P.55 最初〜6行目まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」
(読み)
神 主 之事 二付 相模 殿
かんぬしのことにつきさがみどの
遣 し、下 名栗 村 ゟ 村 役 人
つかわし、しもなぐりむらよりむらやくにん
立 越 、廿 七 日 参 り候 与 し、
たちこし、にじゅうしちにちまいりそうろうくみし、
棒 谷戸新 右衛門殿 迄 行 、
つえやどしんえもんどのまでゆき、
同 人 申 様 、御叮 寧 二是 迄
どうにんもうすさま、ごていねいにこれまで
御出 被下
おいでくだされ
(大意)
神主でもありますので、相模殿を
向かわせました。下名栗村より村役人が
来て、27日に一緒に出かけました。
棒谷戸新右衛門殿迄行き、
本人より話がありました。ご丁寧にここまで
お出でくだされ
(補足)
「遣し」、形で覚えます。「半」の3画目まで書いてから「と」を重ね書きする感じ。
「参り」、ごく普通に使われますが、「ノ」「一」としてから「未」。
「与し」(くみし)としましたが、さて?。誰々と(くみ)やすいのような使われ方?
「棒谷戸」、辞書では「棒」(つえ、ほう)とありました。読み方が?です。
「叮嚀」、勿論「丁寧」の古い表現でしょう。
打ち壊し騒動が落ち着きを見せ、村民たちもそれぞれの村へ戻ってきました。
村役人たちは各々村同士のその後の対応や挨拶をするために、お互い連絡を取りあちこちへ忙しく廻り始めました。
0 件のコメント:
コメントを投稿