P.46 5行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」
(読み)
一 畄 吉 儀十 八 日 暮 六ツ時 立 戻 る、
ひとつ とめきちぎじゅうはちにちくれむつどきたちもどる、
武州 高麗郡 下 鹿山 村 百 姓 倉 吉 母
ぶしゅうこまぐんしもかやまむらひゃくしょうくらきちはは
同 道 二而参 ル、両 人 共 相 調 候 處 、
どうどうにてまいる、りょうにんともあいしらべそうろうところ、
十 五日 広 瀬か王らゟ 病 氣と而
じゅうごにちひろせかわらよりびょうきとて
実 家罷 越 、母 并 兄 女 房 二
じっかまかりこし、ははならびあににょうぼうに
薬 用 手当 之世話致貰 、
やくようてあてのせわもらいいたし、
(大意)
ひとつ 留吉については18日夕方6時に帰宅しました。
武州高麗郡下鹿山村百姓倉吉の母親が
一緒に付き添って来ました。二人とも調べたところ
15日(狭山の)広瀬河原で病気となり
実家へ行き、母と兄嫁に
薬を飲み看病してもらっていました。
(補足)
字下げをして一つ書きで、留吉の動静について取り調べたことを記してます。
「暮」、「艹」から「日」までが長い。形で覚えるしかなさそう。
「高麗」、「下鹿山」、「鹿」が同じくずし字になってます。
「薬」、こちらの「艹」は「暮」のとは異なりわかりやすい。「暮」のほうは、「艹」の「一」が「冖」のように書いているからかと今気づきました。
全般にわかりやすい手跡です。
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