2024年12月20日金曜日

江漢西遊日記一 その37

P42 東京国立博物館蔵

(読み)

十  六 日 偶 然 として暮 ス老 婦利口 な人 也

じゅうろくにちぐうぜんとしてくらすろうふりこうなひとなり


度 々 江戸ヘ出多る故 尓江戸能者なしをし

たびたびえどへでたるゆえにえどのはなしをし


心  安 くなる

こころやすくなる


十  七 日 雨 川 向 フ能柴 田氏ヘ行キ画ヲ描キ

じゅうしちにちあめかわむこうのしばたしへゆきえをかき


一 宿  ス

いっしゅくす


十  八 日 昼 比 雨 春こし晴 ル少 シ暑 ヲ催  春主 人

じゅうはちにちひるごろあめすこしはれるすこししょをもよおすしゅじん


と共 尓江尻 某 の処  ヘ行キ兆(テ ウ)殿(テンス)主の羅漢 ノ

とともにえじりぼうのところへゆき  ちょう   でんす  のらかんの 


画五十 幅 アリ之 ヲ見ル尓一 向 能画なり爰 ヲ

えごじっぷくありこれをみるにいっこうのえなりここを


去 て清 見寺 尓至 ル画二三 紙認  メ日暮 尓なり

さりてきよみでらにいたるえにさんししたためひぐれになり


个連ハ即 泊 ル誠  尓山 寺 ニて瀧 の音 を聞キて

ければそくとまるまことにやまでらにてたきのおとをききて

(大意)

(補足)

「十六日」、六月十六日。西暦1788年7月19日。

「偶然として」、「偶」は「寓」で、「寓然」は江漢の造語?ぼんやりと過ごしたということ。

「老婦」、山梨志賀子、平四郎の妻。元文2年(1737)〜文化11年(1814)。このとき52歳。山梨家には志賀子の和歌・書簡・旅日記などが残されている、とありました。

「兆(テウ)殿(テンス)主」、室町時代の画僧。吉山明兆(きつさんみんちょう)のこと。東京国立博物館特別展「東福寺」その1の中で「明兆は、同時代のみならず江戸時代に至るまで、かの雪舟(せっしゅう・1420~1506?)に勝るとも劣らぬ人気と知名度がありました。延宝6年(1679)に狩野永納が著した『本朝画史(ほんちょうがし)』という書物には、400人近くの画人伝が収録されていますが、そのなかで突出して記述量が多いのが、雪舟と狩野元信、そして明兆の3人です」と紹介されています。

 江漢さん「一向能画なり」の一言で片付けてしまっているところをみると、富士山ほどにはあまり心動かされてないようです。

 

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