P9 東京国立博物館蔵
(読み)
五六 町 小路 ヲ登 ル尓山 頂 春こし平 ラカなる
ごろくちょうこみちをのぼるにさんちょうすこしたいらかなる
所 あり石碑(ヒ)あり眺 望 を誌 ス
ところありせき ひ ありちょうぼうをしるす
[箱 根ヨリ越 ル立 場トナル日金 越ヘトテ駕(カ)ゴ往 来 ス]
はこねよりこゆるたてばとなるひがねごえとて か ごおうらいす
伊豆国賀茂郡日金頂所観望者
十国五嶋自子至卯相模国武蔵国
安房国上総国下総国自辰至甲其
国所隷之南五箇嶋及遠江国自
酉至玄駿河国信濃国甲斐国天
明三年八月東都林居士應熱海
長渡邊房求之需建之
此 眺 望 誠 尓日本 第 一 也 此 邊 能山 ハカヤ
このちょうぼうまことににほんだいいちなりこのへんのやまはかや
(大意)駄文のつづき
円山頂上からの眺めを描いている。
「円山頂きより西を望む。箱根山より三嶋、沼津、狩野河、冨士河見へる。」
その風景、230年前が昨日のようで、全く変わらない。
きっと千年前も二千年前も同じだったに違いない。
私も何度かここを訪れたが、30年ほど前のここからの眺めは忘れられない。
ちょうど日没時、夕焼けが駿河湾も紅色にし、狩野川・富士川付近の家々からは夕餉の煙が立ち上り、聞こえるのは風の音と、カヤがこすれあう音のみ。
ただただ立ちすくんで眺めるのみであった。
江漢先生もいたく感激している。
「此眺望誠に日本第一也」
ところで、一緒に登ったご婦人はどうしたかというと、
登りきった地蔵堂にお地蔵さんが祀ってある「誠にキタナイ」お堂が3軒あったのだが、
まぁどうしようもないので、毛せんなどをしき、べんとうをひらき、ご婦人と一緒に食事をしたようだ。
文中、坊舎三軒のあと、「肉食妻躰」とわざわざ記している。
当時の知識人と言われる人たちは、神社仏閣・石碑などには敬意を払い興味があったが、そこに住まう坊さんは嫌いだったようである。
江漢さん、「肉食妻躰」の坊さんを蔑んでいたのだろう。
彼にとっては、見て見ぬふりできぬことだったに違いない。
さて、其後はどうしたものか記されてない。
(補足)
江漢さん、石碑を見つけると書き写すのが好きなようで、このあとの日記でも、たびたび記しています。
石碑文の意味は大雑把に「伊豆国賀茂郡日金の頂上からは十国五嶋を望める。子(北)から卯(東)の方角には、相模国・武蔵国・安房国・上総国・下総国。辰(東南東)から甲(申の誤記(西南西))には、それらの国の南にある五つの島々及び、遠江国。酉(西)から玄(亥の誤記(北北西))には、駿河国・信濃国・甲斐国。天明三年八月、熱海里正の渡邉氏の求めに応じて建てた」。
この碑文はネットで調べることができて、江漢さんは一部をとばしてしまったり、写し間違いしたようです。
「東都林居士(諸島出雲光英源清候等)應熱海(里正)渡邊房求之需建之」が正しそう。
更に調べると、写真もあってちょっと拝借(申し訳ありません)。
わたしもここに何度も行っているのだけれど、この石碑は記憶がありません。
0 件のコメント:
コメントを投稿