2024年12月2日月曜日

江漢西遊日記一 その19

P22 東京国立博物館蔵

(読み)

中  侯 庄  蔵 方 御泊 リ昼 比 大 田原 侯 能

ちゅうこうしょうぞうかたおとまりひるごろおおたわらこうの


臣 三 人 来 リ酒 肴 を出ス夫 ヨリ両  替 町

しんさんにんきたりしゅこうをだすそれよりりょうがえちょう


六 町  目長谷玄 庵 ニ参 ル(長)谷ハ御城 坊 主也

ろくちょうめはせげんあんにまいる は せはおしろぼうずなり 


同 道 して小西 源 左衛門 薬 種 や此 隠 居

どうどうしてこにしげんざえもんやくしゅやこのいんきょ


ヘ参 ル茶 人 なり

へまいるちゃじんなり


十  六 日 曇 ル不雨   画ニ三 紙描(カキ)小西 ヘ参 ル麦

じゅうろくにちくもるあめふらずえにさんし  かき こにしへまいるむぎ


飯 馳走 ニなり夜 ニ入 帰 ル海老屋太兵衛ト云

めしちそうになりよるにいりかえるえびやたへいという


人 雅人 也 画の門 人 となる亦詩ヲおくる

ひとがじんなりえのもんじんとなるまたしをおくる


厳桂亭邂逅 司馬君 々々善画因

賦此呈逢歓傾蓋語 更喜接佳賓

p23

詩画憐同調 風流仍故人 毫端看

擧彩坐上忽生春 軽払丹青妙造

工皆入神 毛弼

(大意)

 そのためか、白川越中侯ことあの有名な松平定信は上洛する途中であったが、ここの

庄蔵方にお泊りになった。

 昼頃に大田原侯の家来が3人やって来て、一杯やった。

両替町6丁目の御城坊主の永谷玄庵宅へ行った。

また一緒に小西源左衛門宅へもお邪魔した。この人茶人である。

 このように、江漢が宿場に来ると、あっという間にその噂はひろまって、あちこちへ招待される。

5月16日(西暦6月19日)

 お礼だろうか、それとも頼まれたのだろうか。この小西源左衛門さんへ画を2,3枚描き差し上げたようだ。話も盛り上がって夜になって帰宅した。

 海老屋太兵衛という雅人は江漢の画の門人となって、江漢に詩を送っている。


 内容はなんとなく漢字の字面をながめていると、ぼんやりとわかるのですけど、一興に

DeepL翻訳とグーグル翻訳にコピペしてみました。


 DeepL『桂亭での司馬氏との出会い、絵の上手さ

お客様をお迎えする機会を与えてくださったことに感謝申し上げます。

「詩 「と 」画 「は同調する。」旧友 "であることに変わりはない。

軽量絵画と書道。

「毛碧 "の作品に感銘を受けた。』


 グーグル『桂亭で司馬濬と出会う。彼は絵が上手だ。

このプレゼンテーションを行うにあたり、ゲストをお迎えすることをさらに嬉しく思います

詩と絵の哀れみを調律し、風と流れはまだ老人はわずかな点を見つめます

カラフルなテーブルに座ると突然春が訪れ、素敵な絵が出来上がります

労働者は皆毛彪に魅了されている』

 やはりいまひとつですね。


(補足)

「白川越中侯」、天明7(1787)年以来、老中の要職を務めた松平定信(1758〜1829)。この年(天明8年)正月晦日の「天明の大火」で焼失した京都の視察と、皇居造営について朝廷と合議のため、このとき上洛の途中であった、とありました。

「長谷玄庵」、長谷は永谷の誤り。玄庵は城代坊主を代々勤めていた、とありました。

「小西源左衛門」、号は玉瑛(ぎょくえい)1743〜1821年、なのでこのとき45歳くらい。小西家は駿府呉服町1丁目に住し薬種業を営み、町頭役をつとめた名家。

「坊主」、「主」のくずし字は前回の「主人」と同じです。

 

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