P.13 すべて。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」
(読み)
被 仰付被下置候様、 偏二奉願上候以上
おおせつけられくだされおきそうろうようひとえにねがいあげたてまつりそうろういじょう
弘化三午年七月
こうかさんうまどししちがつ
右
みぎ
訴訟人
そしょうにん
保兵衛
やすべえ
御奉行所様
おぶぎょうしょさま
(大意)
申し付けられますよう、ただただお願い申し上げます。
以下略
(補足)
天保→弘化→嘉永、弘化3年は1847年。この年皇女和宮誕生。
「被 仰付被下置候」、一文字空白は闕所(けっしょ)、お役所への敬意を表す作法。「被」は頻出なので極端に簡略化されますがここでは、なんとか原型を保ってます。「仰」、「卩(わりふ)」は下側にきます。「候」も「被」と同様に頻出でほとんど簡略化されます。ここでは「、」とこれ以上ないほどです。
くずし字は草書体から流れてきて、美しく流麗にとの意識もあるのでしょうが、文章の流れや前後の文字のつながりから判断して書いたり読んだりするものなのでしょう。
「御奉行所様」、ここの「様」は楷書体です、一行目の文章の中の「様」はくずしてます。
ここの話は江戸後期ですが、中世から江戸までの山地や百姓たち同士、または村々の争いについての書籍が大変におもしろいです。
たとえばこの2冊。
「中世民衆の世界_村の生活と掟」 岩波新書 新赤版 岩波書店 2010.5 藤木 久志 著
「江戸・明治百姓たちの山争い裁判」草思社 渡辺 尚志 著
戦国期を経て、やや平和な時をむかえることができるようになると、領主は地頭や代官をとびこけてそれらのものの不正があったならば、直接領主へ訴えろと(越訴(おっそ))督励しますし、条文も作成しました。また地域によっては訴訟人は3人以内で沢山の連名は認めぬというところもありました。
子どもの頃から時代劇の見すぎのためか、搾り取るだけ搾り取り、生かさず殺さずを旨とし、圧政に苦しむ百姓や山に生きる人々だけが強調されすぎ、それがすべてであるかのような錯覚が植え付けられてしまいました。
確かにそのような時代もあり、またそのような地域が一部にあったことは事実ですが、すべてがそうではなかったのです。江戸時代になり政治的に安定期をむかえるようになると武士は官僚役人へと変化してゆきました。一次産業に携わる人々の扱いも丁寧になります。直訴・越訴や目安箱が用意され、江戸の町には、幕府に裁判や訴訟をお願いしに来た地方の人々のため専用の公事宿(くじやど)と呼ばれる宿があったくらいです。
江戸時代後期に海外からやってきた欧米人が江戸周辺の農家の人々や風景をを見て、その清潔さ美しさ百姓たちの満たされて幸せそうな姿に感嘆しています。
そのようなところもあれば、イザベラ・バードは「日本奥地紀行」の中で僻地の百姓のみすぼらしさを記しています。
さて、この訴訟、訴えられた戸口村はどのように対処したのでしょうか。
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