P.82 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」
(読み)
一 右 此 度 御出 役
ひとつ みぎこのたびごしゅつやく
吉 岡 静 助 様
よしおかせいすけさま
宇佐美藤 一 郎 様
うさみとういちろうさま
七 月 二 日御出 立 二相 成 、横 瀬村 継 立 、
しちがつふつかごしゅったつにあいなり、よこぜむらつぎたち、
三 日源 左衛門 儀持病 差 起り 、代 兵 三 郎
みっかげんざえもんぎじびょうさしおこり、かわりへいさぶろう
差 遣 し、新 立 江新 古両 組 村 役 人 組 々 二而
さしつかわし、にったちへしんこりょうぐみむらやくにんくみぐみにて
小前 共 集 ル
こまえどもあつまる
差 出 申 一 札 之事
さしだしもうしいっさつのこと
当 村 之内
とうそんのうち
新 組
しんぐみ
百 姓
ひゃくしょう
(大意)
このたび(こちらに廻村に来られた)ご出役の
吉岡静助様と
宇佐美藤一郎様は
7月2日にご出発になられ、横瀬村を経由して帰られました。
3日、源左衛門は持病を発し、代わりに兵三郎を
出向かせ、新立に新古両組の村役人たちがそれぞれの組ごとに
小前どもが集まった。
差し出した書状について
当村の
新組
百姓
(補足)
この二人のご出役がこちらについたのは7月2日四ツ半頃でした。
村役人たちは、彼らが到着するやすぐに、二人を探しに山狩りをして村としての姿勢を示しますが、ご出役から、いまさらながら白々しいことをすると叱責をうけました。
村では、とんでもないことをしでかした首謀者を自分たちの村からだしてしまい、咎めは本人たちだけではなく、村全体に及ぶと恐れ、首謀者をかくまっていたのだろうとおもわれます。
ご出役は村役人叱責後、上名栗村方面へと出かけました。
一方村役人たちはもはやここまでと観念し、二人を捉えたと出かけたばかりのご出役へ使いを送り、すぐにこちらへ戻ってきて、二人への尋問を始めました。
一通りの調べ等が終わり、「七月二日御出立二相成」の次第となります。
ここまでの内容は、7月2日の半日と少しの出来事となります。
どうも半日だけで、片がつくような出来事ではないような気がします。
「持病差起り」、何度か字面を繰り返しながめてからやっと読めました。
「兵三郎」、「兵」がつぶれてしまって?。源左衛門さんの息子さんです。
源左衛門さんは文化11年(1814)〜明治19年(1886)。
兵三郎さんは天保10(1839)〜年明治35年(1902)。
もう一つの書状の内容が始まります。
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