P3 東京国立博物館蔵
(読み)
戸塚 と程 谷の間 タのなわ手蝉 なく之 ハ麦 能
とづかとほどがやのあいだのなわてせみなくこれはむぎの
赤(アカ)る武時 初 メて啼く蝉 と云フ夫 より藤 沢
あか るむときはじめてなくせみというそれよりふじさわ
なり毎 \/藤 沢 迄 ハ来 リシ尓爰 より先 ハ初 メ
なりまいまいふじさわまではきたりしにここよりさきははじめ
てなり甚 タ珍 しく小松 原 右 ハ山 左 ハ海 也
てなりはなはだめずらしくこまつばらみぎはやまひだりはうみなり
場入(ハニ ウ)川 大 山 見得て風 景 よし氣分 も
ばにゅう かわおおやまみえてふうけいよしきぶんも
能ク大 磯 の驛 尓泊 ル七 時比 なり
よくおおいそのえきにとまるしちじころなり
廿 六 日 天 氣よし大 磯 を出 立 して小磯
にじゅうろくにちてんきよしおおいそをしゅったつしてこいそ
なと云 処 を過 て程 なく酒 川 かち渡 し夫 ヨリ
などいうところをすぎてほどなくさかわがわかちわたしそれより
国府津と云 処 を越 れハ小田原 なり大 久保
こうずというところをこゆればおだわらなりおおくぼ
侯 能領 地ウイロウ能少 シ先キ左 リニ入る
こうのりょうちういろうのすこしさきひだりにいる
(大意)駄文の続き。
4月25日。
天気はよいが、気分は相変わらず晴れぬまま、朝8時に戸部は善三郎宅を出立した。
戸塚、保土ヶ谷と途中蝉の声を聴きながら東海道を下り藤沢に着く。
ここから先は、江漢にとって未経験の地の旅となる。
街道は松並木があり、右には山、左は海原が広がり、馬入川を越えて大山など丹沢山系が見える。目の前に広がる景色に心のもやもや胸のふさがりがすっ飛んでしまったのだろう、「気分能く」とのたまわっている。
気分良く、左手にずっと海原を見ながら、午後4時頃に大磯に着き、泊まった
4月26日。(西暦5月31日)
今日も天気がよい。
宿を出てすぐ、江漢、手びさしをし、首を振り、左に海原、右に山々を眺め、気分良く出発した。
すぐに酒匂川となる。
歌川広重の「東海道五十三次之内・小田原酒匂川かち渡し」に河を渡る様子が詳しい。
渡り方は松竹梅があったようで、
松 駕籠ものせることが出来るくらいの丈夫な台で20人くらいで担ぐ。大きなお神輿みたいな感じ。
竹 蓮台という梯子みたいなもの。4人程度で担ぐ。
梅 肩車そのもの。
当然値段も担ぎ方に反映する。
江漢さんたちはきっと、荷物もあったので竹コースだったろう。
ちなみに、
「天明8年6月26日 ・・・大井河漲り、八十八文、川連台にて渡る。・・・」
とあるから、
川を渡るときは、竹コースであったはずだ。
(補足)
「なわ手」、『なわて なは―【畷・縄手】① 田の中の細道。あぜ道。なわてじ。なわて道。② まっすぐな長い道』
「程谷」、保土ヶ谷。
「赤(アカ)る武」、江漢は「む」は、変体仮名「武」(む)を用いています。
「場入(ハニウ)川」、馬入川
「酒川」、酒匂川(さかわかわ)
「大磯の驛」、この旅以降はここを定宿としたようで、大磯山城屋。「七時」は16時頃。
「廿六日」、西暦5月31日。
「大久保侯」、当時は大久保出羽守忠真。天明8年襲封、11万3000石余を領し、小田原に住す、とありました。
「啼く蝉」、この時期になく蝉ときたらニイニイゼミしかおもいうかびませんけど、アブラゼミでは早すぎるし。
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