2025年7月31日木曜日

江漢西遊日記五 その5

P5 東京国立博物館蔵

(読み)

能音 数  して山 \/尓小玉(コダマ)能響(ヒゝキ)亦稲(イナ)津ま

のおとあまたしてやまやまに   こだま の  ひびき また いな づま


能如 ク光 りて春ざまし石 火矢能音 も

のごとくひかりてすざましいしひやのおとも


段(タン)\/と遠 くなり个連ハ幸 作 申  ニハお

  だん だんととおくなりければこうさくもうすにはお


らん多今 夜舩 を出シ多りと云フ東(トヲ)風 を

らんだこんやふねをだしたりという  とお ふうを


待 て舩 を出春なり

まちてふねをだすなり


四 日雨天 是 まで稲 部半 蔵 方 ニ居ル明日

よっかうてんこれまでいなべはんぞうかたにおるあす


出  立 春ト偽  り幸 作 方 へ行 居ル平 戸屋しき

しゅったつすといつわりこうさくかたへゆきおるひらどやしき


畄主居江戸ニて知ル人 故 尓尋  ル畄主居(ルスイヤク)

るすいえどにてしるひとゆえにたずねる    るすいやく


三平 治と云 人 申  ニハ在 所 用 舩 五六 日 中  ニ

さへいじというひともうすにはざいしょようふねごろくにちじゅうに


爰 もとへ来ル故 其 舩 ニ乗り平 戸へ渡 ル

ここもとへくるゆえそのふねにのりひらどへわたる

(大意)

(補足)

「小玉(コダマ)」、谺。

「段(タン) \/」、フリガナもなく、この二文字だけ読めと言われても、無理。

「四日」、天明8年11月4日。西暦1788年12月1日。

「行居ル」、「参」を書き直して「居」にしています。書き改めるほどの違いがあったのでしょうけど、どなかた説明してください。

 いよいよ平戸へ、船の手配をし始めました。

 

2025年7月30日水曜日

江漢西遊日記五 その4

P4 東京国立博物館蔵

(読み)

十 間 土蔵 付 之(コレ)ニて一 年 借り代 十  両  位 ヒ

じっけんどぞうつき  これ にていちねんかりだいじゅうりょうくらい


土蔵 なきハ五六 両  なり此 地ハ借  家ニて竃

どぞうなきはごろくりょうなりこのちはしゃくやにてかまど


金 とて一 年 尓三 十  匁 宛 上 ヨリ被下  と云 地主

かねとていちねんにさんじゅうもんずつかみよりくださるというじぬし


ハ三 四百  目上 ヨリ被下  亦 勝 屋町  ニおらん多

はさんしひゃくめかみよりくださるまたかつやちょうにおらんだ


舩 の圖唐 人 屋しき能づなど賣ル者 之(コレ)も二

ふねのずとうじんやしきのずなどうるもの  これ もに


人 扶持ヲ取 と云 総 て此 類 イ多 し是 ハ昔 シ唐

にんぶちをとるというすべてこのたぐいおおしこれはむかしとう


人 おらん多尓直 商  ヒせし時 尓其 後直キ尓

じんおらんだにじかあきないせしときにそのごじきに


交 易 春る事 を禁 し多る尓其 者 共 渡世(トセイ)

こうえきすることをきんじたるにそのものども   とせい


なり兼 故 ニ其 者 を色 \/役(ヤク)人 として扶持を

なりかねゆえにそのものをいろいろ  やく にんとしてふちを


下 され多り此 日おらん多乗 切り夜 ニ入 石 火矢

くだされたりこのひおらんだのりきりよるにいりいしひや

(大意)

(補足)

「おらん多舩の圖唐人屋しき能づなど賣ル者」、長崎絵(ながさきえ)は、江戸時代に長崎で版行された浮世絵版画である。長崎版画ともいわれる。18世紀半ばから幕末にかけて版行された。

「三四百目」、『め。㋐ 秤(はかり)で計った量。重さ。「―減り」㋑ 重さの単位。匁(もんめ)。「百―」』

「役(ヤク)人」、役が彼にみえます。

 江漢さん、長崎絵にはあまり関心がなさそうです。江戸の錦絵に比べると、紙が粗悪で色使いも数色で、華やかさにかけたところがあるのでしょうけど、絵師たちの腕が今ひとつだったこともあるかもしれません。

 

2025年7月29日火曜日

江漢西遊日記五 その3

P3 東京国立博物館蔵

(読み)

二 日天 氣陬防能社  へ参 詣 春此 地の大 社

ふつかてんきすわのやしろへさんけいすこのちのたいしゃ


なり利助 方 へ行ク江戸會 所 も参 ル酒 吸 物

なりりすけかたへゆくえどかいしょもまいるさけすいもの


蕎麦を出ス義太夫 浄  瑠理を聞ク長 崎 人

そばをだすぎだゆうじょうるりをきくながさきじん


能浄  畄里を初 メてきく

のじょうるりをはじめてきく


三 日天 氣近 日 此 地を出  立 せんとて舩 ニ乗り

みっかてんききんじつこのちをしゅったつせんとてふねにのり


かえるべしとて聞ク尓大 坂 迄 舩 賃 雑 用 共 ニ

かえるべしとてきくにおおさかまでふなちんざつようともに


一 人 前 七 十  五匁  と云 ボーフラスコ壱 本 ニ付キ

いちにんまえななじゅうごもんめというぼーふらすこいっぽんにつき


六 十  四 文 六 七 本 買フ唐 人 の帽 子亦 下官(クワン)

ろくじゅうよんもんろくしちほんかうとうじんのぼうしまたげ  か ん


能タツ帽 其 比 嶋 縮 面 ヤスシ四五疋 買

のだつぼうそのころしまちりめんやすししごひきかう


三 日天 氣よし松 十  郎 家 ハ四 軒 口 奥 行キ

みっかてんきよしまつじゅうろういえはよんけんぐちおくゆき

(大意)

(補足)

「二日」、天明8年11月2日。西暦1788年11月29日。

「陬防」、諏訪。「浄瑠理」、「浄畄里」、浄瑠璃。「嶋縮面」、縞縮緬。誤字ではありますが、この日記全般にわたって言えることでもあるのですけど、意識的に異なる漢字を当てはめているようにおもえます。

 熟語でも単語でも言い回しでも、おなじ音の文字が続くと、変体仮名を使ったり、同じ音の漢字を当てはめたりと、おなじ文字の繰り返しは野暮という気持ちがあるように見受けられます。

「大坂迄舩賃雑用共ニ一人前七十五匁」、『江戸時代中後期において、金一両は銀六〇匁に相当。金一両は現代で約75,000円』とあって、しかし金一両の価値は江戸時代の中でも大きく変動していて、実際どのくらいであったかを換算するのは難しい。何が買えたかを調べるほうが金銭感覚としてわかりやすい。単純に計算すると約¥94000円。一気に大阪まで行けて便利だけどやはり運賃はそれなりで高い。

「疋」、『① 布帛(ふはく)(綿・麻布と絹布。織物。)の長さの単位に用いる。「幾―ともえこそ見わかね秋山の紅葉の錦」〈後撰和歌集•秋下〉』。一疋(びき)は布地二反。

 街なかの観光が続きます。

 

2025年7月28日月曜日

江漢西遊日記五 その2

P2 東京国立博物館蔵

(読み)

を吾カ前 へ差 出しご自由 ニお取 と云 故

をわがまえへさしだしごじゆうにおとりというゆえ


ニ肴  を取 喰ヒ个れハあと尓て聞ケハ肴  を取り

にさかなをとりくいければあとにてきけばさかなをとり


喰フハ甚  タ失 禮 とぞ先 主 人 能方 ヘ硯  蓋

くうははなはだしつれいとぞまずしゅじんのほうへすずりばこ


を返 シ取 て下 されと云 ハ左様 ならハ御免 と云

をかえしとってくだされといえばさようならばごめんといい


て主 人 肴  を取 てくれる是 長 崎 の禮 なり

てしゅじんさかなをとってくれるこれながさきのれいなり


十  一 月 朔 日 天 氣長 崎 ハ暖(アタゝ)なる土地ニて

じゅういちがつついたちてんきながさきは  あたた なるとちにて


此 節 綿 入 小袖 ノ上 へ袷  小袖 を重  其 上 へ

このせつわたいれこぞでのうえへあわせこそでをかさねそのうえへ


薄 き綿 入 羽織 ニて宜 し手足 ツメタキ事

うすきわたいれはおりにてよろしてあしつめたきこと


なし冬 中  コタツハなき者 多 し爰 ハ至  て

なしふゆじゅうこたつはなきものおおしここはいたって


せまき処  ニて空 腹 ニなりても途中  ニ喰 店 ナシ

せまきところにてくうふくになりてもとちゅうにくうみせなし

(大意)

(補足)

「十一月朔日」、天明8年11月1日。西暦1788年11月28日。

「袷小袖」、文章では「彳」+「合」になっていいますけど、ながれから「袷」でしょう。

 江漢さん、長旅の疲れを、長崎ではどこへゆくということもなく、飲み食いのんびりと過ごしている模様です。

 

2025年7月27日日曜日

江漢西遊日記五 その1

P1 東京国立博物館蔵

(読み)

廿   九日 天 氣昼 ヨリ勝 木利 助 方 ヘ参 ル同 道 シテ

にじゅうくにちてんきひるよりかちきとしすけかたへまいるどうどうして


ブタ煮て商  フ家 アリと云 故 尓行 シニなし夫

ぶたにてあきなういえありというゆえにゆきしになしそれ


より何 ヤラ埒 もなき人 能家 尓入 り寺 能隠 居

よりなにやららちもなきひとのいえにはいりてらのいんきょ


能様 なる者 と酒 を呑ミ利助 大 酔 して夜半

のようなるものとさけをのみりすけおおよいしてやはん


宿 へ帰 ル尓利助 ハう多をう多ひ酔 てた王ひなし

やどへかえるにりすけはうたをうたいよいてたわいなし


一 向 尓帰 り路 知れ春゛夜半 路 を聞ク人 なし誠

いっこうにかえりみちしれず やはんみちをきくひとなしまこと


尓迷 惑 し然  共 生 酔(ナマヨイ)本 性  多か王春゛とて

にめいわくししかれども    なまよい ほんしょうたがわず とて


竟 尓宿 ニ帰 りぬ夜更(ヨフケ)个連ハ利助 方 ニ泊 ル

ついにやどにかえりぬ   よふけ ければりすけかたにとまる


晦 日天 氣玉 屋と云 ビイドロ細 工能処  へ行キ板 ヒイ

みそかてんきたまやというびいどろざいくのところへゆきいたびい


トロノ伝 授 春酒 吸 物 硯  婦多を出春硯蓋(フタ)

どろのでんじゅすさけすいものすずりぶたをだす   ふた

(大意)

(補足)

「廿九日」、天明8年10月29日。西暦1788年11月26日。

「晦日」、『みそか【晦日・三十日】

① (「晦日」と書く)暦の月の最後の日。月末。

② 日の数三〇。また,連続したその期間。さんじゅうにち。「日の経ぬる数を,けふいくか,はつか,―と数ふれば」〈土左日記〉

③ 暦の月の三〇番目の日。さんじゅうにち。「十一月の―ばかりより急ぎ給ふ」〈落窪物語〉』

「ビイドロ細工能処へ行キ板ヒイトロノ伝授春」、長崎ではビイドロ絵(ガラス絵)はおそくとも安永(1772〜80)の頃には始められ、長崎人制作の絵が唐人屋敷やオランダ屋敷へ持ち込まれたといわれている。ここで伝授された江漢は、はやくも帰路、2月9日には岡山の知人宅でビイドロ絵をかいている。とありました。

「硯蓋」、『すずりぶた【硯蓋】

① 硯箱の蓋。昔は,いろいろの物をのせるのにも用いた。

② 祝いの席などで,口取りの肴(さかな)をのせる盆状の器。また,それに盛った肴。八寸』

 長崎へは画の修行のためでありましたが、じつはさほどの学びもありませんでした。しかしまずは一番最初のビイドロ絵をものにして、満足であったはずであります。

 

2025年7月26日土曜日

江漢西遊日記四 その69

P79 東京国立博物館蔵

(読み)

氣能毒 ニぞんじ白 砂糖 三 俵  宛 奇(キ)心 い多

きのどくにぞんじしろざとうさんぴょうずつ  き しんいた


春べし然 し住  僧 能身持 不宜     ハ無用 尓

すべししかしじゅうそうのみもちよろしからざればむように


い多春べしと通 詞ヨリ住  寺尓申  聞ケル僧

いたすべしとつうじよりじゅうじにもうしきけるそう


頭  を低(タレ)耻(ハチ)入 个り惣 て此 長 崎 能寺 ゝ ハ

かしらを  たれ   はじ いりけりすべてこのながさきのてらでらは


とかく妾  を招(カゝ)へ肉 喰  など恒 と春故 ニヤ

とかくめかけを  かか えにくしょくなどつねとすゆえにや


かく云 しなり唐 人 能墓(ハカ)アル故 一 年 尓何ン

かくいいしなりとうじんの  はか あるゆえいちねんになん


貫 目と定 メ砂糖 を寄心 春る事 なり

かんめとさだめさとうをきしんすることなり


唐 人 塚 能前 ニて衣類 金 銀 を描(カキ)多るを

とうじんづかのまえにているいきんぎんを  かき たるを


板 行 ニ押(ヲシ)多る紙 を燃(モス)盃   をチユポイと云フ

はんこうに  おし たるかみを  もす さかずきをちゅぽいという


目か年など見ル事 をハカン\/と云フ

めがねなどみつことをばかんかんという

(大意)

(補足)

「奇(キ)心」、寄進。

「住寺」、住持。

「招(カゝ)へ」、抱え。

「寄心」、寄進。

 江漢さんは坊様が大嫌い。当時長崎には生臭坊主がゴロゴロしていたのでありましょう。

 これで第四冊がおわります。次回から「江漢西遊日記五」となります。

 

2025年7月25日金曜日

江漢西遊日記四 その68

P78 東京国立博物館蔵

(読み)

管弦(クワンゲン)能氣取 なり寺 能門 ニ至 ルと止メる也

   か んげん のきどりなりてらのもんにいたるととめるなり


誠  尓飴 賣 能如 し唐 人 下官 ノ者 多 し其

まことにあめうりのごとしとうじんげかんのものおおしその


内 能キ人 ハ十  人 之(コレ)を船 頭 と呼フ宋 敬 庭

うちよきひとはじゅうにん  これ をせんどうとよぶそうけいてい


と云 人 尓知己(シルヒト)ニなる是 ハ五十  位  尓見へ髭(ヒケ)少々

というひとに   ひるひと になるこれはごじゅうくらいにみえ  ひげ ショウショウ


あり其 餘 ハひげなし亦 西 湖と云 人 ハ四十  位

ありそのほかはひげなしまたせいこというひとはしじゅうくらい


ニして是 は肥(コヘ)多る人 なり顔 色 利口 そふ尓見

にしてこれは  こえ たるひとなりかおいろりこうそうにみ


由予カ製 春る銅 版 画能覗(ノソキ)目か年を見セ

ゆよがせいするどうはんがの  のぞき めがねをみせ


けれハ皆 々 感 心 春るシツポコ臺 四人 結(ツメ)ニて

ければみなみなかんしんするしっぽこだいよにん  つめ にて


吾 も共 尓喰ヒ个り住  僧 唐 人 尓無心 を申  故

われもともにくいけりじゅうそうとうじんにむしんをもうすゆえ


数 十  人 呼(ヨヒ)多り唐 人 の云フニハ寺 も大 破ニ及 べ里

すうじゅうにん  よび たりとうじんのいうにはてらもたいはにおよべり

(大意)

(補足)

「宋敬庭」、宋敬亭。南京船主。平賀源内が明和元(1764)年に秩父で石綿を発見し、すぐに火浣布(かかんふ)をつくった。宋敬亭はこれを非常に珍しがり、注文したが、まだ小片しかつくれず源内を困らせた、とありました。

「西湖」、費 晴湖(ひ せいこ、生没年不詳)は清の商人・画家。江戸時代中期、日本に渡来し南宗画様式の画技を伝える。わが国の画壇に寄与すること甚だ大きかった、とありました。

「結(ツメ」、詰め。