2024年12月4日水曜日

江漢西遊日記一 その21

P25 東京国立博物館蔵

(読み)

十  八 日 天 氣日暮 ニ雨 駿 府尓あんざ以と

じゅうはちにちてんきひぐれにあめすんぷにあんざいと


云 処  ニ鯛 屋清 兵衛大 家也 誹 諧 を好 ム

いうところにたいやせいべえたいかなりはいかいをこのむ


玄 庵 も誹 人 故 之(コレ)と同 道 して参 ル

げんあんもはいじんゆえ  これ とどうどうしてまいる


亭 主 者かまニて出酒 肴 を出シ馳走 スル

ていしゅはかまにてでしゅこうをだしちそうする


画二三 紙認  メ日暮 帰宅 春

えにさんししたためひぐれきたくす


十  九日 天 氣終  日 画事

じゅうくにちてんきしゅうじつがじ


廿 日天 氣今日 も色(サイシキ)画(エ)出来

はつかてんききょうも  さいしき   え でき


廿   一 日 天 氣晩 方 雨(アメ)甚  タ寒 し小袖 綿

にじゅういちにちてんきばんがた  あめ はなはださむしこそでわた


入 を用 ユ近 邊 之者 数 人 来 ルおらん多゛

いれをもちゆきんぺんのものすうにんきたるおらんだ


其 外 色 \/の事 聞ク爰 より一 里湯の湧く処  アリ

そのほかいろいろのこときくここよりいちりゆのわくところあり

(大意)

(補足)

「十八日」、5月18日(新暦6月21日)。

「鯛屋清兵衛」、岩崎清兵衛といい、安西3丁目に住む俳人。文化14(1817)年没。江漢の「吉野紀行」(1812)には、「爰は二十七八年以前四十日淹(トゞマリ)し処。其頃の知己は皆死して、残ル者漸ク一二人のみ。・・・安在鯛屋清兵衛甚タ冨家ニてありしに、今は二代目となり、今は毎(マエ)の様にはなしとぞ」とある、とありました。

「おらん多゛」、このくずしかたで、このあと頻繁に出てきます。

 

0 件のコメント:

コメントを投稿