P.118 最初〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵平沼家文書」
(読み)
候 得共 、透 を窺 ひ帰村 可致 と、
そうらえども、すきをうかがいきそんいたすべくと
同 十 五日 夕 、場所 立 去り候 途中 病 發
どうじゅうごにちゆう、ばしょたちさりそうろうとちゅうやまいはっし
致 、右 者痢病 之症 二而腹 痛 強
いたし、みぎはりびょうのしょうにてふくつうつよく
歩行 相 成 兼 候 處 、幸 ひ飯 能 村
ほこうあいなりかねそうろうところ、さいわいはんのうむら
最寄 下 鹿山 村 百 姓 倉 吉 者畄 吉
もよりしもかやまむらひゃくしょうくらよしはとめきち
実 家兄 二付 、同 人 方 江罷 越 厄 介 相 成
じっかあににつき、どうにんかたへまかりこしやっかいあいなり
薬 用 罷 在 候 二付 、帰宅 延 引 およひ
やくようまかりありそうろうにつき、きたくのびびきおよび
候 旨 申之 、且 紋 次郎 豊 五郎 義も追 々
そうろうむねもうし、かつもんじろうとよごろうぎもおいおい
帰村 罷 在 候 處 、同 七 月 朔日 当 御出 役
きそんまかりありそうろうところ、どうしちがつついたちとうごしゅつやく
御両 人 様 御廻 村 二付 、右 之段 名主
ごりょうにんさまごかいそんにつき、みぎのだんなぬし
(大意)
ですが、すきを見て村に帰ろうと
同月15日夕方、その場所から立ち去る途中具合が
悪くなり、腹下しの症状のようで腹痛がひどく
歩くことが困難になってしまいました。しかし幸いにも飯能村の
最寄りの下鹿山村百姓倉吉が実家の兄でしたので、そこへ行き世話になり
手当をしてもらいました。そのために帰宅が延び引くことに
なってしまったと申しておりました。あわせて、紋次郎、豊五郎もあとになって
帰村いたしましたところ、7月1日ご出役
ご両人様が御廻村につき、以上のような事情を名主
(補足)
いつもは「候得共」は3文字が小さくまとまって書かれてますが、ここは例外的です。
「透き」、普段は「隙」のほうをよく使います。ほぼ楷書です。
「窺ひ」、「穴」の「八」の部分が小さい。これもほぼ楷書。
「十五」、いつもながら漢数字が小さいです。古文書ではなぜか漢数字が小さいのはなぜなのでしょう。日にちや金額などはたいてい大切なことだとおもうのですが。
「場所」、ここもほとんど楷書。
「發」、「癶」+「弓」+「殳」がよくわかります。
「痢病」、「疒」の点々がありません。
「腹痛」、ほとんど楷書で、偏の「月」(にくずき)がはっきりしてます。
「飯能」、ここは字が大きいので、筆の運びがよくわかります。「能」はいつもつぶれていてしまってよくわからなかったのですが、ここは運筆が明らか。「ヒ」ふたつののところが、「ニ」を最初に書いて、二画目から左上に筆を運んでそのまま上から真下へ底のところで「ち」のような感じでクルッと右へ、となってます。
「最寄」、「最」が「取」はすぐにわかりますが、その上の部分がわかりずらい。
「厄介」、「介」が?
「薬」、いままでのくずし字よりさらに簡略されているようです。
「罷在」、この後にもでてきますが、「在」は形で覚えます。
「朔日」、頻出ですが七月があるのでわかります。
楷書に近い漢字が多く使われているような気がします。丁寧に記されているからなのでしょう。
源左衛門さんの手跡に違いありません。
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