P.148 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」
(読み)
金 子もお満へさんが多ゟ 上ミに者
きんすもおまえさんがたよりかみには
六 七 軒 余 志ら貸し候 者 者無御座、
ろくしちけんあまりしらかしそうろうものはござなく
代 八 殿 申 様、 それでなけ連ハ三 両 位
だいはちどのもうすさま、それでなければさんりょうくらい
出し候 者 者差 おさへ不残 出スと
だしそうろうものはさしおさえのこらずだすと
いふ者 御座候 夫 ヲ聞 天ハお満へ
いふものござそうろうそれをきいてはおまへ
村 人 氣ヲ背 事 も出来るかも志れ
むらにんきをそむくこともできるかもしれ
ぬ、懇 意之事 故 談 事い多春と
ぬ、こんいのことゆへだんじいたすと
申 二付 源左衛門 申 様 夫 者施 しの事
もうすにつきげんざえもんもうすさまそれはほどこしのこと
ゆへ思 召 次第 人の 施 しハ私 の為
ゆへおぼしめししだいひとのほどこしはわたくしのため
二奈ら須私 しの施 しハ人 の為 二な
にならずわたくしのほどこしはひとのためにな
ら春゛、弐百 両 と申 せハ私 之身分
らず にひゃくりょうともうせばわたくしのみぶん
(大意)
金貸しについても皆さんの住んでいるところより山間部の
6,7軒ぐらいにしか貸してはおりません」
代八殿の「それができないのであれば3両くらい
出す者は差し押さえ、残らず出す
という者がいるだろう。そんなことを聞いておまえは
村の評判に背いてしまうことになってしまうとはおもわぬのか、
懇意にしているので相談しているのだ」に答えて、源左衛門がいう。「それは施しについてのことなので人それぞれのお考えがあるはずです。人の施しは私のため
にならず、私の施しは人のために
ならず。200両といえば、私の身分
(補足)
書き手は源左衛門さんに戻ったようです。字の大きさ具合といい1頁に12行から13行、覚記最初の頃は筆圧も強く力みが見られましたが、この頃になると力も抜けてきてます。
代八、源左衛門のふたりの話し合った要点を記すだけでも良かったところですが、ふたりの実際の会話を細かに記したのは何かわけがありそうです。施し金について村の人気(評判)がやはりというか相当気になるからだったのでしょうか。後世までケチな名主だったなどと言われ続けたらたまったものではありません。こんないきさつや訳があったのだよと残しておきたかったようです。
平仮名や変体仮名がたくさん使われています。
「六七軒余志ら」、「志ら」。次々頁にも「お連ハ百五十両程志らださぬ」と出てきます。
辞書には「普通,終助詞「か」とともに「〜かしら」の形で用いられる。」とあります。
文の流れからは(〜しか)があてはまりそうです。
代八の「それでなけ連ハ三両位〜いふ者御座候」がよくわかりません。
「思召」、読めませんでした。
「人の施しハ私の為二奈ら須、私しの施しハ人の為二なら春゛」、福沢諭吉「学問のすゝめ」はまだ発刊されてませんでしたが、どこかで読んだような言い回し。
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