P.51 6行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」
(読み)
兵 三 郎 ・覚 五郎 儀者
へいざぶろう・かくごろうぎは
新 立 江参 り御用 向 等 有之 候 ハヽ
にったちへまいりごようむきとうこれありそうらわば
承 置 遍し、廿 一 日 、持病 二而代 兵 三 郎
うけたまわりおくべし、にじゅういちにち、じびょうにてかわりへいさぶろう
遣 し、小物 ゟ 穴 沢 ・森 川原 通 り
つかわし、こものよりあなざわ・もりがわらどおり
再 調 、廿 二日 、兵 三 郎 遣 し申 候 、
ふたたびしらべ、にじゅうににち、へいざぶろうつかわしもうしそうろう、
浜 井場ゟ 八 ケ原 ・山 中 ・白 岩 不残
はまいばよりはちかばら・やまなか・しらいわのこらず
(大意)
兵三郎と覚五郎が
新立へ来て、ご用向などがあったので
いろいろ聞き置いておいた。21日、(源左衛門は)持病のため代わりに(息子の)兵三郎
をやり、小物たちから穴沢・森川原通りの者たちを
再度調べた。22日(も)、兵三郎を行かせた。
浜井場より八ケ原・山中・白岩まで残らず
(補足)
この覚記を記している平沼源左衛門(1814〜1886)は幼名は助次郎・隠居名は源左衛門、
息子(1839〜1902)の幼名は兵三郎・隠居名は源左衛門、その息子(1861〜1929)幼名は喜平次・隠居名は源左衛門でした。また3人とも当主名は同じで源一郎でした。
源左衛門さんの代わりに出かけた兵三郎さんは当時27才となります。また喜平次さんは5歳で
源左衛門さんの孫になるのでしょうか。
名前の「郎」が異なってます。「戸」+「巾」のようなくずし字と「ら」のようなものです。
しかし、次の「兵三郎」の「郎」は「ら」になってますが、その次では「戸」+「巾」。いろいろです。
「等」のくずし字は「ホ」。
「穴沢」、「八」に見えません。
「森」が「木」+「林」に見えてしまう。
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