2024年12月10日火曜日

江漢西遊日記一 その27

P31 東京国立博物館蔵

(読み)

廿   九日 雨天 小判 屋頼 ミの画を描ク善 蔵 ニ彩 色

にじゅうくにちうてんこばんやたのみのえをかくぜんぞうにさいしき


をさせる海 元 亮  戴 安 道 の画禮 持参 塩

をさせるかいげんりょうたいあんどうのがれいじさんしお


谷桃 庵 来ル主 人 庄  蔵 出 酒 肴 を出春

やとうあんくるしゅじんしょうぞうでてしゅこうをだす


三 十  日 大 雨 画事

さんじゅうにちおおあめがじ


六 月 朔 日 天 氣小西 宗 与と共 尓曲  金 と云 処  ニ

ろくがつついたちてんきこにしそうよとともにまがりかねというところに


九  兵衛と云 者 田 地三 千 石 を持ツ爰 ヘ参 ル病  尓

きゅうべえというものでんちさんぜんごくをもつここへまいるやまいに


伏して不逢 夜 ニ入  大 風

ふしてあわずよるにはいりおおかぜ


二 日天 氣小判 屋源右衛門 来 頼 ミの画を遣  ス

ふつかてんきこばんやげんえもんくるたのみのえをつかわす


三 日天 氣小判 屋ヨリ画ノ謝 禮 来 此 日玄 庵

みっかてんきこばんやよりえのしゃれいくるこのひげんあん


と二町  まちと云 処  此 地の色 町 なり参 り

とにちょうまちというところこのちのいろまちなりまいり

(大意)

(補足)

「六月朔日」、西暦1788年7月4日。

「小判屋頼ミの画」、5日前『廿四日曇元通町小判屋源右衛門方ヘ参』とあり、このとき頼まれたのだろう。

「海元亮」は陶淵明のことか?「戴安道」は『戴 逵(たい き、326年 - 396年)は、中国東晋の画家・彫塑家・文人』のことか?

「塩谷桃庵」、元禄以来代々駿府の御城付医師をつとめた由緒ある家柄。当時は、延享(えんきょう)五(1748)年から寛政元(1789)年までその任にあった五世宗与。

「小西宗与」、小西源左衛門と塩谷桃庵のこと。

「九兵衛」、江漢は文化9年の西遊のときにも訪れ、『吉野紀行』に「曲金の九兵衛大家なり」とある、とありました。

「二町まち」、起源は江戸吉原より古く、東海道五十三次の宿駅にあった官許の遊郭で、すこぶる名高いものであった。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』、滝沢馬琴の『羇旅漫録(きりょまんろく)』にこの遊郭のことが興味深く記されている、とありました。

 江漢さん、毎日地元の名士たちに会い、もてなしを受け、画を頼まれ、その謝礼を受取りと忙しい。

 

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