P4P5 国文学研究資料館蔵
P4
(読み)
いハゝ志での多び
いわばしでのたび
いき王可れの
いきわかれの
門 出尓てそのミ尓ハ
かどでにてそのみには
ぜ个゛んのつら
ぜげ んのつら
つきも本ん多゛尓由う多
つきもほんだ にゆうた
於尓と思 ハれむ可い
おにとおもわれむかい
の四ツ手可ごハひのくるまの
のよつてかごはひのくるまの
やう尓ミへ
ようにみえ
ますじや尓
ますじゃに
よつて飛゛ん本゛う
よってび んぼ う
奈事 を火の車 と
なことをひのくるまと
申 スハこのゐん
もうすはこのいん
ゑんでごさる
えんでござる
(大意)
たとえて言えば死出の旅、生き別れの門出である。売られる身には、女衒の風体は本田に結った鬼に見え、迎いの四つ手駕籠は火の車のように見える。であるからして、貧乏なことを火の車と申すのは、これが元になっているのでござる。
(補足)
「いハゝ」、「ゝ」が「く」のように見えてしまいます。
「ぜ个゛んのつらつき」、とても「ら」のかたちに見えませんが、前後の流れから判断。
「四ツ手可ご」、籠の構造がよくわかるように描いてくれています。一番下にそりのような台二本があり、そこに底の浅い大きな笊(ざる)をとりつけ、そこに筵(むしろ)かゴザ、上等なものは座布団を敷き、それら全体を特大のトングのような形状のもの(売られてゆく娘の右手が触れているのがその支柱)、竹四本でできあがり。
「ミへます」、急にですますになって、なんとも変な感じ。
「ゐんゑん」、因縁。「ゐ」の元字は「為」、「ゑ」は「恵」。
江戸後期の欧州文明国にも籠はありました。馬車の印象が強いのですが、同版画や写真で確かめることができます。またなぜ日本では馬車のような乗り物が牛車どまりだったのか、板倉聖宣氏が論考しています。
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