2024年11月30日土曜日

江漢西遊日記一 その17

P20 東京国立博物館蔵

(読み)

原 吉 原 の間  曇  て冨士見へ春゛夫 より

はらよしわらのあいだくもりてふじみえず それより


藤 河 大 急  流  舟 渡 し渡 レハ岩 婦ぢ

ふじがわだいきゅうりゅうふなわたしわたればいわふじ


と云 処  栗 能粉餅 をうる名 物 なり此

というところくりのこもちをうるめいぶつなりこの


間  田畑 を過 て駿 府桔梗  屋と云 旅 館 尓

あいだたはたをすぎてすんぷききょうやというりょかんに


宿  春十  一 日 也

しゅくすじゅういちにちなり


十  二日 天 氣其 比 大 田原 飛弾 侯 駿 府ノ

じゅうににちてんきそのころおおたわらひだのこうすんぷの


加番 ニて此 地ニ御詰 あり御城 の外 ニ屋しきアリ

かばんにてこのちにおつめありおしろのそとにやしきあり


即  チ参  て御目ニかゝ里色 \/御咄 シ申  上 候

すなわちまいりておめにかかりいろいろおはなしもうしあげそうろう


十  三 日 天 氣少  曇 ル札 ノ辻 南 波屋庄  蔵 と

じゅうさんにちてんきすこしくもるふだのつじなんばやしょうぞうと


てお出入 御町  人 アリ宿所   仰被付    コレへ参

ておでいりおちょうにんあちしゅくしょおおせつけらるこれへまいる

(大意)駄文のつづき

今日は狼に会わなかったのはよかったが、原と吉原の間、冨士が見えなかったのは残念であった。


 山路が終わったとおもったら、今度は富士川の渡しだ。

川幅があり、流れも速い。

怖い。


 なんとか渡り切った処は岩淵といい、栗の粉でこねた餅が名物だ。

江漢さんつまんでみたい誘惑を絶ち、田畑をもう少し歩き、

この日の宿、駿府桔梗屋という旅館に着いた。


 此の栗の餅は今でも販売中。

室町時代頃からというから、かれこれ千年、そんなにないか、

根強い人気和菓子、食ってみたいものだ。


5月11日

 うっかり江漢、此の日は、「十一日也」とだけ記してごまかした。


5月12日(新暦6月15日)

 晴れ。 

ちょうどその頃、下野国大田原藩の殿様が駿府城の警護の任務でこちらのお屋敷にいらっしゃった。

ご挨拶に伺い、いろいろお話をさせていただいた。


 疑問のひとつが、宿についてすぐに江漢の到着をどうやって殿様が知ったかということだ。

 桔梗屋の宿泊者台帳に記名し、地廻りの役人なり宿の担当が番所へ知らせ、順に殿様まで伝えられたという方法しかないはずだが、その速さは目をみはる。


5月13日

 晴れのち少々曇り。

高札を立てた十字路のところにある難波屋の主人庄蔵に呼ばれ出かけた。


(補足)

「藤河」、その前の行に「冨士」と書いているのに。「藤」のくずし字は特徴的なので覚えやすい。

「岩婦ぢ」、岩渕。どうも江漢さん、「ふじ」という語感に引きずられているようだ。

「大田原飛弾侯」、大田原飛騨守康清(つねきよ)。下野大田原藩1万1400石余の藩主。天明7年5月、駿府一加番に任命され、天明8年10月帰府した、とありました。

「駿府ノ加番」、『かばん【加番】江戸幕府の職名。人数不足の時,大坂定番(じようばん)・駿府定番を助けて城を警備した者』

「南波屋庄蔵」、古くは難波屋仁左衛門といった。一加番の本陣であり、元大坂の人。とありました。

「仰被付」、「被付」の間にレ点が入り、「おおせつけらる」。三文字セットで覚える。

 この道中で、江漢はたびたび大名の殿様に呼ばれて直接話しをしています。普通の身分の者ではまずできぬこと。やはりそれなりに名が知られていたということでしょうか。

 

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