2019年7月31日水曜日

変事出来二付心得覚記 その258




 P.163 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
村 方 村 役 人 平 日 不清意
むらかたむらやくにんへいじつせいいせず

不取締   之故 右 様 之次第
とりしまらずのゆえみぎようのしだい

名主 者急 度御叱 り年 寄
なぬしはきっとおしかりとしより

組 頭  叱 り置 御裁 許
くみがしらしかりおきごさいきょ

済 二相 成 左二可相心趣被
すみにあいなりさにあいこころおもむくべく

申渡候
もうしわたされそうろう

太次郎 殿 廿   三 日 岩 鼻 出  立
たじろうどのにじゅうさんにちいわはなしゅったつ

廿   四 日帰 り
にじゅうよっかかえり

廿   五日 御出役 田中 佐与太郎 様
にじゅうごにちごでやくたなかさよたろうさま


(大意)
村役人たちが普段から誠意をもって
取り締まらなかったから、このようなことになってしまった。
名主は急度御叱り、年寄
組頭は叱り、のお裁きと
なりました。以上のことしっかりと心に留め置くよう
申し渡されました。
太次郎殿23日に岩鼻を出発し
24日に着
25日御出役田中佐与太郎様


(補足)
 ところどころ上書きしたり、筆圧が乱れたり、筆の調子が良くないのでしょうか。
「清意」、誠意としました。
「右様之次第」、決まり文句のようで、「右様之儀」みたいにも使われる。
「済」のくずし字は何度か出てきてますが、やはり難しい。
「趣」「渡」の偏のくずし字が同じです。
「心」、「心得」として頻出ですが、他の字と組み合わさらないと読むのが難しい。たくさんの古文書を読んで使われ方を把握しておくことがやはり大切そう。
最後の2行文頭「廿」のくずし字が気になります。


2019年7月30日火曜日

変事出来二付心得覚記 その257




 P.162 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
右 二付 新 組 二而太次郎 殿
みぎにつきしんぐみにてたじろうどの

古組 二而啓 之助 殿 両  人 罷  出
こぐみにてけいのすけどのりょうにんまかりで

  被仰渡    候   次第
  おおせわたされそうろうしだい

太次郎 殿 申  口 留 置  候  紋 二郎
たじろうどのもうしぐちとめおきそうろうもんじろう

豊 五郎 儀昨 年 六 月 打 毀  二付
とよごろうぎさくねんろくがつうちこわしにつき

頭 取 罷  出候   趣   於府中宿二
とうどりまかりでそうろうおもむきふちゅうしゅくにおいて

申  立 二依而 御奉行  所 江差 立
もうしたてによりておぶぎょうしょへさしたて

相 成 夫 二相 違  ハないか太二郎 殿
あいなりそれにあいちがいはないかたじろうどの

相 違  無之  趣   申之 然 ル依 而
あいちがいこれなくおもむきもうししかるよりて


(大意)
(御用状に)したがって新組では太次郎殿
古組では啓之助殿の両人がでかけました。
 次のように仰せ渡されました。
太次郎殿の話。留め置いている紋二郎
豊五郎は、昨年6月打ち壊しの
首謀者としてでかけたようである。府中宿で
出頭要請により、お奉行所へ連れてくることに
なった。それに違いはないか(との尋ねに)太次郎殿
相違はございませんと答えた。それでは(申し渡す)、


(補足)
 源左衛門さんの手跡のようです。
濃い墨汁で筆致に元気がある。体調が戻ったかな。

「太次郎」、終わりから2行目行末では「太二郎」となってます。やはり間違いやすいんですね。
「太次郎殿」「啓之助殿」、「殿」のくずし字が異なってます。また「啓」の「口」が旁の方にいってます。
「昨年」、「年」のくずし字はほとんど丸印。
「於」このくずし字はわかりやすい。

「依而」、この頁に2回でてきてます。全文検索してみるとP.84とこの頁だけです、計3回。
読みは(よって)(よりて)だとおもいますが、さて。


2019年7月29日月曜日

変事出来二付心得覚記 その256




 P.161 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
もの也
ものなり

 岩鼻
 いわはな

卯八月 御役所
うはちがつ おやくしょ  

      上名栗村
      かみなぐりむら

       名主
       なぬし

       村役人
       むらやくにん


(大意)


(補足)
 はじめからこれだけの文章量とわかっていたためか、字がデカイ。
日付は「卯八月」です。
「もの也」、「也」だけを素直にみると「や」。

 この御用状が来るまでに約1年弱かかってます。
この翌年は明治元年になります。激動の時代真っ只中でした。
岩鼻お役所に出向き、名主に言い渡された内容が次頁になります。


2019年7月28日日曜日

変事出来二付心得覚記 その255




 P.160 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
御支配 岩 鼻  従 
ごしはいいわはな じゅう
 
御役 所 卯八 月 十  九日 夕
おやくしょうはちがつじゅうくにちゆう

御用 状
ごようじょう

 尋  儀有之  候   間  来 ル
 たずねぎこれありそうろうあいだきたる

 廿   二日 四ツ時 迄 名主 組 頭
 にじゅうににちよつどきまでなぬしくみがしら

 罷 出 可相届    若 不参
 まかりであいとどけべくもしまいらず

 於ゐてハ可為曲事
 おいてはくせごとたるべき(ものなり)


(大意)
ご支配
お役所より卯八月十九日夕
御用状が来る

尋ねたいことがあるので、来る
22日4ツ時(10時頃)までに名主と組頭
出頭すること。もし出頭しないときは
法にそむいたと判断する。


(補足)
 P.157〜P.159の3頁が空白ですので、頁がとんでP.160からです。
空白ページになんらかの理由があったのかどうか、気になります。

 日付が「卯八月十九日」とあります。いままでは「寅」でしたから「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」に従って、翌年の慶応3年(1867年)になります。歎願書を出したり、府中へ出かけたりしていた約1年後の書状の控えになります。

「従」、くずし字が読めそうで読めません。
「来ル」、この「ル」って変体仮名「流」でしょうか?
「廿二日」、「廿」は頻出ですが、字体がいろいろあって難しい。

「若不参於ゐ天ハ可為曲事もの也」、お役所御用状の決まり文句のようです。
「於」は変体仮名の「お」ですが、この一文字だけを見つめていても読めません、「於ゐ天ハ」とつながってようやくです。初心者から抜け出せません。


2019年7月27日土曜日

変事出来二付心得覚記 その254




 P.156 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
宿 江帰宅 以多し候
やどへきたくいたしそうろう

十  六 日  太次郎 殿 湯嶋
じゅうろくにち たじろうどのゆしま

    小川 や喜太郎 殿 宅
    おがわやきたろうどのたく

    出  立 十  七 日 帰宅
    しゅったつじゅうしちにちきたく

          以多し趣
          いたしおもむき


(大意)
宿へ戻りました。
16日 太次郎殿湯嶋
   小川や喜太郎殿宅
   出立し17日に帰宅
   したようです

(補足)
 この頁でこの形式の記述は終わります。およそ4頁ありました。
どうもとらえどころのない、わからない内容です。
まぁ、もっとも、この覚記をまとめた人(たち)にとっては必要なものだったのかもしれません。

「嶋」、このくずし字が意外とわかりにくい。


2019年7月26日金曜日

変事出来二付心得覚記 その253




 P.155 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
九日 寅次郎殿新立江行、
ここのか とらじろうどのにったちへゆく

   半次郎殿歎願惣代
   はんじろうどのたんがんそうだい

十日 名主太次郎殿 
とおか なぬしたじろうどの

   組頭半次郎殿 歎願
   くみがしらはんじろうどの たんがん

   右両人罷出候
   みぎりょうにんまかりでそうろう

十一日
じゅういちにち

十二日 直次郎殿帰宅致し
じゅうににち なおしろうどのきたくいたいし

十三日 江戸江出立、十四日着致、
じゅうさんにち えどへしゅったつじゅうよっかちゃくち

太次郎 殿 筋 谷 橋 二而合 廿   一 日 二
たじろうどのすじたにばしにてあいにじゅういちにちに



(大意)
9日 寅次郎殿新立へ行く
   半次郎殿歎願惣代
10日 名主太次郎殿
   組頭半次郎殿 歎願
   右両人が出かけた
11日
12日 直次郎殿が帰宅して
13日 江戸へ出かけ、14日に到着
太次郎殿と筋谷橋で会い、21日に

(補足)
この頁もサラサラさらっと手控えに記しているよう。

13日に江戸へ向けて旅立ってますが、翌日14日にもう到着しています。
速い。
川越から船を使ったのかもしれません。


2019年7月25日木曜日

変事出来二付心得覚記 その252




 P.154 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
夜 二入   福松  間  地江行  巳代松 ら
よるにはいり ふくまつはざまちへゆく みよまつら

大 嵐  我野 江行  巳代松 村 方 へ
おおかぜ あがのへゆく みよまつむらかたへ

    廻 文 を以  廻 ル
    かいぶんをもってまわる

八 日 源左衛門  義ハ太二郎 殿 相 頼  置
ようか げんざえもんぎはたじろうどのあいたよりおき

    川 又 江行、
    かわまたへゆく

五 ツ 秋 津五両  貸し、横 王ん
いつつ あきつごりょうかし よこわん

朝 迄  弐両  弐分、平  下 弐両  也
あさまで にりょうにぶ たいらしもにりょうなり 

    原 松 弐分、〆  拾  両  也
    はらまつにぶ しめてじゅうりょうなり

大 風  小殿 之儀者一 日 ゟ 病  気二而
おおかぜ こどののぎはついたちよりびょうきにて

   御座候   間、  組 下 者 遣  し候   間、
   ござそうろうあいだ くみしたものつかわしそうろうあいだ

   宣 敷 相 頼  と申  事 二而不参
   よろしくあいたよりともうすことにてまいらず


(大意)
[上段]
夜に入り
大嵐

八日

朝五ツ迄
大嵐

[下段]
福松間地へ行く。巳代松たちは
我野江へ行く。巳代松は村方へ
廻文をもって廻る。

源左衛門は太二郎殿を頼り
川又へ行く。
秋津五両、横王ん
二両二分、平下弐両也。
原松弐分〆拾両也。
小殿は1日より病気で
ある。組の使いのものを手配したので
宜しく頼むとのことで来ず。


(補足)
 この頁はいっそう乱暴で投げやりな手跡で下書きのようです。
「秋津五両貸し横王ん」の部分はまだなんとかなりますが、「弐両弐分」となると難しい。
「原松弐分」もおなじく乱暴。

「遣し候間」、「遣」=「キみたいな感じ」+「一」。その「一」につながって「し」。

「〆拾両也」の内訳が秋津、横王ん、平下、原松の四名に貸したのでしょう。
確かに五両+二両二分+二両+二分で拾両です。

小殿は吉田伴次郎(36才)。

 前頁と同様で、日付とその日の主だったことのメモのようでいまひとつ?です。


2019年7月24日水曜日

変事出来二付心得覚記 その251




 P.153 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
八月三日    砂 川 泊 リニ而帰 る
はちがつみっか すながわとまりにてかえる

四日  病  気二而休
よっか びょうきにてやすむ

五日  休
いつか やすみ

五日  直吉  増太郎  平 助 江戸へ行
いつか なおきちますたろうへいすけえどへゆく

六日  源左衛門  寅 二郎 新 立 江行
むいか げんざえもんとらじろうにったちへゆく

六日  留 吉 連 立
むいか とめきちつれだち

七日  寅 二郎 兵 三 郎 両  人
なのか とらじろうへいさぶろうりょうにん

   新 立 ゟ 柏  屋江行
   にったちよりかしわやへゆく

同日   古組 之儀者柏  屋組 ゟ 小物 迄
どうじつ こぐみのぎはかしわやぐみよりこものまで

   不残  打 寄セ入 用 拵   候   趣
   のこらずうちよせいりようこしらえそうろうおもむき

   新 組 二而も右 之趣   被成候    由
   しんぐみにてもみぎのおもむきなされそうろうよし


(大意)
8月3日 砂川に泊まり帰宅
4日   病気にて休む
5日
5日   直吉、増太郎、平助江戸へ行く
6日   源左衛門、寅二郎新立へ行く
6日   留吉を連れて
7日   寅二郎、兵三郎の両人
     新立より柏屋へ行く
同日   古組の件は柏屋組より小物まで
     残らずやってきて???
     新組でも古組と同じようにされるとよい


(補足)
 この頁から4頁続けて日付と文章がこの書式で記されます。最後は8月16日。
日付に従って時系列で箇条書きにその日の出来事をまとめたようですが、なんかかえって分かりづらい。日付を思い出しながら書いたのか、間違えての訂正も重ね書きしていて見にくい。
七日の次は同日としましたが、これは翻刻にそうあったからで、よく見ると八日を消して上書きしてあり、同日とは読めません。

 源左衛門さんの動静はP.127にもあるように、砂川に出かけましたが病気になって帰宅し休みました。その後回復して寅次郎と一緒に新立へとなります。

「不残打寄セ入用拵候趣」、読みも?、意味もよくわかりません。

 手跡がやや乱暴に感じられます。うーん、あの日には何があったっけなと言う感じで日がだいぶ立ってから思い出しだししながらの作業だったかもしれません。

 どうもよくわからない頁です。


2019年7月23日火曜日

変事出来二付心得覚記 その250




 P.152 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
之上 と申   事  二而代 八 殿 帰 り申  候
のうえともうすことにてだいはちどのかえりもうしそうろう

右 之段 名主 太次郎 殿 二廿   七 日 二
みぎのだんなぬしたじろうどのににじゅうしちにちに

道 二而噺 し申  候ハヽ、 夫 者御取 締  江
みちにてはなしもうしそうらわばそれはおとりしまりへ

書付  上 り候   と申  事 二無御座候
かきつけあがりそうろうともうすことにござなくそうろう

我 野寄場 迄 之事 二候   貴殿
あがのよせばまでのことにそうろうきでん

申  事 尤   二御座候   何 程 二而も
もうすこともっともにござそうろうなにほどにても

施  し之儀二御座候ハヽ  新 組 分 ハ
ほどこしのぎにござそうらわばしんぐみぶんは

受 納 為致  申  候   太次郎 殿 申之
じゅのういたさせもうしそうろうたじろうどのもうす


(大意)
その上でと言い残し代八殿は帰って行きました。
以上のような事を名主太次郎殿に27日に
立ち話したところ、それはお取締へ
書付が届いたということではないだろう。
我野寄場までのことであろう。貴殿が
言うことはごもっともです。どのような金額でも
施し金であることに違いはないのですから、新組の分は
受け取らせるつもりですと、太次郎殿は述べました。


(補足)
 「〜申様」の形の会話文は、簡単なようですが、話が込み入ってくるとわけが分からなくなってしまいます。誰が誰に向かって話しているのか、話している人が誰かから聞いてきた伝聞の内容が含まれだすととたんに?マークが眼の前をクルクルしはじめてしまいます。古文書初心者は悲しい。

 「名栗の歴史 上」P.443、P.444に施金の実行として次のようにあります。
千両は3回に分けて支払われ、慶応2年8月24日369両、慶応3年1月24日333両、4月17日298両。
慶応2年の上名栗村の村民数1338名、家数271軒であり困窮者が手にしたのは1両あまりになってしまったと思われる、とあります。

 同頁には引き続き一揆の鎮圧の顛末が記されてます。一揆勢の最後は6月18日に忍藩の秩父大宮陣屋に打ちこわしを掛けた後、翌日も小鹿野などへ進み、内秩父の山中で忍藩兵や大宮町の自警農民らによって迫撃を受け、解体して終わったという、とあります。

 話はそれますが、
[幕末下級武士の絵日記その暮らしと住まいの風景を読む 相模書房 2007.5 大岡 敏昭 著]
この本の幕末下級武士というのが忍藩の藩士尾崎石城で、彼の友人との交遊の様子が絵日記で
文久元年(1861)から翌年までの178日間の日常が書かれたものなのです。
おもしろいです。原文は「石城日記」としてすべてネットで見ることができます。
なんとものんびりした毎日の様子が絵日記なので酒宴の様子なども実に8ミリフィルムを見ているようです。
 その彼らが日記を記した約4年後に、のんびりした生活から打って変わって戦闘に駆り出されるのですから、何が起こるかわかったものではありません。

「我野」、「野」のくずしじをよく見ると、「里」が上で「予」が下にくるような感じだとおもっていたのですが、そうではないようです。形で覚えるしかなさそう。
「貴殿」、「殿」が太次郎殿、代八殿のくずし字とは異なります。

「噺」、「新組」、両方の「新」の部分が似ているようでそうではないようで。
「為致」、「為」がとてもわかりやすい。
最後の行の「太次郎殿」の「郎」がいつもとは違ってます。



2019年7月22日月曜日

変事出来二付心得覚記 その249




 P.151 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
私   共 江も可咄事    一 切 承    り不申、
わたくしどもへもはなすべきこといっさいうけたまわりもうさず

又 帰 り天も噺 しも無之  猶 又
またかえりてもはなしもこれなくなおまた

左様 之事 ならハ壱 人二而施  し
さようのことならばひとりにてほどこし

又 源左衛門  ゟ 施   二而ハ貰 王んと申  者
またげんざえもんよりほどこしにてはもらわんともうすもの

二者無理二施  しを出スと申  事 二
にはむりにほどこしをだすともうすことに

阿ら須施し  を忝   なしと受 納
あらずほどこしをかたじけなしとじゅのう

之方 江ハ差 出し申  候   乍去   不足
のかたへはさしだしもうしそうろうさりながらふそく

金 千 両  二不足 分 割 合 二相 成
きんせんりょうにふそくぶんわりあいにあいなり

候   上 者何 程 二而も差 出し仲 間
そうろううえはなにほどにてもさしだしなかま

相 成 申  候   と申  候ハヽ  いづれ兵 三 郎 殿
あいなりもうしそうろうともうしそうらわばいづれへいさぶろうどの

も吉 田ゟ 帰宅 可致   間  親 子談 し
もよしだよりきたくいたすべきあいだおやこだんし


(大意)
私などへもそのことについてのお話は一切きいておりません。
また家に戻ってからもそのことについての説明はありませんでした。さらに
そのようなことならばひとりで施します。
また源左衛門よりの施しは貰ないといっている者
には無理に施し金を出すということでは
なく、施しを感謝して受け取る
方へはお渡し致しましょう。しかしながら不足
金千両に足らない分はそれぞれの割合に応じて
行えば、どのようにでも施すことができ仲間と
なれるでしょうと言うので、やがて兵三郎殿
も吉田から帰宅してくることだろうから、親子で相談し


(補足)
 この頁の内容は、代八が寅次郎殿が斯々然々(かくかくしかじか)言っていたということだとおもうのですが、どうも不安であります。次の頁の冒頭に「之上と申事二而代八殿帰り申候」と続きますのでそうだとおもうのですが、ウーン・・・。

 この話の会話の部分の数頁は「私し」が連発されています。それまではこの一人称は珍しかったのですが、どうしたわけでしょうか。とにかく多いです。

「咄」「噺」、1,2行目の隣り合った位置に同じ読みで異なった漢字です。
「猶又」、頻出で二文字セットで覚える。いつもながらこの二文字はまわりより目立つ大きさです。
4行目の「施」は送り仮名「し」がありません。

「忝なし」、くずし字が難。
「受納」、「受」がこれまた難。
7,8行目の「不」のくずし字が異なります。
「分」のくずし字は「彡」+「、」。

 施し金が総額で千両。とんでもない額ですが、過去にも災害や飢饉のときなどこの名栗地区ではたびたび施金していました。それまでは村民が徒党してということはなかったようですが、今回は大変な騒ぎになりお上も出張ってきて、村役人たちの緊張感と対処は今までの比ではありませんでした。


2019年7月21日日曜日

変事出来二付心得覚記 その248




 P.150 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
程 志らださぬと度々  申 し私  し
ほどしらださぬとたびたびもうしわたくし

仲 間二相 成候ハヽ   人氣 ヲ背  事 ゆへに
なかまにあいなりそうらわばにんきをそむくことゆへに

壱 人二而施  しい多し申  候   代 八 殿 申  様
ひとりにてほどこしいたしもうしそうろうだいはちどのもうすさま

それハ小殿 斗 り無之  候   最早 金
それはこどのばかりこれなくそうろうもはやきん

千 両  と御取 締  江書 出し御取 締
せんりょうとおとりしまりへかきだしおとりしまり

江書 出せハ御支配 江あ可゛るから
へかきだせばごしはいへあが るから

不足 二而ハ相 成 間敷 と申  候   間  それハ
ふそくにてはあいなりまじくともうしそうろうあいだそれは

多連が書 出し満したと申 し候ハヽ、
だれがかきだしましたともうしそうらわば

槙 ノ下 我 野寄 場江持参 致 し趣   ヲ
まきのしたあがのよせばへじさんいたしおもむきを

申  候   又 寅 次郎 殿 も千 両  之書出 シ
もうしそうろうまたとらじろうどのもせんりょうのかきだし

ヲい多し候  二者数 なら春゛とも
をいたしそろうにはかずならず とも


(大意)
しか出さぬ」とたびたび言い「わたしは(鳥居と)
仲間であるから評判を落とさぬため
ひとりで施しを行う」と述べました。代八殿は
「それは小殿だけのことではありません。もはや
金千両とお取締へ伝え、お取締へ
書付を提出すれば、そのままお支配へ上申されるので
不足するようなことがあってはただでは済まない」と言うので、「それは
誰が提出したか」と言へば
「槙ノ下我野寄場へ持っていったようである」と
述べました。また寅次郎も千両の施し金の提出
をすることには、数に入ることの程ではありませんが


(補足)
2頁前にも「六七軒余志ら」と同じふうにあり、やはり(しか)が前後の流れからあてはまりそうです。
「それハ」が2箇所の出てきます。いままでしたら「夫ハ」でした。
「書出す」が4箇所あります。内容を書付に記した、その書付を提出した、のように「書出す」意味が異なっている感じです。

3行目「代八殿申様」以降、誰と誰の会話なのかが、申候間、申し候ハヽ、申候、とつづき、あやふやで、うまく読み取ることができません。

「槙ノ下我野」、久しぶりに出てきました。地名。

この頁はすべて既出の文字、くずし字です。


2019年7月20日土曜日

変事出来二付心得覚記 その247




 P.149 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
二而ハ大 金 左様 之事 ならハ
にてはたいきんさようのことならば

私   者御除 き被下  私  し壱 人二而身之
わたくしはおのぞきくだされわたくしひとりにてみの

分 限 相 應 之施  し以たし候   代 八 殿 申  様
ぶんげんそうおうのほどこしいたしそうろうだいはちどのもうすさま

夫 者私  し壱 人二而取 斗   い多スといふ事
それはわたくしひとりにてとりはからいいたすということ

できつ亦 おまヘハ壱 人二なってよい
できずまたおまえはひとりになってよい

と思  召スかと申  二付 源左衛門  申  様
とおぼしめすかともうすにつきげんざえもんもうすさま

よ以事 もな以可ら醫王 寺江腰
よいこともないからいおうじへこし

弁 当 ニ而一 同 出會 罷  出新 立 弐百  両  と
べんとうにていちどうであいまかりでにったちにひゃくりょうと

被申候     二付 私  しも弐百  両  施  し
もうされそうろうにつきわたくしもにひゃくりょうほどこし

可差出   と申  候ハヽ  小殿 伴 次郎 殿 申  様
さしだすべきともうしそうらわばこどのばんじろうどのもうすさま

鳥 井可゛弐百  両  ならハお連ハ百  五十  両
とりいが にひゃくりょうならばおれはひゃくごじゅうりょう


(大意)
には大金、そのようなことになるならば
私をのぞいてくださって、私ひとりで身の
丈にあった施しをいたしましょう」。代八殿が
「それは私ひとりで決めてよいことでは
ないし、またおまえがひとりでおこなってもよい
とお考えか」というので、源左衛門は
「よいというわけではないので、医王寺へ
腰弁当で皆話し合いのために出かけました。新立が200両出すと
いうので、(それならば)私も200両を施しに
差し出す」と述べましたところ、小殿伴次郎殿が言うには
「鳥居が200両ならば、おれは150両

(補足)
施し金の額をどうするかという頭悩ますやりとりですが、手跡は下書きを確かめながら記したようにどこか淡々としています。

会話文が多いためか平仮名が目立ちます。
3行目「以たし」4行目「い多スといふ事」、一方は変体仮名、もう一方は平仮名、それぞれの使い分けは文章の流れや言葉のつながり、それと筆の運び次第なのでしょうが、それにしてもよく言えばおおまかな感じです。

5行目「おまヘハ」、7行目「な以可ら」、「お」と「な」のくずし字がそっくりです。

「腰」のくずし字、ジッと見つめているとそれらしくみえてきます。

「新立」は町田瀧之助、「鳥居」は平沼源左衛門。

「ならハ、お連ハ」、ここの「な」「お」のくずし字は区別できます。



2019年7月19日金曜日

変事出来二付心得覚記 その246




 P.148 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
金 子もお満へさんが多ゟ 上ミに者
きんすもおまえさんがたよりかみには

六 七 軒 余  志ら貸し候   者 者無御座、
ろくしちけんあまりしらかしそうろうものはござなく

代 八 殿 申  様、 それでなけ連ハ三 両  位
だいはちどのもうすさま、それでなければさんりょうくらい

出し候   者 者差 おさへ不残  出スと
だしそうろうものはさしおさえのこらずだすと

いふ者 御座候   夫 ヲ聞 天ハお満へ
いふものござそうろうそれをきいてはおまへ

村 人 氣ヲ背  事 も出来るかも志れ
むらにんきをそむくこともできるかもしれ

ぬ、懇 意之事 故 談 事い多春と
ぬ、こんいのことゆへだんじいたすと

申  二付 源左衛門  申  様 夫 者施  しの事
もうすにつきげんざえもんもうすさまそれはほどこしのこと

ゆへ思  召 次第 人の 施  しハ私   の為
ゆへおぼしめししだいひとのほどこしはわたくしのため

二奈ら須私  しの施  しハ人 の為 二な
にならずわたくしのほどこしはひとのためにな

ら春゛、弐百  両  と申 せハ私   之身分
らず  にひゃくりょうともうせばわたくしのみぶん


(大意)
金貸しについても皆さんの住んでいるところより山間部の
6,7軒ぐらいにしか貸してはおりません」
代八殿の「それができないのであれば3両くらい
出す者は差し押さえ、残らず出す
という者がいるだろう。そんなことを聞いておまえは
村の評判に背いてしまうことになってしまうとはおもわぬのか、
懇意にしているので相談しているのだ」に答えて、源左衛門がいう。「それは施しについてのことなので人それぞれのお考えがあるはずです。人の施しは私のため
にならず、私の施しは人のために
ならず。200両といえば、私の身分


(補足)
 書き手は源左衛門さんに戻ったようです。字の大きさ具合といい1頁に12行から13行、覚記最初の頃は筆圧も強く力みが見られましたが、この頃になると力も抜けてきてます。

 代八、源左衛門のふたりの話し合った要点を記すだけでも良かったところですが、ふたりの実際の会話を細かに記したのは何かわけがありそうです。施し金について村の人気(評判)がやはりというか相当気になるからだったのでしょうか。後世までケチな名主だったなどと言われ続けたらたまったものではありません。こんないきさつや訳があったのだよと残しておきたかったようです。

平仮名や変体仮名がたくさん使われています。
「六七軒余志ら」、「志ら」。次々頁にも「お連ハ百五十両程志らださぬ」と出てきます。
辞書には「普通,終助詞「か」とともに「〜かしら」の形で用いられる。」とあります。
文の流れからは(〜しか)があてはまりそうです。
代八の「それでなけ連ハ三両位〜いふ者御座候」がよくわかりません。

「思召」、読めませんでした。

「人の施しハ私の為二奈ら須、私しの施しハ人の為二なら春゛」、福沢諭吉「学問のすゝめ」はまだ発刊されてませんでしたが、どこかで読んだような言い回し。


2019年7月18日木曜日

変事出来二付心得覚記 その245




 P.147 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
候   と申  候   二付 源左衛門  申  様 私  し斗 り
そうろうともうしそうろうにつきげんざえもんもうすさまわたくしばかり

別 段 二廿   両  差 出ス廉 ハ如何 と
べつだんににじゅうりょうさしだすかどはいかがと

申之 候ハヽ  おまヘハ金 廻 しも致 し
もうしそうらはばおまえはかねまわしもいたし

振 合 もよいからと申  候   二付 夫 盤
ふりあいもよいからともうしそうろうにつきそれは

み那  ハ老 木 山 二被立置、
みなみなはろうぼくやまにたちおきされ

私   ハ皆 伐 木 致  家内暮  只 今 ハ
わたくしはみなばつぼくいたしうちくらしただいまは

不残  小  木 二相 成 四 尺  の五尺  の
のこらずしょうぼくにあいなりよんしゃくのごしゃくの

と申  木盤尋  候   程 無之  候   間
ともうすきはたずねそうろうほどこれなくそうろうあいだ


(大意)
とのことで、それに対し源左衛門は「私だけが
別に20両差し出さなければならない理由はなぜなのか」
と問うので、「おまえは金貸しもしているし
羽振りもよいからだ」と(代八)が答えました。(源左衛門が)「それは
皆様方は老木を伐木せずに山にそのままあるが、
私はすべて伐木してしまい、現在は
山の木は残らず小木だけです。4尺や5尺の太さが
ある木はみなさんが思っているほど残ってはいません。


(補足)
 なんとか頼むよ源左衛門さんと詰め寄る代八さん、眉間にしわ寄せどうにも困った源左衛門さん、
なんとも重い空気の流れる会話です。

 前頁とこの頁は、優しい手跡、性別はわかりませんが平仮名や変体仮名が目立ちます。

「み那ハ」、おおきい「く」のようなのは、「ゝ」(繰り返し)だとおもうのですが。
「家内暮」(うちくらし)としましたが、見当違いかもしれません。「暮」が難。

前後の流れは、皆さんの所の山はぶっとい木が伐木されずに残っているけど、ウチのところは全部伐って施木しちゃって、残っている木はみんな小さい木ばかりなんですよ、4尺5尺の大径木はもう残ってなんかいないんですよ、とこんな感じ。

「名栗の歴史 上」によれば、どのように施木されたかの史料は見つかってないようです。

「夫盤」「と申木盤」、この書き手の癖でしょう、変体仮名「盤」を繰り返しています。
「尺」がすぐにはわかりませんでした。
「尋」、「寸」はきっと左下の最後の一角の「一」。

 膝詰め談判はまだ続きます。


2019年7月17日水曜日

変事出来二付心得覚記 その244




 P.146 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
醫王 寺二而施  し一 条  二付
いおうじにてほどこしいちじょうにつき

七 月 廿   五日 柏  屋代 八 殿 参 り候
しちがつにじゅうごにちかしわやだいはちどのまいりそうろう

一   柏  屋代 八 殿 参 り申  様 先 達 而
ひとつ かしわやだいはちどのまいりもうすさませんだって

醫王 寺二於 帝施  し金 二付 参 り
いおうじにおいてほどこしきんにつきまいり

いま廿   両  源 左衛門 二差 出 呉 可申
いまにじゅうりょうげんざえもんにさしだしくれもうすべき

楚連でなけ連者゛村 方 之人 氣ヲ背
それでなければ むらかたのにんきをそむき

私   懇 意之事 ゆへ談 事参 り
わたくしこんいのことゆへだんじまいり


(大意)
医王寺で行った施しの件に付いて
7月25日に柏屋代八殿がやって来ました。
柏屋代八殿が言うには、「先だって
医王寺で施し金に付いての話し合いがありました。
源左衛門殿にはさらに20両差し出してもらうこととなり
そうしなければ村の人々の評判に背いてしまうでしょう。
わたくしは源左衛門殿と懇意であるので相談に来ました」


(補足)
 源左衛門さんのいないところでさらに20両出すことが決まり、そうしないと村の人々のあなたを見る目が・・・と相談され、困りきっている様子だろう源左衛門さん。
そんなの誰だって困ってしまう無茶ぶりに決まってます。

変体仮名が目立ちます。「於帝」「楚連でなけ連者゛」。「け」の変体仮名は「个」or「計」どちらでしょうか?
「いま廿両」、この「いま」は「今一度確かめる」、「いましばらく待つ」のように、もう、さらにの意。
「背」、上の部分が「北」のくずし字になってます。


2019年7月16日火曜日

変事出来二付心得覚記 その243




 P.145 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
太次郎 殿 取 持 以多し候
たじろうどのとりもちいたしそうろう


(大意)
太次郎殿は取り持ち致しました。


(補足)
 栄輔殿の願いを待つまでもなく太次郎は留吉釈放にむけてできる限りのことをしてきました。
近村だけでなく街道筋村々の名主さんたちにもお願いして連名の書状を出していることは先に見たとおりです。

 この頁は一行だけです。
次の頁からは話題が変わるのですが、この頁の大きな空白は何か意味があるのかないのか、わかりません。


2019年7月15日月曜日

変事出来二付心得覚記 その242




 P.144 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
然 ル所  今 般 甲 州  道 中  府中
しかるところこんぱんこうしゅうどうちゅうふちゅう

宿  江御引 立 二罷  成 候   趣   承     驚   入
しゅくへおひきたてにまかりなりそうろうおもむきうけたまわりおどろきいり

候   何 卒 御下ケ相 成 候   様 御歎 願
そうろうなにとぞおさげあいなりそうろうようごたんがん

被成下度    御願  申  上 度 如斯    二
なしくだされたくおねがいもうしあげたくかくのごとくに

御座候   以上
ござそうろういじょう

       下鹿山村
       しもかやまむら

        名主
        なぬし

 七月廿九日   英輔
 しちがつにじゅうくにち えいすけ

          実印
          じついん

  上名栗村
  かみなぐりむら

   名主
   なぬし

    多次郎様
    たじろうさま



(大意)
然しながらこの度甲州道の府中
宿へ引き立てられてしまったということを承り驚いて
しまいました。なにとぞ釈放されるようご嘆願
なし下されたくお願い申し上げたくこのような
次第でございます。

       下鹿山村
        名主
 七月廿九日   英輔
          実印
  上名栗村
   名主
    多次郎様


(補足)
 留吉の実家のある下鹿山村の名主栄輔から上名栗村名主太次郎への7月29日付けの歎願書です。
栄輔は山村の名主太次郎と、書付の最初「以手紙得貴意候」とあり面識はなさそうですから、名前の字を間違えてしまってます。

「被成下度」、「被」のくずし字は記号のようにみえます。
「如斯」、二文字セットで覚えます。
「実印」、「印」のくずし字は、左右にある偏と旁が上下になってます。「迎」も同じような感じ。
本当の書状にはここに実印があることになります。



2019年7月14日日曜日

変事出来二付心得覚記 その241




 P.143 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
鹿山 村 栄 輔 殿 府中  宿  へ
かやまむらえいすけどのふちゅうしゅくへ

送 り候   書 付 尤   多二郎 殿 名当
おくりそうろうかきつけもっともたじろうどのなあて

以手紙得貴意候        然  者御村 方
てがみをもってきいをえそうろうしからばおむらかた

留 吉 儀去 月 十  五日 当 村 実 家
とめきちぎさるつきじゅうごにちとうそんじっか

倉 吉 方 へ参 り病  氣二而逗 留
くらよしかたへまいりびょうきにてとうりゅう

罷  居 同 十  八 日 二母 連 立 御村 方 へ
まかりおりどうじゅうはちにちにははつれだちおむらかたへ

送 り届 ヶ候   所  相 違  無御座候
おくりとどけそうろうところあいちがいござなくそうろう


(大意)
鹿山村栄輔殿が府中宿へ
送付した書付、宛名は多二郎(太次郎)殿

手紙にて(はじめて)お目にかかります。さてお村方の
留吉についてであります。先月15日わたしの村の実家
倉吉のところへあらわれ病気のため逗留
いたしておりました。同月18日に母が付き添いそちらの村へ
送り届けましたこと間違いのないことでございます。


(補足)
「鹿」の中が「兼」のようにみえます。
「多二郎」、太次郎のはずですが、随分な間違えようです。
「名当」、「名宛」の当て字でしょう。

「以手紙得貴意候」、「得御意」(ぎょいをえる)もよく目にします。手紙の冒頭の定型文。
「去月」、この書付は7月29日なので、6月になります。
「逗留」、「留」が留吉のときのくずし字とは異なってます。

 栄輔殿の書付の控えですが、人が異なれば文面もやはり異なってきます。文は人を表す、です。


2019年7月13日土曜日

変事出来二付心得覚記 その240




 P.142 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
           役人惣代
           やくにんそうだい

            組頭
            くみがしら

慶応二寅年八月 仙太郎
けいおう2とらどしはちがつせんたろう

            百姓代
            ひゃくしょうだい

             覚蔵
             かくぞう
 関東御取締出役
 かんとうおとりしまりでやく

  百瀬章蔵様
  ももせしょうぞうさま

  中村新平様
  なかむらしんぺいさま

  望月善一郎様
  もちずきぜんいちろうさま


(大意)


(補足)
「出役」、いままで読みを(しゅつやく)と振っていたような気がします。正しくは(でやく)でした。役職の定員外で同じ仕事をする位置付けです。

この3人のお役人名前は、現代でもそのまま通用しそうな違和感のない名前です。


2019年7月12日金曜日

変事出来二付心得覚記 その239




 P.141 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
相 企   所々    人 家打 毀  候   趣   者
あいくわだてところどころじんかうちこわしそうろうおもむきは

今 般 御糾  二而同 人 共 申  立
こんぱんおただしにてどうにんどももうしたて

初  而承  知仕    平 日 申  諭  方 不
はじめてしょうちつかまつりへいじつもうしさとしかたふ

行 届 キ恐  入 候   儀二御座候
ゆきとどきおそれいりそうろうぎにござそうろう

右 御尋  二付 奉申上       候   通  相 違
みぎおたずねにつきもうしあげたてまつりそうろうとおりあいちがい

無御座候    以上
ござなくそうろういじょう

     岩鼻御料所
     いわはなごろうしょ

       武州秩父郡名栗村
       ぶしゅうちちぶぐんなぐりむら


(大意)
を企てあちらこちらで人家を壊した様子を
このたび尋問してくださり、同人どもの主張を
初めて知ることとなりました。日常生活での目配りが
不行き届きであったと恐れ入っている次第でございます。
お尋ねのあった内容につきまして、ここに申し上げました通り相違う
ことは御座いません、以上。
    岩鼻御料所
     武州秩父郡名栗村

(補足)
「所々」、「所」が「訴」にみえてしまいますが、「所」の「戸」のくずし字と、「訴」の「言」のくずし字が異なります。
「毀」はいつもながら楷書。
「今般」、セットで覚える字。このあとの1字分の空白は闕字?。
「通」、気のせいか通常のくずし字と少し違うような・・・。


2019年7月11日木曜日

変事出来二付心得覚記 その238




 P.140 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
聞入不申、   同 国 飯 能 村 押 出し
ききいれもうさずどうこくはんのうむらおしだし

候   二付、右 之趣   不取敢  御支配
そうろうにつきみぎのおもむきとりあえずごしはい

岩 鼻 御役 所 江相 届 ヶ置
いわはなおやくしょへあいとどけおき

候   処、 其 後村 内 百  姓  紋 二郎 豊 五郎
そうろうところそのごそんないひゃくしょうもんじろうとよごろう

儀御召 捕 二相 成、同 人 共 義近 来
ぎおめしとりにあいなりどうにんどもぎきんらい

穀 物 ヲ始  物 価高 直二而窮  民
こくもつをはじめぶっかたかねにてきゅうみん

とも営 方 差 支  候   迚而徒黨
ともえいかたさしつかえそうろうとてととう


(大意)
(説得を)聞き入れることはなく、飯能村へ押しかけ
てしまいました。そのためこの現状を取りあえずご支配
岩鼻御役所へお届け致しました。
がその後村内の百姓紋二郎と豊五郎
が召し捕らえられました。同人たちは最近
穀物をはじめ物価が高騰したため貧しい
ものたちの日常の生活が差し支えていたとはいえ、徒党


(補足)
「同国飯能村」、この表現は今まであまりなかったようにおもわれます。いつもはたんに「飯能村」。
「不取敢」、わたしの父や祖父も手紙の最後の決まり文句でこのまま使っていました。勿論現在でも使われていますが、今では平仮名でしょうか。
「近来」、はじめての表現です。
「物価」、書き込みが愉快。左側のカタカナの「ブッ」を書き損じて右側に、「價」を楷書でくずし字の右側に書いています。きっと後世の人が書き足したのではと想像します。
 これまでの頁にも同じように書き込みがありました。それらも同じように後世の人達のものだとおもいます。つまりこの覚記は長いこと蔵の隅に放置されたままではなく、源左衛門さんの息子や孫くらいまでは読まれていたのではないかとそれほどの根拠もなく想像してしまいます。

「高直」、「相届ヶ置」、の「直」のくずし字が同じになっていることに注意です。
「迚而」、「迚も」とくれば(とても)と読みますが、「而」がつくと、なんと読むのかハテ?

 キレのある手跡で全体がスッキリです。


2019年7月10日水曜日

変事出来二付心得覚記 その237




 P.139 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
此 段 当 村 之儀者村 高 四 百  石 余
このだんとうそんのぎはむらだかよんひゃくこくあまり

名主 弐人、年 寄 壱人、組 頭  八 人
なぬしふたりとしよりひとりくみがしらはちにん

有之  取 締  向 心  附 罷  在 候   所、
これありとりしまりむきこころつけまかりありそうろうところ

当 六 月 十  三 日 暮 方 村 内 并  最寄
とうとくがつじゅうさんにちくれかたむらうちならびもより

村 々 窮  民 共 騒  立 候   風 聞 承
むらむらきゅうみんどもさわぎたちそうろうふうぶんうけたまわり

候   二付、村 役 人 共 一 同 申  合、 精々
そうろうにつきむらやくにんどもいちどうもうしあわせせいぜい

申  諭  取 鎮  方 罷  在 候   内、夜中
もうしさとしとりしずめかたまかりありそうろううちよなか

殊 二追 々 多人 数 相 成、中々  以 
ことにおいおいたにんずうあいなりなかなか


(大意)
つきましては、当村は村高四百石あまり
名主二人、年寄一人、組頭八人
で(村内の)取締を心していたところではありますが
当6月13日暮れ方、村内と最寄りの
村々で生活に困った者たちが騒ぎを起こしているとの知らせを耳に
しましたので、村役人たち全員で話し合い、できる限り
説得し取り締っていたところでした。しかし夜中に
ことに少しずつ人数が増えてまいりました。なかなか

(補足)
「名栗の歴史 上」(P426)によると、名栗村村役人は
名主: 町田滝之助 原田太次郎
組頭: 代八 半次郎 久吉 仙太郎 忠太郎 吉田伴次郎 平沼源左衛門
年寄: 軍蔵
とあり、組頭の人数があいません。

「暮」、この字はいつも二文字のように書かれていますが、ここではそれが顕著。
「諭」、くずし字の辞典を調べましたがのっていませんでした。

 この頁は源左衛門さんの手跡ようです。


2019年7月9日火曜日

変事出来二付心得覚記 その236




 P.138 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
府中  宿  二而出し候   書 付 扣
ふちゅうしゅくにてだしそうろうかきつけひかえ

   御尋  二付 以書付     奉申上       候
   おたずねにつきかきつけをもってもうしあげたてまつりそうろう

岩 鼻 附 御料  所 武州  秩 父郡
いわはなつきごりょうしょぶしゅうちちぶぐん

上 名栗 村 役 人 惣 代 組 頭  仙 太郎
かみなぐりむらやくにんそうだいくみがしらせんたろう

百  姓  代 覚 蔵 奉申上       候   、村 内
ひゃくしょうだいかくぞうもうしあげたてまつりそうろう、そんない

百  姓  紋 二郎 豊 五郎 儀御召 捕 相 成
ひゃくしょうもんじろうとよごろうぎおめしとりあいなり

同 人 共 儀徒黨 相 企   候   始末
どうにんどもぎととうあいくわだてそうろうしまつ

御尋  二御座候
おたずねにござそうろう


(大意)
府中宿にて出した書付の控え
  お尋ねのありました件書付をもって申し上げます
岩鼻附御料所武州秩父郡
上名栗村役人惣代組頭仙太郎と
百姓代覚蔵が申上げます。村内にて
百姓紋二郎と豊五郎をお召捕りになられました。
同人たちが集まり不穏なことを企てたことの次第を
お尋ねになられました。


(補足)
文面通り府中宿で書いた書付の控えの内容です。
「尋」、「ヨ」が丸くなってます。
「以」、平べったくって横長。
「企」、楷書になってます。

 この頁の漢字はすべて既出のものばかりです。
目が慣れてきたのでしょうか、読みやすくなってきた印象があります。

2019年7月8日月曜日

変事出来二付心得覚記 その235




 P.137 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
御同人様御掛り
ごどうにんさまおかかり

  松村忠四郎御代官所
  まつむらただしろうおだいかんじょ

   武州入間郡南入曽村
   ぶしゅういるまぐんみなみいりそむら

        無宿
        むしゅく

六        文太郎
ろく       ぶんたろう


(大意)


(補足)
「入間」、「間」はちゃんと門があるのに、よく出てくる「聞」は特徴的なくずし字です。

 幅広く近隣の村々や人々に連名を働きかけたのでしょう。たくさんの署名が集まりました。
なんらかの名主たち同士の連絡網があったこととは想像されますが、それにしても限られた期間でこれだけの署名を集めたわけですからその苦労がしのばれるし、きっとこの数倍以上が断られていたに違いありません。
 署名をお願いしてそれっきりということは考えられませんから、その後お礼状も出しているはずです。どこかに残っていませんでしょうかね。


2019年7月7日日曜日

変事出来二付心得覚記 その234




 P.136 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
差添人    弥右衛門
さしぞえにん やえもん

 中村様御掛り
 なかむらさまおかかり

  大岡主膳正領分
  おおおかしゅぜんのかみりょうぶん

   武州秩父郡下成木村
   ぶしゅうちちぶぐんしもなるきむら

      組頭惣五郎事
      くみがしらそうごろうこと

五        喜左衛門
  きざえもん

        組頭
   差添人   利左衛門
   さしぞえにんりざえもん


(大意)


(補足)
「弥右衛門」、読めませんでした。
「岡」、目にする機会はたくさんあったはずだけど、こんなふうなくずし字になるんですね。
「主膳正」、これははじめてかも。

「下成木村」は現在の青梅市あたりの村。他の村の場所は (その230) に添付した資料参照。



2019年7月6日土曜日

変事出来二付心得覚記 その233




 P.135 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
百瀬様御掛り
ももせさまおかかり

   松平大和守領分
   まつだいらやまとのかみりょうぶん

    武州秩父郡坂石町分
    ぶしゅうちちぶぐんさかいしまちぶん

三        百姓 佐兵衛
         ひゃくしょう さへい

    差添人  名主 貞助
    さしぞえにん なぬし さだすけ

 中村様御掛り
 なかむらさまおかかり

   黒田筑後守知行所
   くろだちくごのかみちぎょうしょ

    武州秩父郡長沢村
    ぶしゅうちちぶぐんながさわむら

四        百姓 作兵衛
         ひゃくしょう さくへい


(大意)


(補足)
「領分」、「分」はなんとか読めるが、「領」は難。
2行目の「守」は普通、後ろから3行目の同じく「守」は難。
「三」が貧弱過ぎます。


2019年7月5日金曜日

変事出来二付心得覚記 その232




 P.134 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
望月様御掛り
もちづきさまおかかり

  関東御郡代岩鼻附御料所
  かんとうごぐんだいいわはなつきごりょうしょ

   武州秩父郡名栗村
   ぶしゅうちちぶぐんなぐりむら

壱      百姓 紋次郎
いち     ひゃくしょう もんじろう

          四十二才

二      同  豊五郎
に      どう とよごろう

          四十四才

       組頭 仙太郎
       くみがしら せんたろう
    差添人
    さしぞえにん
       百姓代 覚蔵
       ひゃくしょうだい かくぞう


(大意)


(補足)
「壱」が「一」ではないのは、一つ書きではなく、序数としてだとおもいます。
「差添人」の「人」がその下のふたりをくくった括弧のようにみえます。
「関東」の「関」がめずらしく、門が冠のようになっていません。


2019年7月4日木曜日

変事出来二付心得覚記 その231




 P.133 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
  東兵衛
  とうべえ

今川要作御代官所
いまがわようさくおだいかんしょ

  同州多摩郡府中宿
  どうしゅうたまぐんふちゅうしゅく

  名主 斉兵衛
  なぬし せいべい

  同  午之助
  どう うまのすけ

関東御取締御出役
かんとうおとりしまりごしゅつやく

 百々瀬章蔵様
 ももせあきぞうさま

 中村新平様
 なかむらしんぺいさま

 昼月善一郎様
 ひるづきぜんいちろうさま


(大意)
省略

(補足)
「東兵衛」「斉兵衛」、最初以外は同じくずし字になってます。「斉」が難しい。
「作」はいつみても独特。
「官」、宀の下、縦棒と「呂」のような形が、偏と旁にみえます。

「昼月」は以前にも出てきました。「望月」と脇に書かれてました。

多摩郡府中宿の名主まで連名しています。


2019年7月3日水曜日

変事出来二付心得覚記 その230




 P.132 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
組頭    仙太郎
くみがしら せんたろう

百姓代      覚蔵
ひゃくしょうだい かくぞう

同御料所
どうごりょうしょ

 同州同郡南川村
 どうしゅうどうぐんみなみかわむら

 名主
 なぬし

小惣代   禎輔
こそうだい さだすけ

久須美七十五郎知行所
くすみ???ろうちぎょうしょ

  同州同郡南村
  そうしゅうどうぐんみなみむら

寄場役人惣代
よせばやくにんそうだい

   名主
   なぬし


(大意)
省略

(補足)
名前や地名の読みは難しいです。
仙太郎と覚蔵は前頁の名栗村からの続きです。
次に南川村、その次が南村で名主の名前は次頁の東兵衛と続きます。
御料所(幕府直轄地)や知行所の管轄がまばらのためにそれぞれを記していることになります。
村名と位置は、「名栗の歴史 上」より無断でお借りしました。申し訳ありません。



「郡」、何度も出てきてますが、形で覚えるしかありません。
「美」、筆の運びがわかります。


2019年7月2日火曜日

変事出来二付心得覚記 その229




 P.131 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
同 人 申  立 候   通  相 違  無御座 相 聞
どうにんもうしたてそうろうとおりあいちがいござなくあいきき

候   間  、何 卒 格 別 之以
そうろうあいだ、なにとぞかくべつの

御憐慇      御仁 恵 之御沙汰、偏  二
ごれんびんをもってごじんけいのおさた、ひとえに

奉願上候、          以上
ねがいあげたてまつりそうろう、いじょう

      岩鼻附御料所
       武州秩父郡上名栗村
慶應二寅年八月 名主 町田瀧之助
             組頭 半次郎


(大意)
本人が申し立てたことに間違いはないとお聞きして
います。なにとぞ特別の
ご憐愍ご仁恵のあるご沙汰をただただ
お願い申し上げます。以上。

      岩鼻附御料所
       武州秩父郡上名栗村
慶應二寅年八月 名主 町田瀧之助
             組頭 半次郎


(補足)
「以 」以下空白は何度も出てきた平出です。
「御仁恵」、いままでにない単語があらわれました。

このあと数頁にわたり、陳情した宛先とそれぞれの差出人連名が続きます。
まさしく当該村と近々村総出の歎願となっています。


2019年7月1日月曜日

変事出来二付心得覚記 その228




 P.130 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
申  觸 候   ニ付 、無餘儀 近 村 迄 罷  越 二、
もうしふれそうろうにつき、よぎなくきんそんまでまかりこしに

途中  俄  二病  氣二而、懇 意之者 方 江
とちゅうにわかにびょうきにて、こんいのものかたへ

立 寄 世話相 成 居 帰宅 延日及    候   故、
たちよりせわあいなりおりきたくひのべにおよびそうろうゆへ

徒黨 二加  り候   趣   如何 之風 聞 相 立、
ととうにくわわりそうろうおもむきいかがのふうぶんあいたち

今 般 次第 至 り全   乱 防 押 歩  行
こんぱんしだいいたりまったくらんぼうおしあるきゆく

候   儀者無御座 此 上 御調  奉請    候而者
そうろうぎはござなくこのうえおしらべうけたまわりそうらいては

奉恐入       候   間  只 歎  御慈悲相 願
おそれいりたてまつりそうろうあいだただなげきおじひあいねがい

呉 候   様 私   共 へ取 縫 り相 歎  、事実
くれそうろうようわたくしどもへとりつづりあいなげき、じじつ


(大意)
村中に触れ回ったので、仕方なく近村まで出かけてしまいました。
その途中で急に病気になり、懇意にしている者の家へ
立ち寄り世話になり帰宅が遅れてしまったのです。それ故に
徒党に加わっようだという噂が立ってしまい
現在に至っています。ずっと乱暴しながら壊し続けた
というようなことは御座いません。これ以上お調べを受けつづけては
恐れ入ることでございますので、ただ嘆きお慈悲をお願い
できるよう、わたくしどもへお心くだき、事実


(補足)
 留吉が飯能村へ仕方なく出かけ、その途中病気になり、実家の兄と母の家で世話になり、そのために村へ帰るのが遅れ、徒党に加わったと誤解された、という内容の話はこれまでに何度か出てきました。
同じ人がその内容を記しているなら、同じ表現になるはずです。
この書き手の文章では、今までと異なる表現が何箇所かありますし、全体の文章の雰囲気も違っています。新組名主原田太次郎さん当時67歳あたりが書き手かもしれません。

「今般」、難しい。読み方がわかって、ジッと見つめても・・・。
「全乱防押歩行」、この表現は何度も出てきてますが読み方がよくわかりません。
「取縫り」、「り」と送り仮名?がなかったら、(とりつくろい)でしょうが「り」がありますので(とりつづり)としました。意味はどちらも同じです。

「此上御調奉請候而者〜私共へ取縫り相歎」までがどのように意訳してよいのかわかりません。
なので得意のフィクションになっているかも。

 それにしても、必死さがにじみ溢れています。