P.182 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」
(読み)
七 月 十 一 日
しちがつじゅういちにち
下 名栗 村 湯 木駒 吉 申 候 様
しもなぐりむらとうぎこまきちもうしそうろうさま
酒 蔵 江立 寄 我 等儀我 野
さけぐらへたちよりわれらぎあがの
舅 病 氣二付 人 ヲ請 罷 越 候
しゅうとびょうきにつきひとをこいまかりこしそうろう
一 夜泊 り今日 帰 り申 候 有 間二
いちやとまりきょうかえりもうしそうろうありまに
罷 居 候 行者 之儀二付 村 方
まかりおりそうろうぎょうじゃのぎにつきむらかた
栄 助 殿 一 昨 日 夜 遅 く帰 り
えいすけどのいっさくじつよるおそくかえり
候 趣 承 知以多し委 敷 義者
そうろうおもむきしょうちいたしくわしきぎは
畄主二以多し存 居 候 二付 存 不申
るすにいたしぞんじおりそうろうにつきぞんじもうさず
行 人 被申 候 ニハ栄 助 殿 岩 鼻
ぎょうにんもうされそうろうにはえいすけどのいわはな
(大意)
7月11日
下名栗村湯木の駒吉が申し述べたことです。
酒蔵へ立ち寄ったところ、我らの吾野の
舅が病気ということで、人を頼み見舞いに行かせました。
一泊して今日帰宅しました。有間に
滞在している行者については、村の
栄助殿一昨日夜遅く帰宅
したたようだが承知はしている。詳しいことは
留守にしていたということで、存じていない。
行者が申すには、栄助殿が岩鼻(お役所へ)
(補足)
この頁のまえに2,3頁の空白頁がありました。
今まで話は、いったんこれで終わったという意味なのかどうかはわかりませんが、ここまででそのようなことはありませんでしたから、ここから先は少し別の件となるのかもしれません。
日付が7月11日になってます。
前頁の入札一件が慶応3年8月のことですから、同じ慶応3年ならばここの記述は1ヶ月前の出来事となります。
「湯木」、行政区名には「湯基」(とうぎ)とあります。
「駒吉」、読めませんでした。
「等」のくずし字はいろいろあって、ここでは「ホ」。
「我野」、吾野。何度も出てきてます。
「舅」、男の部分がわかれば、なんとなく読めます。
「罷越候」、候が「、」。
「今日」、「今」が???。
「有間」、現在の名栗湖、有間ダム。「湯基」はそこより約2キロ下った所。
「遅く」、「迷」でないことはわかるのですが、難しい。
「委敷」(くわしき)
「畄主」、「畄」をみてしまうと、すぐに「留吉」と読んでしまいます。
この頁だけを読むと、話が見えてこないのですが、この先を読みすすめると、
(少しは)どういう状況なのかがわかってきます。
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