくおおのというへでてじんかつづけり


爰 能問 屋ハ醫者(イシヤ)なり其 ゐ者 の云フ尓ハあ

ここのとんやは   いしゃ なりそのいしゃのいうにはあ


なタハさし付 多る申  分ンニハ候  得共 何ニを好 ミ

なたはさしつけたるもうしぶんにはそうらえどもなにをこのみ

(大意)

(補足)

「巣山、大野」、大雑把な地図ですけど、参考までに。

「あなタハさし付多る申分ンニハ候得共」、不躾(ぶしつけ)なことをお聞きしますが、のような意味でしょうか。候得共は3文字セットで覚えるくずし字重要語句です。

 江漢さんも人が悪い。「た王武れ」とはいえ「一人三十二文宛出春へし」は、江戸ではかけそば二杯程度の銭でも、この山奥でその貧しさを見てきてわかっているだろうに、しかし「まことニして各\/銭を出し」たのだから、「山中能人質(シツ)朴(ボク)なる事かく能如し」なんて感心してないでくださいな。

 こんな辺鄙な山奥でも銭が流通していたのは、秋葉街道付近は多くの人たちでにぎわっていたからでしょうか。


 

2025年1月6日月曜日

江漢西遊日記二 その6

P10 東京国立博物館蔵

(読み)

廿   九日 天 氣ニて明 方 熊 村 庄  屋孫 右衛門方

にじゅうくにちてんきにてあけがたくまむらしょうやまごえもんかた


を出  立 春四面 能山 より霧(キリ)モヤを起 シ

をしゅったつすしめんのやまより  きり もやをおこし


山 中  能景色 なり人 足 能者 話(ハナシ)尓去 年

さんちゅうのけしきなりにんそくのもの  はなし にきょねん


能事 ニて此 山 中  尓て小童 草を刈(カリ)し尓

のことにてこのさんちゅうにてこどもくさを かり しに


何 ヤラ獣  出て飛 かゝ里个連ハ一 人ハ尓げ

なにやらけものでてとびかかりければひとりはにげ


多り跡 行 見れハ頭  ばかり残 シてあり当 年

たりあとゆきみればあたまばかりのこしてありとうねん


毛大 能男  お和れ个る何 ニと云 獣  ヤラ色 ハ赤 ク

もだいのおとこおわれけるなににというけものやらいろはあかく


覚(ヲホヘ)多るトヤ亦 江戸と申  処  ハと能様 なる処  と聞ク

  おぼえ たるとやまたえどともうすところはどのようなるところときく


故 尓荷の内 ニ我 等造 リ多る覗(ノソキ)目か年を所

ゆえににのうちにわれらつくりたる  のぞき めがねをしょ


持春両  国 橋 の圖江戸橋 能づあり之(コレ)を見(ミ)

じすりょうごくばしのずえどばしのずあり  これ を  み

(大意)

(補足)

「廿九日」、天明8年六月廿九日。西暦1788年8月1日。

「覗(ノソキ)目か年」、18世紀ヨーロッパに各地名所絵とともに流行し、これがまもなく中国、日本に伝来した。円山応挙が1750年代に京都名所の眼鏡絵を制作したのは有名。江漢はこの器具を自作銅版画の眼鏡絵数点とともに携行していた。反射式覗き眼鏡は神戸市立博物館のHPで見ることが出来ます。

「両国橋の圖」、もとの画は反射式眼鏡絵として制作されたので左右反対の構図となってますので、ここではそれを反転させています(題名が鏡文字になっています)。

 手前の出店は両国橋の西岸のにぎわい、両国橋の上にはたくさんの人々が細かく描かれています。隅田川の上流に見える橋は吾妻(東)橋。その左側に大きな屋根は浅草寺でしょう。

「江戸橋能づ」、もと画は色付き。 


 


 

2025年1月5日日曜日

江漢西遊日記二 その5

P7 東京国立博物館蔵

P8P9

(読み)

誠  尓深 山 ニして渓 水 飛ヒ流  ル日も晩 景 ニなり

まことにしんざんにしてけいすいとびながるるひもばんけいになり


け連ハ庄  屋の家 尓泊 ル此 家 障  子なし夜 ニ

ければしょうやのいえにとまるこのいえしょうじなしよるに


なれとも燈 火なし松 の婦しをともしびと春

なれどもとうかなしまつのふしをともしびとす


寝入りて夜更(フケ)猪(シゝ)を追(ヲ)フ聞(コヱ)をきく江戸

ねいりてよ  ふけ   しし を  お う  こえ をきくえど


尓産 れて此 山 中  ニ至 ル事 初 メなりハ奇妙

にうまれてこのさんちゅうにいたることはじめなりばきみょう


尓珍ツラしく思 ヒぬ爰 迄 来ル路 より人 をや

にめずらしくおもいぬここまでくるみちよりひとをや


とゐ荷物 を為持 し尓廿   二三 能女  なり

といにもつをもたせしににじゅうにさんのおんななり


ひ多ゐニて背(セ)負(ヲゝ)なり顔 色 を見れハ相(ソヲ)

ひたいにて  せ   おう なりかおいろをみれば  そう


應 尓見ヘ衣(イ)装(セ ウ)を能くし化粧(ケセ ウ)春るならハ

おうにみえ  い   しょう をよくし   けしょう するならば


美人 とも云 へし可゛かゝる山 家尓産(ウマ)れて

びじんともいうべしが かかるさんかに  うま れて

P8

かゝる王ざを春る事 哉 とて感 じ个連

かかるわざをすることかなとてかんじけれ


熊 村 の圖

くまむらのず

P9

鳳(ホウ)来(ライ)寺ノ方

  ほう   らい じのほう


重  山 かきりなく

ちょうざんかぎりなく


見ヘル

みへる

(大意)

(補足)

「松の婦しをともしび」、松は油分が多いので松明などに使われますが、大きな節の部分は製材するときに除かれて捨てられてしまいます。貧しい庄屋ではそれらも燃やして灯火としたのかもしれません。

「猪(シゝ)を追(ヲ)フ」、山深い地域、獣のほうが優勢でしょうから、夜更けでもなんでもいつでも、作物を守らなければ食べていけなかった。

「ひ多ゐニて背(セ)負(ヲゝ)なり」、「庵原深山の婦人(西遊旅譚一)」の画。「廿二三能女」には見えませんが・・・ 

 熊村の図はなるほど険しい。江漢の手になると、どこかのどかな雰囲気になってしまいますけど。P9の下の方をよく見ると、天秤棒をかついでいる人が小さく描かれています。これはきっと下僕の弁喜に違いありません。

 また囲いのようなものがいたるところにありますが、これが獣よけの柵なのでしょう。

街道の一里とは全く異なり、山路・渓谷・川など乗り越え渡らなければならぬものがたくさんあって、その大変さはちょっと想像がつきません。がんばれ弁喜!