2024年12月31日火曜日

江漢西遊日記一 その48

P54 東京国立博物館蔵

P55

(読み)

P54

庵原 山 中

いはらさんちゅう


此 奥 北 瀧 アリ

このおくきただきあり


一 村 紙 ヲスク

いっそんかみをすく


爰 ニ十  五日

ここにじゅうごにち


留 ル

とまる


柴 田権 左衛門

しばたごんざえもん


山 梨 平 四郎 酒 造

やまなしへいしろうしゅぞう


庵原 川

いはらかわ

P55

    あり者゛ん茶 を仕出ス処  ナリ爰 ヨリ流  川 を

ふしょうありば んちゃをしだすところなりここよりながれかわを


渡 ル事 六 瀬なり山 中  ニして人 家アリ此ノ

わたることろくせなりさんちゅうにしてじんかありこの


河 を太 田川 と云 一 里半 行キ人 家十 軒

かわをおおたかわといういちりはんゆきじんかじっけん


保とアリ人 も畄 ルと見ユ夫 より三倉 と云

ほどありひともとまるとみゆそこよりみくらという


処  爰 も八 九軒 人 家アリ酒 等 アリ人 も

ところここもはっくけんじんかありさけなどありひとも


とめる春べて此 河 を四十  九瀬渡 ル皆

とめるすべてこのかわをしじゅうくせわたるみな


同 し流 レなり三倉 ヨリ一 の瀬まて半 里

おなじながれなりみくらよりいちのせまではんり


一 の瀬より婦もとまて三 里と云 椀 や

いちのせよりふもとまでさんりというわんや


と云 家 ニ泊 ル

といういえにとまる

(大意)

(補足)

 この絵が日記に書かれている部分は(その40)P45、江漢さんが山梨家より出立のときに見送られた大門があり、二人の人影があります。

「庵原」、この日記の中で江漢さんは「ゆはら」とフリガナをふっています。現在は「いはら」。

「爰ニ十五日留ル」、(その32)P37の部分が6月7日、(その39)P44が出立した6月20日なので、正確には13日泊まったことになります。

 江漢が日記の中で記した通り、画のほうもそのように描かれています。山梨家でつくられた酒はこの川で運ばれたのか、それとも小さな街道があって荷車だったのか、あるいはごく地元だけで消費される分量の生産で菰樽程度のものを人力で運んだのか、酒飲みのジジイは気になるところであります。こんなところへ行ってみたいものです。

 秋葉街道の掛川・森・三倉・一ノ瀬の詳しい画像です。『秋葉街道案内資料IV「掛川から森・三倉・犬居・秋葉山へ」』(http://www2.wbs.ne.jp/~ota/akihakaidoannaishiryo-4.pdf)より無断(ゴメンナサイ)で拝借しました。 

 かなり険しい山道と河の瀬をたくさん渡らねばならない、難路であったこととおもいます。

 さてここまでが第一冊となり、きりよく2024年大晦日の区切りとなりました。

よいお年を。

 

2024年12月30日月曜日

江漢西遊日記一 その47

P52P53 東京国立博物館蔵

(読み)

金 谷臺 ヨリ見下 ス圖

かなやだいよりみおろすず


下 ノ町 ハ金(カナ)谷宿

したのまちは  かな やしゅく


ナリ

なり


大 井河 幾 瀬ニも

おおいかわいくせにも


なりて流  ル

なりてながれる


足 高 山

あしだかやま


大 井河

おおいかわ

P53

信 州  山

しんしゅうさん


雪降

ゆきふり


城  趾

じょうし

(大意)

(補足)

 足高山とありますが、その名前の山は見つけることが出来ませんでした。似た名前のものは八高山(はっこうさん)ぐらいしかみあたりません。山の名前はそうそう変わるものではないので、江漢さんの勘違いかも。

 金谷宿の屋根がくの字になって大きな宿場のように描かれています。実際『天保十四(1843)年の記録『東海道宿大概帳(だいがいちょう)』によると、金谷宿の全長は東西16町24間、宿内人口は4,271人、宿内家数は1,400軒でした』とあり、東海道五十三次の主要な駅のひとつであったとありました。

左端の「城趾」は、「諏訪原城は、遠江国榛原郡金谷にあった戦国時代の日本の城」のことでしょうか。

 江漢さんの絵はいつもながら日本の湿潤なやわらかいうるおった筆使いで空気感が感じられます。また遠近感をだすためか、手前の山々の線は太く、遠くになるに従って筆の線が細く薄くなってます。

 西洋暦では7月なので富士山は雪をかぶっていません。「信州山」とある南アルプス方面の山々は「雪降」とあるので、夏でも残雪があったのでしょう。

 

2024年12月29日日曜日

江漢西遊日記一 その46

P51 東京国立博物館蔵

(読み)

 士山 見ヘ左  の向  遠 く尓信 濃山 見へ能 景

ふじさんみえひだりのむこうとおくにしなのさんみえよきけ


色 なり夫 より小夜(サヨ)能中 山 越ヘ日 坂 より

しきなりそれより   さよ のなかやまこえにっさかより


掛 川 ニ至 リ矢口 屋と云 家 ニヤとる七 ツ時 半

かけがわにいたりやぐちやといういえにやどるななつどきはん


なり此 日甚  タ暑 シ伊勢西 国 ハ大 洪 水 と云フ

なりこのひはなはだあつしいせさいごくはだいこうずいという


者なしを聞ケリ

はなしをきけり


廿   七 日 朝 ヨリ快 晴 暑 シ朝 掛 川 を出  立

にじゅうしちにちあさよりかいせいあつしあさかけがわをしゅったつ


して宿 者川れニ鳥 井あり秋 葉路 なり

してやどはずれにとりいありあきはみちなり


山 路 ニして二里程 行キ流 レあり歩(カチ)ニて越春又

やまみちにしてにりほどゆきながれあり  かち にてこすまた


一 里行 て川 あり歩 ニて越ス夫 ヨリ森(モリ)と云 宿  也

いちりゆきてかわありかちにてこすそれより  もり というしゅくなり


一 の瀬と云 へ三 里あり森 宿  ハ能 所  ニて冨商

いちのせというへさんりありもりしゅくはよきところにてふしょう

(大意)

(補足)

「小夜(サヨ)能中山」、『さやのなかやま 【佐夜の中山・小夜の中山】

静岡県掛川市日坂(につさか)から島田市金谷に至る途中の坂路。箱根路に次ぐ東海道の難所。さよのなかやま。「年たけて又越ゆべしと思ひきや命なりけり―」〈新古今和歌集•羇旅〉』

「伊勢西国ハ大洪水と云フ者なしを聞ケリ」、『明治以前日本水害史年表』を調べた。このことだろうか。「1788(天明8)年諸国霖雨,洪水。京都鴨川桂川共に一丈余之出水にて橋々不残流失す,又勢州辺も同様之大水にて,材木六千本程積置しが流出せし(6月)」。伝聞で知るしかない当時、その速さは想像以上のものだったようです。

「七ツ時半」、夕方5時ころ。

「廿七日」、六月廿七日。西暦1788年7月30日。

「秋葉路」、掛川から秋葉山(あきはさん)を通って、東海道の宿場町御油(ごゆ)へ出る約30里の脇往還。 

 秋葉寺の手前に三倉宿・森宿があります。

 東海道五十三次の中央付近の宿場町の図。


 ようやく、京都まで半分手前ほどのところまで来たようですけど、長崎まではまだまだです。

 

2024年12月28日土曜日

江漢西遊日記一 その45

P50 東京国立博物館蔵

(読み)

なる者 爰 ヨリボクとして津れる五時過 ニ立

なるものここよりぼくとしてつれるごじすぎにた


ツ兄  弟 金 宝 を餞 別 ニ贈 ル大 主 人 ハ江戸ヘ

つきょうだいきんぽうをせんべつにおくるおおしゅじんはえどへ


出てる春コレハ能(ノー)ランブを好 ム故 尓不逢 大

でてるすこれは  のう らんぶをこのむゆえにあわずおお


門 を開 キ外(ソト)まて出テ送 ル夫 より瀬戸川 を

もんをひらき  そと まででておくるそれよりせとがわを


渡 ル松 原 ヘ出ル左  尓土手如 きハ金 谷原 ト

わたるまつばらへでるひだりにどてごときはかなやはらと


云 大 井河 漲  リ八 十  八 文 川 連 臺 ニて渡 ル金ナ

いうおおいがわみなぎりはちじゅうはちもんかわれんだいにてわたるかな


谷棒 ハヅレニて中  喰を春右 ノ方 ニ城 ノ址(アト)と

やぼうはずれにてちゅうじきすみぎのほうにしろの  あと と


て山 の形  アリ皆 往 来 山 坂 路 半 里程 を

てやまのかたちありみなおうらいやまさかみちはんりほどを


過 てかえり見れハ金 谷宿  直(マ)下 ニ見ヘ向 フ尓

すぎてかえりみればかなやしゅく  ま したにみえむこうに


大 井河 幾 瀬ニもなりて流 ル其 亦 向 フ冨

おおいがわいくせにもなりてながるそのまたむこうふ

(大意)

 ここのところ、ずっと大意は省略しています。246年前の日記ではありますが、そのままで十分に意味がわかりますし、わたくしの変な説明よりもそのままのほうがずっと良く味もあるとおもうので、大意は今後も控えます。

(補足)

「ボク」、下男。召し使い。

「五時過」、ここでは朝8時過ぎ。

「過」のくずし字は「る」+「辶」。「迄」は「占」+「辶」。似ているので注意です。

「能(ノー)ランブ」、なんのことかと悩みました。お能と乱舞(中世以後,能の演技の行われる間に舞うものも乱舞と称した)でした。

「大門を開キ外(ソト)まて出テ送ル」、大塚家は地元の富豪で屋敷を構えていたのでしょう。見事な大きな門があったにちがいありません。

「川連臺ニて渡ル」、酒匂川のかち渡しでも同様にして使用した。

「中喰」、昼食。

「金谷宿直(マ)下ニ見ヘ」、地図で確かめるとこのあたり。 

「直(マ)下」と振り仮名があるので、真下でしょうけど、フリガナがなかったら直下(ちょっか)でもOKでした。

 

2024年12月27日金曜日

江漢西遊日記一 その44

P49 東京国立博物館蔵

(読み)

府中  ニ置けり飛脚  ヲ以 テ取 よせんと云 けれ

ふちゅうにおけりひきゃくをもってとりよせんといいけれ


ハ兄  弟 早 々 飛脚  を遣  シ取 よせ希る爰 より

ばきょうだいそうそうひきゃくをつかわしとりよせけるここより


五里往 来 十  里なり蝋 画パウリユスと云フ

ごりおうらいじゅうりなりろうがぱうりゆすという


半 身の異人 像 なり髭(ヒゲ)のチリ\/とし多る

はんみのいじんぞうなり  ひげ のちりちりとしたる


処  誠  尓活 ルガ如 し見 物 能者 奇意能思 ヒ

ところまことにいきるがごとしけんぶつのものきいのおもい


をな春亦 地球  のづを以 テ世界 能事 を話(ハナス)

をなすまたちきゅうのずをもってせかいのことを  はなす


聞く者 此 様(ヨウ)なる者なしハ初 メてなり感心(カンシン)

きくものこの  よう なるはなしははじめてなり   かんしん


春る

する


廿   五日 天氣 蝋 画を描ク皆 々 きもヲツブス

にじゅうごにちてんきろうがをかくみなみなきもをつぶす


廿   六 日 天 氣小西 庄  兵衛可せがれ十  六 歳 ニ

にじゅうろくにちてんきこにししょうべえがせがれじゅうろくさいに

(大意)

(補足)

「往来」、辞書には「往復」の意味は見つかりませんでしたけど、ここでは「往き来」の意。

「蝋画パウリユスと云フ半身の異人像」、聖パウロの上半身の油絵のこと。ご禁制の画を持ち歩いていたばかりでなく、皆に見せていたようであります。

「廿五日」、六月廿五日。西暦1788年7月28日。

 ご禁制の画を見せたり、地球の図を見せて世界の話をしたり、油絵を見物人の前で描いてみせたり、などなどしたら、その場にいた人たちはどうしても他の人たちにそれらのことを話したくてたまらなくなるものだろうとおもうのですけど、どうだったのでしょうか。

 すぐに町方や役人にそれらの噂が伝わって、お縄になるなどとは考えなかったのかどうか、今になって心配しても始まりませんけど、きっと好奇心のぶつかり合いだったのでしょう。

 

2024年12月26日木曜日

江漢西遊日記一 その43

P48 東京国立博物館蔵

(読み)

廿   三 日 天 氣画を二三 紙描ク酒 肴 を出し

にじゅうさんにちてんきえをにさんしかくしゅこうをだし


兄  弟 不離  して話 シス晩 方 裏 口 より出で

きょうだいはなれずしてはなしすばんがたうらぐちよりいで


田畑 ヲ隔 て蓮 華寺と云 アリ池 あり其

たはたをへだてれんげじというありいけありその


堤  尓能ほり酒 茶 菓子等 取 よせ楽  武

つつみにのぼりさけちゃかしとうとりよせたのしむ


廿   四 日天 氣暑 を催  しアツシおらん多゛風 の

にじゅうよっかてんきしょをもよおしあつしおらんだ ふうの


画ハ蝋 油を以 テ彩 色 を春故 尓光 澤 ありて

えはろうゆをもってさいしきをすゆえにこうたくありて


真 物 の如 しと云 个連ハ兄  弟 頻 リ尓請(カフ)故 ニ

しんぶつのごとしといいければきょうだいしきりに  こう ゆえに


描(カゝ)ン事 を約 ス然  尓府中  尓暫  ク滞 留  のうち

  かか んことをやくすしかるにふちゅうにしばらくたいりゅうのうち


長 崎 の方 へハ参 ルまじとて蝋 画其 外 地球

ながさきのほうへはまいるまじとてろうがそのほかちきゅう


の図其 餘 蘭 物 皆 江戸へかえさんとて

のずそのほからんぶつみなえどへかえさんとて

(大意)

(補足)

「廿三日」、六月廿三日。西暦1788年7月26日。

「蓮華寺と云アリ池あり」、ネットに『この池は、今から400余年前に人の手によって造られた人工池なのです。当時、付近の村々では、瀬戸川から水を引いて農業を行っていましたが、用水の末端部に位置する五十海・市部村は水の確保に大変苦慮していました。二つの村は農業用水を確保するため、現在の公園周辺を村域としていた若王子村と共同で、慶長15(1610)年から3年の歳月をかけて、若王子村の一部の田畑をつぶして堤を築き、ため池を築造しました。この「ため池」が現在の『蓮華寺池』です』とありました。 

「蝋画」、蝋油画ともいい、荏油(えあぶら)を顔料に混ぜる油彩画。現在も残る代表的な作品はこの西遊後に次々と出来上がった、とありました。

「地球の図」、この図は大槻玄沢が蘭医ストッツルから江戸で得た、アムステルダム版「東西半球図」を一時借りていたのかもしれない、とありました。しかしそれほど貴重なものを道中で持ち歩くでしょうか。模写したものだったかもしれません。

 晩方に、池の土手上で酒・菓子を楽しんだとあります。お天気は寒くないですから大丈夫とはおもいますけど、虫や蚊はどうしたのでしょう、それに真っ暗の中で蝋燭ともしての宴会でしょうかねぇ。

 

2024年12月25日水曜日

江漢西遊日記一 その42

P47 東京国立博物館蔵

(読み)

能ミの幾(イク)らも飛 出 夜中 一 向 ニ袮られ春゛

のみの  いく らもとびだしよなかいっこうにねられず


誠  尓蚤 尓喰 れ个る

まことにのみにくわれける


[庄  兵衛倅  弁 㐂歳 十  六 コレヲ連 此 者 長 崎

 しょうべえせがれべんきとしじゅうろくこれをつれこのものながさき


まて至 リて江戸迄 来ル]

までいたりてえどまでくる


廿   二日 天 氣昼 比 より大 塚 甚 兵衛とて

にじゅうににちてんきひるごろよりおおつかじんべえとて


藤 枝 一 人冨(フウ)商  なり酒 造 家ニて此節(セツ)

ふじえだひとり  ふう しょうなりしゅぞうかにてこの せつ


米 拂 底 ニて酒 ハ休 ミて居 个り庄  兵衛と共 ニ

こめふっていにてさけはやすみておりけりしょうべえとともに


爰 ニ至 ル尓兄  弟 兄 ハ藤 蔵 ト云フ弟   ハ軍

ここにいたるにきょうだいあにはふじぞうというおとうとはぐん


蔵 とて二 人出て酒 肴 を出してもてな春

ぞうとてふたりでてしゅこうをだしてもてなす


昨 夜ハ嘸 可し御難 儀なされ多と存 シ申  候

さくやはさぞかしごなんぎなされたとぞんじもうしそうろう


両  人 ともニ文 人 ニて画を好 ム者 ニて甚  タよ

りょうにんともにぶんじんにてえをこのむものにてはなはだよ


ろこひ数 日 滞 留  を願 ふなり

ろこびすうじつたいりゅうをねがうなり

(大意)

(補足)

「廿二日」、六月廿二日。西暦1788年7月25日。

「大塚甚兵衛」、大塚家は藤枝で酒造業により財を成した富豪。画を始めとしてあらゆる文芸の中心になって地域文化の発展に尽くした。このときは五代目通称甚左衛門、大塚正儀(亀石と号す。享保10年(1725)〜文化5年(1808))

「藤蔵」、亀石の三男で当時26歳。宝暦13年(1763)〜寛政5年(1793)。江戸にも遊学。

「軍蔵」、亀石の四男で当時20歳前後。

「嘸可し」、「さぞかし」は現在でも日常で使われますが、読めませんでした。

「願ふなり」、これは江漢さんが泊めてくれと大塚家にお願いしたのではなく、「宝金を贈ル」や「酒肴を出してもてな春」などとあるように、大塚家から泊まってくださいとお願いされたということ。「誠尓蚤尓喰れ个る」と受け身表現使っているのに、なぜかいくつかの動作では受動態は使われていません。

 

2024年12月24日火曜日

江漢西遊日記一 その41

P46 東京国立博物館蔵

(読み)

廿   一 日 天 氣朝 山 梨 を出  立 せんと春両  家

にじゅういちにちてんきあさやまなしをしゅったつせんとすりょうけ


より餞 別 ニ宝 金 を贈 ル亦 府中  尓来 リて

よりせんべつにほうきんをおくるまたふちゅうにきたりて


長谷玄 庵 を吊  フ太 田原 侯 ヘ傳 言 を頼 ミ

はせげんあんをとぶらうおおたわらこうへでんごんをたのみ


瀬戸川 を越し程 なく阿部川 を渡 ル水 出テ

せとかわをこしほどなくあべかわをわたるみずでて


漲  ル夫 よりう川能山 を越して巻狩(カリ)橋 八

みなぎるそれよりうつのやまをこしてまき かり はしや


幡 橋 を渡 里てよふやく藤 枝 ニ至 リ小西

わたはしをわたりてようやくふじえだにいたりこにし


庄  兵衛方 ニ泊 ル庄  兵衛の曰  此 所  より十  里アリ

しょうべえかたにとまるしょうべえのいわくこのところよりじゅうりあり


遠 州  ニ櫻  ガ池 アリ秋 の彼岸 ニ祭  あり供物

えんしゅうにさくらがいけありあきのひがんにまつりありくもつ


をひつ尓入 水 中  ニ入 ルる尓其 ひつ直 尓沈 ム事

をひつにいれすいちゅうにいれるるにそのひつじきにしずむこと


奇妙  と春庄  兵衛内 ハ甚  タキタナキ事 多々ミ

きみょうとすしょうべえうちははなはだきたなきことたたみ

(大意)

(補足)

「廿一日」、六月廿一日。西暦1788年7月24日。

「宝金」、『方形の金貨。 江戸時代の一分金・二分金・一朱金などをいう』。

「吊フ」、とぶらふ。訪れる。

「う川能山」、『うつのやま 【宇津の山】静岡市駿河区丸子(まりこ)と藤枝市岡部町との境にある山。宇津ノ谷峠がある。「駿河なる―べのうつつにも夢にも人にあはぬなりけり」〈伊勢物語9〉』。教養豊かな江漢さん、在原業平の歌にあったのを思い出し、あぁ、あの歌はここだったのかと・・・

 岡部・丸子宿の間に「宇津谷村」があって、この北西の山がその山のようです。

「藤枝」、下の地図で確かめると、 

藤枝宿の東に本多豊前守居城があり、その南に「瀬戸川」が流れています。安倍川は北東の方向にあって、「瀬戸川を越し程なく阿部川を渡ル」の順番が逆でなければなりませんけど、さて?

「遠州ニ櫻ガ池アリ」、今でも全国から櫃をおさめに沢山の人が来るそうです。

 ともかく、西に向けて出立したようであります。

 

2024年12月23日月曜日

江漢西遊日記一 その40

P45 東京国立博物館蔵

(読み)

他国 の産 れなり婦人 老 ルまて後 ロ帯 ニ春る

たこくのうまれなりふじんおいるまでうしろおびにする


冬 ハ不寒   雪 も大 ク不積  夏 ハ忽  チ氣候

ふゆはさむからずゆきもおおくつもらずなつはたちまちきこう


變 して冷 氣トナル是 ハ冨士ヨリ冷 際 の風

へんしてれいきとなるこれはふじよりれいさいのかぜ


を吹 おろ春故 ト云 庵原 ハ江尻 と沖 津の北

をふきおろすゆえというゆはらはえじりとおきつのきた


能方 ヘ一 里山 ニ入  庵原 川 僅(ワツカ)なる流 レ尓て

のほうへいちりやまにはいりゆはらかわ  わずか なるながれにて


其 左右 ニ人 家アリ山 梨 柴 田川 の左右 尓

そのさゆうにじんかありやまなししばたかわのさゆうに


アリ此 両  家能ミ冨家也 川 の上 ハ北 瀧 とて

ありこのりょうけのみふかなりかわのうえはきたたきとて


三 四丈  落 ル多きなり此 山 中  紙 を春き木

さんしじょうおつるたきなりこのさんちゅうかみをすきき


をこ里て産 と春農 夫皆 太布をきる甚タ

をこりてさんとすのうふみなたふをきるはなはだ


能深 山 なり

のしんざんなり

(大意)

(補足)

「後ロ帯」、『うしろおび【後ろ帯】① 帯を後ろで結ぶこと。後ろで結んだ帯。近世前期から町方の娘や若い嫁の地味な風俗。嘉永(1848〜1854)の頃から一般化した。

② 未婚の女性。娘』。これに対して『まえおび まへ―【前帯】帯を前で結ぶこと。また,前で結んだ帯。近世,元服後,多くは既婚の女性の風俗。のち,遊女の風俗となった。かかえ帯』。TVなど時代劇ではなぜか、後ろ帯ばかりで、吉原の遊女だけは前帯となっています。

「沖津」、興津。江漢さんは思い込みの激しそうな方のようなので、興津・江尻・府中の位置関係を確かめておきます。何回か前のBlogで富士川を境に庵原郡と冨士郡の地図を載せました。

 駿河湾主要河川の図。


 興津・江尻・府中宿の図。 

「木をこ里て」、『こ・る 【樵る・伐る】山に入って木を切り出す。「木ヲ―・ル」〈日葡辞書〉』。木樵(きこり)の樵るです。

 こんな人里離れた山奥のところで紙を漉いていたなんてとおもわれるかもしれません。農家というとすぐに米を連想してしまうのは、どうやら間違っている思い込みのようで、当時、とにかくなんでも栽培して生産できるもの、茶・果物・根菜類・楮苧(紙の原料)・煙草・大豆・胡麻・稗粟などなど自給自足が原則で、余ったものは近所同士で物々交換、さらに豊かになってくると、近場で開かれる市で売って現金収入をしていたようです。

「三四丈」、一丈は約3.03mなので9.1m〜12.12mの滝。

「太布」、『たふ【太布】楮(こうぞ)・科(しな)の木などの皮の繊維をつむいで地機で織った粗い織物。労働着に用いられた。四国の山間では近年まで産出。栲布(たくぬの)。ふと布』。

 

2024年12月22日日曜日

江漢西遊日記一 その39

P44 東京国立博物館蔵

(読み)

至  て麁末 なる物 なり方 丈  ニて画二十  枚

いたってそまつなるものなりほうじょうにてえにじゅうまい


認  メ皆 出来あしゝ晩 方 庵原 へかえりぬ

したためみなできあししばんがたゆはらへかえりぬ


廿 日天 氣快 晴 春明日ハ爰 を出  立 して

はつかてんきかいせいすあすはここをしゅったつして


いよいよ長 崎 の方 へおも武かんと春

いよいよながさきのほうへおもむかんとす


さて府中  より此 地の風 土暖 土ニして風 蘭

さてふちゅうよりこのちのふうどだんどにしてふうらん


石 解 蘭 水 仙 自  ラ山 野ニ生  ス蘇鉄 サ

せっこくらんすいせんみずからさんやにしょうずそてつさ


ポテン地尓生  シテ大 キシ故 尓花 さき実ヲ

ぼてんちにしょうじておおきしゆえにはなさきみを


武春ぶ府中  ハ町 九  十  六 町  アリ男  ハ江戸の物

むすぶふちゅうはまちきゅうじゅうろくちょうありおとこはえどのもの


言 ニ少 シかわる女 子の言 語ハ甚  タか王りなり女  ハ

いいにすこしかわるじょしのげんごははなはだかわりなりおんなは


必  ス色 黒 ク野卑(ヒ)なりたま\/色 白 ク能キ女 ハ

かならずいろくろくや  ひ なりたまたまいろしくよきおんなは

(大意)

(補足)

「廿日」、六月廿日。西暦1788年7月23日。

「爰を出立していよいよ長崎の方へおも武かんと春」、と何度目かの決心。みずから励ましている。変体仮名「武」(む)はこの日記で頻繁に使われます。

「風蘭」、『ふうらん【風蘭】ラン科の常緑多年草。暖地の山中の樹上に着生,また観賞用に栽培。茎は短く,広線形のかたい葉が左右二列につく。夏,腋生(えきせい)の柄に細長い距(きよ)がある白色の花を数個つける。品種が多い』

「石解蘭」、石斛蘭(セッコクラン)。


 

2024年12月21日土曜日

江漢西遊日記一 その38

P43 東京国立博物館蔵

(読み)

獨  眠 る其 夜雨 ヤミ漸  く月 出テ青 天

ひとりねむるそのよあめやみようやくつきでてせいてん


を望 ム阿部(アベ)河 渡 舟春と聞

をのぞむ   あべ かわとせんすときく


十  九日 朝 天 氣四時より亦 雨 清 見寺 能山 ヘ

じゅうくにちあさてんきよじよりまたあめきよみでらのやまへ


登 ル路 ニ琉  球  人 の塚 アリ四 町  程 登 リて

のぼるみちにりゅうきゅうじんのつかありよんちょうほどのぼりて


三 十  デ ウ敷 の亭 あり朝  鮮 人 能詩 アリ

さんじゅうじょうじきのていありちょうせんじんのうたあり


至  て俗 筆 也 眼 下ニ海 を能そミ海 中  ニ

いたってぞくひつなりがんかにうみをのぞみかいちゅうに


三穂の松 原 洲いく筋 ニもなりて其 景

みほのまつばらすいくすじにもなりてそのけい


妙 也 右 ノ方 へ下 リ大 慈閣 アリ僧 一 人

たえなりみぎのほうへくだりだいじかくありそうひとり


住  春夫 より方 丈  ニ帰 ル本 堂 ノ脇 尓

じゅうすそれよりほうじょうにかえるほんどうのわきに


家 康 公 のかごあり四ツ手駕籠の如 く

いえやすこうのかごありよつてかごのごとく

(大意)

(補足)

「望ム」、このくずし字はもう何度も出てきているのでOK。

「阿部(アベ)河」、安倍川。

「十九日」六月十九日。西暦1788年7月22日。

「四時」、朝10時頃。

「三十デウ敷」、 三十畳敷。「敷」のくずし字はなんともつかみどころのない形。

「三穂の松原」、三保の松原。

 江漢さんの誤字はうっかり間違いというより、思い込みの強い間違いなので、何度でも同じ誤字がずっと続くようにおもいます。ときたまうっかり正しくなることもあるようですけど。

 

2024年12月20日金曜日

江漢西遊日記一 その37

P42 東京国立博物館蔵

(読み)

十  六 日 偶 然 として暮 ス老 婦利口 な人 也

じゅうろくにちぐうぜんとしてくらすろうふりこうなひとなり


度 々 江戸ヘ出多る故 尓江戸能者なしをし

たびたびえどへでたるゆえにえどのはなしをし


心  安 くなる

こころやすくなる


十  七 日 雨 川 向 フ能柴 田氏ヘ行キ画ヲ描キ

じゅうしちにちあめかわむこうのしばたしへゆきえをかき


一 宿  ス

いっしゅくす


十  八 日 昼 比 雨 春こし晴 ル少 シ暑 ヲ催  春主 人

じゅうはちにちひるごろあめすこしはれるすこししょをもよおすしゅじん


と共 尓江尻 某 の処  ヘ行キ兆(テ ウ)殿(テンス)主の羅漢 ノ

とともにえじりぼうのところへゆき  ちょう   でんす  のらかんの 


画五十 幅 アリ之 ヲ見ル尓一 向 能画なり爰 ヲ

えごじっぷくありこれをみるにいっこうのえなりここを


去 て清 見寺 尓至 ル画二三 紙認  メ日暮 尓なり

さりてきよみでらにいたるえにさんししたためひぐれになり


个連ハ即 泊 ル誠  尓山 寺 ニて瀧 の音 を聞キて

ければそくとまるまことにやまでらにてたきのおとをききて

(大意)

(補足)

「十六日」、六月十六日。西暦1788年7月19日。

「偶然として」、「偶」は「寓」で、「寓然」は江漢の造語?ぼんやりと過ごしたということ。

「老婦」、山梨志賀子、平四郎の妻。元文2年(1737)〜文化11年(1814)。このとき52歳。山梨家には志賀子の和歌・書簡・旅日記などが残されている、とありました。

「兆(テウ)殿(テンス)主」、室町時代の画僧。吉山明兆(きつさんみんちょう)のこと。東京国立博物館特別展「東福寺」その1の中で「明兆は、同時代のみならず江戸時代に至るまで、かの雪舟(せっしゅう・1420~1506?)に勝るとも劣らぬ人気と知名度がありました。延宝6年(1679)に狩野永納が著した『本朝画史(ほんちょうがし)』という書物には、400人近くの画人伝が収録されていますが、そのなかで突出して記述量が多いのが、雪舟と狩野元信、そして明兆の3人です」と紹介されています。

 江漢さん「一向能画なり」の一言で片付けてしまっているところをみると、富士山ほどにはあまり心動かされてないようです。

 

2024年12月19日木曜日

江漢西遊日記一 その36

P41 東京国立博物館蔵

(読み)

尓居て三 人 の兄  弟 と共 尓酒 を呑ミ誠  ニ

にいてさんにんのきょうだいとともにさけをのみまことに


宿 なし能如 く一 向 ニ苦なし故 尓や

やどなしのごとくいっこうにくなしゆえにや


氣分 能くなり个連ハ亦 ゝ 長 崎 ヘ往カン

きぶんよくなりければまたまたながさきへゆかん


と思 ふなり此 節 雨 天續 キ大 井河

とおもうなりこのせつうてんつづきおおいがわ


漲  リ个連ハ見合  て先ツ爰 ニ居ル

みなぎりければみあわせてまずここにいる


十  四 日雨 天寒 々 袷 セを用 ユ

じゅうよっかうてんさむざむあわせをもちゆ


十  五日 雨 三 男 亮  平 ハ本 宅 ヨリハ三 町

じゅうごにちあめさんなんりょうへいはほんたくよりはさんちょう


ほど隔  リ四面 皆 田ニて一 軒 家なり誠  ニ

ほどへだたりしめんみなたにていっけんやなりまことに


寂黄(バク)として人 語なし其 夜泊 ル大 雨

せき ばく としてじんごなしそのよとまるおおあめ


楽 山 亭 の額 在 誠  尓山 四面 ヲ廻 る

らくざんていのがくありまことにやましめんをめぐる

(大意)

(補足)

「誠ニ」、この頁に3箇所使われています。

「氣分」、「分」のくずし字はよく出てきます。「彡」+「丶」。

「亦ゝ長崎ヘ往カン」、またまたと繰り返しているのは、前回戸部村でもあったことが気になっているはず。さらに、長崎へ往く決心(そのためか「長崎」は楷書でクッキリ)がついているのに、まだここにいるのを大雨で大井河が渡れないせいにしている。自分でも情ぬとおもっているのがあきらかであります。

「十四日」、六月十四日。西暦1788年7月17日。

「亮平」、前のところでは「量平」だったが、こちらが正しいようです。

「寂黄(バク)」、寂寞。

「楽山亭」、かって僧一麟が居たところで、山梨平四郎の当年18歳になる四男東平(稲川)が9歳から兄亮平と共に句読(くとう)を学んだところである、とありました。

 

2024年12月18日水曜日

江漢西遊日記一 その35

P40 東京国立博物館蔵

(読み)

坊 多蔵 を連(ツ)れ田のあせ山 能腰シムセ ウニ

ぼうたぞうを  つ れたのあぜやまのこしむしょうに


歩しスッホンなし故 ニ道 ニより酒 ヲ呑 て

ほしすっぽんなしゆえにみちによりさけをのみて


かえる

かえる


十  一 日 天 氣川 ノ向 フ柴 田権 左衛門 方 へか

じゅういちにちてんきかわのむこうしばたごんざえもんかたへか


つ保振 舞 ニ参 ル江尻(シリ)海 ニて取ル魚 也

つおふるまいにまいるえ  じり かいにてとるうおなり  


十  二日 雨天 全躰  江尻 迄 帰 り多るハ府中  ニ

じゅうににちうてんぜんたいえじりまでかえりたるはふちゅうに


長 ク居タルハ兎角 氣不勝  大 田原 侯 仰(ヲゝセ)

ながくいたるはとかくきぶしょうおおたわらこう  おおせ


ニハ夫 ニてハ長 崎 迄 おぼ川可なし一 先 江

にはそれにてはながさきまでおぼつかなしひとまずえ


戸ヘ帰 リて出直(ナヲ)ス可宜  可る遍しと能事 故 先

どへかえりてで  なお すがよろしかるべしとのことゆえまず


帰 る氣ニて爰 迄 参 リ多るなり然 ル尓此庵(ユ)原

かえるきにてここまでまいりたるなりしかるにここ ゆ はら

(大意)

(補足)

「十一日」、六月十一日。西暦1788年7月14日。

「江尻(シリ)海」、この画像の中央あたりが江尻村。鰹はその前の海でとれたか。 

「全躰」、『(副)① おおもとのところを考えるさま。もともと。元来。「―こんなことを言い出した君が悪い」「―お前,気が小さ過ぎらあ」〈夜行巡査•鏡花〉』

 大田原侯のおっしゃったこの台詞、以前にもどこかで聞いたことのあるような?

江戸を出発してすぐ、戸部村の善三郎さんに言われてました。

「夫にては長崎迄はおぼつかなし。爰より伊豆、熱海に湯治して江戸へお帰り」

蕎麦をすすりながら、しょげかえっている江漢さんでしたが、なんとかここ駿河は府中まできたものの、またまたの気のふさがりという江漢さん自分でもわかっていてもどうにもできず、もともと江尻まで戻ってきたのは戻ろうとおもってそうしたのだと、言い訳がましいことをのたまわっています。

 

2024年12月17日火曜日

江漢西遊日記一 その34

P39 東京国立博物館蔵

(読み)

其 外 大 主 人 五十  余  ノ人 也 兄  弟 三 人 又

そのほかおおしゅじんごじゅうあまりのひとなりきょうだいさんにんまた


寿 慶(ケイ)と云 坊 主コレハ江戸廣 尾ニ百  五

じゅ  けい というぼうずこれはえどひろおにひゃくご


十  俵  取 ノハタモト親 近 藤 宗 三 とて訳(ハケ)

じゅっぴょうとりのはたもとおやこんどうそうぞうとて  わけ


ありて親 尓切ラ連家 をいてし者 也 顔(カホ)

ありておやにきられいえをいでしものなり  かお


肩(カタ)尓切ラ連多るき春゛ありおそろしき様

  かた にきられたるきず ありおそろしきよう


子(ス)の者 並 ヒ居て多蔵 門 人 一 人出て相 手

  す のものならびいてたぞうもんじんひとりでてあいて


ニなる劔 術  者 幸 太良 甚  タ此 様 子を

になるけんじゅつしゃこうたろうはなはだこのようすを


見て恐 れおぢけて忽(タチマ)チまけ多り赤 面

みておそれおじけて  たちま ちまけたりせきめん


して早 \/かえり个る大 笑  なり

してそうそうかえりけるおおわらいなり


十 日天 氣スッポンを取 ンとて寿 ケイ悪ク

とおかてんきすっぽんをとらんとてじゅけいあく

(大意)

(補足)

「おそろしき様子(ス)」、「子(ス)」とするところを「様」と間違えて「子」をそのまま上書きしてます。次の行に「此様子を」と再び出てきます。

「十日」、六月十日。西暦1788年7月13日。

 まるで時代劇の一場面みたいでとても愉快ゆかい。まさしく「大笑なり」であります。

 

2024年12月16日月曜日

江漢西遊日記一 その33

P38 東京国立博物館蔵

(読み)

八 日天 氣昼 比 同 所 川 を越 て向 フなり山梨(ナシ)

ようかてんきひるごろどうしょかわをこえてむかうなりやま なし


平 四郎 方 ヘ参 ル之 も冨家ニて酒 造 なり

へいしろうかたへまいるこれもふかにてしゅぞうなり


子共 兄  弟 三 人 兄 ハ画を好 ミ次男 ハ多蔵

こどもきょうだいさんにんあにはえをこのみじなんはたぞう


と云ツて劔(ケン)術  を好 ミ三 男 醫者 也 量  平 ト

といって  けん じゅつをこのみさんなんいしゃなりりょうへいと


云フ甲 州  八 代 郡 石 和村 の者 信 州  野田

いうこうしゅうやつしろぐんいさわむらのものしんしゅうのだ


曽根榮 治門 人 同 村 同 所 内 藤 一 新

そねえいじもんじんどうそんどうしょないとういっしん


斎 門 弟 小野一 統(トヲ)流  山 中 幸 太良 と

さいもんていおのいっ  とう りゅうやまなかこうたろうと


云フ者 也 劔 術  御好 ミの方 之 あると申  事 承

いうものなりけんじゅつおこのみのかたこれあるともうすことうけたまわり


およひ候   夫 故 参  申  候   と(ト)

およびそうろうそれゆえまいりもうしそうろうと


申  故 どふ場(セ ウ)へとをし

もうすゆえどう  じょう へとおし


仕合 を能そミ个る我 等モ坐ニ連ラなり

しあいをのぞみけるわれらもざにつらなり

(大意)

(補足)

「八日」、六月八日。西暦1788年7月11日。

「山梨(ナシ)平四郎」、江戸時代の漢詩人・説文学者山梨稲川(とうせん)(1771〜1826)の父、維良。

「兄弟三人」、平四郎の子は、五男二女の計7人。

「量平」、亮平。このとき23歳。普賢寺の僧一麟について学び、のちに京都に赴き畑黄山の門に入り医術を修めた。郷里に戻り、この天明八年ののち三年にして病死している、とありました。

 時代小説やTV・映画などでおなじみの道場破り、ここでは荒々しいものではありませんが、実際の道場での仕合を申し込む様がかかれていて、なかなか愉快。ほんとにこんな風に申し込んでいたのですね。

 

2024年12月15日日曜日

江漢西遊日記一 その32

P37 東京国立博物館蔵

(読み)

玄 庵 案 内 者 ニて明  朝  爰 を出  立 せんとて

げんあんあんないしゃにてみょうちょうここをしゅったつせんとて


大 田原 侯 へ御暇  乞 ニ参  御酒 出 金 子頂戴(テ ウタイ)

おおたわらこうへおいとまごいにまいるごしゅでるきんす   ちょうだい


宿(ヤト)庄  蔵 ヘも画を贈 リ个連ハコレモ金 子をおくる

  やど しょうぞうへもえをおくりければこれもきんすをおくる


七 日天 氣府中  ヨリ三 里半 江尻 ノ山 ノ方 ニテ

なのかてんきふちゅうよりさんりはんえじりのやまのほうにて


往 来 より一 里入 リ山 中 なり庵原 川 小 サキ

おうらいよりいちりはいりやまなかなりいはらかわちいさき


流 れあリ其 川 の左右 ニ僅  ニ人 家あり柴 田

ながれありそのかわのさゆうにわずかにじんかありしばた


権 左衛門 とて冨家アリ先 爰 ニ至 ル酒 肴 を出

ごんざえもんとてふかありまずここにいたるしゅこうを


出し主 人 能兄 ハ原 能白 隠 能弟子ニて弟(ヲトゝ)

だししゅじんのあにははらのはくいんのでしにて  おとと


ニ家 を譲(ユツ)る剃髪(テイハツ)して玆渓 と云フ長 崎 の

にいえを  ゆず る   ていはつ してじけいというながさきの 


方 を遊 歴 して此 比 かえると云

ほうをゆうれきしてこのころかえるという

(大意)

(補足)

「頂戴」、「戴」の一文字だけ、読むことができるひとがいるのかどうか?

「七日」、六月七日。西暦1788年7月10日。

「柴田権左衛門」、「柴」は「此」+「木」なのでくずし字もそのようになっています。柴田慈渓。延享(えんきょう)元年(1744)〜文政五年(1822)。この地の富豪柴田家の六世で、白隠に禅を学び、詩歌・文章に通じ、書をよくした、とありました。

「原の白隠」、『「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とうたわれた白隠禅師は、駿河国原宿長沢家の三男として貞享2年(1685年)に生まれ、幼名を岩次郎と言った』(1685〜1768) 

 地図の左側の河が富士川でその西側に「庵原郡」とあり。廣沼の東に「原」という地名があります。東海道五十三次の宿場の順番では「三島宿.沼津宿.原宿.吉原宿.蒲原宿.由井宿.興津宿.江尻宿.府中宿.丸子宿.岡部宿.藤枝宿」となります。

 江漢さん駿府が気に入ったのか、富士山から離れられなかったのか、駿府に5月11日から6月6日までの長期滞留となってしまいました。金子も沢山贈られたようで懐も暖かく心も大きく豊かになったのは地元名士たちとの歓談もあったでしょうが、一番はなんといっても富士山であったことは確かなことのようにおもえます。

 

2024年12月14日土曜日

江漢西遊日記一 その31

P36 東京国立博物館蔵

(読み)

朝帰ル

四 日大 風 雨四時比 ヤム海老屋 太助 桃 源

よっかだいふううよじころやむえびはらたすけとうげん


之画の謝 金 持参

のえのしゃきんじさん


五 日天 氣暑 を催(モヨヲ)春玄 庵 宗 与両  三 輩

いつかてんきしょを  もよお すげんあんそうよりょうさんはい


ニて寺 町 ト云 処  野芝 居アリ見 物 春江戸

にててらまちというところのしばいありけんぶつすえど


より尾 上松 助 三津蔵 佐野川 市 松 其 外

よりおのえまつすけみつぞうさのかわいちまつそのほか


此 蔵 之類  参  狂  言 草 履打 岩 蔵 尓松 助

このくらのたぐいまいるきょうげんぞうりうちいわくらにまつすけ


尾 上尓三津蔵 下女 者つ尓佐野川 市 松 又

おのえにみつぞうげじょはつにさのかわいちまつまた


菅 原 車  引 の処  あり

すがわらくるまびきのところあり


[此 駿 府ニ久 しく滞 留  せし故 江戸ヨリ従  者 尓

 このすんぷにひさしくたいりゅうせしゆええどよりじゅうしゃに


連レ来 リし松 前 能者 不埒 の事 あり故 ニ爰 ニて

つれきたりしまつまえのものふらちのことありゆえにここにて


暇  を遣  春]

いとまをつかわす


六 日天 氣扨 爰 より庵原(ユハラ)と云 処  ヘ行 ンとて

むいかてんきさてここより   ゆはら というところへゆかんとて

(大意)

(補足)

「四日」、六月四日。西暦1788年7月7日。

「四時」、午前10時。

「其外此蔵之類参」、人気役者三名の其の外に一座のものたちがやって来た、という意味でしょうか?よくわかりません。

「狂言草履打」、加賀見山旧錦絵。

「菅原車引」、菅原伝授手習鑑。

「庵原(ユハラ)」、庵原(いはら)。この辺一帯は江戸時代を通じて幕府直轄領で、伊豆韮山代官江川太郎左衛門による支配地、とありました。

 旅回り芸人による野芝居ではなく、江戸より役者を呼び寄せての公演ですから、よほどの大金持ちが駿府にいたということになります。歌舞伎はとにかく莫大な金がかかり、公演が当たるか当たらぬかは、それこそ大博打であったということですし、この駿府でそれらの芝居が行われることは、江戸大阪に劣らぬくらいの町であったことがわかります。

 

2024年12月13日金曜日

江漢西遊日記一 その30

P35 東京国立博物館蔵

(読み)

酒 一 向 尓不呑メ故 尓酒 肴 ハ別 ニ申  付 取 よ

さけいっこうにのめずゆえにしゅこうはべつにもうしつけとりよ


せるなり地ま和里とてサラシ能手拭 ヒを

せるなりじまわりとてさらしのてぬぐいを


保うか武里ニしてそめく者 あり酒 さへ呑ま

ほうかぶりにしてぞめくものありさけさえのま


春れハ坐しきへ参 リ多ゐこを持 なり亦 爰

すればざしきへまいりたいこをもつなりまたここ


尓酒 楽 とて其 比 通 人 あり然(サ)ル尓江戸吉

にしゅらくとてそのころつうじんあり  さ るにえどよし


原 ハ爰 より来 ルと云 故 ニヤ見世コーシ吉

わらはここよりきたるというゆえにやみせこーしよし


原 能趣  きなり然  ニ女 良 能見世尓並 ヒ様 尓

わらのおもむきなりしかるにじょろうのみせにならびように


違 ヒアリコーシ能処  横コなり暖(ノウ)連んの内 ニ入 て

ちがいありこーしのところよこなり  のう れんのうちにいりて


横 の処  正  面 なりうちかけニて並 ヒ多る見せ

よこのところしょうめんなりうちかけにてならびたるみせ


付 吉 原 風 なり夜 尓入  雨 風 爰 ニ泊 リてよく

つきよしわらふうなりよるにはいりあめかぜここにとまりてよく

(大意)

(補足)

「取りよせる」、「取」のくずし字はここではほぼそのままのかたち。この6行あとに「趣」があって、これに「取」があり、ここは「取」のくずし字が使われるかたちがほとんどなのですが、江漢はこのぶぶん適当にごまかしています。

「地ま和里」、「和」がカタカナ「ワ」のようになっています。

「保うか武里」、変体仮名を学んでないと読めません。

「そめく」、『ぞめ・く 2【騒く】(動カ四)〔古くは「そめく」と清音〕

① うかれさわぐ。「人は佳節とて―・けども」〈三体詩絶句抄•5〉

② 遊郭や夜店をひやかしながら歩く。「どれ,―・いて来うか」〈歌舞伎・韓人漢文手管始〉』

「酒楽」、安永9年(1780)に、二丁町の細見を刊行した人。この細見はかなり流布したらしく、享和2年(1802)夏、滝沢馬琴が5日ほど駿府に滞在したとき、二丁町の廓で遊び、この細見を持ち帰っている、とありました。

「コーシ」はもちろん「格子」。

「江戸吉原ハ爰より来ルと云」、二丁町遊廓は吉原よりも先に作られた日本初の官許の遊廓であり、二丁町遊廓は吉原の起源である。そのため、駿府に訪れた者の多くが二丁町の様子や遊興の様子などを記している。詳しくはネットに「駿府二丁町遊廓の遊女屋と遊女」杉山 拓大(鍛治 宏介ゼミ)の論文があります。

「暖(ノウ)連ん」、『のうれん 【暖簾】〔「のう」は「暖」の唐音「のん」の転〕

→のれん(暖簾)に同じ。「橘の―掛りて」〈浮世草子・日本永代蔵1〉』

 江漢さんは遊廓の通人とみえ、吉原のもととなったここ二丁町に好奇心爆発です。

 

2024年12月12日木曜日

江漢西遊日記一 その29

P34 東京国立博物館蔵

(読み)

往 来 能者川゛れ左  ヘ少 シ入 ル処  誠  ニ二町  アリ

おうらいのはず れひだりへすこしはいるところまことににちょうあり


入 口 ニ茶 やあり玄 庵 案 内 ニて何 屋とか

いりぐちにちゃやありげんあんあんないにてなにやとか


云 亭 尓能ほり新 造 を二 人よ婦中  位  の

いうていにのぼりしんぞうをふたりよぶちゅうくらいの


美人 なり酒 肴 出テル硯  蓋 ニタゝミイワシ

びじんなりしゅこういでるすずりぶたにたたみいわし


とて白 春を干(ホシ)多る物 尓醤  油付 焼 多るを

とてしらすを  ほし たるものにしょうゆつけやきたるを


あしらへ其 餘 能喰  品 皆 之 尓順  春゛る

あしらえそのほかのしょくひんみなこれにじゅんず る


なり日も暮れ个連ハ倡  婦能云フチトソコラ

なりひもくれければしょうふのいうちとそこら


ヘ参イロと云 初 會 ニて手をひかれ見世を

へまいろというしょかいにててをひかれみせを


見あるく誠  ニ奇妙  也 二階 能ゑんニランカ

みあるくまことにきみょうなりにかいのえんにらんか


ンあり皆 者き物 を爰 ニ置 なりたゝミキタナシ

んありみなはきものをここにおくなりたたみきたなし

(大意)

(補足)

「案内」、案は「安」+「木」なので、上半分は「あ」。

ここでタタミイワシがでてくるとは。相模湾沿岸でも今でも販売していてわたしの好物。製法は現在と全く同じで食べ方も同じはずです。

「日も暮れ」、「暮」のくずし字が「苦」に似てます。読みが「く」で「苦」と同じなので誤解なきよう。

 遊郭での約束事が江戸とは大きくことなっているので、江漢さんあたふた困ってます。野暮な人間に見られぬよう、気をつけようとしているのが笑えます。

  この二丁町遊廓は多くの錦絵にも描かれています。空襲で焼失したとありました。

2024年12月11日水曜日

江漢西遊日記一 その28

P32P33 東京国立博物館蔵

(読み)

八部山ヨリ眺望の圖

昔雪舟遊干支那而

所圖冨嶽之景何

乎望無智者余登

於駿陽射矢部補

陀洛山上始観之

 寛政己酉春

 三月三日冩於

 平安客館乃入

天覧


天城山

伊豆

ツル巻山

箱根

サツタ

八部観音山

P33

清見寺山

江尻

清水

(大意)

(補足)

「八部山」とありますが、漢文の中「矢部補陀洛山上」とあるように、駿州矢部の補陀落山(現在の静岡市清水・鉄舟寺)より望んだ景観の図です。

「寛政己酉(つちのととり)」、寛政元年(1789)。

 この旅の素描をもとにしたのかどうかは不明ですけど、同じ構図の絹本油彩に「駿河湾富士遠望図」(1799(寛政11)絹本油彩36.2×100.9cm)があります。 

 素描のときと油絵で仕上げているときの画全体の雰囲気が同じなのがおもしろい。柔らかく暖かで日本の多湿な空気感が感じられます。

 またここからの眺めの写真はネットにたくさんあって、無断でお借りしたこの一枚が江漢のものとほとんど同じ構図になっています。

 昔も今も良い眺めであります。

 

2024年12月10日火曜日

江漢西遊日記一 その27

P31 東京国立博物館蔵

(読み)

廿   九日 雨天 小判 屋頼 ミの画を描ク善 蔵 ニ彩 色

にじゅうくにちうてんこばんやたのみのえをかくぜんぞうにさいしき


をさせる海 元 亮  戴 安 道 の画禮 持参 塩

をさせるかいげんりょうたいあんどうのがれいじさんしお


谷桃 庵 来ル主 人 庄  蔵 出 酒 肴 を出春

やとうあんくるしゅじんしょうぞうでてしゅこうをだす


三 十  日 大 雨 画事

さんじゅうにちおおあめがじ


六 月 朔 日 天 氣小西 宗 与と共 尓曲  金 と云 処  ニ

ろくがつついたちてんきこにしそうよとともにまがりかねというところに


九  兵衛と云 者 田 地三 千 石 を持ツ爰 ヘ参 ル病  尓

きゅうべえというものでんちさんぜんごくをもつここへまいるやまいに


伏して不逢 夜 ニ入  大 風

ふしてあわずよるにはいりおおかぜ


二 日天 氣小判 屋源右衛門 来 頼 ミの画を遣  ス

ふつかてんきこばんやげんえもんくるたのみのえをつかわす


三 日天 氣小判 屋ヨリ画ノ謝 禮 来 此 日玄 庵

みっかてんきこばんやよりえのしゃれいくるこのひげんあん


と二町  まちと云 処  此 地の色 町 なり参 り

とにちょうまちというところこのちのいろまちなりまいり

(大意)

(補足)

「六月朔日」、西暦1788年7月4日。

「小判屋頼ミの画」、5日前『廿四日曇元通町小判屋源右衛門方ヘ参』とあり、このとき頼まれたのだろう。

「海元亮」は陶淵明のことか?「戴安道」は『戴 逵(たい き、326年 - 396年)は、中国東晋の画家・彫塑家・文人』のことか?

「塩谷桃庵」、元禄以来代々駿府の御城付医師をつとめた由緒ある家柄。当時は、延享(えんきょう)五(1748)年から寛政元(1789)年までその任にあった五世宗与。

「小西宗与」、小西源左衛門と塩谷桃庵のこと。

「九兵衛」、江漢は文化9年の西遊のときにも訪れ、『吉野紀行』に「曲金の九兵衛大家なり」とある、とありました。

「二町まち」、起源は江戸吉原より古く、東海道五十三次の宿駅にあった官許の遊郭で、すこぶる名高いものであった。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』、滝沢馬琴の『羇旅漫録(きりょまんろく)』にこの遊郭のことが興味深く記されている、とありました。

 江漢さん、毎日地元の名士たちに会い、もてなしを受け、画を頼まれ、その謝礼を受取りと忙しい。

 

2024年12月9日月曜日

江漢西遊日記一 その26

P30 東京国立博物館蔵

(読み)

山 前 ニハ藤 川 ノ邊  ヨリ岩 渕 サツタ山 清 見

さんまえにはふじがわのあたりよりいわぶちさったやまきよみ


寺 山 左  ニ沼 津江尻 ノ邊  山連(ツラナ)リて亦 海 の

てらさんひだりにぬまずえじりのあたりやま つらな りてまたうみの


半(ナカハ)尓ハ右 ノ方 より三穂の洲三筋 ニ出て

  なかば にはみぎのほうよりみほのすみすじにでて


下(シタ)の人 家アル一 村 ハ清水(シミツ)のミなとなり家 ハ

  した のじんかあるいっそんは   しみず のみなとなりいえは


千 余軒 泊  舩 数艘(ソウ)婦なかゝ里して漁(キヨ)

せんよけんとまりふねすう そう ふながかりして  ぎょ


舟 ハ木葉(コノハ)能如く誠  尓天 下絶 景 なり

せんは   このは のごくまことにてんかぜっけいなり


昔  雪 舟  支那(カラ)尓渡  圖シ多るハ爰 より見

むかしせっしゅう   から にわたりずしたるはここよりみ


多る景 也 是ヲ 渡唐 の冨士と云 此 下 尓

たるけいなりこれをととうのふじというこのしたに


冨士見橋 と云 橋 あるよし冨士を見る景

ふじみばしというはしあるよしふじをみるけい


天 下第 一 也 此 日夜 ニ入  五時過 ニかえる

てんかだいいちなりこのひよるにはいりごじすぎにかえる

(大意)

りゃく

(補足)

「サツタ山」、さったとうげ ―たうげ 【薩埵峠】静岡県静岡市清水区由比(ゆい)と興津(おきつ)の境にある峠。旧東海道の難所。足利尊氏の軍勢と足利直義の軍勢とで行われた合戦の場として有名。

「渡唐の冨士」、模写した画がこの画像。

 江漢さん、雪舟がここからの眺めを描いたのと同じ場所にたち、感激至極。ずっと同じ場所に立ちすくみ、いつまでも眺めている様子が目にうかびます。

 ちょうど夏至も過ぎたばかりの頃で夜7時すぎても明るかったはず。日暮れ日没の眺めを楽しんだのでしょう。

 天下第一の景色を満喫して帰ったのは日没まもなく夜の8時でした。

 

2024年12月8日日曜日

江漢西遊日記一 その25

P29 東京国立博物館蔵

(読み)

登 リ津くして唐 か袮能鳥 井アリ左  ニ五重  の

のぼりつくしてからかねのとりいありひだりにごじゅうの


塔 アリ右 尓経  蔵 堂 御廟(ヒヨウ)ハ山 上  ニ在り

とうありみぎにきょうぞうどうご  びょう はさんじょうにあり


正  面 本 社 なり夫 より山 を下 リて一 里餘  を

しょうめんほんしゃなりそれよりやまをくだりていちりあまりを


行 て久能 寺(龍  華寺)アリ山 能中  多゛ん尓庭 ニ蘇鉄

ゆきてくのうじ りゅうげじ ありやまのちゅうだ んににわにそてつ


甚  タ大 キし亦 サポテンあり九  尺  程 ニ者ひこ

はなはだおおきしまたさぼてんありきゅうしゃくほどにはびこ


里其 比 花 咲(サ)く黄か者゛色 福 寿 草 の

りそのころはな  さ くきかば いろふくじゅそうの


花 ニ似多り此の續 キ尓久能 寺アリ山 尓登

はなににたりこのつづきにくのうじありやまにのぼり


て観 音 堂 アリ眼 下尓蒼 海 を眺 ミ海 ノ向 フ

てかんのんどうありがんかにそうかいをのぞみうみのむこう


の遠 山 ハ伊豆の天 城山 鶴 巻 山 鷲(ワシ)

のとおやまはいずのあまぎさんつるまきやま  わし


津山 左  ニよりて箱 根山 其 向 フ尓冨士

づさんひだりによりてはこねやまそのむこうにふじ

(大意)

(補足)

「唐か袮」、『からかね【唐金】〔中国から製法が伝わったことから〕青銅のこと』

「蘇鉄」、雄株は我が国最古のもので、根回り6m、枝数58本、樹齢推定1100年、国の天然記念物に指定されている。雌株は樹齢推定800年、根回り4m。「サボテン」、年代推定300年で根本はすでに木化している。静岡市の天然記念物に指定されている。ともに龍華寺の境内にある。ネットで見ることができます。

 旧暦5月28日(西暦7月1日)のハイキングの様子で、江漢さんすっかり冨士のとりこになってしまい、まだまだ続きます。

 

2024年12月7日土曜日

江漢西遊日記一 その24

P28 東京国立博物館蔵

(読み)

かえる

かえる


廿   五日 曇  て寒 し袷  を用 ユ画ヲ描ク能ミ

にじゅうごにちくもりてさむしあわせをもちゆえをかくのみ


廿   六 日 曇  昼 ヨリ清 水 観 音 と云 処  ヘ参  て

にじゅうろくにちくもりひるよりきよみずかんのんというところへまいりて


門 尓二王 アリ其 作 至   不細 工一 向 ノ田舎 ナリ

もんににおうありそのさくいたってぶさいくいっこうのいなかなり


廿   七 日 曇  大 田原 侯 ヘ参 ル客  在 画をかく

にじゅうしちにちくもりおおたわらこうへまいるきゃくありえをかく


廿   八 日 天 氣九時より玄 庵 と久能山 へ参 る

にじゅうはちにちてんきくじよりげんあんとくのさんへまいる


爰 ヨリ三 里御法 楽 とて参 詣 多 しベントウ

ここよりさんりごほうらくとてさんけいおおしべんとう


酒 菓子茶 器等 を為持 玄 庵 宅 ノ裏

さけかしちゃきとうをもたせげんあんたくのうら


路 ヲ行 て本 通  ヘ出て久能ニ至 ル尓前 は海 也

みちをゆきてほんどおりへでてくのにいたるにまえはうみなり


山 ハ俄(ニワカ)尓高 し石 ダン十  七

やまは  にわか にたかしいしだんじゅうしち


斜(ナナメ)ニ曲(マガリ)石 ノランカン

  ななめ に  まがり いしのらんかん

(大意)

(補足)

「廿五日」、旧暦5月25日、新暦6月28日。

「昼」、昼の漢字は楷書でもくずし字でもなぜか縦長に二文字にも三文字にもみえるように書きます。

「不細工」、「細」のくずし字はどうも苦手。

「一向」、『② 全く。「―平気だ」「口が―に無調法な女であった」〈新世帯•秋声〉』

「法楽」、『② 経を誦したり音楽や芸能・詩歌などを手向けて,神仏を楽しませること』

「為持」、間にレ点が入って「もたせ」。「ゐ」のもとは「為」。

 「ベントウ酒菓子茶器等を為持」てのピクニック、なんとも贅沢であります。燗酒もできるような什器も持ち歩いたそうだから、そういった遊びが文化の一部だったのでしょうね。

 

2024年12月6日金曜日

江漢西遊日記一 その23

P27 東京国立博物館蔵

(読み)

廿   三 日 雨天 終  日 画ヲ描ク去 年 今 日米 拂

にじゅうさんにちうてんしゅうじつえをかくきょねんきょうこめふっ


底 ニして天 下亂 をな春宿 元 を出て今 日

ていにしててんからんをなすやどもとをでてきょう


迄 三 十  日 を過 多り手代 能話  ニ云 此 在 所

までさんじゅうにちをすぎたりてだいのはなしにいうこのざいしょ


ニワラシナ村 アリ百  姓  トチ沢(サハ)五郎 右衛門と

にわたしなむらありひゃくしょうとち  さわ ごろうえもんと


云 者 ハ先 祖ハ京  都東 福 寺ノ開 山 ニて今

いうものはせんぞはきょうととうふくじのかいざんにてこ


年 五百  年 忌とて東 福 寺より尋  来 リ

としごひゃくねんきとてとうふくじよりたずねきたり


し尓其 子孫 五郎 右衛門東 福 寺ヘ参  多ると

しにそのしそんごろうえもんとうふくじへまいりたると


いう


廿   四 日曇  元 通  町  小判 屋源 右衛門方 ヘ参

にじゅうよっかくもりもととおりちょうこばんやげんえもんかたへまいる


本 膳 なと出し酒 肴 以 テ馳走 ニなり日暮 ニ

ほんぜんなどだししゅこうもってちそうになりひぐれに

(大意)

(補足)

「去年今日米拂底ニして天下亂をな春」、天明7(1787)年5月22日の江戸打ちこわしのこと。江戸では1,000軒の米屋と8,000軒の商家が襲われ、さらに打ちこわしは全国に波及し、幕府の政治機能は大混乱した。これを機に田沼意次は失脚し、一週間ほど前に安倍川の川留で庄蔵方へ宿泊した白川越中守こと松平定信が寛政の改革をすすめた。

「宿元を出て今日迄三十日を過多り」、江戸の長屋を出発したのが4月23日昼過ぎでしたので、ちょうど1ヶ月になります。「迄」のくずし字は「占」+「辶」、「過」は「る」+「辶」、似ているので注意です。

「過多り」、すごしたり or すぎたり。読みはどっちでしょう?

 

2024年12月5日木曜日

江漢西遊日記一 その22

P26 東京国立博物館蔵

(読み)

之 を湯 治場尓取 立 ンと春れとも山 上  ニアリ

これをとうじばにとりたてんとすれどもさんじょうにあり


山 の下 ニ引キ亦 其 湯ぬるし或  ハ病  の事

やまのしたにひきまたそのゆぬるしあるいはやまいのこと


を問フ八 時比 ヨリ太 田原 侯 ヘ参 ル

をとうはちじころよりおおたわらこうへまいる


廿   二日 朝 曇 ル四時比 ヨリ玄 庵 方 ヘ参 ル夫 ヨリ

にじゅうににちあさくもるよじころよりげんあんかたへまいるそれより


同 道 して小西 隠 居 へ参 ル榧 ノ油  ニて揚 多る

どうどうしてこにしいんきょへまいるかやのあぶらにてあげたる


茄 を喰  ス隠 居 話  ニ云 若 キ時 の事 也 尾張

なすをしょくすいんきょばなしにいうわかきときのことなりおわり


の国 名古屋尓三 月 と九月 御城 の女 中  ニ

のくになごやにさんがつとくがつおしろのじょちゅうに


ヤブ入 とて小宿 アリて世話を春る事 なり

やぶいりとてこやどありてせわをすることなり


夫  を如女郎     買フ事 也 閏 房 至  て深 しと

おっとをじょろうのごとくかうことなりけいぼういたってふかしと


申 され个る一 笑  の談 也

もうされけるいっしょうのだんなり

(大意)

5月21日

 小袖の綿入れを着るくらいに寒い一日であった。近辺の者数人が来てオランダやその他いろいろな雑談して過ごした。

 この宿(駿府)から一里ほどのところに、湯の涌くところがあって湯治場にしようとしたらしいが、山上にあり、下まで引かなければならないし、また湯もぬるく、なんの効能があるかも不明である。

 昼過ぎ2時頃、大田原侯のところへ行った。

5月22日

 天気はパッとしない。昼前10時頃玄庵方へ行って、一緒に小西隠居のところへ出かけた。

そこで榧(かや)の油で揚げた茄子をごちそうになった。

 榧の油の独特な香り、そして揚げたての茄子、江漢さんの食いっぷりとうれしそうな顔が見えるようだ。

 隠居がこんな話を申された。

「若い頃のこと、尾張国名古屋のことでじゃ。三月と九月に御城の女中が藪入で実家には帰らず、近場にある、そのなんじゃ、ちょっとしたそういった宿を世話したことがあっての。つまりだ、夫を女郎のように買うようなあんばいなのだな。閨(ねや)のことはなんとも深いことじゃのぉ」

 笑えるはなしであった。

(補足)

「八時」、午後2時。「四時」、午前10時。

「榧ノ油」、『かや【榧】イチイ科の常緑針葉樹。山地に自生し,また庭木として栽植。高さ約20メートルに達する。葉は広線形で二列につく。四,五月頃に開花し,翌年の秋,楕円形で紫褐色に熟する種子をつける。材は碁盤などとし,種子は油をとるほか食用にする。〔「榧の実」は 秋〕』。現在でも販売されています。匚(はこがまえ)を忘れてしまったようです。

「揚」「湯」「場」、みな似ていて悩ましい。

「隠居」、二行並んで「隠」がありますけど、この一文字だけ見て読むのは困難。

「如女郎」、漢文で「如₂女郎₁」となります。

「閨房」、『けいぼう ―ばう【閨房】① 寝室。ねま。特に,夫婦の寝室。② 婦人の居間。』

 

2024年12月4日水曜日

江漢西遊日記一 その21

P25 東京国立博物館蔵

(読み)

十  八 日 天 氣日暮 ニ雨 駿 府尓あんざ以と

じゅうはちにちてんきひぐれにあめすんぷにあんざいと


云 処  ニ鯛 屋清 兵衛大 家也 誹 諧 を好 ム

いうところにたいやせいべえたいかなりはいかいをこのむ


玄 庵 も誹 人 故 之(コレ)と同 道 して参 ル

げんあんもはいじんゆえ  これ とどうどうしてまいる


亭 主 者かまニて出酒 肴 を出シ馳走 スル

ていしゅはかまにてでしゅこうをだしちそうする


画二三 紙認  メ日暮 帰宅 春

えにさんししたためひぐれきたくす


十  九日 天 氣終  日 画事

じゅうくにちてんきしゅうじつがじ


廿 日天 氣今日 も色(サイシキ)画(エ)出来

はつかてんききょうも  さいしき   え でき


廿   一 日 天 氣晩 方 雨(アメ)甚  タ寒 し小袖 綿

にじゅういちにちてんきばんがた  あめ はなはださむしこそでわた


入 を用 ユ近 邊 之者 数 人 来 ルおらん多゛

いれをもちゆきんぺんのものすうにんきたるおらんだ


其 外 色 \/の事 聞ク爰 より一 里湯の湧く処  アリ

そのほかいろいろのこときくここよりいちりゆのわくところあり

(大意)

(補足)

「十八日」、5月18日(新暦6月21日)。

「鯛屋清兵衛」、岩崎清兵衛といい、安西3丁目に住む俳人。文化14(1817)年没。江漢の「吉野紀行」(1812)には、「爰は二十七八年以前四十日淹(トゞマリ)し処。其頃の知己は皆死して、残ル者漸ク一二人のみ。・・・安在鯛屋清兵衛甚タ冨家ニてありしに、今は二代目となり、今は毎(マエ)の様にはなしとぞ」とある、とありました。

「おらん多゛」、このくずしかたで、このあと頻繁に出てきます。

 

2024年12月3日火曜日

江漢西遊日記一 その20

P23 東京国立博物館蔵

P24

(読み)

大田侯醫官贈詩文

夫天雷者以夏鳴矣人者以才鳴也其

所以鳴雖不同然所以成名者一也今

江漢先生者者以丹青之術鳴干東都

也亦善干音律其玄妙豈誰可比哉

今玆戊申夏五月先生為窮画工之

神妙遥踏海嶽万里之雲路自欲

P24

游崎陽之客館也余又陪従駿城副

衛之駕今也有此地也干時先生

崎陽羈旅之暇日爰留藜杖(ツエ)也

偶為傾蓋者欣然而如有旧笑

談頗洗腹胃也余雖不肖感

其風流奇骨之仙謾賦巴詩巴一章

以呈先生之机下請有一笑幸

也天下一知東武人画工神妙也

方真風流自是懐中璧堪羨徳

光海内新 右 阿資東順艸


(大意)DeepL翻訳にまかせてみました。

大天侯先生の詩

夏の空に雷が鳴る

人間はその才能で鳴らす

その音の理由は違っても

しかし、その名声の理由は同じである

今、江漢氏は

東都の画家として知られるジャンハン氏。

音楽やリズムも得意

繊細さでは誰にもかなわない。

今年の夏の5ヶ月目。

江漢さん、絵画の芸術を使い果たすために

彼は何千マイルもの雲上の道を旅してきた。

彼は崎陽軒のゲストハウスに行きたがった。

崎陽軒のガードマン代理に同行した。

今日もここです。

崎陽軒を旅していた自由日に、キヌアスティックを預けたことがある。

ここにキヌアスティックを置いてきたんだ。

スタッフを置いてきました

昔みたいでよかった。

また会えたね 笑うとすがすがしいね

いい人ではないけれど

不肖ながら、その風格と骨格に感服。

あなたのために詩を書きたい

あなたに贈ります

笑っていただけてうれしいです。

世界は東武ただ一人を知っている

その芸術性は精妙であるばかりでなく、真実でもある。

私はいつもホワイティングで一番です

世の中の新しい徳の光がうらやましい

 右、味戸俊艸

DeepL.com(無料版)で翻訳しました。

(補足)

 日記の方は区切りも何もなくてベタですけど、区切りをつけるとこのようになってました。

大田侯醫官贈詩文

夫天雷者以夏鳴矣

人者以才鳴也

其所以鳴雖不同

然所以成名者一也

今江漢先生者者

以丹青之術鳴干東都也

亦善干音律

其玄妙豈誰可比哉

今玆戊申夏五月

先生為窮画工之神妙

遥踏海嶽万里之雲路

自欲游崎陽之客館也

余又陪従駿城副衛之駕

今也有此地也

干時先生崎陽羈旅之暇日

爰留藜杖(ツエ)也

偶為傾蓋者

欣然而如有旧

笑談頗洗腹胃也

余雖不肖

感其風流奇骨之仙

謾賦巴詩巴一章

以呈先生之机下

請有一笑幸也

天下一知東武人

画工神妙也方真

風流自是懐中璧

堪羨徳光海内新

 右 阿資東順艸


 DeepL翻訳と一行一行が対応しています。

翻訳がどこか現代風の軽い文章になっているのが、ちょっと笑えます。

 この当時は、こんな風に即興で漢文の詩で自分の気持ちをササッと表現できる人が全国津々浦々にたくさんいたのでしょうね。

 ここでは太田侯の医官が詩を贈っていますが、江漢の周りにいる町民の民度の高さがすごいなとおもいます。


 

2024年12月2日月曜日

江漢西遊日記一 その19

P22 東京国立博物館蔵

(読み)

中  侯 庄  蔵 方 御泊 リ昼 比 大 田原 侯 能

ちゅうこうしょうぞうかたおとまりひるごろおおたわらこうの


臣 三 人 来 リ酒 肴 を出ス夫 ヨリ両  替 町

しんさんにんきたりしゅこうをだすそれよりりょうがえちょう


六 町  目長谷玄 庵 ニ参 ル(長)谷ハ御城 坊 主也

ろくちょうめはせげんあんにまいる は せはおしろぼうずなり 


同 道 して小西 源 左衛門 薬 種 や此 隠 居

どうどうしてこにしげんざえもんやくしゅやこのいんきょ


ヘ参 ル茶 人 なり

へまいるちゃじんなり


十  六 日 曇 ル不雨   画ニ三 紙描(カキ)小西 ヘ参 ル麦

じゅうろくにちくもるあめふらずえにさんし  かき こにしへまいるむぎ


飯 馳走 ニなり夜 ニ入 帰 ル海老屋太兵衛ト云

めしちそうになりよるにいりかえるえびやたへいという


人 雅人 也 画の門 人 となる亦詩ヲおくる

ひとがじんなりえのもんじんとなるまたしをおくる


厳桂亭邂逅 司馬君 々々善画因

賦此呈逢歓傾蓋語 更喜接佳賓

p23

詩画憐同調 風流仍故人 毫端看

擧彩坐上忽生春 軽払丹青妙造

工皆入神 毛弼

(大意)

 そのためか、白川越中侯ことあの有名な松平定信は上洛する途中であったが、ここの

庄蔵方にお泊りになった。

 昼頃に大田原侯の家来が3人やって来て、一杯やった。

両替町6丁目の御城坊主の永谷玄庵宅へ行った。

また一緒に小西源左衛門宅へもお邪魔した。この人茶人である。

 このように、江漢が宿場に来ると、あっという間にその噂はひろまって、あちこちへ招待される。

5月16日(西暦6月19日)

 お礼だろうか、それとも頼まれたのだろうか。この小西源左衛門さんへ画を2,3枚描き差し上げたようだ。話も盛り上がって夜になって帰宅した。

 海老屋太兵衛という雅人は江漢の画の門人となって、江漢に詩を送っている。


 内容はなんとなく漢字の字面をながめていると、ぼんやりとわかるのですけど、一興に

DeepL翻訳とグーグル翻訳にコピペしてみました。


 DeepL『桂亭での司馬氏との出会い、絵の上手さ

お客様をお迎えする機会を与えてくださったことに感謝申し上げます。

「詩 「と 」画 「は同調する。」旧友 "であることに変わりはない。

軽量絵画と書道。

「毛碧 "の作品に感銘を受けた。』


 グーグル『桂亭で司馬濬と出会う。彼は絵が上手だ。

このプレゼンテーションを行うにあたり、ゲストをお迎えすることをさらに嬉しく思います

詩と絵の哀れみを調律し、風と流れはまだ老人はわずかな点を見つめます

カラフルなテーブルに座ると突然春が訪れ、素敵な絵が出来上がります

労働者は皆毛彪に魅了されている』

 やはりいまひとつですね。


(補足)

「白川越中侯」、天明7(1787)年以来、老中の要職を務めた松平定信(1758〜1829)。この年(天明8年)正月晦日の「天明の大火」で焼失した京都の視察と、皇居造営について朝廷と合議のため、このとき上洛の途中であった、とありました。

「長谷玄庵」、長谷は永谷の誤り。玄庵は城代坊主を代々勤めていた、とありました。

「小西源左衛門」、号は玉瑛(ぎょくえい)1743〜1821年、なのでこのとき45歳くらい。小西家は駿府呉服町1丁目に住し薬種業を営み、町頭役をつとめた名家。

「坊主」、「主」のくずし字は前回の「主人」と同じです。

 

2024年12月1日日曜日

江漢西遊日記一 その18

P21 東京国立博物館蔵

(読み)

其 主 人 雅人 なり其 友 一 両  輩 来ル各 々

そのしゅじんがじんなりそのともいちりょうはいくるおのおの


風 流  あり此 日共 尓浅 現 の山 に登 ル大 松 の

ふうりゅうありこのひともにせんげんのやまにのぼるおおまつの


根を枕  ニして伏ス目 下ニ阿部川 を見向  尓

ねをまくらにしてふすがんかにあべがわをみむこうに


伊豆の山 \/を望 ミ夫 より山 を下 リて游(ユウ)

いずのやまやまをのぞみそれよりやまをくだりて  ゆう


亭 アリ魚  を售(ウ)る家 ナリ酒 肴 ヲ出して

ていありさかなを  う るいえなりしゅこうをだして


日暮 尓帰 ル

ひぐれにかえる


十  四 日

じゅうよっか


終  日 大 雨 近 所 ノ者 参 ル昼 比 よりして

しゅうじつおおあめきんじょのものまいるひるごろよりして


大 田原 侯 ヘ参 ル三 加番 巨勢ト云 方 客  ナリ

おおたわらこうへまいるさんかばんこせというかたきゃくなり


席 画を認  ム夜 ノ九  ツ時 ニ帰 ル

せきがをしたたむよるのここのつどきにかえる


十  五日 天 氣阿部川 漲  ル河 留(トマ)ル白 川 越

じゅうごにちてんきあべがわみなぎるかわ  とま るしらかわえっ 

(大意)

 そこの主人は書画を好むようだ。その友人の一両さんもやって来た。お二人共に風流。

この日、近くの浅間山に登り、大きな松の根方でゴロンと横になった。眼下に安倍川が見え、その向こうには伊豆の山々が望める。

 下山して、魚を売る店があったので一杯やって日暮れに帰った。

5月14日(西暦6月17日)

 終日大雨。近所の者が使いで来て昼頃大田原侯のもとへ出かけた。

三加番の巨勢という客がいて、席画を認めた。

 殿様も客人もずいぶんと喜ばれたようで、そうすると江漢さんはサービス精神大発揮するタチの人なので、おおはりきりしたようだ。夜遅くまで何枚も描いたのかもしれない。

 江漢さんいたく満足して、夜の9時(午前零時)に帰宅した。

5月15日

 大雨はあがって晴れた。阿部川は荒れ狂っていて渡れない。

(補足)

「主人」、「主」のくずし字がわかりにくい。「丶」+「王」なので、「王」のくずし字「己」になっています。

「雅人」、漢字のみたままの意味。『がじん【雅人】風流な人。風雅を解する人。みやびお』

「枕」のくずし字が読めません。右側の旁の部品が「む」ではないけど、そんな感じ。

「售」、見たこともない漢字。

「日暮」、この日記によく出てきます。「暮」のくずし字は「苦」に似た感じ。

「阿部川」、安倍川。この地図の中央にあります。御城はそのすぐ脇。 


 日記もこのあたりまで読みすすめてくると、江漢さんの字もくずし字にも慣れてきました。

 

2024年11月30日土曜日

江漢西遊日記一 その17

P20 東京国立博物館蔵

(読み)

原 吉 原 の間  曇  て冨士見へ春゛夫 より

はらよしわらのあいだくもりてふじみえず それより


藤 河 大 急  流  舟 渡 し渡 レハ岩 婦ぢ

ふじがわだいきゅうりゅうふなわたしわたればいわふじ


と云 処  栗 能粉餅 をうる名 物 なり此

というところくりのこもちをうるめいぶつなりこの


間  田畑 を過 て駿 府桔梗  屋と云 旅 館 尓

あいだたはたをすぎてすんぷききょうやというりょかんに


宿  春十  一 日 也

しゅくすじゅういちにちなり


十  二日 天 氣其 比 大 田原 飛弾 侯 駿 府ノ

じゅうににちてんきそのころおおたわらひだのこうすんぷの


加番 ニて此 地ニ御詰 あり御城 の外 ニ屋しきアリ

かばんにてこのちにおつめありおしろのそとにやしきあり


即  チ参  て御目ニかゝ里色 \/御咄 シ申  上 候

すなわちまいりておめにかかりいろいろおはなしもうしあげそうろう


十  三 日 天 氣少  曇 ル札 ノ辻 南 波屋庄  蔵 と

じゅうさんにちてんきすこしくもるふだのつじなんばやしょうぞうと


てお出入 御町  人 アリ宿所   仰被付    コレへ参

ておでいりおちょうにんあちしゅくしょおおせつけらるこれへまいる

(大意)駄文のつづき

今日は狼に会わなかったのはよかったが、原と吉原の間、冨士が見えなかったのは残念であった。


 山路が終わったとおもったら、今度は富士川の渡しだ。

川幅があり、流れも速い。

怖い。


 なんとか渡り切った処は岩淵といい、栗の粉でこねた餅が名物だ。

江漢さんつまんでみたい誘惑を絶ち、田畑をもう少し歩き、

この日の宿、駿府桔梗屋という旅館に着いた。


 此の栗の餅は今でも販売中。

室町時代頃からというから、かれこれ千年、そんなにないか、

根強い人気和菓子、食ってみたいものだ。


5月11日

 うっかり江漢、此の日は、「十一日也」とだけ記してごまかした。


5月12日(新暦6月15日)

 晴れ。 

ちょうどその頃、下野国大田原藩の殿様が駿府城の警護の任務でこちらのお屋敷にいらっしゃった。

ご挨拶に伺い、いろいろお話をさせていただいた。


 疑問のひとつが、宿についてすぐに江漢の到着をどうやって殿様が知ったかということだ。

 桔梗屋の宿泊者台帳に記名し、地廻りの役人なり宿の担当が番所へ知らせ、順に殿様まで伝えられたという方法しかないはずだが、その速さは目をみはる。


5月13日

 晴れのち少々曇り。

高札を立てた十字路のところにある難波屋の主人庄蔵に呼ばれ出かけた。


(補足)

「藤河」、その前の行に「冨士」と書いているのに。「藤」のくずし字は特徴的なので覚えやすい。

「岩婦ぢ」、岩渕。どうも江漢さん、「ふじ」という語感に引きずられているようだ。

「大田原飛弾侯」、大田原飛騨守康清(つねきよ)。下野大田原藩1万1400石余の藩主。天明7年5月、駿府一加番に任命され、天明8年10月帰府した、とありました。

「駿府ノ加番」、『かばん【加番】江戸幕府の職名。人数不足の時,大坂定番(じようばん)・駿府定番を助けて城を警備した者』

「南波屋庄蔵」、古くは難波屋仁左衛門といった。一加番の本陣であり、元大坂の人。とありました。

「仰被付」、「被付」の間にレ点が入り、「おおせつけらる」。三文字セットで覚える。

 この道中で、江漢はたびたび大名の殿様に呼ばれて直接話しをしています。普通の身分の者ではまずできぬこと。やはりそれなりに名が知られていたということでしょうか。