2024年2月5日月曜日

九替十年色地獄 その10

P4P5 国文学研究資料館蔵

P4

(読み)

いハゝ志での多び

いわばしでのたび


いき王可れの

いきわかれの


門 出尓てそのミ尓ハ

かどでにてそのみには


ぜ个゛んのつら

ぜげ んのつら


つきも本ん多゛尓由う多

つきもほんだ にゆうた


於尓と思 ハれむ可い

おにとおもわれむかい


の四ツ手可ごハひのくるまの

のよつてかごはひのくるまの


やう尓ミへ

ようにみえ


ますじや尓

ますじゃに


よつて飛゛ん本゛う

よってび んぼ う


奈事 を火の車  と

なことをひのくるまと


申 スハこのゐん

もうすはこのいん


ゑんでごさる

えんでござる

(大意)

たとえて言えば死出の旅、生き別れの門出である。売られる身には、女衒の風体は本田に結った鬼に見え、迎いの四つ手駕籠は火の車のように見える。であるからして、貧乏なことを火の車と申すのは、これが元になっているのでござる。

(補足)

「いハゝ」、「ゝ」が「く」のように見えてしまいます。

「ぜ个゛んのつらつき」、とても「ら」のかたちに見えませんが、前後の流れから判断。

「四ツ手可ご」、籠の構造がよくわかるように描いてくれています。一番下にそりのような台二本があり、そこに底の浅い大きな笊(ざる)をとりつけ、そこに筵(むしろ)かゴザ、上等なものは座布団を敷き、それら全体を特大のトングのような形状のもの(売られてゆく娘の右手が触れているのがその支柱)、竹四本でできあがり。

「ミへます」、急にですますになって、なんとも変な感じ。

「ゐんゑん」、因縁。「ゐ」の元字は「為」、「ゑ」は「恵」。

 江戸後期の欧州文明国にも籠はありました。馬車の印象が強いのですが、同版画や写真で確かめることができます。またなぜ日本では馬車のような乗り物が牛車どまりだったのか、板倉聖宣氏が論考しています。

 

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