P.21 3行目まで。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」
(読み)
名主 又 四郎 江相 届 ケ川 端 へ桴 繋 畄 置 番 小家
なぬしまたしろうへあいとどけかわばたへいかだつなぎとめおきばんごや
五ヶ所 補理番 人 附 置 候 所 同 夜 四ツ半 時 頃 多人
ごかしょほりばんにんつけおきそうろうところどうよるよつはんどきころたにん
数 銘 々 鎌 鳶 口 等 携 理不尽 二番 小家打 毀 桴
ずうめいめいかまとびぐちとうたずさえりふじんにばんごやうちこわしいかだ
(大意)
名主又四郎へ届け川岸へ筏を繋ぎ留め置きました。番小屋を
五ヶ所設営し番人をそれぞれ配置しました。その夜11時頃、大勢が
それぞれ鎌や鳶口などを持ち、理由もなく番小屋を打毀し、筏
(補足)
「繋」の「車」偏は「収」の偏のように見えます。
「番」の「ノ」+「米」は左側の行にある「半」のよう。
「補理」、古文書を読むようになって知った言葉の一つです。
「銘々」、「金」偏は?ですが「名」は読めます。
「鎌」、「金」は上の「銘」と同じです。「兼」はじっと見てるとそれらしく見えてきます。
「鳶」は二文字のように見えます。
争いに用意した武器道具が鎌や鳶口であったことに注目します。
武州の一揆でも、銃や刀剣類は使用されませんでした。
「刀狩り 武器を封印した民衆 岩波新書 新赤版 岩波書店 2005.8藤木 久志 著」
を読むと、百姓一揆などでは武器として農民の道具を用いるのが基本でした。
猟銃もあったしそれぞれが短刀(脇差)など持っていましたが、使用しなかったのです。
また領主側も銃で発砲することはなく、領主によっては幕府に銃の発砲について伺いをたて、
幕府も実弾を発砲するなとの答えでした。
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