2024年12月15日日曜日

江漢西遊日記一 その32

P37 東京国立博物館蔵

(読み)

玄 庵 案 内 者 ニて明  朝  爰 を出  立 せんとて

げんあんあんないしゃにてみょうちょうここをしゅったつせんとて


大 田原 侯 へ御暇  乞 ニ参  御酒 出 金 子頂戴(テ ウタイ)

おおたわらこうへおいとまごいにまいるごしゅでるきんす   ちょうだい


宿(ヤト)庄  蔵 ヘも画を贈 リ个連ハコレモ金 子をおくる

  やど しょうぞうへもえをおくりければこれもきんすをおくる


七 日天 氣府中  ヨリ三 里半 江尻 ノ山 ノ方 ニテ

なのかてんきふちゅうよりさんりはんえじりのやまのほうにて


往 来 より一 里入 リ山 中 なり庵原 川 小 サキ

おうらいよりいちりはいりやまなかなりいはらかわちいさき


流 れあリ其 川 の左右 ニ僅  ニ人 家あり柴 田

ながれありそのかわのさゆうにわずかにじんかありしばた


権 左衛門 とて冨家アリ先 爰 ニ至 ル酒 肴 を出

ごんざえもんとてふかありまずここにいたるしゅこうを


出し主 人 能兄 ハ原 能白 隠 能弟子ニて弟(ヲトゝ)

だししゅじんのあにははらのはくいんのでしにて  おとと


ニ家 を譲(ユツ)る剃髪(テイハツ)して玆渓 と云フ長 崎 の

にいえを  ゆず る   ていはつ してじけいというながさきの 


方 を遊 歴 して此 比 かえると云

ほうをゆうれきしてこのころかえるという

(大意)

(補足)

「頂戴」、「戴」の一文字だけ、読むことができるひとがいるのかどうか?

「七日」、六月七日。西暦1788年7月10日。

「柴田権左衛門」、「柴」は「此」+「木」なのでくずし字もそのようになっています。柴田慈渓。延享(えんきょう)元年(1744)〜文政五年(1822)。この地の富豪柴田家の六世で、白隠に禅を学び、詩歌・文章に通じ、書をよくした、とありました。

「原の白隠」、『「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とうたわれた白隠禅師は、駿河国原宿長沢家の三男として貞享2年(1685年)に生まれ、幼名を岩次郎と言った』(1685〜1768) 

 地図の左側の河が富士川でその西側に「庵原郡」とあり。廣沼の東に「原」という地名があります。東海道五十三次の宿場の順番では「三島宿.沼津宿.原宿.吉原宿.蒲原宿.由井宿.興津宿.江尻宿.府中宿.丸子宿.岡部宿.藤枝宿」となります。

 江漢さん駿府が気に入ったのか、富士山から離れられなかったのか、駿府に5月11日から6月6日までの長期滞留となってしまいました。金子も沢山贈られたようで懐も暖かく心も大きく豊かになったのは地元名士たちとの歓談もあったでしょうが、一番はなんといっても富士山であったことは確かなことのようにおもえます。

 

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