2025年12月22日月曜日

江漢西遊日記六 その80

P94 東京国立博物館蔵

(読み)

日暮(クレ)て五 ツ時 前 ニ帰 ル

ひ  くれ ていつつどきまえにかえる


廿   二日 朝 雨 後 ヤム伏 見六 右衛門 来ル生 鯛 漸

にじゅうににちあさあめのちやむふしみろくえ もんくるなまだいようやく


四五寸 位  ニして價  五匁  之(コレ)を吸 物 として酒 を

しごすんくらいにしてあたいごもんめ  これ をすいものとしてさけを


出ス

だす


廿   三 日 曇  冨士の画老 人 の像 出来ル伏 見へ

にじゅうさんにちくもりふじのえろうじんのぞうできるふしみへ


持 行ク良  祐 老 人 ニ渡 春返 り尓桃 山 へ登 ル花

もちゆくりょうすけろうじんにわたすかえりにももやまへのぼるはな


少  々  末 夜 ニ入 帰 り路 新 地と云 処  茶 屋へ上 里

しょうしょうすえよるにいりかえりみちしんちというところちゃやへあがり


妓  一 人呼ヒ大 酒 春る

おんなひとりよびおおざけする


廿   四 日天 氣四条  丸 屋亦 七 方 へ行キビイドロ板

にじゅうよっかてんきしじょうまるやまたしちかたへゆきびいどろいた


吹 様 をおしへる茶 菓子を出ス夫 より荻 野へよる

ふきようをおしえるちゃがしをだすそれよりおぎのへよる

(大意)

(補足)

「廿二日」、寛政1年3月22日 1789年4月17日。

「良祐老人」、(その73)の3月17日に頼まれた画、近江日野商人の中井源左衛門良祐このとき73歳(1716年~1805年)。

「四条丸屋亦七」、(その76)で登場。

「荻野左衛門尉」、(その68)、(その73)に登場してます。

 毎日京都及び周辺の観光で出歩き飲み歩き、夜は夜で茶屋遊び、しかし老人の画はコツコツ描いていたようです。

 

2025年12月21日日曜日

江漢西遊日記六 その79

P93 東京国立博物館蔵

(読み)

去りて橋 を渡 里虚空 蔵 の前 能田 楽 茶 や

さりてはしをわたりこくうぞうのまえのでんがくじゃや


へあかり田 楽 ニて酒 を呑ミ个る尓何ンぞ魚  ハなき

へあがりでんがくにてさけをのみけるになんぞさかなはなき


ヤと問ヘハ者やと云 小魚  ニ大 根 を切リ酢ヲかけて

やととえばはやというこざかなにだいこんをきりすをかけて


出し希れ此 地海 遠 ふして魚  なし夫 より梅

だしけれこのちうみとううしてさかななしそれよりうめ


能宮 と云フ処  を横 尓見て桂  の渡 し千 本 通

のみやというところをよこにみてかつらのわたしせんぼんどおり


嶋 原 を見て東 寺尓至 ル此 日終  日 弘 法 大

しまばらをみてとうじにいたるこのひしゅうじつこうぼうだい


師開 帳  寺内 参 詣 多 シ千 手 観 音 堂 アリ

しかいちょうじないさんけいおおしせんじゅかんのんどうあり


後 ロハ薬 師昔 シハ大 伽羅 ニて消  失 しぬ

うしろはやくしむかしはだいがらんにてしょうしつしぬ


碇(イシツヱ)至  て大 きし羅生  門 の趾 アリ夫 より

  いしずえ いたっておおきしらしょうもんのあとありそれより


して本 願 寺能前 を通 り此 邊  漸  く焼 能こる

してほんがんじのまえをとおりこのあたりようやくやけのこる

(大意)

(補足)

「虚空蔵」、嵐山、虚空蔵法輪寺。

「梅の宮」、梅宮大社。

「伽羅」、伽藍。「碇」、礎。

 嵐山からそのままほぼ真東へ、JR京都駅裏の東寺、そして本願寺着。比較的のんびりした京都観光の1日の様子です。

 

2025年12月20日土曜日

江漢西遊日記六 その78

P92 東京国立博物館蔵

(読み)

なり引 手真紅(シンク)能婦さお多巻 武春び誠  ニ堂

なりひきて   しんく のふさおだまきむすびまことにどう


上  方 能おもむき別 なり爰 を出て二十  余町  行キ

じょうがたのおもむきべつなりここをでてにじゅうよちょうゆき


嵯峨の釈 迦十  九日 より開 帳  亦 七 八 町  過 て

さがのしゃかじゅうくにちよりかいちょうまたしちはちちょうすぎて


嵐  山 桜  松 の木陰 より咲(サキ)出テ前 ハ大 井河 の流 レ

あらしやまさくらまつのこかげより  さき いでまえはおおいがわのながれ


此 比 ハ出張 の茶 屋アリ床(セウ)木(キ)を貸(カス)床  机(キ)の足

このころはでばりのちゃやあり  しょう  ぎ を  かす しょう  ぎ のあし


を流レ 尓ひ多し盃   を持テハ花 ひら飛 来て酒 尓

をながれにひたしさかずきをもてばはなびらとびきてさけに


いる向 フ山 の根ハ水 深 く笩  を丹 波の方 よりおろ春

いるむこうやまのねはみずふかくいかだをたんばのほうよりおろす


然 ル尓吾 等不案 内 ニして酒 肴 を先 ニて

しかるにわれらふあんないにしてしゅこうをさきにて


求 メんと思 ヒし尓茶 屋ニハ茶 能ミ尓して且 テ麁(ソ)

もとめんとおもいしにちゃやにはちゃのみにしてかって  そ


菓もなし故 尓他 の酒 呑 楽 し武を見て爰 を

かもなしゆえにほかのさけのみたのしむをみてここを

(大意)

(補足)

「お多巻武春び」、『おだまき を―【苧環】① つむいだ麻糸を巻いて中空の玉にしたもの。おだま。』

「堂上方」、『どうじょう だうじやう【堂上】〔古くは「とうしょう」「どうしょう」とも〕① 昇殿を許された公卿・殿上人の総称。公家。堂上方。 ↔地下(じげ)』

「嵯峨の釈迦堂」、清凉寺 (嵯峨釈迦堂)、JR嵯峨嵐山駅からすぐ。

「大井河」、大堰川。

「床木」、床几。「床机」、床几。「笩」、筏もありますけど、どちらも読みは(いかだ)。

「麁(ソ)菓」、『そか ―くわ【粗菓】粗末な菓子。人に菓子を勧めたり,贈ったりするとき,謙遜していう語』。『そひん【粗品・麁品】① 粗悪な物。粗物。「御覧に足らぬ―なりとも御収納下され」〈近世紀聞•採菊〉』


 

2025年12月19日金曜日

江漢西遊日記六 その77

P91 東京国立博物館蔵

(読み)

頂  とあり池 尓色 \/能名 石 あり天 井  古法

ちょうとありいけにいろいろのめいせきありてんじょうこほう


眼 の画と云 画ハ見へ春゛柱  の隅ミを見る尓金

げんのえというえはみえず はしらのすみをみるにきん


箔 少 シ残 り多る有 夫 よりお室 尓参 ル二王 門

ぱくすこしのこりたるありそれよりおむろにまいるにおうもん


を入  て堂 の前 桜  さか里京  ハ春 の一 季ハ誠  ニ

をはいりてどうのまえさくらさかりきょうははるのいっきはまことに


都  乃春 ニて風 乃吹 ぬ所  ニて毎 日 能 天(テン)キ

みやこのはるにてかぜのふかぬところにてまいにちよき  てん き


ニて貴賤 皆 花 を見て楽 しむ亦 御所 の

にてきせんみなはなをみてたのしむまたごしょの


お坐しき拝 見 春る襖  金 泥 引 極 彩 色 ニ

おざしきはいけんするふすまきんでいびきごくさいしきに


花 と鳥 を模様 尓散ラし多るあり亦 人 物 或

はなととりをもようにちらしたるありまたじんぶつあるいは


孔雀  御坐間とも云 処  揚ケ多ゝみ屏  風ニて

くじゃくござまともいうところあげたたみびょうぶにて


かこひ其 後 ロ草 花 置 上(アケ)泥 引 砂 子

かこいそのうしろくさばなおき  あげ でいびきすなご

(大意)

(補足)

「古法眼」、『こほうげん ―ほふげん【古法眼】

父子ともに法眼の位を授けられている時,その父の方をいう称。特に,狩野元信をいう』、江漢は狩野元信のことをかならずこの言葉を使っています。

「泥引」、『でいびき【泥引き】刷毛(はけ)などで金泥・銀泥を引くこと』。

「砂子」、『すなご【砂子・沙子】① すな。まさご。

② 金銀の箔(はく)を粉末にしたもの。蒔絵(まきえ)・色紙・襖(ふすま)紙などに吹きつけて装飾とする。「―ノ屛風」〈日葡辞書〉』。

 金閣寺の内部を細かく観察しています。やはり絵師なのでしょうけど、抑えようもなく好奇心がまさるのでしょう。

 

2025年12月18日木曜日

江漢西遊日記六 その76

P90 東京国立博物館蔵

(読み)

入 る四条  栁   馬 場丸 亦 ヘ行ク夫 より清 水 観

いれるしじょうやなぎのばんばまるまたへゆくそれよりきよみずかん


音 開 帳  へ参 ル桜  の盛 里茶店 に休 ミ祇園

のんかいちょうへまいるさくらのさかりさてんにやすみぎおん


へ参 り二軒 茶 屋てん楽 ニて酒 を呑ミ祇園 町

へまいりにけんちゃやでんがくにてさけをのみぎおんまち


四条  へ出て帰 ル京  地ハ婦人 よし神 社 仏 閣

しじょうへでてかえるきょうちはふじんよしじんじゃぶっかく


山 をか多と里景色 よし東 都ニ異  里

やまをかたどりけしきよしとうとにことなり


廿   一 日 天 氣朝 より西 北 の方 へ行ク北 野天 神

にじゅういちにちてんきあさよりせいほくのほうへゆくきたのてんじん


北 の門 を出谷 川 尓二軒 茶 屋あり鯉 の吸 物 う

きたのもんをでたにがわににけんちゃやありこいのすいものう


なき能蒲 焼 アリ夫 より平 野の宮 三 社

なぎのかばやきありそれよりひらののみやさんしゃ


あり桜 花さかり亦 金閣寺(キンカクジノ)寺(テラ)へ行ク十  人

ありおうかさかりまた    きんかくじの   てら へゆくじゅうにん


ニて銀 二匁  出し見 物 春三 階 能額 ニハ究 意

にてぎんにもんめだしけんぶつすさんかいのがくにはくっきょう

(大意)

(補足)

「四条栁馬場丸亦ヘ行ク」、「四条栁馬場」は(しじょうやなぎのばんば)と読み、それにつづく「丸亦ヘ行ク」が意味不明です。(追記)「四条丸屋亦七」のことでした。

「廿一日」、寛政1年3月21日 1789年4月16日。

「平野の宮三社」、江戸時代から夜桜が庶民に開放されて以来、「平野の夜桜」として有名。

「究意頂」、AIによる概要です。

『金閣寺(鹿苑寺)の「究竟頂(くっきょうちょう)」は、舎利殿の最上層(第3層)を指す名称で、中国風の禅宗様仏殿造りを取り入れた究極の極楽浄土を表現した空間です。 仏舎利を安置する場所であり、内部は金箔で覆われ、後小松天皇の筆による「究竟頂」の額がかけられていました』。

 春真っ盛り。春の京都は何度も行きましたが、それでもまた行ってみたい♪

宇治方面もいいなぁ〜。

 

2025年12月17日水曜日

江漢西遊日記六 その75

P89 東京国立博物館蔵

(読み)

とぞ時 の鐘 あり宵(ヨイ)の中(ウチ)二三 町  の間  植(ウヘ)

とぞときのかねあり  よい の  うち にさんちょうのあいだ  うえ


木其 外 喰 物 諸 道 具捅 ざる様 能物

きそのほかくいものしょどうぐおけざるようのもの


小道 具等 を賣る是 ヲ夜市 と云ツて皆

こどうぐとうをうるこれをよいちといってみな


買ヒ尓行 夫 故 昼 ハ野菜 其 外 世代(セタイ)道

かいにゆくそれゆえひるはやさいそのほか   せたい どう


具賣リ歩 く者 なし此 市 所  々  尓あり

ぐうりあるくものなしこのいちところどころにあり


四条  橋 結メの町 ハ毎 夜なり其 外 寺 町

しじょうはしづめのまちはまいよなりそのほかてらまち


の丸 太町  堀 川 立 賣 の邊  なり

のまるたちょうほりかわたちうりのあたりなり


十  九日 天 氣六 右衛門 頼 ミの画認  メる

じゅうくにちてんきろくえ もんたのみのえしたためる


廿 日天 氣暖 色  小袖 一 ツニて宜 し閑院(カンニン)の宮(ミヤ)

はつかてんきだんしょくこそでひとつにてよろし   かんにん の  みや


様 へ銅 版 江戸の圖八 景 能目か年御覧 尓

さまへどうはんえどのずはっけいのめがねごらんに

(大意)

(補足)

「捅」、桶。原文の漢字の読みは(トウ)。「世代」、世帯。「橋結」、橋詰。いつもながら誤字をまったく気にしてない様子。

「十九日」、寛政1年3月19日 1789年4月14日。

「閑院(カンニン)の宮(ミヤ)」、閑院宮(かんいんのみや)。日本の皇室における宮家の一つ。世襲親王家の四宮家の一つ。家領千石。当時の主は第二代典仁親王。他三家は伏見・有栖川・桂(八条・京極)。

 

2025年12月16日火曜日

江漢西遊日記六 その74

P88 東京国立博物館蔵

(読み)

治臺 へ行ク先 日 皆 梅 の花 なりし尓今 ハ皆

じだいへゆくせんじつみなうめのはななりしにいまはみな


桃 の花 となり茶店 あり蜆  の吸 物 でんかく

もものはなとなりさてんありしじみのすいものでんがく


酒 を賣ル見渡 春処  漸  く五六 十  人 皆 京

さけをうるみわたすところようやくごろくじゅうにんみなきょう


邊の人 なり中 に妓 子など連レ来ル者 ハ他国 のい

べのひとなりなかにげいこなどつれくるものはたこくのい


なか者 ニて顔 色 毛風 俗 も違 ヒて見尓くくぞ

なかものにてかおいろもふうぞくもちがいてみにくくぞ


ある晩 景 京  へ帰 ル路 六右衛門 尓逢フ嶋 原

あるばんけいきょうへかえるみちろくえもんにあうしまばら


より文(フミ)参  多るを彼 地の風 ニて初 會 ニて毛

より  ふみ まいりたるをかのちのふうにてしょかいにても


なじミ能如 し

なじみのごとし


十  八 日 天 氣中 井老 人 の像 出来ル宵(ヨイ)六

じゅうはちにちてんきなかいろうじんのぞうできる  よい ろっ


角 堂 観 音 ハ札 所 ニて爰 ハ京  の中  央 なり

かくどうかんのんはふだしょにてここはきょうのちゅうおうなり

(大意)

(補足)

「初會ニて毛なじミ能如し」、すでに何度か説明してきましたが、今回はAIの概要です。

『「花魁 初会(しょかい)」とは、江戸時代の吉原遊廓で初めての客が**花魁(高級遊女)**と対面し、儀礼的な顔合わせや酒宴を行う最初の段階を指します。

初会の流れと特徴

顔合わせ: 客は妓楼(遊女屋)の「張見世」で花魁を選び、手配してもらいます。

引付座敷: 初めての客は「引付座敷」に通され、花魁と対面します。

儀礼: 盃を酌み交わす儀式が行われ、教養や身分が試されました。

「三回目で肌を許す」説: 初会で花魁は口を利かず、2回目(裏)で打ち解け、3回目(馴染み)で初めて肌を許すという説は有名ですが、これは伝説であり、現実には初会から関係を持つことも多かったとされます。

「裏」と「馴染み」: 2度目の来店は「裏を返す(裏)」、3度目は「馴染み」と呼ばれ、馴染みになるとより親密な関係になることが期待されました』。

「十八日」、寛政1年3月18日 1789年4月13日。

「六角堂」、赤印のところ。 


 梅が終わり、桃の花となり、次は桜です。もう西洋暦では4月もなかば。

 

2025年12月15日月曜日

江漢西遊日記六 その73

P87 東京国立博物館蔵

(読み)

昼 八ツ時 比 より荻 野左衛門  尉  方 へ行ク蘭 説 ヲ

ひるやつどきころよりおぎのさえもんのじょうかたへゆくらんせつを


話 春甚  タ奇と春酒 肴 を出し馳走 春夜

はなすはなはだきとすしゅこうをだしちそうすよる


能九  ツ時 過 尓帰 る京  住  せんと云 ヘハ甚  タよろ

のここのつどきすぎにかえるきょうずまいせんとつたえばはなはだよろ


こ婦

こぶ


十  六 日 天 氣よし暖 色  を催  ス祇園 邊  へ

じゅうろくにちてんきよしだんしょくをもよおすぎおんあたりへ


行キ大 雅堂 へ尋  る玉  瀾(ラン)も四五年 以前 ニ

ゆきたいがどうへたずねるぎょく  らん もしごねんいぜんに


死して今 ハ其 跡 ニ知らぬ名の人 居 个り

ししていまはそのあとにしらぬなのひとおりけり


十  七 日 天 氣日野中 井能婦人 来 ル中

じゅうしちにちてんきひのなかいのふじんきたるなか


井老 人 能像 を被頼  老 人 伏 見尓居ルよし

いろうじんのぞうをたのまるろうじんふしみにいるよし


伏 見ヘ行キ老 人 を寫春(ス)夫 より桃 山 宇

ふしみへゆきろうじんをうつ す それよりももやまう

(大意)

(補足)

「昼八ツ時比」、お昼の2時頃。おやつの時間はこの「八ツ」 からきてます。

「荻野左衛門尉」、荻野元凱(おぎの げんがい)だろうか?『加賀の金沢に生まれる。後に上洛し、奥村良筑の門人となり古法医学を学んだ。その後は江戸幕府からの招聘により、朝廷からの許可をもらった。これにより1794年(寛政6年)に典薬寮にて、当時の天皇だった光格天皇の皇太子の診療にあたった。1798年(寛政10年)には再度幕府からの招聘により漢方医学の教育を取り入れていた医学館で教鞭を執った。しかし元凱はその漢方に蘭方医学を用いた医学を教育を取り入れる事を希望した事が理由とされる事により、後に同学館から離れ京都に戻る。これによって「漢蘭折衷家」と呼ばれるようになった。その後は再度皇太子の診療にあたり、解剖学を学び晩年は河内国司としても活動した』。

「京住せんと云ヘハ甚タよろこ婦」、江漢はこの後、文化9(1812)年4月1日から11月21日まで京都に在住した。『江漢西遊日記三その8』でもそのことにふれています。

「大雅堂へ尋る玉瀾(ラン)も四五年以前ニ死して」、3月5日にも訪れています。玉蘭は池大雅の奥様、天明4年9月28日(1784年11月10日)に病没なので「四五年以前ニ死して」は正確です。

「中井老人」、『江漢西遊日記二その44』にはじめてでてきました。当時日本一の商店主。

 滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十八号、KEIZAI SHIRYOKAN KIYO_038_001-015Z.pdfに詳しく論じられています。

 中井老人の肖像画を往路復路でそれぞれ1枚ずつ描いたことになります。それら肖像画は個人像となっていて残念ながらネットで鑑賞することができません。

 とてもとても残念😢 

2025年12月14日日曜日

江漢西遊日記六 その72

P86 東京国立博物館蔵

(読み)

ウヅマサ聖  徳 太 子開 帳  大 井河 ニ掛 ル土橋 アリ

うずまさしょうとくたいしかいちょうおおいがわにかかるどばしあり


吐月 橋  と云 渡 しハ虚空 蔵 嵐  山 なり亦タ

とげつきょうというわたしはこくうぞうあらしやまなりまた


もと能橋 を渡 里天 龍  寺夫 より嵯峨の

もとのはしをわたりてんりゅうじそれよりさがの


釈 迦堂 茶店 ニ休 ミ裏 を出て愛 宕へ

しゃかどうさてんにやすみうらをでてあたごへ


行ク路 婦もとより五十 町  清 瀧 なと云 処  アリテ

ゆくみちふもとよりごじっちょうきよたきなどいうところありて


路 \/喰 物 アリ人 をも泊 ル女  土器(カワラケ)を投(ナケ)る

みちみちくいものありひとをもとめるおんな   かわらけ を  なげ る


妙 なり山 上  ニ至 レハ雪 消 残 ル夫 より下 り路

たえなりさんじょうにいたればゆきけしのこるそれよりくだりみち


尓して野山 を越 て北 野天 神 へ出て日暮

にしてのやまをこえてきたのてんじんへでてひぐれ


前 冨 ノ小 路尓かえりぬ

まえとみのこうじにかえりぬ


十  五日 曇  此 間  頼 ミし目鏡  箱 出来る

じゅうごにちくもりこのあいだたのみしめかがみばこできる

(大意)

(補足)

「大井河」、大堰川。「吐月橋」、渡月橋。いくらなんでも吐月とはちょっとひどすぎ、風流のかけらもない。

『おおいがわ おほゐがは 【大堰川】

京都府中東部,丹波高地の大悲山(たいひざん)に源を発し,亀岡付近(渡月橋より上流)で保津(ほづ)川と名を変え,さらに(渡月橋の)下流で桂川となり,淀(よど)川に注ぐ川。大井川。「いろいろの木の葉ながるる―しもは桂のもみぢとやみむ」〈拾遺和歌集•秋〉』。『大堰川と呼ばれるのは、5世紀後半に、この地域で大変な力を持っていた秦氏(渡来系の豪族)が、川に大きな堰(せき)をつくり、灌漑用水を引いたことに由来』するとありました。

「冨ノ小路」、南北の青い部分、繁華街です。

「十五日」、寛政1年3月15日 1789年4月10日。

 この日14日は、嵐山、愛宕山、北野天神などの周辺の1日観光、ずいぶんと歩いたはずです。

 

2025年12月13日土曜日

江漢西遊日記六 その71


P85 東京国立博物館蔵

(読み)

十  三 日 曇  昼 より四条  竹 田から繰 を見 物 春

じゅうさんにちくもりひるよりしじょうたけだからくりをけんぶつす


画心 紙と云 大 唐 紙 三 十  三 匁  ニ調  へ亦 能そき

がせんしというおおからかみさんじゅうさんもんめにととのへまたのぞき


目鏡 能箱 出来ル

めがねのはこできる


十  四 日曇  朝 飯 後より愛宕 ヘ参 ル三 条  ヲ

じゅうよっかくもりあさめしごよりあたごへまいるさんじょうを


西 へ行キ十  五六 町  過 シハ洛 外 なり田畑 路ニ獄

にしへゆきじゅうごろくちょうすぎしはらくがいなりたはたじにごく



門 あり者しめて見ル此 盗   ハ三 十  三 間 堂 能

もんありはじめてみるこのぬすっとはさんじゅうさんげんどうの


床(ヱン)の下 ニ住 て夜盗 なり捕  ラれて縄 をぬけ

  えん のしたにすみてやとうなりとらえられてなわをぬけ


途中  ニて逃 出し路 を通 ル醫者 能脇 差

とちゅうにてにげだしみちをとおるいしゃのわきざし


を取 ぬき身を以 て古 手屋ヘ入 衣類 を着(キ)

をとりぬきみをもってふるてやへいりいるいを  き


多ると云 産 レハ薩摩(サツマ)の者 と云 夫 より嵯峨

たるといううまれは   さつま のものというそれよりさが

(大意)

(補足)

「十三日」、寛政1年3月13日 1789年4月8日。

「竹田から繰」、このようなものだったのでしょうか、 

「画心紙」、画仙紙。

「調へ」、『ととの・える ととのへる 【整える・調える・斉える】⑦ 買う。「酒を―・へに来たほどに」〈狂言・伯母が酒•鷺流〉』

「愛宕」、観光地嵐山のさらに北西部。

 

2025年12月12日金曜日

江漢西遊日記六 その70

P81 東京国立博物館蔵

P82 


 P83

P84

(読み)

P81

小倉堤

おぐらつつみ


三 十 町  アリ

さんじっちょうあり

P82

きゃく


中居

なかい

P83

嶋 原 大夫

しまばらたゆう

P84

愛 宕山

あたごやま


カワラケ

かわらけ


ナゲ

なげ

(大意)

(補足)

 嶋原太夫の前帯のでかいこと。足袋をはいているとおもいきや、はだしでした。

愛宕山のかわらけ投げについてのAIの概要です。

『京都の愛宕山や高雄などで、見晴らしの良い場所から素焼きの土器(かわらけ)を投げて、その舞い方を楽しむ遊びで、厄除けの意味合いもあり、古典落語の演目にもなった有名な風習です。落語『愛宕山』では、旦那が小判を投げるという滑稽な話に発展しますが、本来は参詣客が楽しんだ縁起の良い行事でした』。

「女土器(カワラケ)を投(ナケ)る妙なり」、それをながめるふたりは江漢と弁㐂。

 

2025年12月11日木曜日

江漢西遊日記六 その69

P80 東京国立博物館蔵

(読み)

三 条  生(イケ)春松 源 柏 宗 なと名 家アリ鯉 ふな

さんじょう  いけ すまつげんはくそうなどめいかありこいふな


うなぎ酒 を呑 妓  一 人三 味せんハなら春゛夫

うなぎさけをのむおんなひとりしゃみせんはならず それ


よりして新 地と云 処  ヘ至 り亦 爰 妓  壱 人茶 や

よりしてしんちというところへいたりまたここおんなひとりちゃや


の女  房 を連レて嶋 原 へ行ク揚 屋偶 徳 と云

のにょうぼうをつれてしまばらへゆくあげやすみとくという


尓参 ル玄 関 より上 ル書 院 坐しき燭  臺

にまいるげんかんよりあがるしょいんざしきしょくだい


数 十  如昼    照 春女  房 出 中 居八 九人 妓

すうじゅうひるのごとくてらすにょうぼうでてなかいはっくにんおんな


四人 盲 人 壱 人夫 より大夫 をかりて見ル

よにんもうじんひとりそれよりたゆうをかりてみる


三 十  人 其 内 玉 の井と云 を揚 る夜 の八ツ時

さんじゅうにんそのうちたまのいというをあげるよるのやつどき


比 尓帰 ル

ころにかえる


十  二日 曇  氣分 あしゝ偶 然 として暮 春

じゅうににちくもりきぶんあししぐうぜんとしてすごす

(大意)

(補足)

「三条生洲」、『川に面した座敷があり鯉、鮒、鰻などの川魚や鴨などを店の生洲(高瀬川の水を引き込んだ)や庭に飼っておいて、客の注文に応じて料理を出す』。

「松源」「柏宗」については、当時の有名な茶屋・料理屋ではないかとおもわれますが、不明です。

「揚屋偶徳」、京都島原の揚屋、角屋徳兵衛の略。角屋は島原の郭内でも由緒ある揚屋として、歴史上の重要な舞台ともなった。また、島原開設当初から連綿と建物・家督を維持しつづけ、江戸期の饗宴・もてなしの文化の場である揚屋建築の唯一の遺構として、昭和27年(1952)に国の重要文化財に指定されました。

 さらに平成10年度からは、「角屋もてなしの文化美術館」を開館して、角屋の建物自体と併せて所蔵美術品等の展示・公開を行うことになりました。

「夜の八ツ時比」、夜中の2時頃。

「十二日」、寛政1年3月12日 1789年4月7日。

「偶然」、寓然。しばらく前にも、同じように過ごしました。

 江漢さん、午前2時ごろに帰宅。二日酔いと寝不足で「氣分あしゝ」だったようです。

 

2025年12月10日水曜日

江漢西遊日記六 その68

P79 東京国立博物館蔵

(読み)

五十  位  爰 ニ十  四 日滞 畄  春る

ごじゅうくらいここにじゅうよっかたいりゅうする


八 日曇  さ武し荻 野左衛門 方 へ行ク頗  ルおらん

ようかくもりさむしおぎのさえもんかたへゆくすこぶるおらん


多を好 ム人 ニて窮  理談 を春酒 肴 を出して

だをこのむひとにてきゅうりだんをすしゅこうをだして


よろこぶ

よろこぶ


九  日宿 の弟   を連レ北 野天 神 へ行ク天 曇

ここのかやどのおとうとをつれきたのてんじんへゆくてんくもり


て雪 降 出春此 日さ武し大 霜 厚ツ氷 リハル

てゆきふりだすこのひさむしおおしもあつごおりはる


十 日朝 霜 氷 ル天 氣京  ハめつらしき故 尓

とおかあさしもこおるてんききょうはめずらしきゆえに


所  々  を歩ス祇園 より金 毘羅参 り人 多 し

ところどころをほすぎおんよりこんぴらまいりひとおおし


僕(ホク)弁 喜大 坂 へ遣  ス

  ぼく べんきおおさかへつかわす


十  一 日 大 雨 晩 方 雷 鳴 伏 見六 右衛門来 ル

じゅういちにちおおあめばんがたらいめいふしみろくえもんきたる

(大意)

(補足)

「八日」、寛政1年3月8日 1789年4月3日。

「窮理談を春」、江漢はこの長崎西遊の後、寛政5(1793)年〜文化6(1809)年に以下の科学書を次々に刊行した。『銅版地球全図』『地球全図略説』『銅図』『和蘭天説』『和蘭通舶』『刻百爾(コッペル)天文図解』『地球儀略図解』。『春波楼筆記』には「小子は天文地理を好み、わが日本にはじめて地転の説をひらく」と自負し、地動説の紹介と普及に功績をあげた。

 1792年に発刊した『地球全図』、 

「雪降出春此日さ武し大霜厚ツ氷リハル」、1789年は世界中で異常気象の年でした。現在でも4月上旬春先の爆弾低気圧でこのようなことはありますので、なんとも判断がつきかねます。

「祇園」、なんども日記にでてきてます。日記では「祇」が「祗」となっています。

 

2025年12月9日火曜日

江漢西遊日記六 その67

P78 東京国立博物館蔵

(読み)

路 雨 降 出春

みちあめふりだす


六 日大 雨 扇 面 ニ画を描ク伊賀の商  人 昨

むいかおおあめせんめんにえをかくいがのしょうにんさく


夜より爰 ニ居ル銅 版 目か年を見セる其 者

やよりここにおるどうはんめがねをみせるそのもの


云 私   兄 画を好 ム是 より吉 野ノ方 へお出

いうわたくしあにえをこのむこれよりよしののほうへおいで


ならハ必  ス相 待 申  と云 九  兵衛津の者 を

ならばかならずあいまちもうすというきゅうべえつのものを


連レ来 ル亦 佐兵衛方 ニて小倉 能沼 の蜆(シゝミ)

つれきたるまたさへえかたにておぐらのぬまの  しじみ


至  て大 キシ吸 物 ニして酒 を呑ム

いたっておおきしすいものにしてさけをのむ


七 日天 氣さ武し伏 見京  町 より京  冨 の

なのかてんきさむしふしみきょうまちよりきょうとみの


小 路姉 カ小 路日野屋方 へ引 越ス主 人 ハ廿   二

こうじあねがこうじひのやかたへひっこすしゅじんはにじゅうに


三 能若 者 弟   十  六 七 能キ人 物 なり母 親 アリ

さんのわかものおとうとじゅうろくしちよきじんぶつなりははおやあり

(大意)

(補足)

「六日」、寛政1年3月6日 1789年4月1日。

「吉野ノ方へお出ならハ」、江漢はその後、文化9(1812)年、吉野へ観光旅行をして、『吉野紀行』をあらわしています。

 伏見京町に2月28日〜3月6日まで泊まって、この日7日に姉カ小路日野屋へ引っ越しました。

 

2025年12月8日月曜日

江漢西遊日記六 その66

P77 東京国立博物館蔵

(読み)

尓て呼 れ酒 出 馳走 ニなり帰 ル文 策 と物

にてよばれさけだすちそうになりかえるぶんさくともの


語 りして夜 五  時 尓寝ル此 文 策 と云 醫者

がたりしてよるいつつどきにねるこのぶんさくといういしゃ


ハ相 馬能人 ニて此 伏 見ニ滞 畄  して居(イ)し

はそうまのひとにてこのふしみにたいりゅうして  い し


なり

なり


四 日天 氣後 曇  冨士の画出来上 ル昼 比

よっかてんきのちくもりふじのえできあがるひるごろ


隣 家佐兵衛方 へ文 策 と行ク酒 を呑ミ又

りんかさへえかたへぶんさくとゆくさけをのみまた


九  兵衛処  へ茶 尓参 ル帰 りて茶 尓おかされ

きゅうべえところへちゃにまいるかえりてちゃにおかされ


二 人共 夜半 迄 不眠

ふたりともやはんまでねむれず


五 日曇  京  へ行ク三 里あり宗 林 寺門

いつかくもりきょうへゆくさんりありそうりんじもん


前 大 雅堂 能跡 へ行ク其 外 所  々  へ尋  る返

ぜんたいがどうのあとへゆくそのほかところどころへたずねるかえり

(大意)

(補足)

「四日」、寛政1年3月4日 1789年3月30日。

「茶尓おかされ二人共夜半迄不眠」、むかしもいまもお茶で眠れなくなってしまうのは時代をこえてのアルアル。

「宗林寺門前大雅堂」、京都市のHPより。

『池大雅(1723~76)の家は北山深泥池村で代々農業を営んだが,父が京都に出て銀座の下役になった。大雅は少年時代より書を学び,南画を研究した。30歳頃祇園茶店の娘町(玉瀾)と結婚し,この地真葛原(知恩院から円山公園を経て双林寺に至る台地一帯)に草庵を結んだ。与謝蕪村(1716~83)とともに日本的な独自の文人画を大成した。この石標は池大雅の住居跡を示すものである』。 

 池大雅や蕪村も、江漢さんと同時代の人だったのですね、へぇ〜、です。


 

2025年12月7日日曜日

江漢西遊日記六 その65

P76 東京国立博物館蔵

(読み)

此 時 大 和廻 里をせ春゛亦 小倉 堤  へ出て

このときやまとめぐりをせず またおぐらつつみへでて


伏 見京  町 ニ帰 ル

ふしみきょうまちにかえる


二 日雨天 四ツ時 より京  の方 へ行ク深 草 と云

ふつかうてんよつどきよりきょうのほうへゆくふかくさという


処  焼 物 アリ東 福 寺の前 を過 て三 十  三

ところやきものありとうふくじのまえをすぎてさんじゅうさん


軒 堂 大 佛 殿 夫 より五条  橋 へ出寺 町

げんどうだいぶつでんそれよりごじょうばしへでてらまち


通 りを行キ四条  より三 条  芝 居の前 へ出て

とおりをゆきしじょうよりさんじょうしばいのまえへでて


麩(フ)屋町  へ行 路 ニて文 束 と云 人 ニ逢ヒ同 道 して

  ふ やちょうへゆくみちにてぶんさくというひとにあいどうどうして


知音 院 へ参  祇園 清 水 へ参 り亦 伏 見ニ返 ル

ちおんいんへまいるぎおんきよみずへまいりまたふしみにかえる


三 日天 氣寒  日野孫 三 郎 頼 ミの画八部の

みっかてんきさむしひのまごさぶろうたのみのえやべの


冨士を描ク昼 比 より隣  九  兵衛方 ひゐな祭 り

ふじをかくひるごろよりとなりきゅうべえかたひいなまつり

(大意)

(補足)

「二日」、寛政1年3月2日 1789年3月28日。

「深草と云処焼物アリ」、現在では京都の焼き物といえば「清水焼」となりますが、当時はこの「深草焼き」のようでした。AIの概要では次のようにありました。

『深草の焼き物について

深草(現在の京都市伏見区深草)一帯は良質な粘土が豊富に産出したため、奈良時代には既に土師部(はじべ)が埴輪や土器、瓦などを制作していました。 

深草焼(ふかくさやき): 京焼のルーツの一つとされ、江戸時代後期から明治初期にかけて活躍した作陶家もいました。当初は素朴な締焼(しめやき)でしたが、室町時代以降に釉薬を使った陶器も生まれています。

深草土器(ふかくさかわらけ): 神社などで使用される素焼きの土器も深草で作られていました』。

「大佛殿」、方広寺にあった大仏のこと。江漢さんが見た大仏は寛政10年(1798年)に落雷によって焼失。

「文束」、文策。

「ひゐな」、『ひいな ひひな 【雛】ひな人形。ひな。季春「うつくしきもの,…―の調度」〈枕草子•151〉』

「三十三軒堂」、三十三間堂。「知音院」、知恩院。

 この日の観光コースは修学旅行生のものとほぼ同じです。


 

2025年12月6日土曜日

江漢西遊日記六 その64

P75 東京国立博物館蔵

(読み)

行ク尓六 地蔵 小畑 村 を過 黄 檗 山 ニ至 ルニ

ゆくにろくじぞうこはたむらをすぎおうばくさんにいたるに


入 口 門 尓第 一 義と云 額 山 門 尓萬 福 寺

いりぐちもんにだいいちぎというがくさんもんにまんぷくじ


本 堂 尓大 王 殿 裏 尓威徳 荘 厳 と在

ほんどうにだいおうでんうらにいとくそうごんとあり


霊 峰 沙 門 即 非敬 書 誠  唐 めき多る処

れいほうしゃもんそくひけいしょまことからめきたるところ


なり夫 より三 宝 堂 橋 寺 恵心 寺恵心

なりそれよりさんぽうどうはしでらえしんじえしん


僧 都自作 の像 あり寛 仁 元 年 六 月 十

そうずじさくのぞうありかんにんがんねんろくがつとお


日卒 春今年 迄 七 百  七 十  三 年 ニなる橋

かそっすことしまでななひゃくななじゅうさんねんになるはし


あり損 春舟 渡 し即 宇治河 是 也 渡 り

ありそんすふなわたしそくうじがわこれなりわたり


て松 あり扇  の芝 と云 左  ニ釣 殿 鳳 凰

てまつありおおぎのしばというひだりにつりどのほうおう


堂 前 ニ池 アリ其 上 の瀬を山 吹 の瀬と云

どうまえにいけありそのうえのせをやまぶきのせという

(大意)

(補足)

「小畑村」、小幡(こはた)村か。

「萬福寺 霊峰沙門即非敬書」で調べると、AIの概要は次の通り。

『京都府宇治市にある黄檗山萬福寺(おうばくさんまんぷくじ)と、江戸時代前期に活躍した中国出身の高僧である即非如一(そくひにょいち)禅師に関わる言葉です。具体的には、即非禅師が揮毫(きごう)した書の落款(らっかん、署名)や題名の一部と考えられます。 内訳は以下の通りです。

萬福寺: 1661年に中国僧・隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師によって開創された、黄檗宗の大本山です。

即非(そくひ): 即非如一禅師(1616年-1671年)のことです。隠元禅師の弟子として来日し、長崎の崇福寺の住職を務めた後、萬福寺の第2代住持となりました。

霊峰沙門(れいほうしゃもん): 霊峰は即非禅師の別号(呼び名)の一つ、沙門は出家修行者を意味します。

敬書(けいしょ): 恭しく(うやうやしく)書いた、という意味です』。AIは信用できないので、個別に調べてみると、まぁ、あっているようです。

「七百七十三年」、この日は西暦で1789年3月27日。寛仁(かんにん)元年は西暦1017年なので引き算をすると、772年前となります。

 恵心寺と平等院は宇治川をはさんで向かいあっていますので、江漢さんは恵心寺から川を渡って、平等院へ行ったようです。そこの「扇の芝」は『治承4年(1180年)の宇治川の戦いで平氏軍に敗れた源頼政が、平等院に逃げ込み、自刃した場所と伝えられています。伝説によると、頼政は西方極楽浄土を願って大きな軍扇(ぐんせん)を敷き、その上で切腹したことから「扇の芝」と呼ばれるようになりました』とあります。

「釣殿」、『つりどの【釣り殿】

寝殿造りの南端の,池に臨んで建てられた周囲を吹き放ちにした建物。魚釣りを楽しんだところからの名という。納涼・饗宴に用いられた』。

 宇治の平等院鳳凰堂は江漢さんの好みではなかったようで、画を残していません。大和巡りはせずに伏見京町へ帰ってしまいました。

 もう50数年前のことでしょうか、もしかしたら大阪万博1970年のときだったかもしれません。父と京都旅行をして萬福寺を訪問しました。真夏の暑い盛り、汗だくでしたが境内は日陰も多く、涼しかった。そこで見た、鉄眼和尚の一切経の版木は感動的でした。ずっと見ていたら、係員の方がガラスケースの中につまれていた真っ黒な版木を取り出して持たせてくれました、重たかった。これは世界にこれ1枚しかないのだとおもうと、いっそうずしりと両手にそのおもみがしみました。版木の漢字の彫りは、たくさん刷っただろうに角がまだしっかりとたっていて、丈夫なのだなとおもったものです。中国ではもうこの一切経の版木はとっくに失われていて、世界でもここにしかない貴重なものということです。 

2025年12月5日金曜日

江漢西遊日記六 その63

P74 東京国立博物館蔵

(読み)

鍋 嶌 黒 田と呼フ古  へ能屋しき能跡 と

なべしまくろだとよぶいにしえのやしきのあとと


見ユ其 畑  のウ子\/尓梅 桃 を植 て其

みゆそのはたけのうねうねにうめももをうえてその


比 梅 能花 さか里なり臺 より見下 セハ皆

ころうめのはなざかりなりだいよりみおろせばみな


梅 村 小倉 能沼 堤  向 フ方 ハ春 日山 八幡

うめむらおぐらのぬまつつみむこうかたはかすがやまやわた


山 遥  尓吉 野能方 金 剛 山 を望 ム左  ハ黄檗(ヲーハク)

やまはるかによしののほうこんごうさんをのぞむひだりは   おうばく


山 宇治の方 なり臺 を下 レハ御香 の宮

さんうじのほうなりだいをおりればごこうのみや


とて鎮 守 なり門 ハ古  へ能臺 所  能門 と云フ

とてちんじゅなりもんはいにしえのだいどころのもんという


画馬堂 尓大 釜 ニ菊 桐 の紋 アリ

えまどうにおおがまにきくきりのもんあり


三 月 朔 日 天 氣寒 シ宇治の方 へ行ク尓宮

さんがつついたちてんきさむしうじのほうへゆくにみや


乃前 を通 り梅 畑  を過 て城  址を左  ニ見テ

のまえをとおりうめばたけをすぎてじょうしをひだりにみて

(大意)

(補足)

「ウ子\/」、いままでずっとこの「ウ子」の「子」を「ネ」としてきましたが、「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」の「子」が字の形として正解のようです。

「小倉」、巨椋。この古地図を見ると大池の右に小倉村とありますので、正しいのかも。


 「御香の宮」、『御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)は京都市伏見区に鎮座し、安産・子育ての社として古くより信仰を集めています』とありました。
 

「画馬堂」、絵馬堂。

「三月朔日」、寛政1年3月1日 1789年3月27日。

 見学するところ、見学したいところがたくさんあるのでしょう。精力的に近辺を歩き回っています。

2025年12月4日木曜日

江漢西遊日記六 その62

P73 東京国立博物館蔵

(読み)

てハ遠 し堤  湖   能半(ナカハ)尓あり太 閤 之(コレ)を

てはとおしつつみみずうみの  なかば にありたいこう  これ を


築(キツカ)レしとぞ岸 \/尓疎栁  植(ウユ)栁 キ䇭(コリ)

  きづか れしとぞきしきしにそやなぎ  うゆ やなぎ  ごり


を作 ル堤  長 サ三 十 町  其 半  尓漁 村 両

をつくるつつみながささんじっちょうそのなかばにぎょそんりょう


三 軒 アリ京  町 近 江屋ニ至 ル

さんげんありきょうまちおうみやにいたる


廿   九日 雨天 夜 尓入 イヨ\/降ル此 日偶 然

にじゅうくにちうてんよるにいりいよいよふるこのひぐうぜん


として暮 春

としてすごす


三 十  日 雨 ヤム曇 ル隣 家九  兵衛と云 人 亦

さんじゅうにちあめやむくもるりんけきゅうべえというひとまた


佐兵衛と共 尓宇治見臺 と云 所  へ登 ル太

さへえとともにうじみだいというところへのぼるたい


閤 庭 の跡 と云 其 行 路を昔 シ大 和街

こうにわのあとというそのこうろをむかしやまとかい


道 と云 今 ハ左右 畑  なり其 畑  の名あり

どうといういまはさゆうはたけなりそのはたけのなあり

(大意)

(補足)

「廿九日」、寛政1年2月29日 1789年3月25日(どこかで1日ずれていました)。

「栁キ䇭(コリ)」、柳行李。

「偶然」、寓然。

「宇治見臺」、AIの概要がしばらく考えてました。

『京都の伏見(現在の京都市伏見区桃山町付近)にあったとされる歴史的な眺望地(展望台)の名称です。現在の宇治市内の正式な住所や地名としては存在しません。 

 江戸時代の紀行文などによると、宇治見台は豊臣秀吉が築いた伏見城の庭園跡の一角にあったとされ、そこから宇治方面の眺めを楽しんだことが記されています。

 司馬江漢の『江漢西遊日記』にも、寛政元年に宇治見台からの眺望を楽しんだという記述があります。 

 現在、宇治市内で眺めの良い場所としては、宇治川や平等院を一望できる大吉山(仏徳山)展望台などが知られています』とありました。

 「西遊旅譚五」にそこからの眺望の画があります。「堤湖能半(ナカハ)」とあるように、なるほど湖を左右に分けています。 

 季節季節できれいだったでしょね。

 

2025年12月3日水曜日

江漢西遊日記六 その61

P72 東京国立博物館蔵

(読み)

廿   七 日 天 氣六 過 ニ大 坂 丸 清 方 を出  立

にじゅうしちにちてんきむつすぎにおおさかまるせいかたをしゅったつ


して安 道 寺町 筋 を東  能方 へ行キ山 ニ

してあんどうじまちすじをひがしのほうへゆきやまに


入 クラガリ峠  を越へ亦 向 フ能山 ニ至 りモ

いるくらがりとおげをこえまたむこうのやまにいたりも


ロノ木山 より南 都塔 及 ヒ大 仏 殿 見(ミ)

ろのきやまよりなんととうおよびだいぶつでん  み


え(ヘ)る山 を下 レハ春 日能社  誠  尓大 社 ナリ

え   るやまをくだればかすがのやしろまことにたいしゃなり


亦 大 佛 を見る猿 沢 の池 の邊  尓泊 ル

まただいぶつをみるさるさわのいけのあたりにとまる


廿   八 日 曇 ル椿 木町  古梅 園 へ参 り天 覧 能

にじゅうはちにちくもるつばきちょうこばいえんへまいりてんらんの


墨 を見る亦 墨 の形  を見る妙  工 なり夫 より

すみをみるまたすみのかたちをみるみょうこうなりそれより


南 都を出テ七 里伏 見尓至 ルニ其 路 小倉

なんとをでてしちりふしみにいたるにそのみちおぐら


堤  アリ是 ハ京  より南 都ヘ宇路を廻 里

つつみありこれはきょうよりなんとへうじをめぐり

(大意)

(補足)

「廿七日」、寛政1年2月27日 1789年3月22日。

「クラガリ峠」、暗峠。大阪を出立してほぼ真東へ。

 更に東へ、 

 猿沢の池です。 

 猿沢の池は春日大社、大仏の西にあります。見学してから西へ戻ったのでしょうか?なんか変です。

「椿木町古梅園」、「椿木町」ではなく「椿井町(つばいちょう)」のようです。古梅園は今でもあって、「1577年(室町時代末期)創業で、440年以上の歴史を持つ老舗の墨メーカーです。徳川幕府の御用達も務めた歴史を持ち、「奈良墨」の代名詞とも言える存在です」とありました。

「小倉堤」、『おぐらのいけ 【巨椋池】

京都市伏見区・宇治市・久世郡にまたがってあった周囲約16キロメートルの湖沼。一九三三(昭和八)~41年干拓によって消滅。現在は水田・住宅地帯。巨椋の入江。おぐらいけ』のようです。

「宇路」、宇治。

 かなりの道を、それも暗峠(くらがりとおげ)という非常に難所の山越えをしてからも、歩み続けています。健脚!

 

2025年12月2日火曜日

江漢西遊日記六 その60

P71 東京国立博物館蔵

(読み)

なんぎ春る

なんぎする


廿   五日 天 氣昼 時 より天 王 寺へ行ク京  壬(ミ)

にじゅうごにちてんきひるどきよりてんのうじへゆくきょう  み


生寺 開 帳  壬生狂  言 を見ル夫 より清 水

ぶでらかいちょうみぶきょうげんをみるそれよりきよみず


寺 へ行キ帰 り尓十一 屋五郎兵衛へ参 ル蕎麦を

でらへゆきかえりにといちやごろべえへまいるそばを


出春尼 五同 道 なり

だすあまごどうどうなり


廿   六 日 曇 ル尼 五より丸 清 ヘ行 蒹 葭堂

にじゅうろくにちくもるあまごよりまるせいへゆくけんかどう


へ暇  乞 参 ル酒 出て唐 墨 唐 扇 を餞 別

へいとまごいまいるさけでてからすみとうせんをせんべつ


ニ贈 ル明  朝  奈良ノ方 へ出  立 せんと思 フ

におくるみょうちょうならのほうへしゅったつせんとおもう


ナマナヤ治兵衛参 ル酒 肴 を出し夜 四 時

なまなやじへえまいるしゅこうをだしよるよつどき


過 帰 ル甚  タ別 レをおし武

すぎかえるはなはだわかれをおしむ

(大意)

(補足)

「廿五日」、寛政1年2月25日 1789年3月20日。

「十一屋五郎兵衛」、間 重富(はざま しげとみ、宝暦6年3月8日(1756年4月7日〜文化13年3月24日(1816年4月21日))は、江戸期の天文学者。寛政の改暦に功績があった。質屋を営む羽間屋の第六子として生まれる。蔵が11あったことからも「十一屋(といちや)」と呼ばれた裕福な家業を継ぎ、通称は十一屋五郎兵衛(7代目)、以上Wikipediaより。

「尼五」、これは以前にもでてきていてなんのことかわかりませんでしたが、尼崎屋五兵衛(木村兼葭堂とは特に親しかった)のことでした。

 

2025年12月1日月曜日

江漢西遊日記六 その59

P69 東京国立博物館蔵

P70

(読み)

箕山(キサン)

   きさん


瀑布(タキ)

   たき


正  面 ヨリ見テ

しょうめんよりみて


能キ瀧

よきたき


ナリ

なり


不動

ふどう


茶 屋

ちゃや

P70

勝 尾 寺観 音

かつおおじかんのん


札 所 なり

ふだしょなり


大 坂 へ五里

おおさかへごり

(大意)

(補足)

「不動」、『箕面山 瀧安寺』のHPに「14. 箕⾯⼤滝Mino-o Falls」があります。 

 説明文に『役⾏者お悟りの聖地。江⼾期までは当寺の境内として、滝壺の側に不動堂が建てられていた。現在は⼤阪府営「明治の森箕⾯国定公園」内にあり、⽇本の滝百選のひとつに選ばれている』、とあって、写真の観光客がいるあたりに不動や茶屋があったのでしょう。

 勝尾寺の手前の起伏が大きく描かれているは文中の「山上より望ム尓山なし平地尓見へ山を下レハ皆山路なり」を表現したものでしょうか。山門が子どもが描いたような稚拙さがあって、これも江漢の特徴かもしれません。