P25 東京国立博物館蔵
(読み)
十 八 日 天 氣日暮 ニ雨 駿 府尓あんざ以と
じゅうはちにちてんきひぐれにあめすんぷにあんざいと
云 処 ニ鯛 屋清 兵衛大 家也 誹 諧 を好 ム
いうところにたいやせいべえたいかなりはいかいをこのむ
玄 庵 も誹 人 故 之(コレ)と同 道 して参 ル
げんあんもはいじんゆえ これ とどうどうしてまいる
亭 主 者かまニて出酒 肴 を出シ馳走 スル
ていしゅはかまにてでしゅこうをだしちそうする
画二三 紙認 メ日暮 帰宅 春
えにさんししたためひぐれきたくす
十 九日 天 氣終 日 画事
じゅうくにちてんきしゅうじつがじ
廿 日天 氣今日 も色(サイシキ)画(エ)出来
はつかてんききょうも さいしき え でき
廿 一 日 天 氣晩 方 雨(アメ)甚 タ寒 し小袖 綿
にじゅういちにちてんきばんがた あめ はなはださむしこそでわた
入 を用 ユ近 邊 之者 数 人 来 ルおらん多゛
いれをもちゆきんぺんのものすうにんきたるおらんだ
其 外 色 \/の事 聞ク爰 より一 里湯の湧く処 アリ
そのほかいろいろのこときくここよりいちりゆのわくところあり
(大意)
略
(補足)
「十八日」、5月18日(新暦6月21日)。
「鯛屋清兵衛」、岩崎清兵衛といい、安西3丁目に住む俳人。文化14(1817)年没。江漢の「吉野紀行」(1812)には、「爰は二十七八年以前四十日淹(トゞマリ)し処。其頃の知己は皆死して、残ル者漸ク一二人のみ。・・・安在鯛屋清兵衛甚タ冨家ニてありしに、今は二代目となり、今は毎(マエ)の様にはなしとぞ」とある、とありました。
「おらん多゛」、このくずしかたで、このあと頻繁に出てきます。
0 件のコメント:
コメントを投稿