2024年10月31日木曜日

時代世話二挺鼓 その16

P11 国立国会図書館蔵

(読み)

と起尓まさ門 文字の者や可き

ときにまさかどもじのはやがき


尓ハ可奈ハせまじと

にはかなわせまじと


七 ツ

ななつ


いろは

いろは


をいちど

をいちど


尓可いて

にかいて


ミせる

みせる


ひでさとそれも可奈ハ

ひでさとそれもかなわ


せじと者や引 せ川

せしとはやびきせつ


やう二て八 ツのもじを

ようにてやっつのもじを


いちど尓ひい天ミせ

いちどにひいてみせ


そのうへ

そのうえ


や可らの

やがらの


可年を

かねを


一 ど尓

いちどに


う川て

うって


ミせる

みせる

(大意)

 さて(今度は)将門、文字の早書きでは勝たせてなるものかと、七ツいろはを一度に書いてみせた。

 秀郷、それも勝たせてなるものかと、早引節用をつかって、八つの文字を一度に引いてみせ、その上、八がらの鉦を一度に打ってみせた。


(補足)

「七ツいろは」、『【七ついろは】

片仮名・平仮名など,七種の字体・書体で書いたいろは歌。近世,手習いの手本とした。「六つで寺入り上げる手本の数々は,―の年弱七つ」〈浄瑠璃・栬狩剣本地〉』。

将門の前にあるのは、「い 以 伊 意 畏 委 異」。

「者や引せ川やう」、早引節用(集)、いろは引きの字典。大衆み向きの実用的な辞書。

 八がら鉦が腰から棒で支えられているように見えてしまいますが、棒ではなく紐で腰に結んであって、腰を左右に勢いよく振り回し、両手の撥で叩く。

 ここの六つの将門の影も(今度は右側の顔)、ひとつの型をハンコのように押したのではなく、みな彫ってます。影のうち、一人だけに筆を持たせている。

 

2024年10月30日水曜日

時代世話二挺鼓 その15

P10 国立国会図書館蔵

(読み)

将 門 志よさ

まさかどしょさ


事 尓天

ごとにて


飛げを

ひげを


なて

なで


个れハ

ければ


ひてさと

ひでさと


可年て

かねて


ならい

ならい


いし

いし


八 人 けい尓て

はちにんげいにて


ミせ付 る

みせつける


ちんつん

ちんつん


チャン\/

ちゃんちゃん


トン\/

とんとん


ビイラリ

ぴいらり


ヒヤウ

ひゅう


なる本ど

なるほど


きやう奈

きような


や川多

やつだ


ま多一 人まへ

またひとりまえ


まけ多

まけた


けち

けち


い満\/

いまいま


しひ

しい

(大意)

 将門は七人芸の所作をやって得意満面になっていたので、秀郷は以前より習っていた八人芸を見せつけた。

 ちんつん、チャンチャントントンピイラリヒュウ

将門「なるほど、器用なやつだ。また一人前負けた。ちぇっ、いまいましい」

(補足)

「飛げをなて」、『髭を撫(な)・でる。得意気なようすをする』

「けち」、『(接頭)近世語〕形容詞に付いて,卑しめののしる意を添える。「―ふとい二才野郎ぢやな」〈歌舞伎・幼稚子敵討〉』という理解もありそうです。

 秀郷、襖越しに見せつける八人芸のうち、小鼓・笛・三味線・鉦・太鼓の五つが見えています。撥のもとには鈴もあります。

 将門は笏を膝に立て、負けてくやしい様子。

 

2024年10月29日火曜日

時代世話二挺鼓 その14

P8P9 国立国会図書館蔵

(読み)

P9

将 門 里やう

まさかどりょう


里尓ハまけ

りにはまけ


多連ども

たれども


由うげい尓

ゆうげいに


可けてハ

かけては


可奈ハ

かなわ


せじと

せじと


七 へんげの

しちへんげの


志よさ

しょさ


ごとを

ごとを


いちど尓

いちどに


して

して


ミせる

みせる

P8

なんと

なんと


志 う

しゅう


く王く尓

か くに


とじやくを

とじゃくを


可年多

かねた


ミぶりハ

みぶりは


き川い可

きついか


\/

きついか

P9

此 ところ

このところ


大 てけぬ\/ と

おおでけぬでけぬと


可き多い

かいたい


あんまり

あんまり


うぬを

うぬを


いゝ

いい


奈さん奈

なさんな


ふら連

ふられ


やうと

ようと


於も川て

おもって

(大意)

 将門は料理(勝負)には負けたけれども、遊芸にかけては勝たせてなるものかと、七変化の所作ごとを一度にしてみせた。

将門「どうだ、秀鶴に杜若の両方あわせた身ぶりはたいしたものだろう」

 ここのところは大出来ぬ大出来ぬと書きたい。

秀郷「あんまりうぬぼれたことを言いなさんな。(女郎に)ふられてしまうとおもうぞ」 

(補足)

「秀鶴」、『初代中村仲蔵(1746〜90)の俳名。『歌舞伎年代記』に天明五(1785)年中村座の顔見世で「六人所作大でき」だったとある』

「杜若」、『四代目岩井半四郎(1745〜1800)の俳名。天明七(1787)年五月の桐座では、ここの絵の左側から、かきつばたの簪をさした官女、石橋、春駒、座頭、傾城、草刈童、関寺小町の七変化を演じた』

石橋、しゃっきょう しやくけう【石橋】能の一。五番目物。作者未詳。出家した大江定基が入唐して清涼山の石橋で童子に会う。童子は橋のいわれと文殊の浄土の奇特を教えて去る。やがて,獅子が現れ,牡丹の花に戯れながら壮絶華麗な舞をみせる。

春駒、はるごま【春駒】③ 新春に来る門付(かどづけ)芸人。また,その芸能。駒の首形を手にもち,また胴の前後に首と尾をつけて,三味線・太鼓などで囃(はや)しつつ祝言の歌を歌い,舞う。

関寺小町、せきでらこまち 【関寺小町】能の一。三番目物。世阿弥作か。年老いて近江国に庵居する小野小町は関寺の僧の訪問をうける。寺の七夕祭に案内され,稚児の舞にひかれて往事の夢を追うが,老いの無残を思い知らされる。「姨捨(おばすて)」「檜垣(ひがき)」とあわせて「三老女」という。

「ミぶり」、『歌舞伎役者の演技の特徴をとらえてまねをする大衆芸能』

「此ところ」、「此ところ大出来\/」は芝居の評判記のきまり文句。それをつかって、大出来の反対だと皮肉った、とありました。

「ふら連やうと」、うぬぼれ客はとかくふられる。

 この場面は、七人芸のみせどころ。文章はわずか。塗り絵をしたくなります。

 

2024年10月28日月曜日

時代世話二挺鼓 その13

P7 国立国会図書館蔵

(読み)

和多くし可゛

わたくしが


里やう里ハ

りょうりは


於まへの

おまえの


やう尓

ように


でバ本う

でばぼう


て うハ

ちょうは


いりませぬ

いりませぬ


でばと

でばと


いふものハ

いうものは


者゛くち者゛の

ば くちば の


个んく王尓

けんか に


ふり

ふり


まハすものさ

まわすものさ


大 根ハ里 う\/

だいこはりゅうりゅう


志あげを

しあげを


ごろうじ路

ごろうじろ

(大意)

秀郷「わたくしの料理はお前様のように、出刃包丁はいりませぬ。出刃というものは、博打場の喧嘩に振りまわすものさ。大根(だいこ)はりゅうりゅう仕上げを御覧じろ」

(補足)

「大根〜」、「細工は流流仕上げを御覧じろ」の洒落。『十分工夫をこらしてあるから,心配せずに仕上がりを待って,それから批判してくれ。細工は流々』

 将門の使う出刃は綴じのところにかくれてしまってます。

大根のなます刻むなら菜切り包丁でよいのに、わざわざ出刃を使っているのは、「出羽守」つまり水野出羽守忠友を暗示するためだろうと、ありました。

 また「博打場の喧嘩」とは、田沼失脚後の松平定信の老中就任に対する反対運動のゴタゴタをにおわせているのではとありました。

 

2024年10月27日日曜日

時代世話二挺鼓 その12

P6P7 国立国会図書館蔵

(読み)

なんときつい

なんときつい


もの可これでハ

ものかこれでは


仕出しやの

しだしやの


里やうり

りょうり


者゛ん尓

ば んに


い川ても

いっても


よ可らふ

よかろう

P7

そのとき

そのとき


ひでさと

ひでさと


すこしも

すこしも


さ王可゛須

さわが ず


く王い中

か いちゅう


より

より


神 明 まへの

しんめいまえの


なこや

なごや



可川多

かった


者や

はや


王ざ

わざ


八 人 まへを

はちにんまえを


出し

だし


さんじ尓

ざんじに


八 人 まへの

はちにんまえの


なますを

なますを


こしらへ

こしらえ


个れハ

ければ


将 門 よりハ

まさかどよりは


一 人 まへ

いちにんまえ


於ゝき由へ

おおきゆえ


大 き尓

おおきに


へこませる

へこませる

(大意)

将門「どうだ、たいしたものだろう。この腕前ならば仕出し屋の料理番にいってもつとまろう」

 そのとき秀衡少しもあわてずに、ふところより神明前のなこ屋で買った早業八人前を出し、あっという間に八人前のなますをこしらえてしまった。将門よりは一人前多かったので、大いにへこませた。

(補足)

「なんときついもの可」、助六劇(助六所縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら))のせりふに「なんときついものか、大門へぬっとつらを出すと、仲の町の両がわから、なじみの女郎の吸付煙草で・・・」とあって、読者をニヤリとさせる。

「きつい」、『⑥ 大したものだ。素晴らしい。「お娘御の三味線は―・いものでござる」〈咄本・鯛の味噌津』

「そのときひでさとすこしもさ王可゛須」、謡曲「船弁慶」の「そのとき義経すこしもさわがず」をふまえて、やはり読者をにっこりさせる。

「神明まへの」、飯倉神明社のこと。芝増上寺の東にあった。

「なこや」、神明前の有名な刃物店。

「者や王ざ八人まへ」、絵を見ると、百均でも販売しているような野菜千切り器か。京傳はなこ屋で販売しているこれをみて、秀郷が早業の達人という設定を思いついたのだろう、とありました。

「将門よりハ」、ここだけ読めと言われても、ちょっとムリです。

 約230年前に大根スライサーが販売されていたなんて、驚きです。

 

2024年10月26日土曜日

時代世話二挺鼓 その11

P6P7 国立国会図書館蔵

P6

(読み)

まさ門 ハ

まさかどは


ひでさと可゛

ひでさとが


ミ可多尓

みかたに


つ可んといふを

つかんというを


まことゝ

まことと


於もひ

おもい


王可゛者や

わが はや


王ざを

わざを


ミせん

みせん


ずと天

ずとて


一 人尓て

ひとりにて


七 人 まへの

しちにんまえの


なますを

なますを


う川て

うって


ミせる

みせる


六 人 の

ろくにんの


可げ本゛うし

かげぼ うし


うしろ尓て

うしろにて


てつ多゛ふ

てつだ う


人 尓ハ

ひとには


い川可う

いっこう


ミへ須゛

みえず

(大意)

 将門は秀郷が(負けたら)味方につこうというのを本当のこととおもい、自分の早業を見せようと、一人で七人前のなますを作ってみせた。

 六人の影法師が後ろで手伝っているのだが、まわりの人には少しも見えることはない。

(補足)

「う川」、『う・つ【打つ】⑨→1の動作によって物を作るなどの仕事をする。㋖ 刃物でたたくような動作で切る。また,そうして作る。』

 将門の影武者六名(一人は綴じ代に半分かくれてます)、まるで間違いさがしの絵のようです。版画なのでひとりの型を彫ってあとはペタンぺたんと押したわけではなく、六名をそっくりに彫っています。

 まな板の脚板がちゃんとアリをきってとめてあるのが細かい。このまな板中央が少し持ち上がっていて凸面になってます。当時のまな板はこのような作りだったのかもしれません。現在でもそのようなまな板は販売されています。

 

2024年10月25日金曜日

時代世話二挺鼓 その10

P4P5 国立国会図書館蔵

(読み)

P5

此 ごろひやうハんの

このごろひょうばんの


多和ら藤 太とハ

たわらとうたとは


きさ満の事 可王しハ

きさまのことかわしは


こん尓やく志満の

こんにゃくしまの


つう多゛可ら奈を

つうだ からなを


なん里やうの

なんりょうの


於多いじんと申

おだいじんともうす


いごハ

いごは


於ミ

おみ


志り

しり


く多゛

くだ


され

され


P4

どれもミん奈

どれもみんな


へん奈名多゛

へんななだ


大 もん

だいもん


じやの

じやの


帳  者の

ちょうばの


ぬりふ多゛尓

ぬりふだ に


あろうと

あろうと


いふ奈多゛

いうなだ

(大意)

替え玉二「この頃評判の俵藤太とはおぬしのことか。わしはこんにゃく島の通だから、名を南鐐のお大尽と申す。以後お見知りおきくだされ」

秀郷「どれもみんな変な名だ。大文字屋の帳場の塗札にあるような名だ」

(補足)

「此ごろひやうハんの多和ら」、当時、「評判の俵」という、俵が斜面をころがる玩具があったのに掛けた、とありました。

「こん尓やく志満」、霊岸島(現在の中央区日本橋)の埋立地の俗称。

「なん里やう」、『なんりょう ―れう【南鐐】

② 二朱銀の通称。表面に「以南鐐八片換小判一両」と刻まれていた』。こんにゃく島の私娼の枕代は二朱なので南鐐一枚で買える。つまりわずか二朱という安上がりで大臣ぶって大きな顔をする客という意味、とありました。

「大もんじや」、吉原京町一丁目の大文字屋市兵衛。吉原連狂歌の中心人物。先代以来の狂名は加保茶元成(かぼちゃのもとなり)。したがって吉原の狂歌連中の名前が帳場にでも掛けてあったのかもしれない、とありました。


 

2024年10月24日木曜日

時代世話二挺鼓 その9

P4P5 国立国会図書館蔵

(読み)

こい川ハ

こいつは


よ可ろう

よかろう


なんち

なんじ


まけ多

まけた


とき

とき


志゛ぶくりツこ

じ ぶくりっこ


なし多゛

なしだ


ぞよ

ぞよ

P4

王連ら両  人 ハ

われらりょうにんは


た王らの

たわらの


きよくもち

きょくもち


かりのうへの

かりのうえの


うハぬりと申

うわぬりともうす


いごハ

いごは


於ミしり

おみしり


く多゛され

くだ され

(大意)

将門「そいつはよかろう。お前が負けたときには、グズグズ文句を云うのはなしだぞよ」

替え玉一「われら両人は、俵曲持、借上上塗ともうす。以後おみしりおきくだされ」

(補足)

「志゛ぶくりツこ」、『じぶく・る(動ラ五[四])

ぐずぐずと文句をいう。すねて理屈をこねる。「『どうせ私は意久地が有りませんのさ』とお勢は―・りだした」〈浮雲•四迷〉』。辞書には何でものってますねぇ。

「きよくもち」、『きょくもち【曲持ち】

曲芸として,手・足・肩・腹などで,樽(たる)・臼(うす)・米俵・人などを持ち上げて自由にあやつる芸』。ここでは、田沼一味が米問屋と結託して悪さをしたことの暗示か、とありました。

「かりのうへのうハぬり」、これはそのままで「恥の上塗り」を掛けている。田沼一味が御用金貸付の名目で私服をこやしたことをにおわせている、とありました。

 この三人の替え玉の顔はやけに現実感があって、実際の誰かの似顔絵のように見えてしょうがありません。右側の偽公家の着物柄はひょうたんのようなものも見えます。ひょうたんには酒を入れることもありますから、呑み助をどこかから連れてきたのかも。

 

2024年10月23日水曜日

時代世話二挺鼓 その8

P4P5 国立国会図書館蔵

P4

(読み)

ひてさとハく川と

ひでさとはぐっと


あんじて个らいハ

あんじてけらいは


ミ奈うしろの

みなうしろの


山 の中 尓志のバせ

やまのなかにしのばせ


志゛ふんひとり

じ ぶんひとり


将 門 尓多いめんする

まさかどにたいめんする


志ん王うさ満ハ

しんのうさまは


者や王ざのめい

はやわざのめい


じんとうけ給  る

じんとうけたまわる


王多くしもすこし

わたくしもすこし


於本へ可゛ござ

おぼえが ござ


連ハ者や

ればはや


王ざ

わざ


くらへ

くらべ


をい多し

をいたし


て王多

てわた


くし可゛

くしが


まけ多ら

まけたら


於ミ可多

おみかた


尓つき

につき


ませ う

ましょう


於まへ可゛

おまえが


於まけ

おまけ


なす川多ら

なすったら


此 多いりを

このだいりを


つぶして

つぶして


可へり川こ

かえりっこ


尓しやう

にしよう


じやァ

じゃぁ


ござり

ござり


ません可

ませんか

(大意)

 秀郷は一計を案じて、家来を皆うしろの山の中にしのばせ、自分ひとりで将門に対面する。

秀郷「新王様は早業の名人と承ります。わたくしも少しおぼえがござりますので、早業くらべをいたして、わたくしが負けたらお味方に付きましょう。親王様がお負けなすったら、この内裏をつぶして、帰ることにしようじゃござりませんか」

(補足)

 大意でまとめることもなく、ほぼそのままで現在使われている文章になっています。

秀郷の武者姿というか鎧甲冑・衣服までなんとも細かく描いています。

 

2024年10月22日火曜日

時代世話二挺鼓 その7

P4P5 国立国会図書館蔵

P4

(読み)

平 志ん

へいしん


王う

おう


まさ門 ハ

まさかどは


王 ゐを

おおいを


のぞミ

のぞみ


とうこく尓

とうごくに


多いりを

だいりを


うつし

うつし


これを

これを


於可者゛しよだいりと

おかば しょだいりと


なづけ志しんでん

なづけししんでん


せい里やうでんの

せいりょうでんの


於川可ふせ尓

おっかぶせに


於者゛奈てん

おば なでん


梅 もとでん奈ぞと

うめもとでんなぞと


いふをこしらへ

いうをこしらえ


くげの可へ玉 を

くげのかえだまを


可ゝへきやう可しの

かかえきょうかしの


やう奈名を

ようななを


なのらせ

なのらせ


个る今

けるいま


あづま

あずま


百 く王ん

ひゃっかん


と天

とて


て奈らひ

てならい


子の

この


奈らふハ

ならうは


これ也

これなり

(大意)

 平新王将門は王位をのぞみ、東国に内裏をうつし、これを岡場所内裏と名付け、紫宸殿・清涼殿をまねて、尾花殿・梅本殿などという建物をこしらえた。そして公家の替え玉を召しかかえ、狂歌師のような名前をなのらせた。今、「東百官」という手習いで子どもたちが習うのはこの名である。


(補足)

「於川可ふせ」、『おっかぶせ【押っ被せ】

② にせ物。まがい物。「太平記の―,名づけて通人講釈といふ」〈洒落本・弁蒙通人講釈〉』

「於者゛奈てん梅もとでん」、尾花屋と梅本は深川仲町一流の茶屋だが、田沼が浜町に、一味の井上伊織が深川に豪奢な別邸を建てたことを暗示してた、とありました。

「梅」のくずし字はよくでてきます。「木」+「あ」のようなかたち。

「あづま百く王ん」、『あずまひゃっかん あづまひやくくわん 【東百官】

① 天正年間(1573〜1592)以後,関東武士が京都の朝廷の官名をまねて通称として用いたもの。伊織(いおり)・多門・頼母(たのも)・左内・藤馬・数馬・左門・右門など。

② 江戸時代の子供の手習い本で,百種の人名を集めたもの』。将門が制定したと誤り伝えられた。

「也」は「候」と同じく最頻出なので、そのくずし字はたくさんあります。そして出てくる箇所は限られているので、前後の流れからそれらしいくずし字があったら、そのように読むのがよさそうです。

 三人の公家は替え玉なので、髭やもみあげがだらしなく品格も何もなさそうな人物に描かれています。しかしそれら髷の生え際や髭などは一本一本丁寧に描かれています。しかし、この三人、かえって身近にいる隣のおじさんといった感じで親しみがある。

 一番手前の偽公家の着物(直衣(のうし))の模様は「くくり猿(布に綿を入れて猿の形に縫ったもの。手足をくくられている。)」というもの。猿真似を暗示している、とありました。

 

2024年10月21日月曜日

時代世話二挺鼓 その6

P3 国立国会図書館蔵

(読み)

こ連ひで

これひで


本うこの

ぼうこの


あい多゛多ひ

あいだ たび


\/きん里

たびきんり


さ満可ら

さまから


於人 可まい川多

おひとがまいった


可るすであ川

がるすであっ


多ハさ多めて

たはさだめて


ゐつゝけであろう

いつづけであろう


松 者や可丁  子や可

まつばやかちょうじやか


玉 や可あふきや可多ゞし

たまやかおうぎやかただし


ぐ川とひ袮川て仲 丁  の

ぐっとひねってなかちょうの


於者奈や可の於ら可゛や川可゛

おばなやかのおらが やつが


ことづけハせ奈ん多可

ことづけはせなんだが


ひで

ひで


さと

さと


とハ

とは


もうし


ま須可゛

ますが


さとでハ

さとでは


奈い

ない


於とこさ

おとこさ

(大意)

公郷三「これ秀坊、この間何度か禁裏(天皇)様の使者が参ったが、留守であったのはきっと、居続けであろう。松葉屋か丁子屋か玉屋か扇屋か、あるいはちょっとひねって深川は仲町の尾花屋かの。おれの使いが言付けはしなかったか」

秀郷「秀郷とは申しますが、里であっても田舎臭くはない男でさぁ」

(補足)

「ゐつゝけ」、『いつづけ ゐ―【居続け・〈流連〉 】

② 遊里などで,幾日もの間泊まりつづけて遊ぶこと。

「多ゞし」、『ただし【但し】(接続)〔副詞「ただ」に助詞「し」の付いた語〕

② 前文に対する疑問・推量などの文を導くために使う。もしかしたら。「十月を神無月と云ひて,神事にはばかるべきよしは記したるものなし。…―,当月諸社の祭なき故に,この名あるか」〈徒然草•202〉

④ それとも。あるいは。ただしは。「酒が飲れぬか,せめてひとり成とも出ぬか,―かへれといふ事か」〈浮世草子・好色一代女•5〉』。ここはどちらでも意味は通じます。

「仲丁の於者奈や」、深川仲町、最もはやった岡場所(幕府非公認遊里)。そこの一流茶屋が尾花屋。

「松者や可丁子や可玉や可あふきや」、吉原江戸一丁目の松葉屋半左衛門。江戸二丁目妓楼丁子屋庄蔵。江戸一丁目玉屋山三郎。江戸一丁目扇屋宇右衛門。

 玉座の下にいる三人の公卿、くだけた関東弁と吉原や深川に詳しいことから、田沼時代の幕府高官の遊蕩ぶりを読者に連想させる、とありました。

 秀郷の右肩に「秀」丸印があります。

 

2024年10月20日日曜日

時代世話二挺鼓 その5

P2P3 国立国会図書館蔵

(読み)

P2

とうぞ

どうぞ


まさ可とを

まさかどを


ぶ川

ぶっ


ちめて

ちめて


くれろ

くれろ


P3

いさい

いさい


しやう

しょう


ち仕

ちつかまつり


まし多

ました


あい\/

あいあい


きんり

きんり


さ満の

さまの


こん奈

こんな


事 を

ことを


於つしやる

おっしゃる


ときハ

ときは


なんと

なんと


あいさつ

あいさつ


する

する


もの可

ものか


志ら

しら


袮へ

ねぇ

P2

きさ満ハ

きさまは


多ハら

たわら


つう多゛と

つうだ と


うけ給 ハつ多可゛

うけたまわったが


多ハらやの

たわらやの


よしのハ

よしのは


どうし多の

どうしたの


いつも

いつも


ごさ可ん可の

ごさかんかの

(大意)

公郷一「どうか、将門をぶっとばしてくれ」(公郷らしからぬ乱暴なことばづかい)

秀郷「委細承知つかまつった。あいあい。天皇様がこんなことをおっしゃるときは、なんと挨拶してよいのかわからねぇ」(関東の田舎侍なので礼儀もわからず、おかしな挨拶)

公郷二「貴様は俵つう太とうけたまわったが、俵屋の吉野はどうしておるかの。吉野はあいかわらず繁盛しているかの」

(補足)

「いさい」が綴じにかくれています。

「多ハらつう多゛」、秀郷の通称「俵藤太」をもじって、当時はやっていた「通」に掛けた。

「多ハらやのよしの」、吉原京町一丁目の妓楼俵屋四郎兵衛、大俵屋の遊女。

「ごさ可ん」、「全盛」なこと。『② 遊女などが,客が多くついて繁盛すること。「殊に―して親方に大分儲けてくれられた此の太夫」〈浄瑠璃・夕霧阿波鳴渡下〉』

 画の全体の構成が、大きな曲線は階の両端の手摺りだけで他はほとんどが直線で描かれています。左近の桜にいたっては曲線はなし。

 

2024年10月19日土曜日

時代世話二挺鼓 その4

P2P3 国立国会図書館蔵

P2

(読み)

人 皇 六 十  一 代

にんのうろくじゅういちだい


志由じやくの

しゅじゃくの


ミ可どてん个い

みかどてんけい


袮んぢ う

ねんじゅう


平  のまさ門

たいらのまさかど


とうごく尓

とうごくに


まういを

もういを


ふるひ

ふるい


尓んミん

にんみん


これを

これを


な个゛き

なげ き


个れバ

ければ


此 事

このこと


京  とへ

きょうとへ


きこへ

きこえ


ふぢハらの

ふじわらの


ひでさと

ひでさと


ちよくを

ちょくを


うけ

うけ


う川手尓

うってに


者せ

はせ


む可ふ

むかう

(大意)

 人皇六十一台朱雀(すざく)天皇の時代、天慶年間(938〜946)に、平将門が東国で猛威をふるい、人民がこれを嘆いているとのことが朝廷(京都)へ伝わり、藤原秀郷が勅命をうけ討手として急いで東国へむかった。

(補足)

「人皇」、『にんのう ―わう【人皇】

神代(かみよ。じんだい)と区別した語で,神武天皇以後の天皇。仁王。じんこう。』

「とうごく尓まういをふるひ」、将門は下総国を根城に関東各地を攻略した。

 この場面、「右近の橘左近の桜」の桜があるのでここは紫宸殿で、御簾の奥は玉座でちらりと姿が見えています。公郷が三人、勅命を授かり伝えている。

 紫宸殿も見事ですが、左近の桜のほうが何倍も素晴らしい。

 

2024年10月18日金曜日

時代世話二挺鼓 その3

P1 国立国会図書館蔵

(読み)

いもと

いもと


くろとび

くろとび


志きぶ

しきぶ


此 そうし尓

このそうしに


女  の多し

おんなのたし


奈きを

なきを


きの

きの


とく尓

どくに


思 ひ

おもい


よん

よん


どころ

どころ


なく

なく


こゝへ

ここへ


どうぐ

どうぐ



つ可

つか


和れ

われ


兄  弟

きょうだい


ゐ尓ん

いにん


きやう

ぎょう


尓て

にて


まくを

まくを


あける

あける


「王多しも

 わたしも


いゝ多ひ

いいたい


む多可゛

むだが


ある可゛

あるが


多゛まつて

だ まって


於り

おり


や須

やす

(大意)

 妹の黒鳶式部、この草紙に女が登場しないのは気まずいので、やむを得ずこの場面で、芝居の兄妹絵人形のように道具立てをして挿絵にのせ、幕をあけよう。

妹「わたしも言いたい無駄な洒落のひとつもあるのだけど、だまっておりましょう」

(補足)

「いもとくろとび志きぶ」、京伝の妹、この年18歳。

「ゐ尓んきやう」、芝居用語でじっと動かずにいること。

 幕開けの読み手のつかみをしなければならない大事な頁ですので、豪華であります。

 綴じの部分で見にくいのですが、障子の端があって、その敷居が丁寧に描いたために線が斜めにいっぱいになって見えてます。

 外の縁側は竹と板を交互に貼るという手の込んだ仕上げ。

 京伝の背後には床の間に使うような飾り柱、竹で編んだように見えるのは窓なのか、掛け軸なのか、ちと不明。

 衝立は梅の絵、上部は縦桟を入れておしゃれです。

 二人とも、右肩に「傳」「黒」と名前入り。黒鳶式部がとても美しい。京傳が絵師に特別にきれいに描いてくれと厳しい注文をつけたのでありましょう。

 

2024年10月17日木曜日

時代世話二挺鼓 その2

P1 国立国会図書館蔵

(読み)

こゝ尓

ここに


ゑそう

えそう


しの

しの


作 者 尓

さくしゃに


京  傳 と

きょうでんと


いふもの

いうもの


あり

あり



いとし本 や可ら志ん

いとしほんやからしん


者゛んの志由可うを

ぱ んのしゅこうを


せ川可るゝ多ひ尓ハ

せつかるるたびには


どうぞ可ら多可゛二 ツも

どうぞからだが ふたつも


三 ツもあ連バいゝと

みっつもあればいいと


思 ふ尓つ多へきく平 志ん王

おもうにつたえきくへいしんのう


まさ可どハ可ら多゛可゛七 ツ有 と

まさかどはからだ が ななつありと


いゝつ多ふ七 人で可せい多゛ら

いいつたうななにんでかせだ ら


さぞくめん可゛よ可ろふと

さぞくめんが よかろうと


於もへど又 七 人 で

おもえどまたしちにんで


つ可ふ由へ同 じ

つかうゆえおなじ


どうりされバ

どうりされば


世の中 尓まゝ尓

よのなかにままに


奈る事 とてハ

なることとては


中 者゛しのさきの

なかば しのさきの


京  者しの傳 可゛

きょうばしのでんが


あんじの

あんじの


くさそうしといつ者゜

くさそうしといっぱ


ぞも\/

そもそも


何 とぞいゝてへ可゛

なんとぞいいてえが


かき入 可゛於ゝく

かきいれが おおく


なる可ら

なるから


多゛満川て

だ まって


ゐよう

いよう

(大意)

 ここに絵草紙の作者で京傳というものがいる。毎年本屋から新作の趣向をせっつかれるたびに、「なにとぞからだが二つも三つあるように、そうすれば(新趣向を考えられて)よいのに」とおもうにつけ、伝え聞くところによると、平新王将門(へいしんおうまさかど)はからだが七つあったという。七人で稼いだらさぞ工面がよかろうと思うのだが、また七人で使うのだから結局は同じことになってしまう。世の中におもいどうりになることはないのだ。中橋の先の京橋に住む京傳の考えた草双紙と言えばそもそも、あれこれ言いてえところだが、字ばかりが多くなってしまうから、黙っているとしよう。

(補足)

出だしの「こゝ尓」が、本の綴じにかくれてしまって読めません。

「事とてハ中者゛し」、「事とてはない」の『ない』に『中橋』を掛けている、掛詞。縁が中橋(縁がない)、気は中橋(気はない)のように使われた。中橋は日本橋と京橋の間の地名。京伝は京橋南詰東側、現在の銀座一丁目に住んでいた。

「いつ者゜」、『いっぱ 【言つぱ】

(連語)〔「言ふは」の転。「…といつぱ」の形で用いられる〕

言うのは。「そもそも富士の白酒と―」〈歌舞伎・助六所縁江戸桜〉』。歌舞伎風に芝居がかった感じをだしている(つもり)。

 ここは一番最初の序など相当するところでしょうけど、堅苦しくなく、語りかけるように、当時はきっと型破りな出だしではなかったかとおもいます。

 京傳の後ろには「太平記」の本箱があります。この黄表紙にはかかせません。

文机がまったく無駄のない簡潔な作り。すばらしい。これ作りたい。

 京傳には有名な自画像があって、その顔立ちとここの京傳の顔がそっくりです。絵師はかなり意識して京傳に似るように描いたのでは・・・

 

2024年10月16日水曜日

時代世話二挺鼓 その1

表紙上 個人蔵書

表紙下 個人蔵書

(読み)

将 門

まさ可ど

まさかど


秀 郷

ひでさと

ひでさと


時代  世話二挺  鼓  上

じ多゛いせハ尓て うつゞミじょう

じだ いせわにちょうつづみ


通油町

つ多や

つたや


将 門

まさ可ど

まさかど


秀 郷

ひでさと

ひでさと


時代  世話二挺  鼓  下

じ多゛いせ王尓て うつゞミげ

じだ いせわにちょうつづみ


通油町

つ多や

つたや


(大意)

(補足)

 山東京伝 作・喜多川行麿 画。版元は蔦屋重三郎。発刊は天明八(1788)年。京傳27歳の作品。

 題の意味は将門の乱と天明4年若年寄田沼意知が江戸城中で旗本佐野政言に刺殺された事件とをならべて暗示している、とありました。

「時代世話」、『浄瑠璃・歌舞伎で,時代物と世話物の両要素がないまぜになっている脚本や演出』。

 上巻の題字は楷書だが、下巻のほうは「郷」が「口」のようにくずし字になるなど、他の漢字もくずし字にして変化をつけています。

 ちなみにこれからで読んでいく国立国会図書館蔵の黄表紙の表紙はこれです。

 どの表紙も蔦屋の印が印象的です。

 

2024年10月15日火曜日

江戸生艶氣樺焼 その55

P30 東京都立中央図書館

(読み)

こゝで

ここで


やき

やき


もちを

もちを


や可連てハ

やかれては


大 奈んぎ

おおなんぎ


多゛可ら

だ から


め可けも

めかけも


どこぞへ

どこぞへ


可多付

かたずけ


ませ ふ

ましょう


王多しハ

わたしは


大 きに

おおきに


可ぜをひき

かぜをひき


まし多

ました


北 尾政 演 画

きたおまさのぶが


京  傳 作

きょうでんさく

(大意)

艶二郎「ここで焼きもちを焼かれては、大変にめんどうなことになるから、妾(めかけ)もどこかへ片付けましょう」

浮名「わたしはずいぶんと風邪をひいてしまいました」

(補足)

 浮名が借り着の右袖を口のあたりに持ち上げながら「可ぜをひきまし多」といっているのは、くしゃみをこらえているのか。どこかで二人のことをうわさしているのだろう、という含みの画だろうと手持ちの本にはありました。なるほどね。

 番頭の候兵衛の目が驚きでパッチリになっていますが、これはいたずら書きで持ち主が書き込んだものでしょう。

 さて、上中下三巻の表紙を紹介して 

「江戸生艶氣樺焼」の〆といたします。

 

2024年10月14日月曜日

江戸生艶氣樺焼 その54

P30 東京都立中央図書館蔵

(読み)

王可きときハけつきいま多゛

わかきときはけっきいまだ


さ多まらすいましむる事 いろ\/

さだまらずいましむることいろいろ


ありといふことを志らぬ可春べてあんじ可

ありということをしらぬかすべてあんじが


こうするとミ奈こうし多もの多゛於そろしき

こうずるとみなこうしたものだ おそろしき


とろ

どろ


本゛うと

ぼ うと


までミを

までみを


やつせし

やつせし


王れ\/可

われわれが


くふうの

くふうの


きやう

きょう


げん

げん


いこハ

いごは


きつと

きっと


多し奈ミ

たしなみ


おれ

おれ


きのすけや

きのすけや


王るい

わるい


志あんとも

しあんとも


まう

もう


つきあふ

つきあう


まい可

まいか


そち者゛かりでハ

そちば かりでは


奈いよの中 二多いふ可ういふ

ないよのなかにだいぶこういう


こゝろいきのもの可゛あるて

こころいきのものが あるて

(大意)

弥二右衛門「若いときは血気いまだ定まらず、(色恋は)あれこれ注意せねばならぬことがあるということを知らぬのだ。思いつきが度を過ぎると、すべてがこうなってしまうものなのだ。恐ろしい泥棒の姿にまでなって、われわれが仕組んだ狂言、以後は必ずや自分のおこないに気をつけろ。喜之介や悪い志庵とも、もうつきあうでないぞ。お前ばかりではない、世の中にだいぶこのような性格のものがいるのだよ」。

(補足)

「王可きときハ〜」、論語季氏第十六の七『少之時。血氣未定。戒之在色』

「こゝろいき」、『③ 性格。気性。気質。「世の中に大部かういふ―の者が有るて」〈黄表紙・江戸生艶気樺焼〉

④ なったつもり。また,気どり。「艶二郎は役者・女郎などの―にて」〈黄表紙・江戸生艶気樺焼〉』

 京傳はもともと絵師でした(北尾政演は絵師としての名前)ので、ここの親父殿からの説教の場面もどこかなごやかな雰囲気をかもしだして、描かれています。

 

2024年10月13日日曜日

江戸生艶氣樺焼 その53

P30 個人蔵

(読み)

もとより志ん多゛い二ふそくも奈く

もとよりしんだ いにふそくもなく


春へ者んじやう二さ可へ

すえはんじょうにさかえ


志可し一 生  のうき(奈)の

しかしいっしょうのうき な の


多ち於さめ二今 まで

たちおさめにいままで


の事 をくさぞうし尓して

のことをくさぞうしにして


せけんへひろめ多く

せけんへひろめたく


京  でんを多のミて世上  の

きょうでんをたのみてせじょうの


う王きびとをきやう

うわきびとをきょう


くんしける

くんしける

(大意)

もとよりお金の心配はなく、後々まで繁盛し栄えた。

しかし、生涯色男であった(ありたかった)締めくくりとして、

今までのことを草双紙にして、世間へ広めたく

京傳に頼み込んで、世の中の浮気人の教訓とした

(補足)

 ここまでの文章がこの物語のまとめとなります。それにしても画の隙間いっぱいに文字だらけ。

 艶二郎の顎下に何か袋の表書き見たいのが見えます。ひとつは「興」のようにみえますけど、もうひとつはなんでしょうか。

 

2024年10月12日土曜日

江戸生艶氣樺焼 その52

P30 東京都立中央図書館蔵

P30 個人蔵

(読み)

ゑん二郎 ちやうと

えんじろうちょうど


かん

かん


どう

どう



日のべ

ひのべ


きれ

きれ


けれ

けれ



こり\/としてうちへ可へりてミれバ

ころごろとしてうちへかえりてみれば


ゆ可う二三めぐり尓て者可゛れ多る

いこうにみめぐりにてはが れたる


小袖

こそで


可けてあるゆへふしぎ尓於もう於り可ら一 まより

かけてあるゆえふしぎにおもうおりからひとまより


於や弥二ゑもん者゛んとう候  兵へ多ちいでい个ん春る

おややじえもんば んとうそうろべえたちいでいけんする


ゑん二郎 ハ者じめてよの中 をあきらめ本んとう

えんじろうははじめてよのなかをあきらめほんとう


のひとゝ名りうき奈もおとこの王るいも

のひととなりうきなもおとこのわるいも


ふせ うして本可へゆくきも奈くふう婦と奈り

ふしょうしてほかへゆくきもなくふうふとなり

(大意)

 艶二郎はちょうど勘当の日延もきれたので、さんざんな気分で家へ帰ってみると、衣桁に三囲(神社)で脱がされ奪い取られた小袖がかけてあるので、不思議におもっていると、隣の部屋より親の弥二右衛門と番頭の候兵衛が出てきて、意見をした。

 艶二郎ははじめて世の中のことがはっきりわかり、真面目な人となり、浮名も男(艶二郎)のぶさいく(団子っぱな)は我慢してほかへ嫁く気もなく夫婦となった。

(補足)

「あきらめ」、『あきら・める 4【明らめる】

① 物事の事情・理由をあきらかにする。「創造の神秘を―・めて見なさい」〈肖像画四迷〉

② 心をあかるくする。心を晴らす。「陸奥(みちのく)の小田なる山に金(くがね)ありと申(もう)したまへれ御心を―・め給ひ」〈万葉集4094〉』。「諦める」ではない。

「ふせうして」、『ふしょう ―しやう【不請】

③ 不満足であるが,我慢すること。辛抱すること。「何卒私の心をも察して―してお呉なはい」〈人情本・春色梅美婦禰5〉』

 艶二郎が亀のようになってかぶっているのは例の毛氈、この「毛氈をかぶる」は辞書で調べると『① 〔歌舞伎で,死人になった役者を毛氈で隠し舞台からおろしたところから〕しくじる。放蕩などをして主家や親から追い出される。「親玉へ知れると―・る出入だ」〈浄瑠璃・神霊矢口渡〉② 〔遊女が見世に出ている時,毛氈を敷いたことから〕女郎買いをして金を使う。「それ毛氈かぶるが放蕩息子(どらむすこ)」〈黄表紙・稗史億説年代記〉』とあって、ここでは①の意で、艶二郎の色男ぶる悪企てすべてがしくじったことを示しているとありました。

 辞書にものっているくらいの事柄ですが、何も知らなかったら、裸の艶二郎は寒いのでちょうど持っていた毛氈をかぶっているだけとして、話の真髄にふれることはできませんでした。 

2024年10月11日金曜日

江戸生艶氣樺焼 その51

P29 個人蔵

(読み)

うしハね可゛い可ら者奈を

うしはねが いからはなを


とふ春とゑん二郎 可゛

とうすとえんじろうが


王るあんじの志んぢ う

わるあんじのしんじゅう


此 とき世上  へ者゜つと

このときせじょうへパ ッと


うき奈多ち志ぶうちハの

うきなたちしぶうちはの


ゑ尓まで

えにまで


可いてい多゛しけり

かいていだ しけり


於連ハ本んのすいきやうでし多

おれはほんのすいきょうでした


事 多゛可らぜひ可゛奈い可゛

ことだ からぜひが ないが


そちらハさぞさむ可ろう

そちらはさぞさむかろう


せけんの道 行 ハきものをきて

せけんのみちゆきはきものをきて


さいごの者゛へ行 可゛こつちのハ

さいごのば へゆくが こっちのは


者多゛可でうちへ道 行 とハ

はだ かでうちへみちゆきとは


大 き奈うら者ら多゛

おおきなうらはらだ


ひぢりめんのふんどし可゛

ひじりめんのふんどしが


こゝで者へ多も

ここではえたも


於可しい\/

おかしいおかしい


本んの

ほんの


まき

まき


ぞへ

ぞえ



奈ん

なん



(大意)

「牛は願いから鼻を通す」と。艶二郎のくだらぬおもいつきの心中は、このとき世間へあっという間になまめいた噂がたち、さえない画まで描かれて出されてしまった。

艶二郎「おれはほんの酔狂でしたことだからしかたがないが、おまえはさぞ寒かろう。世間の道行は着物を着て最後の場へ行くが、こっちのは裸でうちへ道行とはまったくあべこべだ。緋縮緬のふんどしがここで目立ったのもゆかいだゆかいだ」

浮名「まったく、まきぞえになって、こまったもんさ」

(補足)

「うしハね可゛い可ら者奈をとふ春」、『牛は願いから鼻を通す

〔牛はその天性によって鼻木を通される意〕自ら望んで災いを受けることのたとえ』

「道行」、このくずし字が何箇所かにあります。「道」、「行」両方とも頻出ですが、意外と(特に単独で出てくると)これなんだっけとなるくずし字です。これを機会にしっかり印象付けたのでもう大丈夫(のはず)。

「者へ多も」、現在の「ばえる」(映える)とまったくおなじ意味。

 文章だけで手一杯なはずですが、鳥居脇の松はとても丁寧だし、傘も骨が一本一本ほんの少しはみ出して描いてあるところなどこだわっています。

 

2024年10月10日木曜日

江戸生艶氣樺焼 その50

P28 個人蔵書

P29 個人蔵書

(読み)

春そもよふゆ可りのいろも七 ツやの奈尓奈可れ

すそもようゆかりのいろもななつやのなにながれ


多るすミ多゛川 多可゛い尓むりをいをざ起の

たるすみだ がわたが いにむりをいおざきの


かねハ四ツ目や長  命 寺きミ尓ハ

かねはよつめやちょうめいじきみには

(P29)

む年をあくる日のま多

むねをあくるひのまた


四ツ過 のひぢりめん

よつすぎのひじりめん


ふんどし

ふんどし


奈可き

ながき


者るの

はるの


日の

ひの


日高

ひだか



てら尓

てらに


あらすして

あらずして


者多゛可のてやい

はだ かのてあい


いそき行 引  三 重

いそぎゆくひきさんじゅう

(大意)

裾模様、それは紫色の碇も流れてしまって、目の前にはあの隅田川が流れてる。互いに無理を云い、長命寺の鐘が四ツ時で、君(浮名)は明日には解き放されて胸もスッキリするだろうけど、まだ四ツ過ぎで作りたての緋縮緬の湯もじ(腰巻)と長い褌姿、ながい春の日は、日高の寺ではあるまいし、はだかの二人は急ぎ行く。ぺぺんぺんぺん。

(補足)

「ゆ可り」、紫色。碇とゆかりのシャレ。

「七ツや」、質屋。流れるの縁語。

「いをざ起」、五百﨑。向島あたりの古称。無理を「云う」に掛けた。

「四ツ目や」、『よつめや【四つ目屋】

江戸両国にあった淫薬・淫具専門の薬屋。主人を四つ目屋忠兵衛といい,四つ目結(ゆい)を紋とした。長命丸が特に知られていた』

「長命寺」、向島五丁目の隅田川にのぞむ天台宗の寺。

「日高のてら」、和歌山県日高郡の日高川そばの道成寺。謡曲「道成寺」の「急ぐ心からまだ暮れぬ日高の寺に着きにけり」をふまえた。日高は長き春日の縁語。

「者多゛可」、「日高」と「はだか」の語呂合わせ。

「引三重」、浄瑠璃の終末部の三味線の手。

 こういった洒落や引掛けや語呂合わせなど手の込んで調子よく語るところを現在の言葉で言い換えることはとても難しいというか、ほとんど無理です。説明するとリズムがすべてこわれるし、全体的な雰囲気をつかんで感じるのが一番だと思います。

 この頁をまたぐ長い語りを大声で発声してリズムよくペペンペンペンとうなると気分がよいです。

 艶之助、毛氈敷物肩にして、長いふんどし(それでも褌の紐に刀をさしている)、浮名は緋縮緬腰巻き姿、こんなになっても相合い傘で土手路歩く二人のポッコリおなかがかわいらしい。傘に手ぬぐい頬かむり刀に敷毛氈と、道行き小道具失わず。

 

2024年10月9日水曜日

江戸生艶氣樺焼 その49

P28P29 東京都立中央図書館蔵

P28 個人蔵書

(読み)

とんと於ち奈バ名や多ゝんどこの女 郎し由可志らミ

とんとおちなばなやたたんどこのじょろしゅかしらみ


ひもむすびの可ミもあちらむ可さん志よ志゛やうゆの

ひもむすびのかみもあちらむかさんしょじ ょうゆの


やき春゛るめびんとひぞるも今 ハ者やむ可しと

やきす るめぴんとひぞるもいまははやむかしと


名りし中 の丁  そと八 もんじもこふ奈れバうち七 もんじ二

なりしなかのちょうそとはちもんじもこうなればうちしちもんじに


多どりゆく奈ミ多゛二ま志゛る水 者゜奈尓ぬらさん

たどりゆくなみだ にまじ るみずば なにぬらさん


さんそでハも多ぬゆへ下多の於びをぞ志本゛りける

さんそではもたぬゆえしたのおびをぞしぼ りける


身に志ミ王多るこち可ぜ尓とり者多゛だちし此 す者多゛

みにしみわたるこちかぜにとりはだ だちしこのすはだ


とのごのか保ハう春ゞミ尓かく多満づさとミる

とのごのかおはうすずみにかくたまづさとみる


かり尓多よりきかんとかくふミのか奈でか奈てこ

かりにたよりきかんとかくふみのかなでかなてこ

(大意)

 どこの女郎衆かしらは知らぬこと、縁結びの神も(虱ときいては)そっぽを向かざんしょ、山椒醤油の焼きスルメ、焼いて焦がれてピンとはったり身悶えしたり、今やはや過去の中ノ町、外八文字で道中したもが、こうとなった今は、格も下がって内七文字の足どりだ。涙にまじる水鼻を、拭う袖ももたぬゆえ、下帯までに、たれてしまった鼻水を、しぼりける。身にしみわたる東風に鳥肌立ってるこの素肌、あなたの顔色は薄墨のように、かく玉づさと見ゆる、雁にたよりをきこうとかくふみの仮名でかくは(裾模様)

(補足)

 浄瑠璃風に七五調子ですので声に出して読むと気分がよいです。この部分も一行一行調べないとよくわかりません。なのでまたながくなりそう。

「志らミひも」、『しらみひも【虱紐】体に締めていれば虱よけになるという紐。江戸時代,江戸芝金杉通りの鍋屋茂兵衛が売り出したもの』。知らないに引っ掛けている。

「う春ゞミ尓かく多満づさとミるかり尓」、『津守国基 つもりのくにもと治安三~康和四(1023-1102)薄墨にかく玉づさと見ゆるかな霞める空にかへる雁がね(後拾遺71)』を引用。【通釈】薄墨色の紙に書いた手紙のように見えるなあ。霞んだ空を、並んで帰ってゆく雁の群は。

【語釈】◇薄墨 薄墨紙の略。◇雁がね もと雁の鳴き声を言ったが、ここでは単に雁のこと。

【補記】曇り空を薄墨紙に、列をなして飛ぶ雁を手紙の文字になぞらえた。古来雁が書信を届ける使者に擬えられたことに因む見立てであって、ただ似て見えるというだけの歌ではない。後世、多くの模倣歌を生んだ、とありました。

「か奈でか奈てこ」、肩に金てこの語呂合わせ。

 大きな鳥居の上部だけ見えていますが、これは(その45)で紹介した三囲神社の画にも描かれていたものです。土手の上からのぞいています。

 

2024年10月8日火曜日

江戸生艶氣樺焼 その48

P28P29 東京都立中央図書館蔵

P28 個人蔵書

(読み)

仇 氣やゑん二郎

あだきやえんじろう


浮 名やうき奈

うきなやうきな


道 行 興    鮫 肌

    きやう可゛さめ者多゛

みちゆききょうが さめはだ


〽朝(あし多)尓色(いろ)をして夕(ゆふべ)尓死(しす)とも可(可)なり

   あした に  いろ をして  ゆうべ に  しす とも  か なり


とハさてもうハき奈ことの者ぞそれハろん

とはさてもうわきなことのはぞそれはろん


ごの可多いもじこれハふんごのや王ら可奈者多゛と

ごのかたいもしこれはぶんごのやわらかなはだ と


者多可のふ多りしてむ春びしひもをひとりして

はだかのふたりしてむずびしひもをひとりして


とくにと可れぬう多がひハふしんの土手のた可ミ可ら

とくにとかれぬうたがいはふしんのどてのたかみから


とんと於ち奈バ名や多ゝんどこの女 郎し由可志らミ

とんとおちなばなやたたんどこのじょろしゅがしらみ

(大意)

仇氣やゑん二郎(色男の艶二郎)

浮名やうき奈(色女のうきな)

道行興鮫肌

「朝に色をして夕に死すとも可なり」とは、ほんとに色恋にぴったりの言葉ではないか。あれは論語のおかたい文句であるが、これは豊後のやらかな、肌とはだかの二人でむすんだ紐を一人でとこうにもほどけずに、不審(普請)な泥棒が出た土手の上から川に落ちたら、どこの女郎かと評判になるだろう。


(補足)

 この部分は、浄瑠璃の道行きの文をまねて、ほぼすべての行にたくさんのもじり(引っ掛け)をいれていて、ほとんどが参考資料のうけうりになります。説明されればう〜んなるほどと、わかったふりができますけど、当時の人でもすぐにわかったかどうかはどうなんでしょうねぇ。

 道行心中を約束通りに止めることがかなわず、泥棒に身ぐるみ剥がされてしまい、そのおもいもよらぬ展開に興がさめ(鮫)、素っ裸にされて寒さで鳥肌になってしまった、というのが題名の意味です。

「朝(あし多)尓色(いろ)をして〜」、『朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり

〔論語里仁〕人としての道を悟ることができれば,すぐに死んでも悔いはない』のもじり。

「ふんごのや王ら可奈多゛と者多可」、当時「河東上下、外記袴、半太羽織に義太股引、豊後かはいや丸裸」と評された軟弱な曲節。それをうけて「やわらかな肌とはだか」とした、とありましたが・・・。よくわからないので、もう少し調べました。

 『其比の流行たとへに、土佐上下に外記袴、半太羽織に義太が股引、豊後可愛や丸裸かと皆人申けり、其比は土佐節、外記節、半太夫節、義太夫、豊後、何も流行たるものなり、(山田桂翁『宝暦現来集』天保二年(1831)自序)』

 土佐(河東)節を上下〔かみしも〕姿に譬えると、外記節は羽織袴、半太夫節は羽織姿であるのに対し、義太夫節は半纏股引で、豊後節に至っては「丸裸か」だという。きっとこれですね。

「ふ多りしてむ春びしひもをひとりして」、伊勢物語三十七段(下紐)。

男から女への歌「我ならで下紐解くな朝顔の 夕影待たぬ花にはありとも」(私以外の人に、下紐を解かないで下さいよ、あなたが朝顔のように夕日を待たない、変わりやすい花であっても)、

女の返歌「ふたりして結びし紐をひとりして あひ見るまでは解かじとぞ思ふ」(二人で一緒に結んだ紐ですから、私一人では、あなたとお逢いするまでは、決して解くつもりは、ないと思っています)

 高校の古文でこのようなのを学びたかったな。

「とんと於ち奈バ名や多ゝん」、 河東節松の内『とんと落ちなば名や立たん、どこの女郎衆の下紐を結ぶの神の下心』とあるのをつかっている、とありました。

 わずか五、六行の文なのに、補足はその何倍にもなってしまいました。

さてまだだ続きます。

 

2024年10月7日月曜日

江戸生艶氣樺焼 その47

P26P27 東京都立中央図書館蔵

(読み)

P26

これ\/

これこれ


者やまるまい

はやまるまい


王れ\/ハ

われわれは


しぬ多めの

しぬための


志んち うてハ

しんじゅうだは


奈いこゝへ

ないここへ


とめて可゛

とめてが


でる者づ多゛

でるはずだ


どふま

どうま


ち可゛つ多可

ちが ったか


志らん

しらん


きものハミん奈

きものはみんな


あげましやう

あげましょう


可らいのちハ

からいのちは


於多すけ\/

おたすけおたすけ


P27

此 いご

これいご


こん奈於もい

こんなおもい


つきハ

つきは


せまい可

せまいか


\/

せまいか


もうこれ尓

もうこれに


こりぬ事 ハ

こりぬことは


ごさり

ござり


ません

ません

P26

どふで

どうで


こん奈ことゝ

こんなことと


於もいんし多

おもいんした

(大意)

艶二郎「コレコレ、はやまるでない。我々は死ぬための心中ではない。ここで止めようとする者が出てくるはずなのだ。どうまちがったかわからん。着物はみんなあげましょうから、命はお助け、おたすけ」

泥棒二「これ以後、こんな思い付きはしないか、しないか」

艶二郎「もうこれで、懲りごりでございます」

浮名「どうせこんなこととおもいんした」

(補足)

 心中の小道具以外、背景は屋外の風景となって、弦月と稲叢(いなむら)ぐらいが時と季節をあらわすぐらいで、あとは小川の流れやちょっとした下草と木々、そんな心中場所を描くのはそれなりに難しいはず。

 

2024年10月6日日曜日

江戸生艶氣樺焼 その46

P26P27 東京都立中央図書館蔵

P27 個人蔵書

(読み)

やくしの

やくしの


あ多り尓て

あたりにて


ミ奈\/尓王可れ

みなみなにわかれ


ゑん二郎 ハ日ごろのね可゛い

えんじろうはひごろのねが い


可奈いしとこゝろうれしく

かないしとこころうれしく


道 行 をしてゆきこゝこそ

みちゆきをしてゆきこここそ


よきさいご者゛と者く於きの

よきさいごば とはくおきの

P7

王きざしをぬいてすで尓

わきざいをぬいてすでに


こふよとミへ

こうよとみえ


奈むあミ多゛ぶつといふを

なむあみだ ぶつというを


あいづ二い奈むらのかげゟ

あいずにいなむらのかげより


くろしやうぞくの

くろしょうぞくの


とろ本゛う

どろぼ う


二 人あら王れ

ふたりあらわれ








まつ

まっ


者゜た可尓

ぱ だかに


して

して


者ぎとる

はぎとる


王いらハ

わいらは


とふで

どうで


志ぬもの多゛

しぬものだ


可ら

から


於いら可゛

おいらが


可いしやく

かいしゃく


して

して


やろう

やろう

(大意)

(多田の)薬師あたりでみんなと別れ、艶二郎は日頃の願いがかなったと心うれしく、心中の場所へ行き、こここそよき最後の場と、箔置きの脇差しをおき、いよいよ最後の時とおもい、南無阿弥陀仏というのを合図に稲叢(いなむら)のかげより、黒装束の泥棒があらわれ出てきて、二人を真っ裸にしてはぎとってしまった。

泥棒一「お前らはどうせ死ぬ者だから、おいらが介錯してやろう」

(補足)

「たゞのやくし」、吾妻橋の川下の東岸、番場(現在の墨田区東駒形)にあった玉島山明星院東江寺。本尊の薬師仏は多田満仲(ただのまんじゅう)こと源満仲(みなもとのみつなか)の持仏という、とありました。ついでに古地図で調べるとありました。

「とふで」、『どうで(副)

いずれにせよ。「どうせ」の古めかしい言い方。「―一日か二日の命」〈色懺悔•紅葉〉』

「まつ者゜た可」、濁点「゛」もついたりつかなかったりしますが、半濁点「゜」はさらにいいかげんなのに、ここではやけにくっきりと大きな「゜」が目立つように付けられています。身ぐるみ剥がされて真っ裸なことを強調したかったのかもしれません。

「い奈むら」、泥棒二人のうしろにある刈り取った稲を重ねたもので、以前は稲刈り後の田圃の風景でありました。

 

2024年10月5日土曜日

江戸生艶氣樺焼 その45

P26P27 東京都立中央図書館蔵

P26 個人蔵書

(読み)

さいごの者゛も

さいごのば も


いき奈者゛つとし多

いきなぱ っとした


ところとの事 尓て

ところとのことにて


三めぐりのどてと

みめぐりのどてと


きめよ可゛ふけてハ

きめよが ふけては


きミ可゛王るい可ら

きみが わるいから


よいのうちの

よいのうちの


つもり尓て

つもりにて


ゑん二郎 尓つとめ

えんじろうにつとめ


多るちややふ奈やど

たるちゃやふなやど


たいこまつしやげい

たいこまっしゃげい


しやども多゛い\/

しゃどもだ いだい


こうのおくりの

こうのおくりの


やふ二者可ま

ようにはかま


者於り尓て

はおりにて


大 川 者゛しまで

おおかわば しまで


於くり申  たゞの

おくりもうすただの

(大意)

 最後の場も粋なパッとしたところにしようと、三囲(稲荷社)の前の土手と決めた。夜がふけては気味が悪いから宵のうちにとのつもりで、艶二郎のためにつくしてきた茶屋・舟宿・太鼓持ちたち・芸者どもが、伊勢太太講の見送りのときのように袴羽織姿で大川橋(吾妻橋)までお見送りした。多田の(薬師の)

(補足)

「三めぐりのどて」、江戸高名会亭尽 三囲之景 絵師 歌川広重。

鳥居の上部が土手越しに見え、市民の遊楽の地であったとありました。

「まつしや」、『まっしゃ【末社】

② 〔大神(大尽)を取り巻く末社,の意から〕遊里で客の機嫌を取り結ぶ人。たいこもち。幇間(ほうかん)。「買手を大神といひ,太鼓を―と名付け」〈浮世草子・元禄太平記〉』

「多゛い\/こう」、『いせだいだいこう ―だいだいかう【伊勢太太講・伊勢代代講】

室町時代以後,無尽のような仕組みで,交代で伊勢参りをして太太神楽(だいだいかぐら)を奉納する費用を積み立てた組合。江戸時代に盛行。伊勢講。太太講』

「大川者゛し」、『あずまばし あづま―【吾妻橋】

隅田川にかかる橋。東京都台東区浅草と墨田区吾妻橋地区を結ぶ。最初の橋は1774年に架橋され,大川橋とも呼ばれた』

 三囲神社の土手を心中場所と決めた艶二郎、その道具立てを確かめると、樒(しきみ)の枝は浮名の腰の後ろにさしてあるよう。数珠はどこだ。小田原提灯はたたんで蝋燭がみえています。辞世の摺物は配らせたのでここにはなし。蛇の目傘は地べたにあります。毛氈(もうせん)の敷物はさてどこに。

 

2024年10月4日金曜日

江戸生艶氣樺焼 その44

P24P25 個人蔵書

(読み)

王可いもの共 ハ

わかいものどもは


御し うぎを

ごしゅうぎを


ちやく本゛くして

ちゃくぼ くして


尓げ多あとで

にげたあとで


本う\゛/

ほうぼ う


いゝふらせ

いいふらせ


とのとの

とのとの


いゝつけ也

いいつけなり

(P24)

二可い可らめぐす

にかいからめぐす


里とハ

りとは


きい多可゛身うけ

きいたが みうけ


とハこれ可゛

とはこれが


者じめてじや

はじめてじゃ

(P25)

於あぶ

おあぶ


奈ふご

のうご


さります

ざります


御しづ可尓

おしずかに


於尓げ

おにげ


奈さりませ

なさりませ


おいらん

おいらん


ごきげん

ごきげn


よふ

よう


於可け於ち

おかけおち


奈さ

なさ


れまし

れまし

(大意)

 若い者どもはご祝儀を手に入れ、逃げたあとで、言いふらせとの言いつけであった。

艶二郎「二階から目薬とは聞いたことがあるが、身請けとはこれがはじめてじゃ」

若い者一「おあぶのうござります。お静かにお逃げなさりませ」

若い者二「花魁ごきげんよう。お駆け落ちなされまし」

(補足)

「ちやく本゛く」、「着服」を「ちゃくぶく」ともいうとあって、それがなまったか。また駆け落ちする客から御祝儀をもらうのも変なので、着服といわせたのかもしれないとありました。

「とのとの」、重複しているのか、何かの言い回しなのか不明です。

 はしごの端両方に縄が巻いてあります。滑り止めのためでしょうが、こんなところまで目が行き届いて描くのですから、恐れ入ります。

 

2024年10月3日木曜日

江戸生艶氣樺焼 その43

P24P25 東京都立中央図書館蔵

(読み)

者し

はし


ごを

ごを


可け

かけ


二可い

にかい


可ら

から


身うけ

みうけ


する

する


内 しやう

ないしょう


でハ

では


どふで

どうで


身うけ

みうけ


奈され多

なされた


女 郎 ゆへ

じょろうゆえ


於こゝろ

おこころ


ま可せ二

まかせに


奈さる可゛

なさるが


いゝ可゛

いいが


れんじの

れんじの


つくろ

つくろ


い代 ハ

いだいは


二百  両 で

にひゃくりょう


まけて

まけて


あけませ う

あげましょう


とよくしんをぞ申  ける

とよくしんをぞもうしける

(大意)

はしごをかけ、二階から身請けする。遊郭の主人は「どうせ身請けされた女郎だから、好きなようにすればよいが、櫺子の修理代は二百両にまけてあげましょう」とがめついことを言っている。

(補足)

「どふで」、『どうで(副)

いずれにせよ。「どうせ」の古めかしい言い方。「―一日か二日の命」〈色懺悔•紅葉〉』

 小田原提灯ぶら下げた艶二郎(袖に「艶」)、あとにつづく浮名(肩に「う」)、二階にかけられたはしごの端が見えています。そしてその右側に見越しの松、松葉もふさふさとふっくら描かれています。

 その上の格子に引っ掛けられた(輪にくるりと通して結んでいるところまで描き、本当に細かい)、丸に十字の入れ物?は何でしょうか。

 

2024年10月2日水曜日

江戸生艶氣樺焼 その42

P24P25 個人蔵書

(読み)

うき奈ハ

うきなは


多とへうそ

たとえうそ


志んぢ う二

しんじゅうに


ても

ても


く王いぶん

が いぶん


王るいと

わるいと


とん多゛ふしやうち奈りし可゛

とんだ ふしょうちなりしが


此 あんじを志由びよくつとめ多あと

このあんじをしゅびよくつとけたあと


でハ春い多於とことそ王せてやろうと

ではすいたおとことそわせてやろうと


ゆらの春け可゛いふやう奈せりふ尓て

ゆらのすけが いうようなせりふにて


よふ\/とく志んさせ此 あききやうげん尓ハ

ようようとくしんさせこのあききょうげんには


ゑん二郎 可゛む利足 尓て金 もとをするやくそく尓て

えんじろうが むりそくにてかねもとをするやくそくにて


ざもとを多のミさくら田尓いゝつけて此 ことを

ざもとをたのみさくらだにいいつけてこのことを


志゛やうるり尓つくらせ多ち可多ハ門 の介 と

じょ うるりにつくらせたちかたはもんのすけと


ろ可う尓てぶ多いでさせるつもり者多き

ろこうにてぶたいでさせるつもりはたき


そう奈志者゛ゐ奈りもとよりす奈を尓

そうなしば いなりもとよりすなおに


身うけしてハいろ於とこで奈いと

みうけしてはいろおとこでないと


かけ

かけ


於ちの

おちの


ぶん

ぶん


尓て

にて


れんじ

れんじ



こハして

こわして

(大意)

 浮名はたとえうそ心中でも外聞が悪いと、とても納得していなかったが、この計画を首尾よくなしとげたあとには、好きな男とそわせてやろうと、(大星)由良之助が言うようなせりふで、よくよくしっかり納得させた。

 また、この秋の歌舞伎興行では艶二郎が無利息で出資するという約束をして、座元に頼み、桜田(治助)にいいつけて、このことを浄瑠璃に作らせ、立方は門之助と路考で、舞台で演じさせるつもりだが、失敗しそうな芝居であった。

 もとより素直に身請けしては色男ではないと、いかにも駆け落ちしているかのように見えるように、櫺子(細い木の格子)を壊して、


(補足)

「く王いぶん王るい」、遊女と客の心中は、死にそこなうと日本橋の南詰めに三日さらされたうえ、男女別々に非人頭に渡される、とありました。なのでうそ心中でもそうはなりたくない。

「ゆらの春け可゛いふやう奈せりふ」、浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」七段目・祇園一力の場で、大星由良之助が遊女お軽に身請けの相談をして、「間夫があるならそわしてやろう・・・侍冥利、三日なりとも囲うたら、それからは勝手次第」というセリフの引用。

「さくら田」、『さくらだじすけ ―ぢすけ【桜田治助】歌舞伎脚本作者。

① (初世)[1734〜1806] 壕越(ほりこし)二三治の弟子。四世松本幸四郎と提携,江戸世話狂言を確立。代表作に「御摂勧進帳(ごひいきかんじんちよう)」「伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)」があり,「戻駕(もどりかご)」など舞踊劇にもすぐれた』。このうそ心中を劇にしてくれるよう頼んで、人々に話題にしてもらいたい一心。

「多ち可多」、舞踏では踊る者を立方、音楽を地方という。

「門の介とろ可う」、二世市川門之助、寛政六(1794)年没。路考は三世瀬川菊之丞の俳名。

「者多きそう奈」、『はた・く 2【叩く】⑥ 失敗する。損失を出す。「―・きさうな芝居なり」〈黄表紙・江戸生艶気樺焼〉』。

 若いもの二人に灯りまでさされ、その後ろには禿までいて駆け落ちの見送り付きとは、なんとも馬鹿げていておかしな場面。しかし、壊された櫺子(れんじ)、細い木の一本一本角をしっかり立てて、とても立体的にしている、をとおして、その奥の見送り衆を重ねて描いていて、その一人は格子の間から手に持つ灯りを差し出しています、手がこんでいます。どうやって彫ったのでしょう?

 この内容のバカバカしさトンチンカンな駆け落ち風景ですが、その一方、画は極めて写実的で正確緻密です。その落差がなんともおかしみを増しています。

 

2024年10月1日火曜日

江戸生艶氣樺焼 その41

P22P23 東京都立中央図書館蔵

(読み)

(P22)

ふ多り可゛

ふたりが


志゛せいの

じ せいの


本つくハ

ほっくは


春りもの二

すりものに


して

して


中 の丁  へ

なかのちょうへ


く者゛

くば


らせる

らせる


花らん可゛

からんが


(P23)

かい多者すのゑを

かいたはすのえを


大 本゛うしよへから

おおぼ うしょへから


ずりとハ

ずりとは


いゝ

いい


於保し

おぼし


めし

めし


つき多゛

つきだ


(P22)

王きさしハ者く於き二

わきざしははくおきに


あつらへ

あつらえ


まし多

ました

(大意)

 二人の辞世の発句は摺物にして中ノ町(の茶屋)へくばらせる。

志庵「花藍(からん)が描いた蓮の画を大奉書へ空摺りとは、いい思いつきだ」

喜之介「脇差しは箔置(銀箔を置いた木刀)にしておきました」

(補足)

「花らん」、『きたおしげまさ きたを―【北尾重政】[1739〜1820]江戸中・後期の浮世絵師。独学で一家をなす。錦絵の美人画をよくし,独自の画風を完成。北尾派の祖。また,能書家でもあった』の俳名。門人に北尾政美や北尾政演((まさのぶ)京傳自身)。

「者すのゑ」、蓮の画は現在でも法事や追悼にはつきもの。ここではまさに一蓮托生、二人の気持ち。

「大本゛うしよ」、『ほうしょがみ【奉書紙】〔多く奉書に用いたことから〕

上質の楮(こうぞ)で漉(す)いた,純白でしわのないきめの美しい和紙。杉原紙に似るが,やや厚手で簾目がある。越前奉書が有名。ほうしょ』の大判。

「からずり」、『からずり【空摺り】

浮世絵版画などで,凸版に絵の具を塗らず,刷り圧だけで,紙面に凹凸模様を作り出す技法。着物の文様などを無色の凹線で表すのに用いた』。今で言うエンボス加工のこと。

 わたしの手持ちの錦絵などにもあって、正面からみると柄にしか見えないものが、斜め方向からの光で見てみると凹凸が浮き出て、画が立体的になり見事です。

 この黄表紙の作者も画も北尾政演(まさのぶ)、つまり山東京傳です。この場面、京傳は微に入り細に入り、気のすむまで描きまくっています。花魁浮名はもちろんのこと、禿二人も手抜き一切なし、見事です。

 京傳は「吉原傾城 新美人合自筆鏡(よしわらけいせい しんびじんあわせじひつかがみ)」という題名通りの錦絵集(天明4年/1784)があって、ここの画に描かれている花魁自身が白居易の詩や唐詩選の一節を自筆でその見事な筆をふるっています。どれも息を呑む美しさであります。