P.66 最初〜4行目まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」
(読み)
此 儀如何 と被仰 候 得共 、誰
このぎいかがとおおされそうらえども、だれ
壱人 も御答 無之 候
ひとりもおこたえこれなくそうろう
下 名栗 村 江早 速 御出 立 二
しもなぐりむらへさっそくごしゅったつに
相 成 候 、其 跡 ゟ 武 助 殿 参 ル、
あいなりそうろう、そのあとよりたけすけどのまいる、
(大意)
このことについてどうなのだ、と聞かれたのだが、誰
一人として答えるものはいませんでした。
(御出役様は)下名栗村へ早速お立ちになられました。
そのあとに武助殿がやって来ました。
(補足)
手跡が変わりました。書き手は女性のようです。
「如何」、二文字セットです。平仮名の「め」のように筆を運びそのまま「る」のように流します。
「登」(と)、変体仮名
「候得共」、三文字セット。
「答」、意外と読みづらい。「竹」冠が「筋」などのものとは異なります。
「跡」、読めません。この前の「其」のつながりから推測するのでしょうか。
名主たちを、叱りまくった御出役は下名栗村へ行ってしまいました。
上名栗村も下名栗村も、この地域からしたらどう贔屓目に見ても貧しい山村です。
山奥にあって田舎の中でもさらに山深いところにある村々でした。
御出役の態度にはきっと、このど田舎の名主立ちめ、お前たちがしっかり監督しないからこのようなことが起きてしまったのだと、どこか蔑んだものがあらわれていたことでしょう。
しかし、実際は日本中をこの前後数年の間、似たような変事があちらこちらで起きていました。
とうとう、こんな山奥の田舎まで打ち壊しや一揆のようなことがやってきてしまったというのが
実情だったのです。
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