2024年12月25日水曜日

江漢西遊日記一 その42

P47 東京国立博物館蔵

(読み)

能ミの幾(イク)らも飛 出 夜中 一 向 ニ袮られ春゛

のみの  いく らもとびだしよなかいっこうにねられず


誠  尓蚤 尓喰 れ个る

まことにのみにくわれける


[庄  兵衛倅  弁 㐂歳 十  六 コレヲ連 此 者 長 崎

 しょうべえせがれべんきとしじゅうろくこれをつれこのものながさき


まて至 リて江戸迄 来ル]

までいたりてえどまでくる


廿   二日 天 氣昼 比 より大 塚 甚 兵衛とて

にじゅうににちてんきひるごろよりおおつかじんべえとて


藤 枝 一 人冨(フウ)商  なり酒 造 家ニて此節(セツ)

ふじえだひとり  ふう しょうなりしゅぞうかにてこの せつ


米 拂 底 ニて酒 ハ休 ミて居 个り庄  兵衛と共 ニ

こめふっていにてさけはやすみておりけりしょうべえとともに


爰 ニ至 ル尓兄  弟 兄 ハ藤 蔵 ト云フ弟   ハ軍

ここにいたるにきょうだいあにはふじぞうというおとうとはぐん


蔵 とて二 人出て酒 肴 を出してもてな春

ぞうとてふたりでてしゅこうをだしてもてなす


昨 夜ハ嘸 可し御難 儀なされ多と存 シ申  候

さくやはさぞかしごなんぎなされたとぞんじもうしそうろう


両  人 ともニ文 人 ニて画を好 ム者 ニて甚  タよ

りょうにんともにぶんじんにてえをこのむものにてはなはだよ


ろこひ数 日 滞 留  を願 ふなり

ろこびすうじつたいりゅうをねがうなり

(大意)

(補足)

「廿二日」、六月廿二日。西暦1788年7月25日。

「大塚甚兵衛」、大塚家は藤枝で酒造業により財を成した富豪。画を始めとしてあらゆる文芸の中心になって地域文化の発展に尽くした。このときは五代目通称甚左衛門、大塚正儀(亀石と号す。享保10年(1725)〜文化5年(1808))

「藤蔵」、亀石の三男で当時26歳。宝暦13年(1763)〜寛政5年(1793)。江戸にも遊学。

「軍蔵」、亀石の四男で当時20歳前後。

「嘸可し」、「さぞかし」は現在でも日常で使われますが、読めませんでした。

「願ふなり」、これは江漢さんが泊めてくれと大塚家にお願いしたのではなく、「宝金を贈ル」や「酒肴を出してもてな春」などとあるように、大塚家から泊まってくださいとお願いされたということ。「誠尓蚤尓喰れ个る」と受け身表現使っているのに、なぜかいくつかの動作では受動態は使われていません。

 

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