2019年10月31日木曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その32




 P.21 4行目〜最後。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」

(読み)
切 流 シ番 人 を及打椰      板 小割 等 散 乱 い多し
きりながしばんにんをちょうちゃくおよびいたこわりとうさんらんいたし

狼 藉 之所 業  二付 掛 合 候得共   取 敢 不申  難 渋  仕   候  由
ろうぜきのしょぎょうにつきかけあいそうらえどもとりあいもうさずなんじゅうつかまつりそうろうよし

其 外 品 々 訴   上 候
そのほかしなじなうったえあげそうろう


(大意)
をバラバラにして流し番人を打ち据えました。板や材木などが散乱し
狼藉を振るわれましたので、話し合いをしようとしましたが応じることなく、困ってしまったとのことです。
それら以外のことについても訴えています。


(補足)
「流」、「川」の部分が「m」のようになるくずし字もありますが、ここのように「我」のくずし字に似たものもあるようです。

 ここまでが訴え方保兵衛の言い分を確認したものとなります。



2019年10月30日水曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その31




 P.21 3行目まで。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」

(読み)
名主 又 四郎 江相 届 ケ川 端 へ桴  繋  畄 置 番 小家
なぬしまたしろうへあいとどけかわばたへいかだつなぎとめおきばんごや

五ヶ所 補理番 人 附 置 候   所  同 夜 四ツ半 時 頃 多人
ごかしょほりばんにんつけおきそうろうところどうよるよつはんどきころたにん

数 銘 々 鎌 鳶 口 等 携   理不尽 二番 小家打 毀  桴
ずうめいめいかまとびぐちとうたずさえりふじんにばんごやうちこわしいかだ


(大意)
名主又四郎へ届け川岸へ筏を繋ぎ留め置きました。番小屋を
五ヶ所設営し番人をそれぞれ配置しました。その夜11時頃、大勢が
それぞれ鎌や鳶口などを持ち、理由もなく番小屋を打毀し、筏


(補足)
「繋」の「車」偏は「収」の偏のように見えます。
「番」の「ノ」+「米」は左側の行にある「半」のよう。
「補理」、古文書を読むようになって知った言葉の一つです。
「銘々」、「金」偏は?ですが「名」は読めます。
「鎌」、「金」は上の「銘」と同じです。「兼」はじっと見てるとそれらしく見えてきます。
「鳶」は二文字のように見えます。

 争いに用意した武器道具が鎌や鳶口であったことに注目します。
武州の一揆でも、銃や刀剣類は使用されませんでした。

「刀狩り 武器を封印した民衆 岩波新書 新赤版 岩波書店 2005.8藤木 久志 著」
を読むと、百姓一揆などでは武器として農民の道具を用いるのが基本でした。
猟銃もあったしそれぞれが短刀(脇差)など持っていましたが、使用しなかったのです。

 また領主側も銃で発砲することはなく、領主によっては幕府に銃の発砲について伺いをたて、
幕府も実弾を発砲するなとの答えでした。


2019年10月29日火曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その30




 P.20 4行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」

(読み)
桴  組 下 相 成 可多く出  水 相 待 当 六 月 中  旬  より
いかだくみさげあいなりがたくしゅっすいあいまちとうろくがつちゅうじゅんより

追々  水 増 候   二付 桴  組 立 先 月 十  三 日 先 出 之桴
おいおいみずましそうろうにつきいかだくみたてせんげつじゅうさんにちさきだしのいかだ

十  三 艘 戸口 村 地先 迄 乗 下ケ候   所  及日暮二   候   二付
じゅうさんそうとぐちむらちさきまでのりさげそうろうところひぐれにおよびそうろうにつき


(大意)
筏の組み下げができませんでしたので出水を待ちました。この6月中旬より
少しずつ水量が増してきましたので、筏を組み先月13日に先出しの筏
13艘を戸口村の近いところまで乗り下げましたが、もう日暮れになってましたので


(補足)
「相成可多く」、文章のリズムなのかもしれませんが、どのような具合で変体仮名「可多く」が使われるか興味があります。
「待」、「彳」に限らず、偏が読みに直結しないためか見極めは難しい。「寺」や「寸」を含むくずし字は「ち」のような「る」のような感じ。
「より」、殆どの場合、合字「ゟ」が使われるのに、ここではそのままです。
「乗」、くずし字は2文字のようになります。下部は「ふ」のよう。
「暮」は2文字に見えることが多いのですが、ここでは1文字。

 1頁6行で粒の揃った丁寧な手跡が続きます。



2019年10月28日月曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その29




 P.20 3行目まで。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」

(読み)
仕来  高麗川 通 り筏  組 下 御当 地へ運 送 致  候   所
しきたりこまがわどおりいかだくみさげごとうちへうんそういたしそうろうところ

当 春 中 御当 地大 火二付 諸 材 木 川 下ケ仕    度 候  得
とうはるなかごとうちたいかにつきしょざいもくかわさげつかまつりたくそうらえ

共 元 来 谷 川 之儀平 日 水 細 く大 水 二無之  候而者
どもがんらいたにがわのぎへいじつみずほそくおおみずにこれなくそうらいては


(大意)
としてきており高麗川で筏を組み下げて御当地(江戸)へ運送していました。そのようなとき
今春御当地で大火があり、諸材木を川下げしたかったのですが
もともと(高麗川は)谷川であるため普段は水量が少なく大水のときでないと


(補足)
「候得共」(そうらえども)、3文字セットで行末にきても無理やりおさめてしまうものなのですが、ここでは改行して「共」が行頭にきました。
「水細く」「大水」、くずし字と楷書。4行目「出水」、5行目「水増」はくずし字。
「候而者」(そうらいては)、「そうろうては」と読んでしまいそうですが、それが間違いなのかどうかはわかりません。これは3文字セットで使います。行末に小さくしてうまく収まりました。


2019年10月27日日曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その28




 P.19 4行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」

(読み)
乍恐    左二御返 答 奉申上       候
おそれながらさにごへんとうもうしあげたてまつりそうろう

右 訴訟  人 保兵衛 申  立 候   者坂 石 村 之儀者田畑 少  く
みぎそしょうにんやすべえもうしたてそうろうはさかいしむらのぎはたはたすくなく

農 業  而己二而者夫食 引 足不申   前 々 ゟ 材 木 渡世
のうぎょうのみにてはぶじきひきたりもうさずまえまえよりざいもくとせい


(大意)
おそれながら左の通りご返答申し上げます。
右の訴訟人保兵衛が申し立てているのは、坂石村は田畑が少なく
農業だけでは食料が足りているとは言えず、以前より材木業を生業


(補足)
 まず最初に訴え出ている保兵衛の言い分を訴えの書付の文言を引用しつつ確認しています。


「者」、助詞の「は」が3回出てきます。「磐」もつかわれます。「波」のくずし字が「は」のもとでしょうか。
「夫食」(ぶじき、ふじき)、食料。「ふしょく」とは読まないようです。
「夫食引足不申」、なんか回りくどい言い方に感じますが、「夫食不足」より遠回しな表現なのでしょうか。


2019年10月26日土曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その27




 P.19 3行目まで。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」

(読み)
私   共 江相 掛 狼 藉 出入 申  立
わたくしどもへあいかけろうぜきでいりもうしたて

久須美佐渡 守 様 江奉出訴      当 廿   五日 御差 日
くすみさどのかみさまへしゅっそたてまつりとうにじゅうごにちおさしび

御尊 判 頂  戴 相 附 候   二付 驚   入 拝 見 仕    奉畏候
ごそんぱんちょうだいあいつきそうろうにつきおどろきいりはいけんつかまつりおそれたてまつりそうろう


(大意)
私たちを相手に狼藉の訴訟(公事)を申し立て
久須美佐渡守様へ訴え出ました。今月25日を指定期日とし
裏書押印の召喚状を頂戴したため驚き、畏れ入り拝見いたしました。


(補足)
(その21)で江戸時代の訴訟と裁判の流れの概略を示しました。
差日(さしび)については触れなかったので、追加します。

裏書押印の2,3行目に
「致返答書来ル廿五日
評定所江罷出」
とありましたが、この「廿五日」が指定期日(差日)となります。

「尊」や「寺」など「寸」の部品を含むくずし字はその部分が平仮名の「る」のようなるようです。
「驚」の「馬」の部分も「る」に似てますが。
「拝見」、「拝」が難しい。


2019年10月25日金曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その26




 P.18 4行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」

(読み)
煩 二付 代 兼 組 頭  佐左衛門 百  姓  代 七 左衛門 奉申上候
はんにつきだいけんくみがしらささえもんひゃくしょうだいしちざえもんもうしあげたてまつりそうろう

今 般 林  部善 太左衛門 様 御代 官 所 武州  秩 父
こんぱんはやしべぜんたざえもんさまおだいかんじょぶしゅうちちぶ

郡 坂 石 村 組 頭  保 兵衛外 四人 惣 代 右 保 兵衛ゟ
ぐんさかいしむらくみがしらやすべえほかよにんそうだいみぎやすべえより


(大意)
わずらい中ですので組頭佐左衛門と百姓代七左衛門が申し上げます。
このたび、林部善太左衛門様御代官所の
武州秩父郡坂石村組頭保兵衛ほか四人の惣代である保兵衛より



(補足)
「煩二付代兼」、読みがわかりません。ネットで調べると定型句であるようでたくさんヒットします。「煩」は「火」偏がわかりません。

保兵衛の身分を示すのに、ずいぶんと長い説明があります。
前回でも紹介したとおり公的な答弁書ですので、当時の一番正確な保兵衛の身元表記となります。

「官」のくずし字は独特。


2019年10月24日木曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その25




 P.18 3行目まで。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」

(読み)
乍恐    以返答書      奉申上候
おそれながらへんとうしょをもってもうしあげたてまつりそうろう

平 岡 對馬守   知行  所 武州  入 間郡 戸口 村 百  姓
ひらおかつしまのかみちぎょうしょぶしゅういるまぐんとぐちむらひゃくしょう

佐七 利助 久  五郎 寅 五郎 万 五郎 佐十  利三 郎
さしちりすけきゅうごろうとらごろうまんごろうさじゅうりさぶろう



(大意)
恐れながら返答書をもって申し上げます。
平岡對馬守知行所武州入間郡戸口村百姓
佐七、利助、久五郎、寅五郎、万五郎、佐十、利三郎


(補足)
「答」これ一字なら迷うが、「返答書」とあれば前後の文字より読めます。
「平岡」、「岡」は独特。「冂」は冠のようになり、「前」の上部分(そのいち)+「山」がメインになってます。
「馬」、?ですが「対馬守」となれば、読めます。
「武州」、ここの「州」はほぼそのままですが、「り」が三つならんだようなかんじ。


「平岡對馬守知行所武州入間郡戸口村」、戸口村が平岡對馬守という旗本の領地であり、そこの百姓の名前が続きます。旗本量は「〜知行所」、「〜知行」と表記されます。

 また次回に出てきますが、「林部善太左衛門様御代官所武州秩父郡坂石村組頭保兵衛」の場合、
坂石村が代官林部善太左衛門の管轄する幕府直轄領で保兵衛がその組頭(名主の補佐役)であることを示しています。幕府領の場合は、このように管轄する代官の名前を書きます。「御代官所」とは役所の建物のことではなく、代官の管轄領域のことを意味し「御支配所」と表記することも多い。

 さらに、ここでは「領分」の例がありませんが、これは大名の領地であることを示します。

 以上の事柄は「壱人両名 尾脇秀和 著 NHKBOOKS P30,P31」によりました。


2019年10月23日水曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その24




 P.17 すべて。。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」

(読み)
出雲
いずも

武州入間郡戸口村
ぶしゅういるまぐんとぐちむら

七左衛門
しちざえもん

佐七
さひち

利助
りすけ

久五郎
きゅうごろう

寅五郎
とらごろう

万五郎
まんごろう

佐十
さじゅう

佐左衛門
ささえもん

利三郎
りさぶろう

右村
みぎむら

名主
なぬし

組頭
くみがしら



(大意)



(補足)
「州」はいろいろな形のくずし字があるようですが、ここでは「刀」三つで「品」に似た形。
「七左衛門」以下は以前に、どうして襲ったのかを話してくれた者共です。

「出雲」でお役人の連名は計10名となりました。
管轄の奉行が複数に渡るときは、それら全員の裏書きと捺印をもらわなければなりませんでした。
評定所扱いならば、寺社・町・勘定奉行の8名、
勝手方勘定奉行所ならば合計10名でした。

 次回は訴えられた側の戸口村の返答書となります。


2019年10月22日火曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その23




 P.16 すべて。。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」

(読み)
内匠
たくみ

左衛門
さえもん

大膳
だいぜん

紀伊
きい

淡路
あわじ


(大意)



(補足)
 時代劇などの小説を読んでいると、「内匠頭」(たくみのかみ)など職名がよく出てきます。
辞書引きすると漢字の順番通り(うちのたくみのかみ)とも読むのですね、知りませんでした。

「紀伊」、初見で?でした。わかってみるとなるほど・・・。ここの「紀」の「己」は「巳」になってさらに上にでっぱている。
「已」(い)は古文の活用で已然形(すでに終わっている状態)という言葉でなじんでいそう。
「巳」(み)で干支の六番目(子丑寅卯辰『巳』午未申酉戌亥)や蛇のこと。
「己」(おのれ、き、こ)、自己(じこ)、知己(ちき)、利己的(りこてき)、克己(こっき)など日常ではこれが一番使われていそう。

 老婆心ながら、昔から間違えやすいのでいろいろ工夫されてきたようだけど、私の流儀は使われる言葉や単語として記憶します。已然形(いぜんけい)・自己(じこ)、巳年(みどし)のように。

「淡路」、「淡」は「清」に見えてしまうし、「路」は「足」偏が???。

 全頁に引き続き、9名の連名になりました。
どうでもよいことですが、この5名の職名(名前)の記している位置ですが、前頁の4名の名前の位置と同じになってます。裏写りするからその位置にしたわけでなく、きちんと前頁からの書式を意識しています。




2019年10月21日月曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その22




 P.15 すべて。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」

(読み)
為曲事者也
くせごとたるべきものなり

佐渡
さど

御用二付無加印
ごようにつきかいんなし

河内
かわち

大和
やまと

御用二付無加印
ごようにつきかいんなし

土佐
とさ


(大意)
違法なことである。

以下略


(補足)
「曲事(くせごと、きょくじ)」、お役所の召喚状に必ず出てくる決まり文句。
「印」の「卩」が下にきます。「仰」のくずし字でも同様でした。
お役人4人のうち分かりづらいのが「土佐」の「土」、初めて見たときも、今でも苦手です。

 この文書は控えなので、もとの書面には佐渡、大和の下には印があったはずですが、もとの書面でも河内、土佐の下には印は無かったことを示すために「御用二付無加印」の但し書きがあるのでしょうか。


2019年10月20日日曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その21




 P.14 すべて。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」

(読み)
如斯    目安 差 上 候   間
かくのごとくめやすさしあげそうろうあいだ

致返答書     来 ル廿五日
へんとうしょいたしきたるにじゅうごにち

評  定  所 江罷  出可對
ひょうじょうしょへまかりでたいけつすべく

決若於不参       者可
もしまいらず(において)は


(大意)
このような訴状が差し出されたことにより
返答書を作成し来る25日
評定所へ決着すべく出頭せよ。
もし出頭に応じない場合は


(補足)
世界大百科事典によると
「返答書」とは
「江戸幕府の民事裁判手続(出入筋(でいりすじ))における被告(相手方)の答弁書。訴状(目安(めやす))に裁判所の裏書(目安裏書,目安裏判(うらはん))が与えられ,これが原告(訴訟人)の手によって相手方のもとに送達されると,相手方は目安の内容に対する反駁を書面に記して裁判所に提出しなければならない。この書面が返答書で,通常は〈差日(さしび)以前着届(ちやくとどけ)〉(出廷期日の前に出府,到着した旨の届出)の際に目安とともに提出する。」
とあります。

 上記の理解からこの4行の頁は裏書の部分になります。また現在でも裁判所の書面は書式がありどの書面でも似たような文面ですが、当時でも同様であったようで、ここの文面は公事書面によく見られるもののようです。

 裁判の流れは以下のような手続でした。
・訴え方が目安(訴状)を評定所または町奉行所へ提出する。
・役所は目安糺(めやすただし)という訴状の可否の判断をする。
・可の判断がされるとここのように訴状の裏に裏書・裏判と押印し、お役所が関与したとの証明となる。
・訴え方はこれを相手方へ持っていって相手方村役人立ち会いのもと手渡し、同時に召喚状となる。
相手方が目安受け取り拒否の場合は「公事方御定書」に「裏判並差紙不請もの 所払」とあり罰せられた。
相手方は受け取った証として「裏判拝見書」「御尊判拝見書」を訴え方に渡した。
・相手方は奉行所へ「返答書」と「差日以前着届」を提出する。なお返答書の内容は訴え方には知らされなかった。
・更に細かい手続きやお役所側の修正などは公事宿が関与し、単に原告被告の宿であっただけではなく、裁判の流れの中ではなくてはならない機関であった。

 ここの裏書・裏判は評定所の権威を表すためか、または決まった書式があったためか、大ぶりの字で4行で記されています。太字であるために墨汁も濃くみえます。まぁこれは控えでしょうから、こんなふうだったとの記録でしょう。


「如斯」(かくのごとく)、よく出てきます。
「目安」、訴状。
「決」、「夬」の下部がこの漢字の脚になってます。くずし字ではよくみられます。
「参」の下部の「彡」部分が「ホ」のようになります。
「者」、くずし字で小さいのでここでは助詞の「は」です。「者」としたいのであれば楷書のようにして前後の字の大きさと同じはずです。
と考えたのですが、次頁に同じような「者」があり、これは助詞「は」ではなく「者(もの)」の読みますが「人」の意味ではないく終了助詞と理解しますが、うーん、スイマセン、わからなくなりました。



2019年10月19日土曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その20




 P.13 すべて。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」

(読み)
被 仰付被下置候様、         偏二奉願上候以上
おおせつけられくだされおきそうろうようひとえにねがいあげたてまつりそうろういじょう

弘化三午年七月
こうかさんうまどししちがつ


みぎ

訴訟人
そしょうにん

保兵衛
やすべえ

御奉行所様
おぶぎょうしょさま


(大意)
申し付けられますよう、ただただお願い申し上げます。

以下略


(補足)
天保→弘化→嘉永、弘化3年は1847年。この年皇女和宮誕生。
「被 仰付被下置候」、一文字空白は闕所(けっしょ)、お役所への敬意を表す作法。「被」は頻出なので極端に簡略化されますがここでは、なんとか原型を保ってます。「仰」、「卩(わりふ)」は下側にきます。「候」も「被」と同様に頻出でほとんど簡略化されます。ここでは「、」とこれ以上ないほどです。
くずし字は草書体から流れてきて、美しく流麗にとの意識もあるのでしょうが、文章の流れや前後の文字のつながりから判断して書いたり読んだりするものなのでしょう。

「御奉行所様」、ここの「様」は楷書体です、一行目の文章の中の「様」はくずしてます。



 ここの話は江戸後期ですが、中世から江戸までの山地や百姓たち同士、または村々の争いについての書籍が大変におもしろいです。
たとえばこの2冊。
「中世民衆の世界_村の生活と掟」 岩波新書 新赤版 岩波書店 2010.5 藤木 久志 著
「江戸・明治百姓たちの山争い裁判」草思社 渡辺 尚志 著

 戦国期を経て、やや平和な時をむかえることができるようになると、領主は地頭や代官をとびこけてそれらのものの不正があったならば、直接領主へ訴えろと(越訴(おっそ))督励しますし、条文も作成しました。また地域によっては訴訟人は3人以内で沢山の連名は認めぬというところもありました。

 子どもの頃から時代劇の見すぎのためか、搾り取るだけ搾り取り、生かさず殺さずを旨とし、圧政に苦しむ百姓や山に生きる人々だけが強調されすぎ、それがすべてであるかのような錯覚が植え付けられてしまいました。

 確かにそのような時代もあり、またそのような地域が一部にあったことは事実ですが、すべてがそうではなかったのです。江戸時代になり政治的に安定期をむかえるようになると武士は官僚役人へと変化してゆきました。一次産業に携わる人々の扱いも丁寧になります。直訴・越訴や目安箱が用意され、江戸の町には、幕府に裁判や訴訟をお願いしに来た地方の人々のため専用の公事宿(くじやど)と呼ばれる宿があったくらいです。

 江戸時代後期に海外からやってきた欧米人が江戸周辺の農家の人々や風景をを見て、その清潔さ美しさ百姓たちの満たされて幸せそうな姿に感嘆しています。
そのようなところもあれば、イザベラ・バードは「日本奥地紀行」の中で僻地の百姓のみすぼらしさを記しています。

 さて、この訴訟、訴えられた戸口村はどのように対処したのでしょうか。


2019年10月18日金曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その19




 P.12 4行目〜最後。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」

(読み)
御慈悲    相 手之者 共被召出   理不尽 狼 藉 之
ごじひをもってあいてのものどもめしだされりふじんろうぜきの

始末 逸 々 御吟 味之上 木品 取 揃  早 々 引 渡  以来
しまついちいちごぎんみのうえきしなとりそろえそうそうひきわたしいらい

筏  川 下ケニ不差障   様 無難 二渡世 相 続  相 成 候   様
いかだかわさげにさしさわらずようぶなんにとせいあいつづけあいなりそうろうよう


(大意)
お慈悲をもって相手の者たちを召し出し、理不尽な狼藉の
事の次第を細かに念入りに調べていただき、諸材木など取り揃えて早々に引き渡し、これ以降
筏川下げに差し障りなきよう無事に商売を続けることができるように


(補足)
「慈悲」、ともに「心」がありますが、字体は異なってます。
また、前行「何卒以」のあと改行して、お役所への敬意と深いお願いの心を表しています。平出です。
「召」、これ一字では読めませんが、前後から判断します。
「逸々」(いついつ)、ひとつひとつ。
「品」のくずし字がこのあとの「早」とにてます。
「取揃」、この書き手の「取」はみな小さく、「被」のくずし字ににてます。「揃」はちゃんと「前」のくずし字があります。
「筏川下げ」、ここでは「桴」を使っていません。


2019年10月17日木曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その18




 P.12 3行目まで。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」

(読み)
出  水 有之  候ハ者  悉   く流  失 可仕     義眼 前 二而左候得者
しゅっすいこれありそうらわばことごとくりゅうしつつかまつるべきぎがんぜんにてさそうらえば

荷主 共 一 同 可及退轉     次第 二而当 惑 難 渋  仕    候   間
にぬしどもいちどうたいてんおよぶべきしだいにてとうわくなんじゅうつかまつりそうろうあいだ

無是非 御訴訟  奉申上       候   何卒以
ぜひなくごそしょうもうしあげたてまつりそうろうなにとぞ



(大意)
大水でも出ようものならば、ことごとく流されてしまうことは明らかなことであります。そのようなことになってしまったならば、荷主たち一同、職を失い途方に暮れ困り果ててしまうので
仕方なく訴訟申し上げました。なにとぞ


(補足)
「有之」、この書き手の「有」のくずし字がどうも苦手です。くずし字辞典にものってます。
「す」or「む」を途中まで書いて、最後に「一」なのですが、最後の「一」が大きくて惑わされます。
「候ハ者」、頻出ですが、ここのは読みづらい。
「悉」、「ノ」はなくなって、「米」+「心」。
「転」、旧字の「轉」のくずし字。

 記述内容の差し迫った心情とは裏腹に、手跡は粒ぞろいで整い乱れもありません。


2019年10月16日水曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その17




 P.11 4行目〜最後。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」

(読み)
不申  前 書 奉申上       候   通 り追々  出精  伐出  候   諸材木
もうさずぜんしょもうしあげたてまつりそうろうとおりおいおいせいだしかりだしそうろうしょざいもく

板 貫 類 当 時川 筋 へ差 出 候   分 凡  百  弐拾  艘 余
いたぬきるいとうじかわすじへさしだしそうろうぶんおよそひゃくにじゅっそうあまり

川 下ケニ礑 与差 支  日々人 足 之費夥   敷 殊 二此 上
かわさげにはたとさしつかえひびにんそくのひおびただしくことにこのうえ


(大意)
さしあたって、申し述べてきたように、引き続き日々材木伐りだしに励み諸材木
貫板など、現在川筋へ搬出していた分およそ120艘余りが
川下げにまったく滞ってしまっています。毎日の人足の費用もおびただしく、この上


(補足)
 戸口村の乱暴者共にされ放題で河原に散乱されたままになっている筏、諸材木はそのままです。
大水でも出たら、すべて流され被害甚大になります。筏仲間にも督促されたのでしょう。訴訟をお願いしお白州で戸口村の者共と対決します。

 その11で「十三艘相手村方地先迄乗下ケ候」とありましたが、ここでは120艘とあります。
戸口村のところで通せんぼになっているため、このあと予定していた筏川下げの分が120艘ということなのでしょうか。

 訴訟をお願いしている割には、文面がどこか混乱して正確ではないようです。
わたしの頭の方かもしれませんが。

「出精」、せいをだす、しゅっしょう。頑張って、ということでしょう。
「板貫類」、「類」一文字なら読めませんが、「諸材木板貫」ときているので(るい)とわかります。
「礑与」(はたと)、こんな漢字を当てるのですね。見たこともない漢字です。
「夥敷」、〜敷の表現はたくさんあります。怪敷(あやしく)、間敷(まじく)、六ケ敷(むずかしく)、委敷(くわしく)、嘆敷(なげかわしく)など。


2019年10月15日火曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その16




 P.11 3行目まで。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」

(読み)
候   ニ相 違無之  此方 存  寄 有 之 取 斗   候   義二付不及
そうろうにそういこれなくこちらぞんじよりこれありとりはからいそうろうぎにつき

懸合  二    勝 手次第 可致   猶 又 跡 ゟ 川 下ケ桴  之儀も同様
かけあいにおよばずかってしだいいたすべくなおまたあとよりかわさげいかだのぎもどうよう

取 斗   候   間  可得其意与  案 外  不当之儀申  聞 更二 取敢
とりはからいそうろうあいだそのいうべくとあんがいふとうのぎもうしききさらにとりあへ

(大意)
たことは相違ないとのことでした。われわれには考えがありうまく取りはかろうと
話し合いには応ぜずわれわれのしたいように致し、さらにその後の筏の川下げについても同様で
うまく対処しようとしたものの、そのようにしていることは思いのほか適当でないということを耳にいたしました。さらに差し当たって


(補足)
うーん、この3行は難しく、記している内容の大意をくみとるのも困難です。
なので、わたしの大意はフィクションになっているとおもいます。

飯能市郷土館収蔵資料目録8(収蔵文書目録その3)の史料集現代語訳のこの箇所は
「この件については話し合いにならず勝手ままにするなどとしていたため」としています。
この部分の訳の担当者も苦しんだ様子がわかります。

 ややくだいて、想像95%でこの箇所の言わんとしていることはこんなことでしょうか。
番小屋を壊され、筏もバラバラにされ、上荷も河原に散乱されてしまいました。
慌てて駆けつけた荷主や船頭たちは、今後のこともあり(川下りなので必ずここは通らなくてはなりません。迂回路はないのです)、なんとか穏便に対処しようとしました。まぁ早い話が、気持ちの上ではもやもやといろいろな考えがあったのですが、今後のことをおもんばかって泣き寝入りに近い対処であったわけです。ところがそのようにしていたところ周囲からの噂を耳にします。
泣き寝入りは良くない。明らかに不当なのは戸口村の奴らだ。いつまた同じようなことをされるかもしれない。筏仲間からの突き上げがあったのでしょう。仲間からの支持もあることがわかったので、何はさておき、ことの詳細を記し、お役所へ訴訟することにしました。

 これで、話の筋は通りそれらしく話が次につながってゆくような気がします。


「此方」これで(こちら)と読むようです。
「存寄」(ぞんじより)、考え、思いつき。「寄」はわかりやすいはずなのですが、ここのは難。
「不及懸合二」、行をまたいでいるので、間違いやすい。「懸」がずいぶんと簡略可されてます。
「勝手次第」、「勝」が難しい。
「跡ゟ」、よく出てきますが、読めそうで今ひとつでした。

「可得其意与」、「得」がわかりませんでした。
「案外」、「案」は「宀」ですが、くずし字は異なっていて悩みます。
「取敢不申」、ここも一行目末と同様、行をまたいでいて間違えやすい。

 たった3行なのに、難しい箇所でした、ふぅ〜。


2019年10月14日月曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その15




 P.10 4行目〜最後。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」

(読み)
私   共 へ申  聞ケ候   者地先 河原 へ桴  繋  畄 候   義名主 又四郎へ
わたくしどもへもうしきけそうろうはじさきかわらへいかだつなぎとめそうろうぎなぬしまたしろうへ

而己相 届 ケ相 名主 周  蔵 ヘハ無沙汰 二致  候   段 心 外 二付
のみあいとどけあいなぬししゅうぞうへはさたなくにいたしそうろうだんしんがいにつき

我 等始  三 拾  三 人 相 談 之上 番 小家打 毀  桴  切 流 シ
われらはじめさんじゅうさんにんそうだんのうえばんごやうちこわしいかだきりながし



(大意)
わたしたちが聞くことができた内容は、村近くの河原へ筏を繋ぎ留めることを名主又四郎
だけに届け出て、同じ名主の周蔵へは届けが無かったことが心外であったため
われらはじめ33人で相談の上、番小屋を打毀し筏を切り流し


(補足)
「無」がわかりにくい。
「我等」のときは「等」のくずし字ですが、「など」「とう」のときには「ホ」になるようです。
「相談」(そうだん)、現在では日常語ですが、昔の名残の言葉なのかもしれません。

 33人での騒動は小競り合いとは言いません。
ちょっとした戦闘です。


2019年10月13日日曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その14




 P.10 3行目まで。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」

(読み)
役 人 へ相 届 ケ為立合   見届  候   上 右 狼 藉 二およひ候   節 番
やくにんへあいとどけたちあいさせみとどけそうろううえみぎろうぜきにおよびそうろうせつばん

人 共 面 躰 見届 ケ候   相 手名前 之者 共 同 村 名主 周
にんどもめんていみとどけそうろうあいてなまえのものどもどうそんなぬししゅう

蔵 宅 へ呼 寄セ始末 相 尋  候   所  相 手之内 七 左衛門 儀
ぞうたくへよびよせしまつあいたずねそうろうところあいてのうちしちざえもんぎ


(大意)
役人へ届け出て、立会のうえ確かめました。このような狼藉におよんだ者たちの顔かたちは番人がおぼえていましたので、その者たちを戸口村名主周蔵宅へ
呼び寄せ事の子細を尋ねました。相手のうち七左衛門が


(補足)
「尋」、「口」と「寸」がひとつになってしまってます。

 このあと、この事件の内容が明らかになってゆきますが、結構大きな騒動であることに驚かされます。


2019年10月12日土曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その13




 P.9 4行目〜最後。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」

(読み)
小家掛 之板 小貫 等 悉   く打 毀  上荷 之板 貫 小
こやがけのいたこぬきなどことごとくうちこわしうわにのいたぬきこ

割 等 大 半 紛 失 仕    材 木 之分 ハ切 流 シ河原 二散 乱 致
わりとうたいはんふんしつつかまつりざいもくのぶんはきりながしかわらにさんらんいたし

多分 之流  失 ハ有之  間敷 様 子二見請 候   間  其 段 右 村
たぶんのりゅうしつはこれありまじくようすにみうけそうろうあいだそのだんみぎむら



(大意)
小屋掛けの板や小貫などことごとく打ち壊され上荷の貫板や小割
などのほとんどは紛失し、材木はバラバラにされ河原に散乱し
大部分が流されてしまったようではなかった様子に見受けられました。このことを戸口村


(補足)
 筏の流しは材木を組んだものに船頭が乗り、ただ下流へ運ぶという印象が強いですが、上荷もたくさん積んでいました。その被害状況を記しています。逆にこのとき何を積んでいたかが詳しくわかります。

 組んでいた材木もどうやら流されることはなくバラバラにされて河原に散乱していたようです。

「有之」、頻出語句ですがここのくずし字は読めませんでした。「有」が???です。


2019年10月11日金曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その12




 P.9 3行目まで。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」

(読み)
可打毀    旨 申  訇  り鳶 口 を以  番 人 を打  椰  二およひ
うちこわすべくむねもうしののしりとびぐちをもってばんにんをちょうちゃくにおよび

大 勢 之儀ニ付 難叶   一 同 逃 去 追 々 村 方 へ立 帰 り
おおぜいのぎにつきなんじゅういちどうにげさりおいおいむらかたへたちかえり

右 始末 申  聞 候   間  早 速 荷主 共 駈 付 見届 ケ候   處
みぎしまつもうしききそうろうあいださっそくにぬしどもかけつけみとどけそうろうところ



(大意)
打ち壊すと大声でののしり鳶口で番人を殴りつけるに及び
相手は大勢であったためかなわず、皆逃げ去りそのまま村へ帰りました。
このような事の次第を申し聞きましたので、すぐに荷主たちは現地に駆けつけ見て確かめたところ


(補足)
「訇り」、この漢字は初めてお目にかかりました。漢字は知らないもののほうが圧倒的に多いことは承知していますが、こんな漢字もあるのですね。
いろいろ調べました。どうやら(ののしり)と読むようです。現在では「罵り」でしょう。
「鳶口を以番人を」、「ヲ」ではなく平仮名の「を」が続きます。
「打擲」(ちょうちゃく)、当時は普通に使われていたようです。なぐりうちすえること。
「早速(さっそく)」ですが、初心者でそそっかしいわたしは「相迷い」に見えてしまいました。
「駆」の「区」のくずし字の部分は「近」のようなかたちです。読めませんでした。
「見」、いつものと形が異なるくずし字ですが、辞書にはこの形もありました。

 夜11時頃の事件ですから、夜を徹して村まで急ぎ足で戻ったことになります。それにしても十数キロはあるはずの真っ暗な夜道です。戻った船頭たちから顛末を聞いた荷主たちもすわ一大事と同じ道を急ぎ引き返しました。大きな騒動であることが伝わります。


2019年10月10日木曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その11




 P.8 4行目〜最後。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」

(読み)
家五ヶ所 補理番 人 附 置 候   所  同 夜 四ツ半 時 頃 鎌
やごかしょほりばんにんつけおきそうろうところどうよるよつはんどきごろかま

鳶 口 等 携   多人 数 押 来  理不尽 二番 小家打 毀  候   二付 番 人
とびぐちとうたずさえたにんずうおしきたりりふじんにばんごやうちこわしそうろうにつきばんにん

共 打 驚   狼 藉 之旨 聲 掛 候   所  桴  切 流  之妨  致  候ハヽ
どもうちおどろきろうぜきのむねこえかけそうろうところいかだきりながしのさまたげいたしそうらわば



(大意)
を5ヶ所設置し番人を付けて置きました。その夜4ツ半(11時)頃、鎌
鳶口等を手にした者たちが大勢やってきました。理不尽に番小屋を打毀しましたので番人たちは
驚き乱暴なふるまいをやめるよう声を掛けましたしたが、筏を切り流すのを邪魔立てしたら


(補足)
「補理(ほり)」、今では聞き慣れない単語ですが、かってはよく使われていたようです。
「携」、「推」が上部にきて「乃」が下部になってます。よく見られる部品の位置関係です。
「驚」は楷書のような書き方が多いのですが、ここのはわかりにく。
「旨」、この方は「匕」が癖字で「上」のようになってます。他の箇所でも同じです。
「聲」、ここの字はおそらく旧字の字体。
「候ハヽ」、最後に詰めて小さく書いたので一文字のよう。

筏大きさは、「名栗の歴史 上」P.274から引用しますと、
一艘は巾約7m・長さ約37mで、これは一枚と呼ばれる巾約1m・長さ約12mのものが24枚集まったもの。
筏の単位は「艘(双)」が一番大きい単位で「ふり」「枚」という順。
材木の本数は一枚で15本くらい、一ふりで40〜50本、一艘で280〜300本。
これらの上に上荷(うわに)と呼ばれる杉皮や貫(小幅の平板)が積まれ、これらも取引の重要な商品でした。

 一枚15本でこれが24枚だと、360本で、一艘が300本ですから、計算が合いませんが、まぁこんなものだったのでしょう。

 戸口村あたりまでは1人で4〜12枚、荒川の本流では1人で8〜12枚または24枚に2人乗りとあります。
「十三艘相手村方地先迄乗下ケ候」とありますから、大きな筏軍団だったことがわかります。
なので番小屋も「五ヶ所補理番人附置候」だった訳です。

 さて、争いごとが始まりました。
どうなることやら。


2019年10月9日水曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その10




 P.8 3行目まで。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」

(読み)
追々  水 増 二相 成 候   二付 取 急  当 月 十  三 日 先 出之 桴
おいおいみずましにあいなりそうろうにつきとりいそぎとうげつじゅうさんにちさきだしのいかだ

十  三 艘 相 手村 方 地先 迄 乗 下ケ候   所  及日暮二   候  二付
じゅうさんそうあいてむらかたじさきまでのりさげそうろうところひぐれにおよびそうろう につき

同 村 名主 又 四郎 へ相 届 ケ川 端 二桴  繋  畄 河 原へ番 小
どうそんなぬしまたしろうへあいとどけかわばたにいかだつなぎとめかわらへばんこ(や)



(大意)
少しずつ水量が増してきましたので、取り急ぎ今月13日に先に出した桴
13艘を相手村(戸口村)の土地まで乗り下げましたところ、日暮れになってしまったため
同村名主又四郎へ届け出て川岸に桴を繋ぎ留め河原へ番小屋


(補足)
 実際の桴の大きさが飯能博物館の西川材のコーナーの床に描かれています。その床の筏にのればSUPのように自分で漕ぎ出すような感じがわかります。意外と巾が狭くてこれではすぐにボチャンでしょう。

 戸口村までで日暮れになってしまったとあります。吾野からは急流や堰が何箇所もあり難所続きです。距離は左程でもありませんがやはり苦労しながら川下りをしたのだとおもいます。

「乗」のくずし字は上下ふたつにわけて書かれます。
「暮」のくずし字は2文字に見えることが多いのですが、ここでは普通に一文字。


2019年10月8日火曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その9




 P.7 4行目〜最後。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」

(読み)
小割 等 川 下ケ仕    度 奉存      候得共   元 来 谷 川 之儀ニ而
こわりとうかわさげつかまつりたくぞんじたてまつりそうらえどもがんらいたにかわのぎにて

平 日 至  而水 細 く余程 之大 水 二無之  候而者   桴  川 下ケ
へいじついたってみずほそくよほどのおおみずにこれなくそうらいてはいかだかわさげ

難相成    候   間  出  水 相 待罷   在 候   所  漸々  六 月 中  旬  ゟ
あいなりがたくそうろうあいだしゅっすいあいまちはべりありそうろうところようようろくがつちゅうじゅんより



(大意)
小割などを川下げしようとしたのですが、もともと高麗川は谷川であるため
普段はいたって水量が少なく、よほどの大水のときでなければ桴の川下げは
難しくありまして、そのため水量が増すのを待っていたところようやく6月中旬より


(補足)
「小割等」、「等」のくずし字は「ホ」のような形のことが多いですが、ここのは異なっています。
「水」、ここの字は楷書に近い。左の行の「出水」の「水」も同様。しかし「大水」では読み取りにくい「水」のくずし字になってます。
「余程」、「余」が少々悩みました。
「相待」、「待」の「寺」の部分のくずし字は「る」のような「5」のような形。「等」の「寺」も同じ。



2019年10月7日月曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その8




 P.7 3行目まで。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」

(読み)
私   共 儀前々  ゟ 材 木 渡世 仕    高麗川 通  桴  組 下ケ
わたくしどもぎまえまえよりざいもくとせいつかまつりこまがわどおりいかだくみさげ

御当 地へ運 送 仕来  候   然 ル所  当 春 中 御当 地大 火
ごとうちへうんそうしきたりそうろうしかるところとうはるなかごとうちたいか

二而渡世 筋 之者 共 一 同 出  精 仕    諸 材 木 丸 太板 貫
にてとせいすじのものどもいちどうしゅっせいつかまつりしょざいもくまるたいたぬき



(大意)
私たちは以前より材木を生業とし高麗川で桴流しをして
御当地(江戸)へ運送を行ってきていました。しかしながらこの春頃の江戸の大火
のために、この生業をしている者たち一同は精を出して諸材木・丸太・貫板


(補足)
「渡世」というと任侠映画の渡世人か「渡る世は鬼ばかり」が親しまれてますが、以前は日常語でした。
「高麗川通」、この「通」は川の道としての「通り」なのか「高麗川を通って」の意味なのかどちらでしょうか。
「御当地大火」、この文書が弘化3年8月なので、弘化2年1月24日(1845年3月2日)の火事のことかもしれません。
「春」、春夏秋冬は頻出で重要ですが「春」のくずし字が一番難しいかも。
「板貫」、現在では逆にして「貫板」(ぬきいた)が一般的です。一番目にする平べったい板のこと。柱と柱の間を「貫」くのに使われる「板」。

 1ページに6行、字の大きさもそろっていて、几帳面にかかれています。


2019年10月6日日曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その7




 P.6 4行目〜最後。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」

(読み)
谷 間二而田畑 至  而少  く農 業  而己二而者半 年 之
たにまにてたはたいたってすくなくのうぎょうのみにてははんとしの

夫食 二も引 足不申   候   間  銘々  材 木 伐 出シ杣 木挽
ぶじきにもひきたりもうさずそうろうあいだめいめいざいもくかりだしそまこびき

炭 焼 等 相 稼  御年 貢上  納 夫食 買 入 仕    候   村 柄 二而
すみやきなどあいかせぎおねんぐじょうのうぶじきかいいれつかまつりそうろうむらがらにて


(大意)
谷間にあって田畑が少なく農業だけでは半年分の
食料にも不足する状況ですので、それぞれが材木を伐り出し木こりや製材
炭焼きなどをして稼ぎ年貢を納め、食料を買い入れたりしています。そのような村の状況のため


(補足)
「二而」(にて)、「至而」(いたって)、「而己二而者」(のみにて)、「而」が繰り返されてますが、それにしても字が小さい。
「夫食」(ぶじき)、食料のことですがいままで(ふしょく)と読んでいました。
「買入」、「買」が違う字に見えます。


2019年10月5日土曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その6




 P.6  3行目まで。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」

(読み)
佐右衛門
さえもん

利三郎
りさぶろう

右 訴訟  人 保兵衛 奉申上       候   私   共 村 方 之儀者山 續
みぎそしょうにんやすべえもうしあげたてまつりそうろうわたくしどもむらかたのぎはやまつづき



(大意)
佐右衛門
利三郎

右の訴訟人である保兵衛が申し上げます。わたしたちの村は山間部の


(補足)
「訴訟人」、どうも「訟」のくずし字が気になります。くずし字辞典で調べると「公」の部分が「乙」のような形のもがほとんどで、ここのものに似たものはありません。この方の手跡ということで納得しておきます。

さて保兵衛さんどのように訴えるのでしょうか。



2019年10月4日金曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その5




 P.5 表紙。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」

(読み)
平 岡 対馬 守  御知行  所
ひらおかつしまのかみごちぎょうじょ

武州  入 間郡 戸口 村
ぶしゅういるまぐんとぐちむら

相手
あいて

七左衛門
しちざえもん

佐七
さしち

狼 藉 出入  利助
ろうぜきでいり りすけ

久五郎
ひさごろう

寅五郎
とらごろう

万五郎
まんごろう

佐十
さじゅう

(大意)


(補足)
「知行所」、平岡対馬守が旗本でその領地をあらわす。大名領のときは「領分」。幕府直轄領のときは「御代官所(おだいかんしょ)」、しかし建物のことではなく代官の管轄領域を意味し「御支配所(ごしはいじょ)」と表記することも多い。

「万五郎」、ここだけ「郎」のくずし字が「ら」となってます。おそらく「万五郎」さんがこのように書くので、書き手もそれを承知していてこのように書いたのだとおもいます。

 これで、訴訟人(訴える方)と相手方がそろいました。


2019年10月3日木曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その4




 P.4 すべて。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」

(読み)
百姓
ひゃくしょう

吉蔵
よしぞう

南川村
みなみかわむら

組頭
くみがしら

均平
きんぺい

坂元村
さかもとむら

百姓
ひゃくしょう

弥次郎
やじろう

右五人惣代
みぎごにんそうだい

訴訟人
そしょうにん

保兵衛
やすべえ


(大意)


(補足)
「訴訟人」、「訴」は原型をとどめているので読めますが、「訟」はアップしてみてもこれ一文字だと読めません。

「弥次郎」、「郎」のくずし字は「戸」+「巾」ですが、この書き手の癖でしょうか、「戸」が右によってます。

2019年10月2日水曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その3




 P.2 白紙。 「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」
 P.3 すべて
(読み)
乍恐    以書付     御訴訟  奉申上       候
おそれながらかきつけをもってごそしょうもうしあげたてまつりそうろう

林  部善 太左衛門 御代 官 所
はやしべぜんたざえもんおだいかんじょ

武州  秩父 郡
ぶしゅうちちぶぐん

坂 石 村
さかいしむら

組 頭
くみがしら

保 兵衛
やすべえ

百  姓  代
ひゃくしょうだい

忠  右衛門
ちゅうえもん

坂 石 町 分
さかいしまちぶん



(大意)
恐れながら書面をもって訴訟申し上げます。
林部善太左衛門御代官所
武州秩父郡
坂石村
 組頭 保兵衛
 百姓代 忠右衛門
坂石町分


(補足)
「乍」は独特のくずし字ですが、ここのものも立派です。
「官」が小さくてくずし字もよく読めませんが、「代官所」とあるので推測できます。
「武州」、ここの「州」のくずし字は前頁のものとは異なってます。



2019年10月1日火曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その2




 P.1 。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」

(読み)
弘 化三 年 午 八 月
こうかさんねんうまはちがつ

武州  秩 父郡 我 野四 ヶ村 ゟ 同 州  入 間郡 戸口 村 へ
ぶしゅうちちぶぐんあがのよんかそんよりどうしゅういるまぐんとぐちむらへ

相 懸 り桴  出入 訴状  并  相 手方 返 答 書 御駕籠
あいかかりいかだでいりそじょうならびあいてがたへんとうしょおかご

訴願 書 詫 一 札 等 之写
そがんしょわびいっさつとうのうつし

御奉行  所
おぶぎょうじょ

久須美佐渡 守 様
くすみさどのかみさま

御畄 役 御掛 り赤 木唯 五郎 様
おとめやくおかかりあかぎただごろうさま



(大意)
弘化三年午八月
武州秩父郡我野四ヶ村より同州入間郡戸口村に
対する桴訴訟の訴状ならびに相手方の返答書、駕籠訴の
願書、詫び状などの写し
御奉行所
久須美佐渡守様
御畄役御掛り赤木唯五郎様



(補足)
「弘化」、(1844年12月2日〜1848年2月28日)。天保⇒弘化⇒嘉永。
干支は右側に少しずらして書くのが多かったですが、ここではそのままです。
「入間郡戸口村」、現在の坂戸市
「出入」、もめごと、けんか、いざこざ、争い、訴訟。
「駕籠訴」(かごそ)、よく時代劇で大名の駕籠に直訴する場面があります。訴える方法の一つでしょう。「駕」はなんとかわかりますが「籠」はむずかしい。

「懸」、辞書で調べると、ここのくずし字はもっとも単純化されたもののようです。ひらがな「つ」をかいてそのままカタカナ「イ」、やや重ねるようにひらがな「と」のような感じ。
「返」、読めませんでした。

 読みやすい字もありますが、癖字のようなくずし字もあってスラッとは読めません。