2024年11月20日水曜日

江漢西遊日記一 その7

P7 東京国立博物館蔵

(読み)

三 日雨天 自楽 亭 と云 離 レ坐しき尓松 平

みっかうてんじらくていというはなれざしきにまつだいら


長 門候 能お部屋と見ヱて五十  位  能婦人

ながとこうのおへやとみえてごじゅうくらいのふじん


下女 壱 人侍  ヒ二 人下男 二 人連レ同 宿  しぬ

げじょひとりさむらいふたりげなんふたりつれどうしゅくしぬ


爰 より地引 をして得多るとて鯛 二 ツサヨリ

ここよりじびきをしてえたるとてたいふたつさより


二 ツ贈 ル即 生  写  尓春より春

ふたつおくるそくしょううつしにす???


四 日朝 ヨリ天 氣従  者 ヨンゲル尓画を描(カヽ)せ

よっかあさよりてんきじゅうしゃよんげるにえを  かか せ


楽  ム亦 灸  治を春る宿 より柏  餅 をおくる

たのしむまたきゅうじをするやどよりかしわもちをおくる


[ヨンゲルとハ従  者 ノ事 也 若 ヒ者 ト云フヲランタ辞  なり]

 よんげるとはじゅうしゃのことなりわかいものというおらんだことばなり


五 日節 句なり四時ヨリ雨 後 大 雨 額 一 面

いつかせっくなりよじよりあめのちおおあめがくいちめん


竪(タテ)物 一 幅 出来ル半 太夫 父子禮 ニ来る

  たて ものいっぷくできるはんだゆうふしれいにくる


六 日天 氣西 南 ノ風 漸  く此 日単  物 をきる

むいかてんきせいなんのかぜようやくこのひひとえものをきる


(大意)駄文のつづき

5月3日

 雨天である。

梅雨寒だったのだろうか。


 この日、VIPが泊まる自楽亭と云う離れ坐しきに下見のためか、

50歳位の婦人、下女1人、侍2人、下男2人がやってきて同宿した。

松平長門侯のお部屋見のようだ。

長門の37万石クラスの大大名だ。


 地引網をして魚がとれた。

鯛二匹、サヨリ二匹をもらい、すぐ刺し身にして食うかとおもいきや、

即写生するところが絵描き江漢である。


5月4日

 朝より晴天である。

暇で気分もよかったのだろう。

「従者ヨンゲルに画を描せ楽」しんだ。


 頭注に「ヨンゲルとは、従者の事也。若ひ者と云ふヲランダ辞なり」

と注記している。

この日記の注記はほとんどが後の文化12年(1815年)、江漢亡くなる3年前のものである。


 画を教え疲れると、こんどはお灸をしてもらった。

まさに温泉湯治である。


 しばらくすると、端午の節句は明日であるが柏餅が宿よりふるまわれ、

いやぁ、実に愉快愉快、江漢先生気分は上々である。


5月5日(西暦6月8日)

 節句である。

昼前10時頃から雨が降り、その後大雨になった。


 額一面と竪物一幅が出来上がり、お礼に半太夫と息子が一緒にやって来た。


5月6日

 晴天となり、西南の風で暖かくなり、久しぶりに単衣だけで過ごせた。


(補足)

「自楽亭」、「二楽亭」のことらしい。 

 賓客用の離れ。今井氏の屋敷から独立した建物で、北西に糸川を背にし東南に海を望めるようにして建てられていた。今井氏は、一般座敷・一碧楼・二楽亭があり、他に今井氏自身の立派な住居があった。とありました。

「松平長門候」、毛利治親(はるちか)。宝暦4(1754)年〜寛政3(1791)年。長門・周防両国において36万9410石を領し、長門萩城に住す、とありました。

「より春」、このぶぶん不明。

「竪物」、『たてもの 【竪物】竪表具(書画などを裂(きれ)や紙を貼り合わせた表具を使って縦長の軸物に表装すること)にした軸物』

「宿より柏餅をおくる」「鯛二ツサヨリ二ツ贈ル」、「もらった。いただいた。」の意ですけど、当時はこのように使ったのか、江漢独自の使い方なのかは不明。

 

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