2025年9月30日火曜日

江漢西遊日記五 その66

P73 東京国立博物館蔵

(読み)

廿   三 日 朝 霰  婦る寒 し主 人 云 此 六 月 四 日

にじゅうさんにちあさあられふるさむししゅじんいうこのろくがつよっか


能夜 の事 なり平 戸足 軽 能うち嫁 を取

のよるのことなりひらどあしがるのうちよめをと


里婿(ムコ)入 ニ参 り親族(シンソク)八 人 舟 ニ乗里酒 を

り  むこ いりにまいり   しんぞく はちにんふねにのりさけを


呑 多る尓や田助 浦 能海 尓落 テ死尓个る

のみたるにやたすけうらのうみにおちてしにける


とぞ内 十  四五能者 と舩(セン)頭 二 人助 カ里

とぞうちじゅうしごのものと  せん どうふたりたすかり


个る兎角 舩 ハ危(アヤウ)き故 能らぬ可よし此 節 江戸

けるとかくふねは  あやう きゆえのらぬがよしこのせつえど


ハ嘸 サワガシかるべし此 嶋 ハ至  て閑(シツカ)なり

はさぞさわがしかるべしこのしまはいたって  しずか なり


廿   四 日天氣 風 婦春ま尓鶏 を認  メる此 日

にじゅうよっかてんきかぜふすまにとりをしたためるこのひ


鯨  両  三 度来ル各 \/不得当 年 ハ至  て

くじらりょうさんどくるおのおのえずとうねんはいたって


不鯨(フリヨウ)と云

   ふりょう という

(大意)

(補足)

「廿三日」、天明8年12月23日。1789年1月18日。

「六月四日」、天明8年6月4日。1788年7月7日。

「嘸」、「さぞ」で漢字変換すると出てきます。

「当年ハ至て不鯨(フリヨウ)と云」、1789年は世界的に天候不順で凶作、海流も常とは異なり、どこも不漁だったのかもしれません。

 

2025年9月29日月曜日

江漢西遊日記五 その65

P72 東京国立博物館蔵

(読み)

ても三 十  余日 かゝ里申  候   とて笑 ヒ个連

てもさんじゅうよにちかかりもうしそうろうとてわらいけり


其 様 なる時 ハ酒 を呑 可゛宜 しとて酒 呑 で

そのようなるときはさけをのむが よろしとてさけのんで


妻 子能事 を毛忘(ワスレ)多り

さいしのことをも  わすれ たり


廿 日又 曇 ル画を認  メかゝ里し尓兎角 癪

はつかまたくもるえをしたためかかりしにとかくしゃく


氣胸(ムネ)塞(フサキ)氣分 あしゝ夫(ソレユヱ)休 ム

け  むね   ふさぎ きぶんあしし  それゆえ やすむ


廿   一 日 曇 ル今 日不快 主 人 ハ平 戸へ渡 ル跡(アト)

にじゅういちにちくもるきょうふかいしゅじんはひらどへわたる  あと


ニて鯨  来ルよし此 日暖 氣

にてくじらくるよしこのひだんき


廿   二日 曇 ル昼(ヒル)比 鯨  来ルと云 新 四郎 と山 尓

にじゅうににちくもる  ひる ころくじらくるというしんしろうとやまに


登 り見る尓鯨  あな多こな多出て潮 を吹ク

のぼりみるにくじらあなたこなたでてしおをふく


舟 六 七 艘 ニて追(ヲ)フ天 氣となる

ふねろくしちそうにて  お うてんきとなる

(大意)

(補足)

「廿日」、天明8年12月20日。1789年1月15日。

「癪」、『物事が気にいらなくて,気持ちがむしゃくしゃする・こと(さま)。「運動会というのに―な雨だ」』。本文の漢字は「疒」+「責」。フォントなしでした。

「胸」には「胷」という異体字がありますが、本文のような「腸」に似た漢字はくずし字のもありませんでした。

 江漢さん酒を飲んでも気が晴れることなく、また画をしたためても気分のることなく休んでしまいました。躁鬱気質の人であることは、ここまで日記を読んでくればわかることですけど、旅はまだまだ続きます。

 

2025年9月28日日曜日

江漢西遊日記五 その64

P71 東京国立博物館蔵

(読み)

十  八 日 昨 夜ヨリ雨 風 アラレ終  日 止マ春゛鯨  能腹(ハラワタ)を

じゅうはちにちさくやよりあめかぜあられしゅうじつやまず くじらの  ハラアワタ  を


色 \/尓して喰(シヨク)春。古れハ他所尓無 物 なり

いろいろにして  しょく す これはよそになきものなり


十  九日 風 少  々  ヤム此 邊 能風 土兎角 此ノ

じゅうくにちかぜしょうしょうやむこのへんのふうどとかくこの


節 時雨 七 八 日 續 キ其 うちハ手  水鉢(ハチ)能内

せつしぐれしちはちにちつづきそのうちはちょうず  ばち のうち


ひ志ヤく氷  付 雪 霰  降 といえど不積  只タ

ひしゃくこおりつくゆきあられふるといえどつもらずただ


地の白 くなる能ミ亦 天 氣となると誠  尓三

ちにしろくなるのみまたてんきとなるとまことにさん


月 能如 く綿 入 小袖 一 ツニて宜 し誠  尓長(ノ)

がつのごとくわたいれこそでひとつにてよろしまことに  の


閑(トカ)なり此 嶋 能淋 しき処  尓数 日 畄 マ里て

  どか なりこのしまのさみしきところにすうじつとどまりて


風(フ)与(ト)故 郷 の事 を思 ヒ出し頻 り尓帰 り度シ

  ふ   と ふるさとのことをおもいだししきりにかえりたし


主 人 又 之助 へ話 シ个連ハ只 今 からお立 尓

しゅじんまたのすけへはなしければただいまからおたちに

(大意)

(補足)

「十八日」、天明8年12月18日。1789年1月13日。

「手水鉢」、原文では「鉢」はどうみても「体」。

 江漢さん、やはりホームシックにかかってしまいました。こんなにクジラ漁やとった鯨に登ったり、鯨の解体工房を見学したり、たくさん興味深いことがあるのに、故郷や家族、友人を思う心は頭の中ではそれらとは異なる部分にあるようです。

 鯨漁でみたシャチや鳥の画が「西遊旅譚四」にあります。 

 ライ鳥はちょっと乱暴に描かれているよう気がしますが、やはり絵師、うまいです。

 

2025年9月27日土曜日

江漢西遊日記五 その63

P70 東京国立博物館蔵

(読み)

セミ鯨  十 間 余  ノ者 油  二百  樽。金 ニして四 百

せみくじらじっけんあまりのものあぶらにひゃくたるかねにしてよんひゃく


両  なり鯨  尓春多る所  なし骨 煎 し多るから

りょうなりくじらにすたるところなしほねせんじたるから


毛砂糖(サトウ)の中 ニ入 ルと云 筋 ハ唐 弓 絃(ツル)ニなるナリ

も   さとう のなかにいれるというすじはからゆみ  つる になるなり


口 中  尓あるヱラ之(コレ)ハ鯨  のヒレと云ツて色 \/細 工

こうちゅうにあるえら  これ はくじらのひれといっていろいろさいく


物 尓なる只 春多る物 ハ耳骨 能ミコレハ大 キサ

ものになるただすたるものはじこつのみこれはおおきさ


六 七 寸 シヤコ貝 能如 キも能也 予(ワレ)二 ツ三ツひ

ろくしちすんしゃこがいのごときものなり  われ ふたつみつひ


ろゐて持チ帰 りぬ此 日も鯨  来 ル事 二度なり

ろいてもちかえりぬこのひもくじらきたることにどなり


各 \/不得大 魚  と雖   大 海 ニて小魚  能如 し

おのおのえずたいりょうといえどもたいかいにてこざかなのごとし


十  度ニ一 度も得る事 可多し晩 景 舟 ニて本 宅

じゅうどにいちどもうることがたしばんけいふねにてほんたく


へかえ里ぬ

へかえりぬ

(大意)

(補足)

「絃(ツル)」、弦。

「骨煎し」、西遊旅譚四に骨を砕いている図があります。説明に「油を煎春゛」とあります。こちらの文中では「砂糖の中に入ル」とありますが、砂糖は貴重品だったので骨粉でかさ増ししたのでしょうか、まさか・・・

「ヱラ之(コレ)ハ鯨のヒレ」、西遊旅譚4の図、大きな櫛のようなものを担いで運んでいます。江戸時代にからくり人形というものがありましたが、その動力にはゼンマイがあって、鯨のヒゲが使われていました。 

 耳骨を拾って、お土産記念品にする江漢さんはやはり、もの好きというか、珍品好きというか好奇心旺盛であります。

 

2025年9月26日金曜日

江漢西遊日記五 その62

P69 東京国立博物館蔵

(読み)

鯨  を解く各(ヲノ)\/長刀(ナキナタ)能如 キ物 を持 て鯨  の背(セ)

くじらをとく  おのおの    なぎなた のごときものをもちてくじらの  せ


に能ほり剪(タチ)切(キル)先ツ両  アゴを切 落 シ頭  の上

にのぼり  たち   きる まずりょうあごをきりおとしあたまのうえ


を切ル夫 ヨリ尾の方 を切リ又 背を切り両  脇 を

をきるそれよりおのほうをきりまたせをきりりょうわきを


切り落 春頭  を切 て各 \/万 力 車 ニて引 なり

きりおとすあたまをきりておのおのまんりきしゃにてひくなり


夫 よりしてハ腹(ハラハタ)骨(ホネ)尓ニ至 ル人 夫納屋へ荷(ハコブ)

それよりしては  はらわた   ほね に いたるにんぷなやへ  はこぶ


肉 納屋骨 納屋腹 納屋アリ亦 大 工小

にくなやほねなやはらなやありまただいくご


屋鍛冶(カチ)小屋桶 屋小屋舟 大 工小屋アリ

や   かじ ごやおけやごやふなだいくごやあり


さて鯨  の肉 骨 を納屋能内 ニて数 十  人 の

さてくじらのにくほねをなやのうちにてすうじゅうにんの


人 ニてコマカク切り大 釜 ニ入レて油  を煎 春゛

ひとにてこまかくきりおおがまにいれてあぶらをせんず


十  七 竈(カマト)あり前 ニ大 樋(トユ)あり土蔵 の内 へ流(ナカス)

じゅうしち  かまど ありまえにおお  とゆ ありどぞうのうちへ  ながす

(大意)

(補足)

 「西遊旅譚四」の「肉納屋之圖」。こちらでは竈(かまど)は十八となっています。

「樋(トユ)」、『「とい(樋)」の転』。「とよ」とも。

 島なので、どんなことでも対応処置できるように、工場のようにすべての工房をそなえてます。明治まで続いて、にぎわったというのですから、その企業力と人材力は今でも通じるようにおもいます。

 

2025年9月25日木曜日

江漢西遊日記五 その61

P68 東京国立博物館蔵

(読み)

之助 云へ里何奈(イカン)となれハ大潮(シヲ)なれハ鯨  此 岸(キシ)

のすけいへり   いかん となればおお しお なればくじらこの  きし


尓より多り亦 夜 ニなり多れハ明  朝  切 解ク事 なり

によりたりまたよるになりたればみょうちょうきりとくことなり


此 時 せつ尓得(ウ)る事 此 嶋 尓両  三 度ニ不過

このときせつに  う ることこのしまにりょうさんどにすぎず


鯨  ハセミとて第 一 番 能上  品 なりとぞ鯨  者゛ん

くじらはせみとてだいいちばんのじょうしななりとぞくじらば ん


尓申  付 今 夜九   時 尓起 春べしと夫 より納屋ニ

にもうしつけこんやここのつどきにおこすべしとそれよりなやに


泊 ル一ト寝(ネ)入 春る将(ハタ)して番 人 声 を揚 て起

とまるひと  ね いりする  はた してばんにんこえをあげておこ  


春出て見るに満 月 照 シて潮 干(ヒイ)て鯨  全

すでてみるにまんげつてらしてしお  ひい てくじらぜん


身(シン)をあら王し大 キサ十  五間 能瀬美(セミ)鯨

  しん をあらわしおおきさじゅうごけんの   せみ くじら


なりき

なりき


十  七 日 明 七 ツ時 より人 足 数 十  人 タイ松 を照 シ

じゅうしちにちあけななつどきよりにんそくすうじゅうにんたいまつをてらし

(大意)

(補足)

「せつ尓得(ウ)る事」、節(せつ)は鯨を解体していくつかの塊にしたそのうちの一つということでしょうか?しかし次の文章にうまくつながらず意味がちと不明であります。

「大キサ十五間」、約27m、大きいです。学校のプールからすこしはみ出すくらいの大きさ。

「十七日」、天明8年12月17日。1789年1月12日。

「明七ツ時」、明け方4時。

 何回か前に江漢さんが鯨の背に登っている圖をアップしてあります。 

2025年9月24日水曜日

江漢西遊日記五 その60

P67 東京国立博物館蔵

(読み)

の腹(ハラ)能方 へま和里て鯨  を釣 あけるなり此

の  はら のほうへまわりてくじらをつりあげるなりこの


働(ハタラ)き誠  尓危(アヤウ)き事 い王ん方 なし夫 よりして

  はたら きまことに  あやう きこといわんかたなしそれよりして


舩 二艘 尓丸 太を二本 横 に渡 して鯨  を

ふねにそうにまるたをにほんよこにわたしてくじらを


津里其 舟 を引 船 に春鯨  も未 タ死セ春゛して

つりそのふねをひきぶねにすくじらもいまだしせず して


供(トモ)尓共 尓鰭(ヒレ)を動 カして岸 尓着(ツク)之 を持(モツ)双(ソウ)と

  ともにともに ひれ をうごかしてきしに つく これを もつ  そう と


云 鯨  沖 尓て死 ル時 ハ沈(シヅミ)て浮(ウカハ)春゛之(コレ)を死も里

いうくじらおきにてしぬるときは  しずみ て  うかば ず   これ をしもり


と云フ故 ニ此 可け引(ヒキ)六 ケ敷 我 等可舩 ハ先 ヘ帰

というゆえにこのかけ  ひき むずかしくわれらがふねはさきへかえ


里鯨  ハ夜 の四 時 前 尓着  岸 春爰 ハ三崎 とて

りくじらはよるのよつどきまえにちゃくがんすここはみさきとて


鯨  を解ク所  なり宅 より一 里東  ノ方 なり此 鯨

くじらをとくところなりたくよりいちりひがしのほうなりこのくじら


ハ誠  尓先 生 ニ見せん為 に取レ多ると主 人 又

はまことにせんせいにみせんためにとれたるとしゅじんま

(大意)

(補足)

「供(トモ)尓」、この「トモ」は「とも【艫・艉】船尾。船の後部」のことでしょうか。

「持双」、『 江戸時代の捕鯨に用いられた漁船の一種。捕えた鯨を運漕する船で、二艘の船に太い柱を渡して組船とし、その間に捕えた鯨を結びつけて漕ぐもの』。

「六ケ敷」、古文書のくずし字を学ぶときに、必ず出てくるもののひとつ。

「夜の四時」、夜の10時頃。

「三崎」、「西遊旅譚四」に三崎の浜での「鯨切解圖」があります。

 若かりし頃、はじめて働き出した職場の大先輩がもとは捕鯨船の通信士でした。戦争に負けて海外に出ることが禁じられていた時代、食糧事情もあったのでしょうが、船団を組んで海外に一番最初に働きでたのが捕鯨船団でした。船首に付いた銛をズドンと撃って鯨をしとめます。

 このようなフィルムはいくどとなく見てきましたが、江漢さんが見たような鯨漁はやって見せるにしても、あまりにも危険なので再現もできないのでしょう。

 あんなでかい生き物を狩猟しようという人間たちがやはり一番危険な生き物であるようです。

 

2025年9月23日火曜日

江漢西遊日記五 その59

P66 東京国立博物館蔵

(読み)

鯨  之背(セ)尓乗(ノリ)付 ル可如 く鯨  を隔(ヘタ)つ事 僅  に二

くじらの  せ に  のり つけるがごとくくじらを  へだ つことわずかにに


間 三 个゛んなり此 鯨  十  七 本 予宗をうつ故 尓

けんさんげ んなりこのくじらじゅうななほんもりをうつゆえに


十  七 艘 舟 を引く次第 二鯨  よ王里て潮 を

じゅうななそうふねをひくしだいにくじらよわりてしおを


不吹 して氣能ミ吹く爰 尓於 て剱(ケン)と云 物

ふかずしてきのみふくここにおいて  けん というもの


を打ツ舟 三 艘 宛 鯨  能左右 ニアリて打ツ事

をうつふねさんそうずつくじらのさゆうにありてうつこと


数 度なり爰 ニ於 て鯨  大 ヒ尓よ王里多る時

すうどなりここにおいてくじらおおいによわりたるとき


一 人鯨  の頭(アタマ)潮 吹キ能処  へ登 り手に刃  と大 づ

ひとりくじらの  あたま しおふきのところへのぼりてにやいばとおおづ


なとを持チ爰 ニ穴 を穿(ウカチ)其 綱(ツナ)を通 春鯨

なとをもちここにあなを  うがち その  つな をとおすくじら


ハ其 間 タ幾 度となく海 尓入 多り亦 あら王れ

はそのあいだいくどとなくうみにいりたりまたあらわれ


多り春亦 一 人ハ海 へ飛 入リ大 綱 を持ツて鯨

たりすまたひとりはうみへとびいりおおづなをもってくじら

(大意)

(補足)

 鯨に舟をよせ、銛をうち、鯨の体に綱を取り付ける、まるで実況放送で、江漢さん実に細かくよく見ています。

 

2025年9月22日月曜日

江漢西遊日記五 その58

P65 東京国立博物館蔵

(読み)

沖 能方 ニて頻(シキリ)尓旗(ハタ)を以 テま袮く晩 七  時 なり

おきのほうにて  しきり に  はた をもってまねくばんななつどきなり


朝 ヨリ一 椀 の飯 能ミ尓して舟 尓もまれ舟 心 地

あさよりひとわんのめしのみにしてふねにもまれふなごこち


して氣分 あしゝ然  とも舟 ハ大 嶋 能方 へ\/ と

してきぶんあしししかれどもふねはおおしまのほうへほうへと


八 ちよう艪(ロ)尓して飛フ可゛如 くかけ声 ハアリヤ\/ \/

はっちょう  ろ にしてとぶが ごとくかけごえはありゃありゃありゃ


走 ル氣分 以外 あしき故 尓魚予宗(モリ)尓付き多る綱(ツナ)

はしるきぶんいがいあしきゆえに    もり につきたる  つな


能内 尓伏春凡(ヲヨソ)四里程 も走 り多る時 首 を揚(アケ)

のうちにふす  およそ しりほどもはしりたるときくびを  あげ


見るに鯨  浪 の中 より踊(ヲトリ)出潮(ウシヲ)を吹キ亦 海

みるにくじらなみのなかより  おどり で  うしお をふきまたかい


底(テイ)へ入 其 廻(メクリ)尓舟 七 八 艘 取 巻く主 人 亦

  てい へいるその  めぐり にふねしちはっそうとりまくしゅじんまた


之助 鯨  取レ多り\/  と云 声 尓氣分。ハキと快   く

のすけくじらとれたりとれたりというこえにきぶんはきとこころよく


なり見 物 春るに予宗(モリ)尓柄あり綱(ツナ)ありて舟 ヲ

なりけんぶつするに   もり にえあり  つな ありてふねを

(大意)

(補足)

「晩七時」、夕方の16時頃ですけど、西暦ではすでに1月中旬ですので暗いはずです。

「氣分以外あしき」、以外は意外。

「魚予宗」、モリとフリガナがあります。「予宗」はこれで一文字ですけどフォントがありませんでした。

 「鯨漁之圖」、

 江漢さん一行はこのような舟で見物したことでしょうけど、これは恐ろしいでしょうね。

西遊旅譚四より「魚予宗之圖」。 


 

2025年9月21日日曜日

江漢西遊日記五 その57

P64 東京国立博物館蔵

(読み)

し四国 能藝 者 参り 見物(ケンフツ)尓行ク満里ノ曲  力  持

ししこくのげいしゃまいり   けんぶつ にゆくまりのきょくちからもち


皆 感 し个る

みなかんじける


十  五日 天 氣新 四郎 頼  能牡丹 能画出来キ

じゅうごにちてんきしんしろうたのみのぼたんのえでき


上 ル夜 尓入 三 人 して狂  言 などし大 笑  春る

あがるよるにいりさんにんしてきょうげんなどしおおわらいする


十  六 日 天 氣朝 起キると鯨  来  ト知 せる吾 等

じゅうろくにちてんきあさおきるとくじらきたりとしらせるわれら


此 間  尓こ里鯨  舟 ニハ能るましきと思 ヒし尓サア\/

このあいだにこりくじらふねにはのるまじきとおもいしにさあさあ


とセリ立テ个連ハ飯 尓水 をかけ一 椀 喰ヒ夫 な

とせりたてければめしにみずをかけひとわんくいそれな


里尓舟 ニ乗ル能る可゛早 ヒ歟艪(ロ)を押 可゛疾(ハヤヒ)可誠

りにふねにのるのるが はやいか  ろ をおすが   はやい かまこと


尓矢能如 しあな多こな多と漕(コク)鯨  何ツ方 へ

にやのごとしあなたこなたと  こぐ くじらいずかたへ


可行 て見へ春゛故 ニ舟 を生 月 ニ返 さんと春る時 ニ

かゆきてみえず ゆえにふねをいきつきにかえさんとするときに

(大意)

(補足)

「十五日」、天明8年12月15日。1789年1月10日。

「あなたこなた」、『あなたこなた【彼方此方】あちらこちら。あちこち。「三々五々―に群処せり」〈浮城物語•竜渓〉』

 前回鯨舟にのったとき、やはり江漢さんたちは船酔いになって、「吾等此間尓こ里鯨舟ニハ能るましき」とおもっていたのですけど、「サア\/とセリ立テ」られて、ふたたび鯨舟にのり漁を見物することになってしまいました。

 

2025年9月20日土曜日

江漢西遊日記五 その56

P63 東京国立博物館蔵

(読み)

カコ六 人 ニして艪(ロ)を押(ヲ)春走 る事 誠(マコトニ)矢の如 し

かころくにんにして  ろ を  お すはしること  まことに やのごとし


風 柔(ヤハラ)可尓して浪 なし只 う袮里と云 て山

かぜ  やわら かにしてなみなしただうねりといいてやま


能如 く尓なるなりタカマツ潮 を吹くタカマツ来 リ

のごとくになるなりたかまつしおをふくたかまつきたり


てハ鯨  不居 夫[タカマツハ鯨 ヲ喰フ魚 ナリ]より生 月 能方 へ古ぎよせて

てはくじらおらずそれたかまつはクジラをくううおなり よりいきつきのほうへこぎよせて


返 り个る尓さて鯨  舟 ハ婦なべ里ヲトン\/と頻(シキリ)

かえりけるにさてくじらふねはふなべりをとんとんと  しきり


尓打ツ事 なり其 音 海 底 ヘ響(ヒゝキ)て鯨  を驚(ヲドロカス)

にうつことなりそのおとかいていへ  ひびき てくじらを  おどろかす


なり舟 中  より地續 キ能方 を望 ム尓誠  尓

なりせんちゅうよりじつづきのほうをのぞむにまことに


支那(カラ)能地可と訝(ウタカハ)連个り此 日爰 の春ゝ取 能

   から のちかと  うたがわ れけりこのひここのすすとりの


祝 イとて生 酢などして春ゝハ不取

いわいとてなますなどしてすすはとらず


十  四 日亦 雨 バラツク新 四郎 方 へ松 本 ニて見(ミ)

じゅうよっかまたあめばらつくしんしろうかたへまつもとにて  み

(大意)

(補足)

「カコ」、『かこ【〈水夫〉・〈水手〉】〔「か」は梶(かじ),「こ」は人の意〕船を操る人。古くは広く船乗り全般をさしたが,江戸時代には下級船員をいった』

「タカマツ」、『「高松鯨」または「高松海馬」とも。日本列島では伝説上の生物「鯱」にちなんだ「シャチ」という標準和名のほかにも、「サカマタ」と「タカマツ」を筆頭に、「シャチホコ」「シャカマ」「タカ」「クジラトウシ」「クロトンボ」「オキノカンヌシ」など多様な別名が存在する』とありました。

 頭注は文化12(1815)年江漢の注釈。この日記は江漢が亡くなるまで出版することなく手元においていたため、本文や注釈をたびたび見直し書き加えています。

「生酢」、『なます【膾・鱠】① 魚や貝,あるいは獣の生肉を細かく切ったもの。また,それを,調味した酢にひたした料理。② 野菜を細かく刻んで三杯酢やゴマ酢などで和えた料理。魚や貝を入れることもある』

「十四日」、天明8年12月14日。1789年1月9日。

 

2025年9月19日金曜日

江漢西遊日記五 その55

P62 東京国立博物館蔵

(読み)

茸(タケ)酢あへ色 \/切 込ミ酢醤  をあ多ゝめて。か

  たけ すあえいろいろきりこみすひしおをあたためて か


ける又 大 根 大 キク切リ胡麻を春里かける外

けるまただいこんおおきくきりごまをすりかけるほか


ニ竒妙  なる事 なし

にきみょうなることなし


十  二日 風 雨寒 し必  ス此 あらし能後 鯨  来ルよし

じゅうににちふううさむしかならずこのあらしののちくじらくるよし


此 節 婦゛里魚 能漁  アリ婦゛里さしミ能如 く

このせつぶ りうおのりょうありぶ りさしみのごとく


切 て箸 尓者さミて下 地をたぎら可して

きりてはしにはさみてしたじをたぎらかして


其 中 へ入 二三ンベンかき囬(マハシ)て喰フなり芹(セリ)

そのなかへいれにさんべんかき  まわし てくうなり  せり


此 嶋 能名 産 夕 方 新 四郎 方 へ行 小豆 か由

このしまのめいさんゆうがたしんしろうかたへゆくあずきがゆ


を喰フ

をくう


十  三 日 天 氣ニなる鯨  見へると云フ鯨  舟 尓能る

じゅうさんにちてんきになるくじらみえるというくじらふねにのる

(大意)

(補足)

 ちょうど頁がまたがってしまいましたけど「平皿尓素麺」、いろいろな具をのせ、お酢や醤(ひしお)(魚醤のような、ほかにいろいろ混ぜて発酵させたもの)をかけ、胡麻をすりかけてのごちそう、現在となんらかわりませんし、この時代のほうがうまそう。

「十二日」、天明8年12月12日。1789年1月7日。

 素麺の次は、ブリシャブです。この時代からあったんですね。食べ方も今とまったく変わりません。芹(せり)のかおりと食感がこれまたたまりません。

「下地」、『④〔吸い物の土台の意〕醬油。また,醬油を主にしただし汁やつけ汁。「割り―」』

 そして、「夕方新四郎方へ行」って、「小豆か由」のデザート。

江漢さん、ごちそう攻めでご機嫌そうです。

 さて、「十三日」、いよいよ「鯨舟尓能」って、漁の見物です。

 

2025年9月18日木曜日

江漢西遊日記五 その54

P61 東京国立博物館蔵

(読み)

を認(シタゝ)メる其 比ロ筑(チク)前 より左右 治とて表  具

を  したた めるそのころ  ちく ぜんよりさゆうじとてひょうぐ


紙細 工能法 師来 リ居 て襖  ツイ立 なと張

しざいくのほうしきたりおりてふすまついたてなどは


里个る此 坊 尺  八 を吹キ又 之助 三 弦 を弾(ヒ)く

りけるこのぼうしゃくはちをふきまたのすけさんげんを  ひ く


新 四良 哥 う多ふ夜 の九   時 迄 話 ス

しんしろううたうたうよるのここのつどきまではなす


十 日同  ク時 雨此 嶋 流 レ三 里人 家僅  ニして

とおかおなじくしぐれこのしまながれさんりじんかわずかにして


皆 漁 夫野人 ニして此 三 人 ニして話 ス能ミ蕎(ソ)

みなりょふやじんにしてこのさんにんにしてはなすのみ  そ


麦(ハ)を打チ喰  春役 味変 り多る事 なし

  ば をうちしょくすやくみかわりたることなし


十  一 日 時雨 風 烈(レツ)霰  至  て寒 し手足 津免

じゅういちにちしぐれかぜ  れつ あられいたってさむしてあしつめ


多し又 之助 能云フ此 氣候 必  ス鯨  岸 尓よる

たしまたのすけのいうこのきこうかならずくじらきしによる


とぞ此 日佛 事とて平皿(サラ)尓素 麺 尓塩(シヲ)松

とぞこのひぶつじとてひら さら にそうめんに  しお まつ

(大意)

(補足)

「夜の九時」、夜12時。

「十日」、天明8年12月10日。1789年1月5日。

「役味」、薬味。

 尺八、三味線に唄、江漢さんは手拍子で夜の楽しいひとときでありました。きっと♪。

 

2025年9月17日水曜日

江漢西遊日記五 その53

P60 東京国立博物館蔵

(読み)

戊  申  暮 ヨリ己   酉 ノ春 正  月

つちのえさるくれよりつちのととりのはるしょうがつ


四 日四 時 此 嶋 を舟 ニテ

よっかよつどきこのしまをふねにて


乗 出ス又 之助 ト我 等

のりだすまたのすけとわれら


なり皆 々 岸 迄 見送 ル

なりみなみなきしまでみおくる


冬 能旅 先 此 嶋 尓

ふゆのたびまずこのしまに


生月(イキツキ)て春 能平戸(ヒラト)

   いきつき てはるの   ひらど


を明 渡 る舟

をあけわたるふね


筑 前 ノ経  師 左右 治

ちくぜんのきょうじ さゆうじ


此 嶋 ノ人 新 四良

このしまのひとしんしろう


筑 前 ノ商  人 金 兵衛

ちくぜんのしょうにんきんべえ

(大意)

(補足)

「戊申(つちのえさる)」「己酉(つちのととり)」、十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)と十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)を組み合わせた60個は整然と組み合わさって、覚えやすいのですが、それらふたつを組み合わせた訓読みはどうも苦手であります。

「戊申暮ヨリ己酉ノ春」、天明8年西暦1788年暮れより天明9年(寛政元年1月25日〜)西暦1789年の春。

「正月四日」、天明9年1月4日。1789年1月29日。

「四時」、10時頃

 

2025年9月16日火曜日

江漢西遊日記五 その52

P56P57 東京国立博物館蔵

P58P59

(読み)

P56

鯨  ヲカコム図

くじらをかこむず


鯨  二 ツ連レ

くじらふたつつれ


入  勢

はいるいきおい


鮪 見

しびみ


鯨  見

くじらみ


景 嶋

けいしま


網 舟

あみふね


通  舟

とおしふね

P57

潮 ヲ吹ク勢

しおをふくいきおい


三崎 鯨  ヲ切 解 所

みさきくじらをきりとくところ


鮪 網

しびあみ


鮪 見

くじらみ


クジラ見

くじらみ


P58

鯨  ヲ解(トク)所

くじらを  とく ところ


カグラサント云

かぐらさんという


万 力 シヤチ

まんりきしゃち


七ナカラ立ツ

ななからたつ


人 夫四十  程

にんぷしじゅうほど


ニテ肉 ヲ巻キ

にてにくをまき


切ルナリ

きるなり

P59

納屋アリ

なやあり

(大意)

(補足)

「西遊旅譚四」より「鯨を囲圖」。

また、鯨の種類も五頭描いています。 

どの鯨も気のせいではなく、目がやけにリアルです。

 これら5種類のもう少し詳しい内容です。

骨納屋之図。 

肉納屋之図。 

 江漢の生きた時代以降、米国がマッコウクジラ鯨油(街灯や家庭のロウソク、機械の潤滑油、石鹸などの原料)を求めて日本近海にきます。1840年~60年頃までの20年間が全盛期でした。鯨油を樽に蓄え、ほかはみな捨ててしまっていたようです。

 日本の捕鯨はまるまる一頭無駄なく解体して利用しているのがよくわかります。


 

2025年9月15日月曜日

江漢西遊日記五 その51

P54 東京国立博物館蔵

P55

(読み)

コレハ瀬ト云 テ鯨  ノ口 ハタ鼻 ノ先キ

これはせといいてくじらのくちばたはなのさき


鰭 ナドニ付 テアル者 ニテ

しびなどにつきてあるものにて


鯨  ヨリ生  シテ貝 ナリ其

くじらよりしょうじてかいなりその


貝 ニ亦 茸(キノコ)ノ様 ナル者

かいにまた  きのこ のようなるもの


付 テ活(イキ)テ手ノ如 キ者 ヲ

つきて  いき ててのごときものを


ウコカス此 者 瀬美

うごかすこのものせみ


鯨  ニアリ

くじらにあり


大 キサ如図

おおきさずのごとし


コレハ坐頭 鯨  ノ者

これはざとうくじらのもの


菌(キノコ)ノコトキ物

  きのこ のごときもの


油  に揚 テ喰フ

あぶらにあげてくう


生 ヱン ウス色

なまえん うすいろ


足ノ如  キ者

あしのごときもの


コレハ死シテ動  ズ

これはししてうごかず


内 ニ足 ノ如 キ者 アリ

にくにあしのごときものあり


貝 ニ付 テ別 物 ナリ

かいにつきてべつものなり


貝 ハ色 白

かいはいろしろ


P55

鮪 視楼

しびみろう


鯨  視

くじらみ


鯨  来 ル時 ハハタヲ

くじらきたるときははたを


出シ知ラセル

だししらせる

(大意)

(補足)

「油に揚テ喰フ」とあります。これは鯨や鮪に付着しているものですけど、岩場などにはカメノテという同じような生物があって、茹でておいしく食べることができます。蟹や海老、ウニなど磯の生き物の味で、見かけはよろしくありませんがなかなかうまいものです。

「生ヱン ウス色」、西遊旅譚四では「生胭脂肉色」とかかれています。なんでしょうか?

「西遊旅譚四」にも同様の画がさらに詳しく描かれています。

貝などの画。

鮪見楼。 


 鮪見楼はこの画のを見る限り、よじ登るしか方法はなさそうです。

 

2025年9月14日日曜日

江漢西遊日記五 その50

P52 東京国立博物館蔵

P53

(読み)

全 身 黒 腹 ノ方 少 シ

ぜんしんくろはらのほうすこし


白 シ鼻 ノ先 白 キハ

しろしはなのさきしろきは


瀬と云 貝 也

せというかいなり


夜半 出テ鯨  ノ背ニ登 ル

やはんでてくじらのせにのぼる


坐シタルハ余レ

ざしたるはわれ


立 タルハ又 之助

たちたるはまたのすけ


僕  弁 喜

しもべべんき

P53

十  二月 十  五日 朝 鯨

じゅうにがつじゅうごにちあさくじら


来 ルト云 知ラセ未  飯

きたるというしらせいまだめし


不喰 故 ニアツキ飯 ニ水

くわずゆえにあつきめしにみず


ヲカケ一 椀 喰ヒ舟 ニ

をかけひとわんくいふねに


乗ル鯨  所  々  ヘニケ見

のるくじらところどころへにげみ


へス晩 七  時 比 舟 ヲ生 月 へ

へずばんななつどきころふねをいきつきへ


返ヘサントスル時 大 嶋 ノ方

かえさんとするときおおしまのほう


ニテ頻 リニ印  ヲ以  マネグ

にてしきりにしるしをもってまねく


夫 より大 嶋 ノ方 コギ行 事

それよりおおしまのほうこぎゆくこと


四里程 モアラント思 ヒケリ

しりほどもあらんとおもいけり

(大意)

(補足)

「夜半出テ」、鯨の尾の上の方に、満月が出ています。明るかったでしょう。

「十二月十五日」、天明8年12月15日。西暦1789年1月10日。この日は月齢13.6で満月は12日でしたから、この画のとおりお月さんは丸く見えたはずです。

「鯨来ルト云」、「未飯不喰故」、「舟ニ乗ル」、来未乗の三文字が少しずつ違うだけで難しい。全部「来」と読んでいました。

「西遊旅譚四」にもかなり詳しく、鯨に関する記述と画があります。

『夜半出天 鯨乃背に の本゛る 鯨番人』

『鯨切解圖』

『鯨漁之圖』 

 「江漢西遊日記」、「西遊旅譚」ともに鯨に関する文章・画はかなりの頁をさいて、詳細に記述していて、江漢さんが好奇心全開、からだをはって知ろうとしているのがよくわかります。

 P52、月夜の浜によこたわる鯨。目を哀しそうに描いているのが、江漢さんらしい。

 

2025年9月13日土曜日

江漢西遊日記五 その49

P51 東京国立博物館蔵

(読み)

生 月 嶋 ニテ一 里西 ノ方

いきつきしまにていちりにしのほう


松 本 と云 所  鮪 漁  アリ

まつもとというところしびりょうあり


往 て見 物 春其 時

ゆきてけんぶつすそのとき


四国 ヨリ藝 者

しこくよりげいしゃ


来 リ力  持 手津ま

きたりちからもちてづま


を見 物 春

をけんぶつす


其 所  の田 夫

そのところのでんぷ


老 若  男 女

ろうにゃくなんにょ


見 物 春

けんぶつす

(大意)

(補足)

「田夫」、農夫のことですが、いままでうん十年ずっと「たふ」と読んできてました。お恥ずかしい😞・・・

 江漢さんの描く農夫や年寄・子どもたちは、たくさんの絵師がいる中で、すぐに彼が描いたのだとわかるくらい特徴的で、表情や物腰のあたたかさが伝わってきます。着ているものなどもこのとおりだったのでしょう。継ぎ当ては当たり前、これが普段着なのでしょう。

 

2025年9月12日金曜日

江漢西遊日記五 その48

P50 東京国立博物館蔵

(読み)

布(シキ)可へ舟 六 艘 ニてかこ武時 尓鮪 誠  尓小

  しき かえふねろくそうにてかこむときにしびまことにこ


魚  を掌(テノヒラ)尓春くゐ多る如 し夫 を鳶口(トビクチ)能様

ざかなを  てのひら にすくいたるごとしそれを   とびぐち のよう


なるかぎ尓て引(ヒキ)揚(アケ)る海 血(チ)能波 立ツ誠  ニ

なるかぎにて  ひき   あげ るうみ  ち のなみたつまことに


め川らしき見 物 なり之(コレ)を見終(ヲハ)里て陸(ヲカ)尓

めずらしきけんぶつなり  これ をみ  おわ りて  おか に


納屋尓至 りして其 時 四国 阿波より力  持

なやにいたりしてそのときしこくあわよりちからもち


曲  持 など春る藝 者 来 リて爰 尓居ル故 尓

きょくもちなどするげいしゃきたりてここにおるゆえに


又 之助 其 藝 を好 ミ个連ハ色 \/藝 をし个り

またのすけそのげいをこのみければいろいろげいをしけり


其 処  能者 肝 を津ぶして見 物 春夫 よりして

そのところのものきもをつぶしてけんぶつすそれよりして


宿 へ帰 りぬ往 来 皆 舟

やどへかえりぬおうらいみなふね


九  日亦 時雨 雪 霰  風 吹キ此 日絹 地尓画

ここのかまたしぐれゆきあられかぜふきこのひきぬじにえ

(大意)

(補足)

「力持」、『② 重い物を持ち上げる武芸,また見世物。また,その人』

「曲持」、『きょくもち【曲持ち】曲芸として,手・足・肩・腹などで,樽(たる)・臼(うす)・米俵・人などを持ち上げて自由にあやつる芸』

「九日」、天明8年12月9日。西暦1789年1月4日。

「誠ニめ川らしき見物なり」、「鮪冬網(志びふ由あミ)」の画のように、激しい漁をそれほど離れていない小舟から見物したのでしょうけど、それでも小舟からの見物も同じようなものだったとおもわれます。同じ小舟に亦之助や新四郎も乗っていたのかもしれません。

「西遊旅譚四」に江漢の画があります。『鮪網之圖』です。 

 こちらは「鮪漁」の画。


  前回の画は江漢の画ではなく、こちらが江漢の画。漁師たちは誰一人腰蓑などなく褌一丁にハチマキ、身につけているものはそれだけであとは裸です。こちらが実際の鮪漁の様子。

やはりすごいですね。

「鯱(シャチホコ)又タカマツ 鮪を 喰んと して人を 不恐舟乃 きハま天 き多る」とありますから、舟から落ちたらシャチにやられてしまいます。命がけ!

 

2025年9月11日木曜日

江漢西遊日記五 その47

P49 東京国立博物館蔵

(読み)

八 日曇  此 嶋 の西 の方 松 本 と云 処  鮪 アルよし

ようかくもりこのしまのにしのほうまつもとというところしびあるよし


朝 より又 之助 新 四郎 同 道 して行ク尓鮪

あさよりまたのすけしんしろうどうどうしてゆくにしび


二百  四 十  二疋 と云 大漁(タイリヨウ)の時 ハ千 も取レるよし

にひゃくよんじゅうにひきという   たいりょう のときはせんもとれるよし


さて其 鮪 ハ山 \/能腰 を群(ムレ)て回(メグ)る者 故 山

さてそのしびはやまやまのこしを  むれ て  めぐ るものゆえやま


能腰 尓網(アミ)をしき張ル其(ソレハ)幕(マク)能如 く尓して

のこしに  あみ をしきはる  それは   まく のごとくにして


底(ソコ)なし又 鮪 見楼(ヤクラ)を建て鮪 来ル時 ハ

  そこ なしまたしびみ  やぐら をたてしびくるときは


旗(ハタ)を出して之 を知らせる口 網(アミ)の舟 之 を見

  はた をだしてこれをしらせるくち  あみ のふねこれをみ


て網(アミ)能口 をしめる網底(アミソコ)なしと雖  も鮪 下(シタ)

て  あみ のくちをしめる   あみそこ なしといえどもしび  した


をくゝ里て逃(ニグ)る事 なし爰 ニ於 て舟 四方 ヨリ

をくぐりて  にぐ ることなしここにおいてふねしほうより


あ川まりかこんで一 方 より麻綱(ヲツナ)能網 と

あつまりかこんでいっぽうより   おつな のあみと

(大意)

(補足)

「八日」、天明8年12月8日。西暦1789年1月3日。

 鮪漁の様子の画です。

 画の説明に「鮪冬網(志びふ由あミ)」とあります。上半身裸で腰蓑(こしみの)だけという漁師もたくさんいるのがわかります。真冬で海の上、寒いにきまっていますが、激しい動きと気合で寒さなど感じなかったのかもしれません。

 

2025年9月10日水曜日

江漢西遊日記五 その46

P48 東京国立博物館蔵

(読み)

之(コレ)を鮪 舩 尓積ミ个る尓七 日め尓四五百  里

  これ をしびふねにつみけるになのかめにしごひゃくり


能海 上  を経(ヘ)て江戸尓参 り多り

のかいじょうを  へ てえどにまいりたり


七 日天 氣爰 ハ朝 茶 を土瓶 尓て煎 し夫 ヲ

なのかてんきここはあさちゃをどびんにてせんしそれを


持 出して茶 を進 メルニ茶 うけモシクシと云フ

もちだしてちゃをすすめるにちゃうけもしくしという


物 なり之(コレ)ハ赤 ヱイと云 魚  能干(ホシ)多るを打 て麻

ものなり  これ はあかえいというさかなの  ほし たるをうちてあさ


能如 し夫 ヘ酒 醤  油をかけ多るなり之(コレ)ハな

のごとしそれへさけしょうゆをかけたるなり  これ はな


まぐさき事 なし此 者 なき時 ハあ王びを煮

まぐさきことなしこのものなきときはあわびをに


多る物 なり爰 ニ目白 と云 小鳥 能ク見ル尓江戸

たるものなりここにめじろということりよくみるにえど


尓て云 朝  鮮 目白 なりここニてハ壱 州  目白 ト云う

にていうちょうせんめじろなりここにてはいっしゅうめじろという


なり

なり

(大意)

(補足)

「七日」、天明8年12月7日。西暦1789年1月2日。

「七日め尓四五百里能海上を経(ヘ)て江戸尓」到着するのは、最速でということでしょうけど、それでも信じられません。「鮪舩」はその21に出てきた五嶋鮪を江戸に運ぶ船のことですけど、うーん🤔。江漢さん長崎からでしたっけ、やはり船で江戸に荷物を宅配していました。

 

2025年9月9日火曜日

江漢西遊日記五 その45

P47 東京国立博物館蔵

(読み)

と云 て戴(イタゝ)くと云フ義なりと其 時 より鯨  を

といいて  いただ くというぎなりとそのときよりくじらを


取ル備(ソナヱ)をな春亦 春 の土用 尓漁  を止ムと朝

とる  そなえ をなすまたはるのどようにりょうをやむとあさ


飯 前 能話(ハナシ)なり夫 より新 四郎 方 ヘ行く酒

めしまえの  はなし なりそれよりしんしろうかたへゆくさけ


鴨 能吸 物 鮪 の肉 を出し日暮 て帰 ル此 海

かものすいものしびのにくをだしひぐれてかえるこのうみ


よりヱイノ尾と云フ者 天 尓登 ル事 あり是 ハ

よりえいのおをいうものてんにのぼることありこれは


龍  なりと云 登 らんと春る時 黒 雲 さか里て

りゅうなりというのぼらんとするときくろくもさがりて


海 の潮 を巻き次第 \/ 尓天 尓能ほる尓雲

うみのしおをまきしだいしだいにてんにのぼるにくも


中 よりヱいと云 魚  能尾の如 き物 ヒラ\/として

なかよりえいというさかなのおのごときものひらひらとして


見ヱ遠 さかる。故 尓ヱイの尾可゛登 ルと云 なり

みえとおざかる ゆえにえいのおが のぼるというなり


此 日新 四郎 より朝  鮮 者゛ち七 ツ入子(イレコ)を贈 る

このひしんしろうよりちょうせんば ちななつ   いれこ をおくる

(大意)

(補足)

 竜巻を「ヱイノ尾」にたとえてみているところが、おもしろい。たしかに竜巻の漏斗部分を平たいエイのからだにみたてて、細く巻き上げている部分を尾とすれば、エイが空に登っていくようにみえます。

 鯉のぼりじゃないけど、エイが空を泳いでいるなんて発想がいいですね。

 

2025年9月8日月曜日

江漢西遊日記五 その44

P46 東京国立博物館蔵

(読み)

尓毛 せんをしき盃   を取 て四方 蒼 海 を

にもうせんをしきさかずきをとりてしほうそうかいを


眺 ミ外 国 尓遊 ヒ多る心  持 ぞ春る番 人 六 十  歳

のぞみがいこくにあそびたるこころもちぞするばんにんろくじゅっさい


位  能者 江戸尓十  年 居多ると云 江戸十  里

くらいのものえどにじゅうねんいたるというえどじゅうり


四方 軒 を並 へて人 家續 キ其 外 ハ田畑 ニて

しほうのきをならべてじんかつづきそのそとはたはたにて


大 根 の太(フト)サさし渡 し七 八 寸 もあると云フ

だいこんの  ふと ささしわたししちはっすんもあるという


大 笑  し希り夫 より段 \/と山 を下 り彼ノ

おおわらいしけりそれよりだんだんとやまをくだりかの


老 婆カ処  ニより瑠  球  芋 能蒸(ムシ)多るを喰ヒ

ろうばがところによりりゅうきゅういもの  むし たるをくい


益 冨 宅 へ帰 りぬ

ますとみたくへかえりぬ


六 日天 氣亦 之助 尓鯨  を取 比 時節 を聞 ニ冬

むいかてんきまたのすけにくじらをとるこのじせつをきくにふゆ


小  寒 十 日前 鯨  来 ル時 なり之 を小  寒 カグメ

しょうかんとおかまえくじらきたるときなりこれをしょうかんかぐめ

(大意)

(補足)

「瑠球芋」、琉球芋。

「六日」、天明8年12月6日。西暦1789年1月1日。

 一行が山登りの前に立ち寄った、亦之助の乳母であった老婆宅では、帰りによってくれとたのんだのでしょう、芋を蒸して待っていたようです。温かい心づかい。

 

2025年9月7日日曜日

江漢西遊日記五 その43

P45 東京国立博物館蔵

(読み)

事 とて口 ニふくん多る飯 を膳(セン)一 者゛いへ吹キ出し

こととてくちにふくんだるめしを  ぜん いっぱ いへふきだし


个り亦 之助 尓あれハどふし多と聞(キゝ)个連ハ江

けりまたのすけにあれはどうしたと  きき ければえ


戸可らお出 能人 の言葉(モノイゝ)可お可しゐとて

どからおいでのひとの   ものいい がおかしいとて


能事 なりとぞ夫 より段(タン)\/山 尓登 ル尓

のことなりとぞそれより  だん だんやまにのぼるに


紫 カヤ生  シて木なし急  尓登 ル処  六 七 町

しばかやしょうじてきなしきゅうにのぼるところろくしちちょう


アリて頂(イタゝ)き尓至 ル総 て廿  町  程 あり上 ニ遠フ

ありて  いただ きにいたるすべてにじっちょうほどありうえにとう


見番 所 アリ足 軽 一 人居ル其 者 ノ云 一 年

みばんしょありあしがるひとりおるそのもののいういちねん


尓両  三 度西 の方 暮(ボツ)色(シヨク)山 を見ルと云 是 ハ

にりょうさんどにしのほう  ぼっ   しょく やまをみるというこれは


那支(カラ)能方 能山 なり日本 能地ニあら須゛

   から のほうのやまなりにほんのちにあらず


大方(ヲゝカタ)日本 ニ近 キ嶋 ならん頂  上  岩 石 の上

   おおかた にほんにちかきしまならんちょうじょうがんせきのうえ

(大意)

(補足)

「段(タン)\/」、次のページにも「段」のくずし字が同じ形で出てきます。入門古文書小辞典で調べるとまったく同じ形のくずし字がありました。ネットの日本古典籍くずし字データセットにはありませんでした。

  孩(ヤゝ)子カ岳(番岳)山頂。

 こんなに狭いので毛氈は敷けませんから、もう少し広いところで楽しんだのでしょう。

素晴らしい眺め!

 

2025年9月6日土曜日

江漢西遊日記五 その42

P44 東京国立博物館蔵

(読み)

漁  の時節 と云

りょうのじせつという


五 日天 氣能クドミ多る天 氣なり爰 ニ孩(ヤゝ)子カ岳

いつかてんきよくどみたるてんきなりここに  やや こがたけ


とて此 嶋 の大 山 也 四 時 比 ヨリ酒 茶 菓子

とてこのしまのおおやまなりよつどきころよりさけちゃがし


を持ち此 山 ニ登 ル主 人 亦 之助 新 四良 吾 カ

をもちこのやまにのぼるしゅじんまたのすけしんしろうわれが


僕(ホク)と四人 小童 ニ毛 せんなと為持 村 々 を過 て

  ぼく とよにんこどもにもうせんなどもたせむらむらをすぎて


行 一 老 夫傍  ラ尓平伏(ヘイフク)して居ル亦 之助 大 音(ヲン)

ゆくいちろうふかたわらに   へいふく しているまたのすけだい  おん


ニて通(トヲシ)と云 誠  ニ此 所  能公方 様 なり夫 より

にて  とおし というまことにこのところのくぼうさまなりそれより


行ク尓岩 を壁 となし多る家 アリ亦 之助 能産(ウ)

ゆくにいわをかべとなしたるいえありまたのすけの  う


婆(バ)能家 なりとて爰 へよる老 婆飯 を喰ヒ居

  ば のいえなりとてここへよるろうばめしをくいお


る吾 色 \/話(ハナシ)しけ連ハ老 婆何 ヤラ笑(ヲカシ)き

るわれいろいろ  はなし しければろうばなにやら  おかし き

(大意)

(補足)

「五日」、天明8年12月5日。西暦1788年12月31日。

「ドミ多る天氣」、『ど・む 【曇む】色や光沢がどんよりとする。にごる。くもる。「そうじて醂(さわし)柿は,色の―・みたは甘うござり」〈狂言・合柿•鷺流〉』とあって、曇っているけどまぁまぁ良い天気ということでありましょうか。

「孩(ヤゝ)子カ岳」、『西遊旅譚四』に孩子カ岳と小童の画があります。

 このとんがった山は標高が286m、島一番の高さです。かなり急峻で危険そうにみえます。現在は番岳といわれていて、車で頂上付近までいけるようです。寛永十八(1641)年に、遠見番火立場が設置され、平戸藩士馬廻役がその番頭に任ぜられた、とありました。

「一老夫傍ラ尓平伏(ヘイフク)して居ル亦之助大音(ヲン)

ニて通(トヲシ)と云誠ニ此所能公方様なり」、まるで時代劇を見ているようですけど、これが身分制度が厳然とあった社会の日常であったのでしょう。