2019年7月23日火曜日

変事出来二付心得覚記 その250




 P.152 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
之上 と申   事  二而代 八 殿 帰 り申  候
のうえともうすことにてだいはちどのかえりもうしそうろう

右 之段 名主 太次郎 殿 二廿   七 日 二
みぎのだんなぬしたじろうどのににじゅうしちにちに

道 二而噺 し申  候ハヽ、 夫 者御取 締  江
みちにてはなしもうしそうらわばそれはおとりしまりへ

書付  上 り候   と申  事 二無御座候
かきつけあがりそうろうともうすことにござなくそうろう

我 野寄場 迄 之事 二候   貴殿
あがのよせばまでのことにそうろうきでん

申  事 尤   二御座候   何 程 二而も
もうすこともっともにござそうろうなにほどにても

施  し之儀二御座候ハヽ  新 組 分 ハ
ほどこしのぎにござそうらわばしんぐみぶんは

受 納 為致  申  候   太次郎 殿 申之
じゅのういたさせもうしそうろうたじろうどのもうす


(大意)
その上でと言い残し代八殿は帰って行きました。
以上のような事を名主太次郎殿に27日に
立ち話したところ、それはお取締へ
書付が届いたということではないだろう。
我野寄場までのことであろう。貴殿が
言うことはごもっともです。どのような金額でも
施し金であることに違いはないのですから、新組の分は
受け取らせるつもりですと、太次郎殿は述べました。


(補足)
 「〜申様」の形の会話文は、簡単なようですが、話が込み入ってくるとわけが分からなくなってしまいます。誰が誰に向かって話しているのか、話している人が誰かから聞いてきた伝聞の内容が含まれだすととたんに?マークが眼の前をクルクルしはじめてしまいます。古文書初心者は悲しい。

 「名栗の歴史 上」P.443、P.444に施金の実行として次のようにあります。
千両は3回に分けて支払われ、慶応2年8月24日369両、慶応3年1月24日333両、4月17日298両。
慶応2年の上名栗村の村民数1338名、家数271軒であり困窮者が手にしたのは1両あまりになってしまったと思われる、とあります。

 同頁には引き続き一揆の鎮圧の顛末が記されてます。一揆勢の最後は6月18日に忍藩の秩父大宮陣屋に打ちこわしを掛けた後、翌日も小鹿野などへ進み、内秩父の山中で忍藩兵や大宮町の自警農民らによって迫撃を受け、解体して終わったという、とあります。

 話はそれますが、
[幕末下級武士の絵日記その暮らしと住まいの風景を読む 相模書房 2007.5 大岡 敏昭 著]
この本の幕末下級武士というのが忍藩の藩士尾崎石城で、彼の友人との交遊の様子が絵日記で
文久元年(1861)から翌年までの178日間の日常が書かれたものなのです。
おもしろいです。原文は「石城日記」としてすべてネットで見ることができます。
なんとものんびりした毎日の様子が絵日記なので酒宴の様子なども実に8ミリフィルムを見ているようです。
 その彼らが日記を記した約4年後に、のんびりした生活から打って変わって戦闘に駆り出されるのですから、何が起こるかわかったものではありません。

「我野」、「野」のくずしじをよく見ると、「里」が上で「予」が下にくるような感じだとおもっていたのですが、そうではないようです。形で覚えるしかなさそう。
「貴殿」、「殿」が太次郎殿、代八殿のくずし字とは異なります。

「噺」、「新組」、両方の「新」の部分が似ているようでそうではないようで。
「為致」、「為」がとてもわかりやすい。
最後の行の「太次郎殿」の「郎」がいつもとは違ってます。



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