P51 東京国立博物館蔵
(読み)
士山 見ヘ左 の向 遠 く尓信 濃山 見へ能 景
ふじさんみえひだりのむこうとおくにしなのさんみえよきけ
色 なり夫 より小夜(サヨ)能中 山 越ヘ日 坂 より
しきなりそれより さよ のなかやまこえにっさかより
掛 川 ニ至 リ矢口 屋と云 家 ニヤとる七 ツ時 半
かけがわにいたりやぐちやといういえにやどるななつどきはん
なり此 日甚 タ暑 シ伊勢西 国 ハ大 洪 水 と云フ
なりこのひはなはだあつしいせさいごくはだいこうずいという
者なしを聞ケリ
はなしをきけり
廿 七 日 朝 ヨリ快 晴 暑 シ朝 掛 川 を出 立
にじゅうしちにちあさよりかいせいあつしあさかけがわをしゅったつ
して宿 者川れニ鳥 井あり秋 葉路 なり
してやどはずれにとりいありあきはみちなり
山 路 ニして二里程 行キ流 レあり歩(カチ)ニて越春又
やまみちにしてにりほどゆきながれあり かち にてこすまた
一 里行 て川 あり歩 ニて越ス夫 ヨリ森(モリ)と云 宿 也
いちりゆきてかわありかちにてこすそれより もり というしゅくなり
一 の瀬と云 へ三 里あり森 宿 ハ能 所 ニて冨商
いちのせというへさんりありもりしゅくはよきところにてふしょう
(大意)
略
(補足)
「小夜(サヨ)能中山」、『さやのなかやま 【佐夜の中山・小夜の中山】
静岡県掛川市日坂(につさか)から島田市金谷に至る途中の坂路。箱根路に次ぐ東海道の難所。さよのなかやま。「年たけて又越ゆべしと思ひきや命なりけり―」〈新古今和歌集•羇旅〉』
「伊勢西国ハ大洪水と云フ者なしを聞ケリ」、『明治以前日本水害史年表』を調べた。このことだろうか。「1788(天明8)年諸国霖雨,洪水。京都鴨川桂川共に一丈余之出水にて橋々不残流失す,又勢州辺も同様之大水にて,材木六千本程積置しが流出せし(6月)」。伝聞で知るしかない当時、その速さは想像以上のものだったようです。
「七ツ時半」、夕方5時ころ。
「廿七日」、六月廿七日。西暦1788年7月30日。
「秋葉路」、掛川から秋葉山(あきはさん)を通って、東海道の宿場町御油(ごゆ)へ出る約30里の脇往還。
秋葉寺の手前に三倉宿・森宿があります。
東海道五十三次の中央付近の宿場町の図。
ようやく、京都まで半分手前ほどのところまで来たようですけど、長崎まではまだまだです。
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