2024年11月14日木曜日

江漢西遊日記一 その2

P2 東京国立博物館蔵

(読み)

薬 種 屋能親 類 ニて吾 十  七 年 以前 一 面 の

やくしゅやのしんるいにてわれじゅうしちねんいぜんいちめんの


識(シキ)ニて此 度 尋  吊   尓妻 死して娘  壱 人を

  しき にてこのたびたずねとぶらうにつまししてむすめひとりを


愛(アイ)春山 水 の画一 枚 を贈 ル善 三 郎(ロウ)案内 して

  あい すさんすいのがいちまいをおくるぜんさぶ  ろう あないして


一 本 松 と云 処  ハ後 ロノ山 ナリ冨士大 山 見へ眼 下ニ

いっぽんまつというところはうしろのやまなりふじおおやまみえがんかに


前 の海 州干幷(カンベン)天 向  地ハの毛本 目 海 を

まえのかいす   かんべん てんむこうちはのげほんもくかいを


隔 て向 フ国 ハ上總 房 州  なり夫 より臺 の

へだてむかうくにはかずさぼうしゅうなりそれよりだいの


茶 ヤニて蕎麦ヲ喰ヒ善 三 郎 能云 夫 ニてハ長

ちゃやにてそばをくいぜんさぶろうのいうそれにてはなが


崎 迄者ハおぼつかなし爰 ヨリ伊豆熱 海ニ湯

さきまではおぼつかなしここよりいずあたみにとう


治して江戸ヘお帰 りと云

じしてえどへおかえりという


廿   五日 天氣能  氣分 あしく朝 五時出  立 して

にじゅうごにちてんきよしきぶんあしくあさごじしゅったつして

(大意)

 略ではつまらないので、前回と今回の分を駄文にしてみました。


 時は天明8年4月23日昼過ぎのことである。

曇り空の下、一人の男が弟子を連れ、江戸から西国へ旅立った。

その男、名前は安藤峻。司馬江漢である。

従僕は天秤棒で前後に、わけの分からぬ荷物を山盛りにのせていた。


 世情は不安定である。

天明の大飢饉はいまだ終わらず、前年5月には、江戸でも幕府開闢以来最大の米騒動が起きている。

3年経たなければ帰らぬと決心し、長崎に向かったものの、神奈川は藤沢より西への旅はしたことがない。

41歳にして初めての大旅行であった。

家には妻と子を残し、そしてその旅が初めてとくれば、心中、期待よりも不安のほうがはるかに大きく、気分は塞いだ。


 勇んで旅立ったものの、何のことはない。

横浜は戸部というところの、十七年来の知り合いの家に早くも泊めてもうことになる。

そこの主人善三郎さんと、裏山の一本松というところに登る。


 現在この地に一本松という地名はないのだが、

一本松小学校という明治44年創立の横浜市立の学校が、山ひとつむこうにある。

その校歌一番に、

「西は遥かに富士の嶺

 秀麗千古み国を鎮め

 東は近く金港の

 百舟千舟み国を富ます」 

とあり、高台からの眺めはよかったのだろう。

すぐ向かいは野毛山があり、明治のお雇い外国人パーマーがここまで水道を引いている。

現在でも、野毛山公園の地下は、巨大な貯水タンクがあり現役の水道施設である。


 近くの茶屋で蕎麦を食い、善三郎がしょげて滅入っている江漢にこんなことを言っている。蕎麦をすする音もさぞかし元気がなかったのだろう。

「夫にては長崎迄はおぼつかなし。爰より伊豆、熱海に湯治して江戸へお帰り」


 江漢が、肩を落とし背を丸め、膳三郎の助言を素直に聞き入れていそうな様子が目にうかぶ。


(補足)

「案内」、「案」は「安」+「木」で、「安」は「あ」となってます。

「干幷(カンベン)天」、江漢はおそらく戸部村の背後の松林の(画像の緑色の部分の) 

山に登ったのだろう。眼下に大岡川の河口があり、その向こう岸に弁天様の木立ち

が見えたはず。そして野毛は手前、本牧は遠い。と手もとの本にはありました。

「長崎」、「長」のくずし字は「ム」の三画目で左上に筆をはこび、そのまま「ち」のようになり、この日記ではすべてこのくずし字になってます。また日記では「崎」ではなく「﨑」。

「迄」、「占」+「辶」。「過」と間違いやすい、こちらは「る」+「辶」。

「天氣能氣分あしく」、ここの「能」は変体仮名「能」(の)ではなく、「よし」の意味。

「朝五時」、現在の朝八時。

 すっかりジジイのわたくしは一本松小学校・老松中学校の卒業生で、どちらも松があることから、このあたりの山は松が生い茂っていたのかもしれません。

 

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