P71 東京国立博物館蔵
(読み)
なんぎ春る
なんぎする
廿 五日 天 氣昼 時 より天 王 寺へ行ク京 壬(ミ)
にじゅうごにちてんきひるどきよりてんのうじへゆくきょう み
生寺 開 帳 壬生狂 言 を見ル夫 より清 水
ぶでらかいちょうみぶきょうげんをみるそれよりきよみず
寺 へ行キ帰 り尓十一 屋五郎兵衛へ参 ル蕎麦を
でらへゆきかえりにといちやごろべえへまいるそばを
出春尼 五同 道 なり
だすあまごどうどうなり
廿 六 日 曇 ル尼 五より丸 清 ヘ行 蒹 葭堂
にじゅうろくにちくもるあまごよりまるせいへゆくけんかどう
へ暇 乞 参 ル酒 出て唐 墨 唐 扇 を餞 別
へいとまごいまいるさけでてからすみとうせんをせんべつ
ニ贈 ル明 朝 奈良ノ方 へ出 立 せんと思 フ
におくるみょうちょうならのほうへしゅったつせんとおもう
ナマナヤ治兵衛参 ル酒 肴 を出し夜 四 時
なまなやじへえまいるしゅこうをだしよるよつどき
過 帰 ル甚 タ別 レをおし武
すぎかえるはなはだわかれをおしむ
(大意)
略
(補足)
「廿五日」、寛政1年2月25日 1789年3月20日。
「十一屋五郎兵衛」、間 重富(はざま しげとみ、宝暦6年3月8日(1756年4月7日〜文化13年3月24日(1816年4月21日))は、江戸期の天文学者。寛政の改暦に功績があった。質屋を営む羽間屋の第六子として生まれる。蔵が11あったことからも「十一屋(といちや)」と呼ばれた裕福な家業を継ぎ、通称は十一屋五郎兵衛(7代目)、以上Wikipediaより。
「尼五」、これは以前にもでてきていてなんのことかわかりませんでしたが、尼崎屋五兵衛(木村兼葭堂とは特に親しかった)のことでした。



