2024年12月14日土曜日

江漢西遊日記一 その31

P36 東京国立博物館蔵

(読み)

朝帰ル

四 日大 風 雨四時比 ヤム海老屋 太助 桃 源

よっかだいふううよじころやむえびはらたすけとうげん


之画の謝 金 持参

のえのしゃきんじさん


五 日天 氣暑 を催(モヨヲ)春玄 庵 宗 与両  三 輩

いつかてんきしょを  もよお すげんあんそうよりょうさんはい


ニて寺 町 ト云 処  野芝 居アリ見 物 春江戸

にててらまちというところのしばいありけんぶつすえど


より尾 上松 助 三津蔵 佐野川 市 松 其 外

よりおのえまつすけみつぞうさのかわいちまつそのほか


此 蔵 之類  参  狂  言 草 履打 岩 蔵 尓松 助

このくらのたぐいまいるきょうげんぞうりうちいわくらにまつすけ


尾 上尓三津蔵 下女 者つ尓佐野川 市 松 又

おのえにみつぞうげじょはつにさのかわいちまつまた


菅 原 車  引 の処  あり

すがわらくるまびきのところあり


[此 駿 府ニ久 しく滞 留  せし故 江戸ヨリ従  者 尓

 このすんぷにひさしくたいりゅうせしゆええどよりじゅうしゃに


連レ来 リし松 前 能者 不埒 の事 あり故 ニ爰 ニて

つれきたりしまつまえのものふらちのことありゆえにここにて


暇  を遣  春]

いとまをつかわす


六 日天 氣扨 爰 より庵原(ユハラ)と云 処  ヘ行 ンとて

むいかてんきさてここより   ゆはら というところへゆかんとて

(大意)

(補足)

「四日」、六月四日。西暦1788年7月7日。

「四時」、午前10時。

「其外此蔵之類参」、人気役者三名の其の外に一座のものたちがやって来た、という意味でしょうか?よくわかりません。

「狂言草履打」、加賀見山旧錦絵。

「菅原車引」、菅原伝授手習鑑。

「庵原(ユハラ)」、庵原(いはら)。この辺一帯は江戸時代を通じて幕府直轄領で、伊豆韮山代官江川太郎左衛門による支配地、とありました。

 旅回り芸人による野芝居ではなく、江戸より役者を呼び寄せての公演ですから、よほどの大金持ちが駿府にいたということになります。歌舞伎はとにかく莫大な金がかかり、公演が当たるか当たらぬかは、それこそ大博打であったということですし、この駿府でそれらの芝居が行われることは、江戸大阪に劣らぬくらいの町であったことがわかります。

 

0 件のコメント:

コメントを投稿