P4P5東京都立図書館蔵
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(読み)
こゝ尓又 そのころち うぜ う
ここにまたそのころちゅうじょう
さ年可多といへる人 ちよ く可ん
さねかたといえるひとちょっか ん
を可ふむりミちのく能可多へ
をこうむりみちのくのかたへ
さまよひき多り給 ひ
さまよいきたりたまい
し可゛さ奈起多゛尓多びハう起
しが さなきだ にたびはうき
もの奈る尓ふミも奈らハ奴
ものなるにふみまならわぬ
山 さ可尓くるしミうへ尓
やまさかにくりしみうえに
のぞミ多まひし由へ
のぞみたまいしゆへ
けんどん者゛ゝ可゛いへ尓
けんどんば ばが いえに
多ちより志よくもつを
たちよりしょくもつを
もとめ給 ひし可もとより
もとめたまいしがもとより
奈さけ奈起もの奈れバ
なさけなきものなれば
志よくを多てまつらず
しょくをたてまつらず
い多王しもおつ多て
いたわしもおったて
申 ぞふて起奈る
もうしぞふてきなる
(大意)
さてそのころ中将実方という人が、天皇からのとがめをうけ
陸奥へとさまよっていらっしゃったのだが、それでなくとも旅はつらいものなのに
誰も踏み入ったことのないような山坂に苦しみ、飢えて苦しんでらっしゃった。
そのため、慳貪婆の家に立ち寄り、食べ物を求められたが
もともと情けのない者であったから、食事を奉じることもなく
気の毒にも追い立てられてしまった。
不敵(な婆あ)である。
(補足)
「さなきだに」、それでなくてさえ。「―広い座敷が愈(いよいよ)広く」〈続風流懺法•虚子〉
中将実方についてはこのようにものの本にはありました。『一条天皇に仕えた左近衛中将藤原実方は和歌のことで藤原行成と争いになり行成の冠を打ち落とし、天皇に「歌枕を見て参れ」と、陸奥国へ左遷され当地で亡くなり、死後、雀になって殿上にいたという言い伝えがある』
「山 さ可尓くるしミうへ尓/のぞミ多まひし由へ」のようにきってしまうと、意味がおかしくなります。
「き多り給ひ」、「もとめ給ひし可」、「給」のくずし字は螺旋のようにくるくる二回まわっているようなかたちで特徴的。
慳貪婆の左袖には「惡」、いかにも意地悪く情けなき怒りっぽい感じの風体。実方の左袂には「實」、おでこあたりに公家の化粧の眉が入れてあり、文章ほどには飢えてはいなそう。
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