2024年11月16日土曜日

江漢西遊日記一 その4

P4 東京国立博物館蔵

(読み)

熱 海路也 熱 海まで七 里左  ハ大 海 浪 打

あたみじなりあたみまでしちりひだりはおおうみなみうち


右 ハ山 也 石 橋 山 真 田ノ塚 あり米 神 村 立

みぎはやまなりいしばしやまさなだのつかありこめかみむらたて


場あり皆 山 坂 路 ニして真奈鶴 なと云 石

ばありみなやまさかみちにしてまなずるなどいういし


をきり出春海 上  ニハ大 嶋 初 嶌 見ヘ山 ハ雲 を

をきりだすかいじょうにはおおしまはつしまみえやまはくもを


吐き誠  尓初 メて見多る故 ニや不快 全快  春夫 ヨリ

はきまことにはじめてみたるゆえにやふかいぜんかいすそれより


根府川 番 所 を越へ江の浦 土肥なと云フ

ねぶがわばんしょをこええのうらどいなどいう


処  を過 て熱 海ニ至 ル尓皆 山 路 左  ニ海 を見て

ところをすぎてあたみにいたるにみなやまみちひだりにうみをみて 


風 景 よし熱 海今 井半 太夫 方 ニ至 ル其 比ロ

ふうけいよしあたみいまいはんだゆうかたにいたるそのころ


入  湯 能者 多 し江戸ハ二十  七 里隔  ルなり

にゅうとうのものおおしえどはにじゅうしちりへだたるなり


廿   七 日 朝 ヨリ雨天 湯 治場尓ハ初 メテなり此 湯ハ

にじゅうしちにちあさよりうてんとうじばにははじめてなりこのゆは

(大意)駄文の続き。

 国府津、小田原とすすみ、真鶴を過ぎ、熱海へと行く。

真鶴は江戸城の石垣に使われ、江戸っ子にも知名度が高かった。

鎌倉時代から現在も良質な石を切り出している。

なので、ダンプカーが多く注意が必要な道路です。

 現在では真鶴道路があり、週末は渋滞の名所となっている。

当時は山の上に路があり、険しかった。

この旧道、実際車で走っても路は狭く険しく、海原を楽しむ余裕などない。

波しぶきを浴びながら真鶴道路、眺めはすこぶるよい。

 日記に、

「海上には大嶋、初嶋見へ、山は雲を吐き、誠に初めて見たる故にや、不快全快す。」

とあるとおり、現在でもそのままである。

 今井半太夫方、今で言う高級旅館に泊まった。

「其比ろ入湯の者多し。」とあり、

当時から有名な温泉だったことがわかる。

「江戸から二十七里隔たるなり」とのことである。

4月27日(西暦6月1日)

 朝から雨だ。

江漢、湯治場は初めてで興味津々である。

(補足)

「立場」、『たてば【立て場・建場】① 江戸時代,街道筋で人足が駕籠や馬を止めて休息した所。明治以後は人力車などの集合所・発着所をいった』

「誠尓」、江漢のこの日記で一番使われている表現かも。「成」のくずし字が特徴的。これに「土」偏がつくと「城」、これもほどほどでてきます。

「熱海」、江戸時代には湯戸制度により、27軒の湯戸が通りをはさんで軒をつらねる湯治場であった。「近世熱海の空問構造と温泉宿「湯戸」の様相」に詳しく記されています。


「石橋山」「米神村」、

「初嶋」、


「今井半太夫」、熱海村名主。大名投宿の本陣に指定されていた熱海最大最上の宿で、江戸でも評判であった。初代半太夫は熱海を開発し、温泉場発展の基礎を開いた。以後、湯戸27軒の最高責任者であった。

 今年の7月、湯河原温泉泊の予定が、流れてしまってとても残念でありました😢

 

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