2019年6月28日金曜日

変事出来二付心得覚記 その225




 P.127 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」

(読み)
一日  二帰宅 二日 兵 三 郎 昼 立 致  箱 根崎
ついたちにきたくふつかへいさぶろうひるだちいたしはこねざき

泊 り夜 二罷  出府中  宿  へ朝 五 ツ入 翌 三日 
とまりよるにまかりでふちゅうしゅくへあさいつついりよくみっか

源左衛門  夜 立 二而砂 川 ゟ 府中  道 江
げんざえもんよるだちにてすながわよりふちゅうどうへ

入 込  六地蔵 村 迄 行 皆々  帰 り候   二付
いりこみろくじぞうむらまでゆきみなみなかえりそうろうにつき

立 戻 り砂 川 二而泊 り、四日、箱 根崎 待 居
たちもどりすながわにてとまり、よっかはこねざきまちおり

途中  ゟ 病  気二而帰宅 以多し候、
とちゅうよりびょうきにてきたくいたしそうろう

岩 鼻 二而認   候   歎 願 書 間二合 不申
いわはなにてしたためそうろうたんがんしょまにあいもうさず

府中  宿  居 候   者 八 月 一日  二歎 願 致 し
ふちゅうしゅくおりそうろうものはちがつついたちにたんがんいたし

呉 候   趣   畄 吉儀 者三日 御赦 免 二相 成
くれそうろうおもむきとめきちぎはみっかごしゃめんにあいなり

候   趣   紋 二郎 豊 五郎 御引 立 二相 成、
そうろうおもむきもんじろうとよごろうおひきたてにあいなり

三日 泊 り四日 新 宿  五 日御奉行  所
みっかとまりよっかしんじゅくいつかおぶぎょうしょ


(大意)
1日に帰宅し、2日兵三郎が昼に出発し箱根崎に
泊。夜になって出かけ府中宿へ朝4時に到着しました。翌3日
源左衛門が夜に出発し砂川より府中道へ
入り六地蔵村まで行きました。(合流したところ)皆帰るというので
引き返し砂川で泊り、4日箱根崎で待っているとき
具合が悪くなり帰宅してしまいました。
岩鼻で認めた歎願書は間に合いませんでした。
府中宿に残った者は8月1日に歎願して
くれたようで、留吉は3日に釈放された
ようです。紋二郎、豊五郎は引き立てられてしまい
3日泊、4日新宿、5日御奉行所(に到着しました)


(補足)
具体的に記されてはいるのですが、全体の動きを把握しきれません。フィクションの恐れ有り。

 源左衛門さんは岩鼻から1日に帰宅しました。一日だけ休み3日の夜に出発し翌日朝4時に砂川を過ぎ府中宿へ入り六地蔵まで着たところで、先に出かけていて帰宅途中の面々と会いました。そこで一緒に戻ることとなり砂川に泊、4日箱根崎で待っているときに病気なってしまいそのまま帰宅してしまいました。岩鼻の出先で書いた歎願書は間に合いませんでしたが、先に出かけていた者が歎願してくれていたようで留吉は3日に釈放されたようだということでした。しかし紋次郎と豊五郎はそのまま引き立てられ5日にお奉行所へと相成りました。
こんな感じでしょうか。

 源左衛門さんは歳を考えれば、岩鼻から戻り一日だけからだを休めすぐに府中へと向かいます。
このころ病気持ちであった様子である源左衛門さんにとってはかなりの強行軍であったことは確かなことです。組頭としての責任もあったことでしょうが、気力が勝っていたようにおもえます。
地図を見ながらその行程を追ってみても、移動手段は歩行がほとんどですから、ため息がでるのみです。

「帰」、旁の部分が「両」のくずし字に似て、中がクルクルっと2回転しています。
「昼」「夜」「朝」、どれも重要で頻出。ここの「夜」はわかりやすい。
「箱根崎」、地名を知っていたので読めました。知らなかったら?でした。
「一二三四五六七八」と漢数字が日にちと名前にたくさん出てきています。「四五」がわかりにくい。

「六地蔵村」、「村」のくずし字が「お」にみえます。辞書で調べると似たようなくずし字が確かにありました。
「待居」、「待」が読めません。

最後の四行が段差げで記述されています。
源左衛門さんが出かけた3日にはすでに留吉は釈放されていました。この部分の内容はあとで先に出かけていて府中宿で歎願した村役人たちより聴いたものの内容だったということでしょう。


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