表紙 東京国立博物館蔵
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(読み)
表紙
江 漢 西 游 日 記一
こうかんさいゆうにっきいち
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天 明 戊 申 四月 二十 三 日 昼 過ぎ、江戸芝
てんめいつちのえさるしがつにじゅうさんにちひるすぎ えどしば
神 僊 坐を出 立 して金 川 尓至 ル其 日
しんせんざをしゅったつしてかながわにいたるそのひ
曇 て雨 なし従 者 ニハ宿(ヤト)ニ居タル弟子なり
くもりてあめなしじゅうしゃには やど にいたるでしなり
歳 二十 位 の者 ニて松 前 能産 れなり吾
としはたちくらいのものにてまつまえのうまれなりわれ
此 度 能旅 行 者じめてなり是 ヨリ肥州
このたびのりょこうはじめてなりこれよりひしゅう
長 崎 ノ方 其 外 諸 国 を巡 覧 して三 年 を
ながさきのほうそのほかしょこくをじゅんらんしてさんねんを
経されハ帰 るまじと思 ひ立 し尓や又 ハ宿 ニ
へさればかえるまじとおもいたちしにやまたはやどに
妻 子を置 多る故 ニヤ胸(ムネ)塞(フサカリ)氣分 あしく夫
さいしをおきたるゆえにや むね ふさがり きぶんあしくそれ
故 金 川 ニ滞 留 して河 内屋善 三 郎 と云
ゆえかながわにたいりゅうしてかわちやぜんさぶろうという
人 を吊 フ是 ハ江戸橋 本 丁 河内屋と云フ
ひとをとぶらうこれはえどばしほんちょうかわちやいう
(大意)
略
(補足)
司馬江漢(1747〜1818)41歳のときの自筆の旅行記です。
天明8年4月23日はグレゴリオ暦(西暦)1788年5月28日ですので旅行の出発日としては申し分なし。
この旅行記は江漢存命中には出版されることなく原稿を手もとにずっとおいていたようです。しかし、完成原稿のように整然と書かれていてこのまま版元で出板できるようなつもりでいたようでもあります。
6巻まであり、江戸長崎の往復旅日記を少々長くなりますが読みすすめていきます。
先の「時代世話二挺鼓(じだいせわにちょうつづみ)」は奇しくも天明8年に発刊されていて、当時の気候変動や政治事情を同じくし、そのような中、江漢はのんびりと旅行して日記に各地の様子を記しているわけであります。
「神僊坐」、新銭座町。浜御殿(浜離宮)に近い。この画像の中央。
現在の港区浜松町一丁目の一角。当時、「宿あり」とか「門廻り」とよばれていた者の住む下町の裏長屋の密集地である。江漢はここに育ち、長くここに住んだ。と手もとの本にありました。
「金川」、神奈川。
「胸」のここの漢字は、右半分は『「匈」と「月」』のようです。違うかも・・・
「気分」、気は旧字体の氣。分のくずし字は「ミ」+「丶」のようなかたち。
「吊フ」(とぶら)フと読むようです。辞書では「とぶら・う とぶらふ 【訪ふ】」です。
道中記はじまりはじまり〜。
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