2025年4月30日水曜日

JAPANESE STORY-TELLERS その10

P8 個人蔵

(読み)

Here are functionaries with homely but

slightly haughty manners, worthy citizen of

the neighbourhood, accompanied by whole

families, and some of the populace as well,

-all waiting patiently for the entertainment

to begin, as they smoke diminutive pipes

and sip tea. It is very simple, this room,

like all Japanese rooms. At the further

end is a small platform, allotted to the

hanashika, and behind it the performers'

entrance, half-hidden by a costly curtain,

(大意)

 ここには、親しげだがどこか高慢な感じの役人風の者もいれば、近所の善良な市民や家族全員を連れてる者、そして同じくいろいろな人々たちが、開演を辛抱強く、煙草をふかしたり、お茶をすすったりしながら待っているのである。この部屋は他の日本の部屋などと同じように、大変に簡素なつくりになっている。

 奥まったところには、噺家のための小さな台があり、その後ろには演者たちのための出入り口があって、高価そうなのれんで半ば閉ざされています。

(補足)

 前のページで煙草盆のわきにあるのを下足札としましたが、ここでは「〼五番」とあって、座る場所の札になっています。はて?(「〼」は枡記号(一升枡の形に斜め線)で、フォントでも定着しているようです)

 床が薄緑になっているのは、畳のようで、それに座布団。大きめの急須と茶碗もあります。

 

2025年4月29日火曜日

JAPANESE STORY-TELLERS その9

P7 個人蔵

(読み)

tatami, those mats of dazzling cleanliness,

on which Japanese existence is passed.

Finally, you mount a staircase, very shining,

very polished, to the nikai or first floor,

where you are greeted from every quarter

at once with a second chorus of ' Irasshai!' 

The whole room is at your disposal; you

may sit, where you please, or rather, where

you can, for most seats are filled, as a rule,

from the commencement.

(大意)

日本人は輝くくらいに拭かれて清潔な畳というマットの上で生活しているからである。

 寄席小屋では最後に、ピカピカに磨きあげられて輝いている階段を上がり、二階(一段目の床)へ行く。一斉に四方八方から二度目のいらっしゃいの合唱で迎えられる.

 部屋全部が自由席で、どこに座ってもよい。というのも、ほとんどの席は、大抵の場合、最初から埋まってしまっているからだ。

(補足)

 その6で「大人口十」の意味が不明としました。調べたり考えたり、💡っとひらめきました。読みはそのままできっと「おとなくちじゅう」です。意味はこの「口」というのは助数詞で一口(ひとくち)、二口(ふたくち)などのように使います。なのでこの大人口というのは大人ひとりということで、十は十銭ということ。大人一「人」十銭の「人」を一口噺にひっかけて大人口十と寄席風にしたものとおもわれます。

 観客の後ろには、煙草盆やお茶のお盆、下足札もあります。江戸後期から明治に日本にやってきた西欧では上流階級に属するような人たちが、一様に驚いたのが日本の一般庶民の着物の色柄のシックさで、そのセンスの良さに感嘆しています。

 観客の薄ろ姿だけでも、地味ではありますが一人ひとりの色柄を変えていて、女子は娘の髷もあれば、御婦人の丸髷も数種類あるようにおもわれます。女の子もちらっと見えています。絵師・彫師・摺師の三者がとても優れていることがわかります。

 わたしが小学校入学したときの学級の保護者との記念写真では、母親たちは全員着物姿でありました。

 

2025年4月28日月曜日

JAPANESE STORY-TELLERS その8

P6(P7) 個人蔵

(読み)

なし

(大意)

なし

(補足)

 高座は円遊のステテコ踊りのようです。『落語家 懐かしき人たち 興津 要(旺文社文庫)』の中に、『「JAPANESE STORY-TELLERS」をめぐって』という章立てがあって、そこに記されています。

高座の左側には、馴染の名前があげられています。

高座の上の額「?寿亭」、なんでしょうね?

後ろの幕の右下は「飛ゐき」のように読めますが、さて?

P6P7は見開きになっていて、二階席からの眺めです。読者も寄席にいるような気持ちになって引き込まれます。

 

2025年4月27日日曜日

JAPANESE STORY-TELLERS その7

P5 個人蔵

(読み)

Yet you may as well accustom yourself

to this, since you will be greeted in the same

way in every public establishment from north

to south of Japan. Take care, also, not to

tread on the tiny, conical heaps of salt, 

which you will see on the floor near the

threshold. The impresario, as superstitions

as the rest of his class, has placed them

there to purify the house and attract fortune

to it in the shape of clients. Then, of

course, you must remove your shoes or

geta*, which you will hand to the gesokuban+

in charge of the cloak-room. With many

bows he deposits them in a numbered re-

ceptacle and presents you in exchange with

a receipt in the form of a wooden billet,

bearing the same number but of cumbrous

dimensions. Never, under any circum-

stances, may you keep on your shoes in a

Japanese house, since they would soil the

* Clogs.

+ The person who takes care of the clogs.

(大意)

 とはいえ、あなたはそのような対応にすぐに慣れるだろう。日本の津々浦々のあらゆる公共の施設では同じような挨拶をしてくれるだろうからだ。

 戸口の近くの床に小さい円錐状の塩の山があるのだが、それは踏みつぶさないように気をつけてほしい。

 興行主とて他の人たちと同様に迷信をかつぎ、塩を盛ることによって、家を清め、観客が入るようにと願っているのである。

 さて、無論、あなたは小屋に入るときは靴や下駄(木靴)を脱がなければならない。抜いだ下足は担当の係り(下足番)に手渡す。係の者は何度もお辞儀をして、下足を受取り、番号のついた下足置き場に置き、置いたところの番号と同じ番号の付いたもちにくい木札をあなたは受け取る。

 どんなことがあっても、日本家屋では靴を履いたまま家に上がってはならない。

(補足)

 当時西欧諸国の劇場などでは「the cloak-room」は必ず設置されていましたが、さすがに靴を脱ぐという習慣はなかったので、とても珍しく感じたものの、流れとしては同じようなことなので、その対比で理解し、細かく記しています。

 

2025年4月26日土曜日

JAPANESE STORY-TELLERS その6

P4 個人蔵

(読み)

拾銭 大人口十

(大意)

(補足)

 見返しにも入口付近の画があって、受付の様子も遠目から描かれていました。ここでは受付と下足番の詳しい画です。

 受付の行灯も蝋燭が入っていて灯りの濃淡がきれいです。正面に「拾銭」、脇に「大人口十」とありますが、「口十」の意味が不明です。見返しにも外の灯り看板の脇に同じくあるのですけど、現在調査中。

 そして、受付係の机上にも盛り塩があり、行灯の奥には下足札が積み重ねられていて、右手には下足札一枚を手にして準備しています。

 お客さんが上がりかけていて、左手に下足札を手にしています。下足番はすでに入場されたお客さんと同じ番号札を鼻緒にくくりつけていまして、下足番の人の履物は雪駄です。全体の様子が正確に細かく描かれています。

 足をかけて上がろうとしている旦那さん、のれんをくぐろうとしている日本髪の御婦人、お二人の羽織の濃い緑の濃淡の色具合も渋いですねぇ。

 下足番についてより詳しい興味をお持ちの方はこちらのHPがおもしろい。

「https://www.uhchronicle.com/a0116/a0116j.html」

《20250429記》

 調べたり考えたり、💡っとひらめきました。読みはそのままできっと「おとなくちじゅう」です。意味はこの「口」というのは助数詞で一口(ひとくち)、二口(ふたくち)などのように使います。なのでこの大人口というのは大人ひとりということで、十は十銭ということ。大人一人十銭の人を一口噺にひっかけて大人口十と寄席風にしたものとおもわれます。

 

2025年4月25日金曜日

JAPANESE STORY-TELLERS その5

P3 個人蔵

(読み)

柳橋 つ者゛女 左楽 小さん 里朝 小勝


麗々亭 柳橋 柳屋 つ者゛女 徳永 里朝 一徳舟 義蝶 春風亭 柳枝

柳亭 左楽 三升屋 勝治郎 松柳亭 鶴枝 三升屋 小勝 柳屋 小さん

(大意)

(補足)

 明治中期頃の電気事情はよくわかりませんが、入口脇の灯り看板の中は蝋燭だろうとおもわれます。灯りの濃淡が素敵で寄席文字もいっそう引き立ちます。

 入口敷居に3つの盛り塩があります。両脇に盛るのではないのですね。

 下足番の奥に漢数字の下足吊るしがあります。いろいろな履物があっておもしろい。でも、どうみても、入場するお客さん全員の下足はあずかりきれないようにみえます。あずけずに自分で持って入る人たちも大勢いたのでしょう。

 瓦上の招き看板を見上げているお客さんの姿が、わたしの父方の爺様の姿にそっくりでいろいろおもいだしてしまいます。ほんとにこんな格好でした。

 

2025年4月24日木曜日

JAPANESE STORY-TELLERS その4

P2 個人蔵

(読み)

their families, attracted by the prospect of

spending a pleasant evening at a moderate 

price, say five or six sen, that is, rather

more than a penny. Moreover, since these

establishments are only open in the evening,

an opportunity of recreation in their turn is

afforded to those, whose occupations prevent

them from going to the theatre during the

day.

 On the outer wall hangs a large paper -

lantern, on which in big letters shines the

name of the yosè, inviting you from afar, 

and, as soon as you reach your destination,

be sure to glance at the fuda, long laths,

inscribed with the names of artists, who are

due that evening: in fact, they furnish the

menu of the feast. If you like, you may

enter, but it will be as well to close your

ears, unless you wish to be deafened by the

attendants of the house, as they shout a

* Japanese theatrical performances are usually in the day time.


P3

welcome with the word:

" Irasshai,irasshai, irasshai!"


(大意)

 入場料は1ペニーよりも少し高いくらい、日本貨幣では5,6銭くらいだろうか、手頃な料金で楽しい夕刻を過ごすことができることも魅力なところである。

 しかも、これらの施設は夜にしか営業していないために、日中にそれらの劇場に行くことができない職業の人々にも娯楽の機会が与えられる。(注:日本の興行は通常日中に行われる)

 外の壁には大きな紙製の提灯がぶら下げられ、その上には大きな文字で寄席の名前が輝き浮かび上がり、遠くからあなたを招いているようである。そこへ近づいたらすぐに、長い木片のフダに記された当日の出演者たちの名前を必ず見てほしい。そこにはその晩の 彼ら噺家の名前の一覧が示されている。それらは実のところ、今宵の宴のメニューが張り出されているようなものなのだ。すぐにそのまま入場してもよろしければ入ってもかまわないのだが、案内係たちのけたたましい「いらっしゃい。いらっしゃい。いらっしゃい」という歓迎の言葉で耳が聞こえなくなってしまいたくなかったら、耳をふさいでおいたほうがよいだろう

(補足)

 寄席の入口の様子、東京では鈴本演芸場(上野)・浅草演芸ホール・新宿末廣亭・池袋演芸場などがありますが、ほとんどというか約140年前とまったく同じです。

 

2025年4月23日水曜日

JAPANESE STORY-TELLERS その3

P1 個人蔵

(読み)

Japanese Story-tellers.

FROM THE FRENCH OF JULES ADAM,

By OSMAN EDWARDS.

   Japan possesses, in addition to actors, 

a class of very remarkable and really curious

artists, 一I mean, public story-tellers.

    The hanashika (for so they are called)

give their performances in yosè, capacious

rooms in many parts of Tokyo, (their num-

ber being two hundred and forty-three, if

the most recent statistics may be trusted);

each will hold between five hundred and a

thousand persons. The most important one,

in the Shimhashi district, is called Tsurusen.

 The yosè fills a large place in the ex-

istence of the Japanese, who frequent it with


(大意)

日本の噺家

ジュール・アダンのフランス語版より

訳 オスマン・エドワーズ


 日本は役者だけでなく、群をぬいて非常に優れ、実に変わった芸術家(プロフェッショナルな噺家についてだ)がいる。

 その噺家(彼らはそのように呼ばれている)は寄席というところで上演している。そこは東京のいたる所にある収容力のある小屋で、もっとも最近の信用できる調査では243軒あるといわれている。そしてそれらのどれもが五百人から千人の収容力があるという。

 そのなかでもっとも主要なひとつは、新橋界隈にあるツルセンと呼ばれているものである。

 寄席は日本人の心のなかに大きく根ざしており、家族とともによく利用したりするところである。


(補足)

「yosè」、フランス語版から英語版に翻訳しているのでフランス語のaccent aigu(アクサンテギュ)はそのまま。

「Tsurusen」、鶴仙亭(京橋南鍋町)。明治中期頃の義太夫冊子「寄席めぐり」に『木戸に構へ居る娘の阿仙(おせん)ちやんとやら云ふ美形が「入ツしやい」の声愛らしく客種も所柄とて悪からず、此程修繕せし天井の広告は一寸変りて面白く、其数多き屋号を見ても同席の如何に贔屓に富めるかをも知らる、楽屋も二楷と下との二室(ふたま)ありて御客大明神と画きたる掛額など中々愛嬌なり欲には夏向き今少し風通しを宜くすれば申し分なからん』とあります。

「their num-

ber being two hundred and forty-three, if

the most recent statistics may be trusted」、残念ながら、信用できる調査の結果ではないようです。そんなに大人数は入れませんでした。

 

2025年4月22日火曜日

JAPANESE STORY-TELLERS その2

中表紙 個人蔵

中表紙見返し

(読み)

中表紙

JAPANESE

STORY ー TELLERS.

FROM

THE FRENCH OF JULES ADAM.

BY

OSMAN EDWARDS.

ーーー

Published by T.HASEGAWA.

TOKYO. JAPAN.

中表紙見返し

ALL. RIGHTS RESERVED.

版權所有

(大意)

日本の噺家

ジュール・アダンのフランス語版より

訳 オスマン・エドワーズ

出版 長谷川武次郎

東京 日本


版権所有

(補足)

 表紙と見返しがとても見ごたえのあるものであったので、今度はいたってあっさりとした意匠です。出版者の長谷川武次郎の名前が出てきました。

 すでにいくつかのちりめん本をこのBlogでアップしてますので、そちらもあわせてご覧ください。

 中表紙の見返しもこれまた至極簡素。ではありますが英大文字「A」に黄色い菊を二輪そえて飾っています。にくいね。

 

2025年4月21日月曜日

JAPANESE STORY-TELLERS その1

表紙 個人蔵

見返し

(読み)

表紙

JAPANESE

STORY TELLERS

FROM THE FRENCH OF JULES ADAM

BY OSMAN EDWARDS

見返し

(大意)

表紙

日本の噺家

ジュール・アダンのフランス語版より

訳 オスマン・エドワーズ


見返し

長谷川亭 三遊亭圓朝 三遊亭圓生

五明樓玉輔(?) 三遊亭小圓遊 英國人ブラック


(補足)

Jules Adam (French, born 1861)。フランス領事館の一等書記官。

Osman Edwards (1864–1936)。英国の作家、翻訳者、評論家

 表紙の落語家は誰でしょうか?鮫肌の渋い羽織です。火鉢の上にやかん、そして湯呑み、両側に燭台。この燭台なかなかこっています。台がお盆のようになっています。蝋燭のすぐ下に引っ掛けてあるのは、蝋燭の灯心を消すときに使うものでしょうか。摺り師は蝋燭の炎にも濃淡を付けています。高座の一服の画になってますねぇ。

 そして裏の見返し、これも開演間近の雰囲気が出ていていいですねぇ。灯りの入っている看板は、こんなところにも摺り師は灯りの濃淡をほどこして、雰囲気をもりあげています。楽しそうにやってくる人々の服装もこれまたよし、身なりでどのような職業なのか身分なのかが、まだまだわかってしまう時代でありました。

 このちりめん本の後半は看板にある「英國人ブラック」の紹介になっています。

 わたしの父方の祖父は明治12(1879)年生まれ。ここに描かれている人たちとまったく同じ着物姿、雰囲気でした。爺様が亡くなるまでとうとう、着物姿以外は見たことがありませんでした。寒い時期になると、和服の上にフロックコートを羽織って、帽子をちょっと傾けてかぶり、足元はしゃれた下駄、格好良かったなぁ。

 なお、このちりめん本は2024年10月に米国のオークションで手に入れました。

『T. HASEGAWA, 17, Kami Negishi, Tokyo, Japan

明治卅二年十月十六日第一版發行

同四十五年七月二十日第二版印刷同卅日發行

發行者 東京市下谷區上根岸町十七番地長谷川武次郎

著者 英國 オスマン エドアード

印刷者 横浜市太田町五丁目八十七番地 村岡平吉』

 発行の日付に注目してください。「明治45年(1912)7月30日、明治天皇が崩御され、同日以後を改めて大正元年とする旨の改元の詔書が発せられた」とあるので、印刷は明治最終年、発行は大正最初と、元号をまたいだものとなってしまいました。

 印刷者の住所を地図で確認できます。

 画像の左上隅が戸部や掃部山、中央やや右寄りが太田町五丁目、右下に現在の野球場があります。

 

2025年4月20日日曜日

江漢西遊日記三 その52

P52 東京国立博物館蔵

(読み)

春るさて此 地ヘ来ルと馳走 役 人 付 添ひ

するさてこのちへくるとちそうやくにんつきそい


三 度能食  事尓魚 肉 多 し甚  タ困  入る

さんどのしょくじにぎょにくおおしはなはだこまりいる


廿   七 日 天 氣よく明 方 尓出  立 して先ツ

にじゅうしちにちてんきよくあけがたにしゅったつしてまず


橋 を渡 里向 フ能河 婦ちを通 り程 なく

はしをわたりむこうのかわぶちをとおりほどなく


山 ニ入 夫 より亦 濱 邊ヘ出て大 ケ﨑 と云

やまにいるそれよりまたはまべへでておおがさきという


処  なり者き嶋 八代 嶋 其 外 小嶋 数 \/

ところなりはぎじまやしろじまそのほかこじまかずかず


見ヘ此 所  ハ蜃(シン)氣楼 立ツと云 其 所  の

みえこのところは  しん きろうたつというそのところの


者 尓直 尓聞 し尓春 三 月 比 長 閑なる日

ものにじかにききしにはるさんがつころのどかなるひ


嶋 霞  て其 か春ミ能中 尓色 \/能模(モ)

しまかすみてそのかすみのなかにいろいろの  も


様 あら王れ亦 多ん\/とこな多能嶋 尓移 リ

ようあらわれまただんだんとこなたのしまにうつり

(大意)

(補足)

「廿七日」、天明8年九月廿七日。1788年10月26日。「六」と書き損じているようです。

「大ケ﨑」、浜辺の地名を探せども不明です。

「八代嶋」、現在では屋代島となっています。

 蜃気楼については少し前にもそのはなしが出てきました。

三度の食事に魚がつくのですから、とても贅沢で、それで申し訳なく困ったのか、それとも魚嫌いだったのか、どちらでありましょうか?

 これで巻三がおわり、巻四となります。

 江戸からここまで江漢さんの旅を旅してきました。けっこうな長旅で、疲れたわけではないのですけど、ちょっと気分転換したく、次回からちりめん本「日本の噺家Japanese Story-Tellers from the French of Jules Adam」を読んでいきます。

 巻四以降はそのあとにアップしてゆく予定です。

 

2025年4月19日土曜日

江漢西遊日記三 その51

P51 東京国立博物館蔵

(読み)

者 ヘ云 次く上 役 吾 前 ニ来 リて口 上  を聞 夫 より

ものへいいつぐうわやくわれまえにきたりてこうじょうをきくそれより


坐しきへ通 し二十  五菜 能膳 を出し酒 肴

ざしきへとおしにじゅうごさいのぜんをだししゅこう


を出し夫 より上ミより被下  しとて白 銀 三 枚

をだしそれよりかみよりくだされしとてはくぎんさんまい


外 尓金 三 百  疋 也 爰 を去 て内 坂 氏へ行

ほかにきんさんびゃくひきなりここをさりてうちさかしへゆく


上 ヨリ内 意ありて内 坂 を以 テ何 分 ニも病

かみよりないいありてうちさかをもってなにぶんにもびょう


中  故 お相 申 され春残 念 なる事 なりと

ちゅうゆえおあいもうされずざんねんなることなりと


廿   五日 天 氣家老 用 人 よりも各 \/挨 拶

にじゅうごにちてんきかろうようにんよりもおのおのあいさつ


ありて明  後日 ハ出  立 せんと春

ありてみょうごにちはしゅったつせんとす


廿   六 日 天 氣藩 中  能人 か王る\/ 参 リ夜 ニ

にじゅうろくにちてんきはんちゅうのひとかわるがわるまいりよるに


入 内 坂 ヘ暇  乞 ニ参 ル亦 々 酒 肴 出し馳走

いりうちさかへいとまごいにまいるまたまたしゅこうだしちそう

(大意)

(補足)

「二十五菜」、『にじゅう‐ごさい〔ニジフ‐〕【二汁五菜】. の解説 ... 本膳料理の標準的な膳立て。本膳と二の膳にそれぞれ汁と菜2品ずつ置き、別の膳に焼き物を置いたもの』。本当に土地のものいろいろな料理が25皿も並んだのかとおもいきや、「氵」を忘れたようです。

「白銀三枚外尓金三百疋」、白銀(江戸時代,白紙に包んで贈答用に用いた楕円形の銀貨。通用銀の三分にあたる)一枚は0.7両とあったので、2.1両。また、一分=金100疋とあったので、1両=4分。合計すると3両ほどか。

「廿五日」、天明8年九月廿五日。1788年10月24日。

「暇乞」、いつもながらこれだけなら読めません。しかし何度も目にしているので大丈夫。

 当時の接待の様子がわかり、貴重な場面です。

 

2025年4月18日金曜日

江漢西遊日記三 その50

P50 東京国立博物館蔵

(読み)

顔 色 あをく婦くれ多る男  居ル爰 尓

かおいろあおくふくれたるおとこおるここに


て行厨(ヘントウ)を開 きけり岩 国 より此 山 神

て   べんとう をひらきけりいわくによりこのやまがみ


ヘ参 詣 春る者 ありと見へ多り四面 山 ニて

へさんけいするものありとみえたりしめんやまにて


塞 キ見所  なし夫 より下 りて暮 六 時

ふさぎみどころなしそれよりくだりてくれむつどき


過 尓帰 りぬ路 々 春々虫 なく

すぎにかえりぬみちみちすずむしなく


廿   四 日雨天 此 日上 へ牡丹 の画絹 地也 外 扇  ニ

にじゅうよっかうてんこのひかみへぼたんのえきぬじなりほかおおぎに


画を描キ之 をケン上  春家老 五人 ヘヌメ地ニ

えをかきこれをけんじょうすかろうごにんへぬめじに


画を描 亦 用 人 ニハ大 唐 紙 二枚 宛 之 を贈

えをかくまたようにんにはおおからかみにまいずつこれをおく


る町 尓使(シ)者屋アリ門 可まへなり玄 関 より

るまちに  し しゃありもんがまえなりげんかんより


あかると下 役 ノ者 と見ヘ出向 フ口 上  を上 役 ノ

あがるとしたやくのものとみえでむかうこうじょうをうわやくの

(大意)

(補足)

「廿四日」、天明8年九月廿四日。1788年10月23日。

「ヌメ」、『ぬめ 2【絖】

地が薄く,なめらかで,つやのある絹布の一種。桃山時代に中国から京都西陣に伝来。精練・裏糊(うらのり)を施し日本画の絹本地,造花材料などに用いる』

「使(シ)者屋」、この「屋」は変体仮名の「や」でしょうか?う〜ん🤔

 江漢さんこの犬戻(この日記では「イヌモドシ」、西遊旅譚二では「イヌモドリ」)のハイキングでみた岩石群に感激したのか、西遊旅譚巻二には三枚も挿絵を描いています。

 岩の上に腰掛け、画を描く江漢さんがいます。

 ゴザを敷いて弁当の様子。ちゃんと四人います。

 様々な奇岩を見上げ、感激している御一行様です。


 「暮六時過尓帰りぬ」、現在なら10月も下旬で山ですから、ずいぶん遅くまで楽しんだようであります。

 

2025年4月17日木曜日

江漢西遊日記三 その49

P49 東京国立博物館蔵

(読み)

上 ノ方 ヘ十  余町  行キ亦 河 をこな多へ渡 リて

かみのほうへじゅうよちょうゆきまたかわをこなたへわたりて


十  五六 町  行キ阿品 村 を過 て山 合 ニ行 事

じゅうごろくちょうゆきあじなむらをすぎてやまあいにゆくこと


八 九町  犬戻(モトシ)と云 処  山 皆 岩 石 なり渓 水

はっくちょういぬ もどし というところやまみながんせきなりけいすい


岩 能間  を飛ヒ流 レ誠  尓画能如 し比 ハ秋 なれ

いわのあいだをとびながれまことにえのごとしころはあきなれ


ハ紅 葉 綿  能如 し岩 上 ニ能ほりて酒 を

ばこうようにしきのごとしいわうえにのぼりてさけを


呑 其 景色 を写 春夫 より一 里半 行 て

のむそのけしきをうつすそれよりいちりはんゆきて


弥山 可嶽 アリ登 ル事 廿   一 町  路 ナシ岩

みせんがたけありのぼることにじゅういっちょうみちなしがん


石 ニ取 付 登 ル頂   尓小  キ社  アリ山 神 を祭 ル

せきにとりつきのぼるいただきにちいさきやしろありやまかみをまつる


鐘 あリ其 か年を武せ う尓津きならし傍  ラ

かねありそのかねをむしょうにつきならしかたわら


尓茶 やアリ其 家 横 尓倒(タヲレ)かゝ里て一人

にちゃやありそのいえよこに  たおれ かかりてひとり

(大意)

(補足)

「阿品村」、古地図になかったので、現在の地図。阿品村が左上隅、岩国城が右下隅、中央に犬戻しがあります。「弥山可嶽」は阿品の左側の山。

「紅葉綿能如し」、紅葉の様を綿に見立てたのかとおもいましたが、錦の間違いのようです。

「弥山可嶽」の岩山登山の様子は『春波楼筆記』にも記している。

「岩國尓至り。彌山が嶽尓登らんとて。其路犬戻しとて。岩石をあら者し。飛泉流れ誠尓

岩國とハ。爰を言ふか。農夫樵木の路尓して。漸く過ぎて。一村尓入る。五六歳の童女三

歳位の児を背尓おふて行くあり。此者両親尓離れ。外尓よるべき者なし。一村中の食の

餘りを請ひて助かりぬ。家ハあると見えたり。鰥寡孤獨の者ハ。領主より助けすくふべ

き尓。此国の大夫舎と云ふ人ハ。賢人尓て。學問したる人と云ふ事を。其頃尓聞けり。行

き渡らざる事と見えたり。世尓唐めきたる事を好み。風流なる人を誤りて學者と云

ふ者多し」

『鰥寡』、かんか。妻を失った男と,夫を失った女。

 なるほど、「岩国とはこれを言うか」に納得いたしました。

 

2025年4月16日水曜日

江漢西遊日記三 その48

P48 東京国立博物館蔵

(読み)

神 と云 者 アリ犬 神 能人 来 リて喰 物 或  ハ器(キ)

がみというものありいぬがみのひときたりてくいものあるいは  き


物 様 の物 好キ物 と思  心  起 れハ其 品 \/を

ぶつようのものすきものとおもうこころおこればそのしなじなを


所 持し多る者 忽  ち犬 神 取 付 狂  人 となる也

しょじしたるものたちまちいぬがみとりつききょうじんとなるなり


犬 神 の者 ハ且 て人 尓取 付 多る事 を不知 とナリ

いぬがみのものはかってひとにとりつきたることをしらずとなり


亦 山 代 と云 処  近 ク尓鎌(カマ)可原 村 アリ爰 ヨリ

またやましろというところちかくに  かま がはらむらありここより


三 里深 山 ニ入 其 所  の人 物 髪 ひけをそら

さんりしんざんにいりそのところのじんぶつかみひげをそら


春異国 の人 の如 し岩 石 尓水 晶  石 英 を

ずいこくのひとのごとしがんせきにすいしょうせきえいを


生  春

しょうず


廿   三 日 天 氣五  時 ヨリ旅 館 の倅  を案 内 とし

にじゅうさんにちてんきいつつどきよりりょかんのせがれをあんないとし


行厨(ベントウ)持 一 人此 方 二 人四人 ニして橋 を渡 リ

   べんとう もちひとりこのかたふたりよにんにしてはしをわたり

(大意)

(補足)

「犬神」、ネットで検索するも不明でした。

「山代と云処近ク尓鎌(カマ)可原村アリ」、画像の右下隅あたりが岩国。山代と釜ケ原(鎌(カマ)可原)のだいたいの位置です。 

「廿三日」、天明8年九月廿三日。1788年10月22日。

「行厨(ベントウ)」、『こうちゅう かう―【行厨】携帯用の食物。弁当。「車中にて―を食らふ」〈航西日乗•柳北〉』、当て字かと思ったら熟語でした。

 弁当持ちが一人、この土地の人が二人、それに江漢一人で合計四人で橋を渡って、ハイキングに出かけます。

 丁数「二十五」とあって「廿五」ではありませんでした。

 

2025年4月15日火曜日

江漢西遊日記三 その47

P47 東京国立博物館蔵

(読み)

家内 尓疱 瘡 人 ありし時 爰 ニ居ル事 なら春故

かないにほうそうにんありしときここにいることならずゆえ


尓小津村 と云 処  へ引 越し比 ハ三 月 也 爰 ハ蜃(シン)

におづむらというところへひっこしころはさんがつなりここは  しん


氣楼(ロウ)能立ツ処  なり天 氣至  テ長 閑なる日霧(キリ)

き  ろう のたつところなりてんきいたってのどかなるひ  きり


能如 くか春ミて其 中 ニあら和れる長  州  八代(ヤツシロ)

のごとくかすみてそのなかにあらわれるちょうしゅう   やつしろ


嶋 三 万 石 能處  カムロ嶋 上 の関 此 嶋 能間

しまさんまんごくのところかむろしまかみのせきこのしまのあいだ


ニ立ツ事 なり其 嶋 一 面 尓か春ミて見へざる

にたつことなりそのしまいちめんにかすみてみえざる


様 ニなると其 中 ニ竹 林 或  ハ松 並 木楼 閣

ようになるとそのなかにちくりんあるいはまつなみきろうかく


能如 キ者 う春墨 ニて画(ヱカク)可如 く見ユ正  面

のごときものうすずみにて  えがく がごとくみゆしょうめん


ハ海土路(ミトロ)村 ハ正  面 なり小津村 ハ斜  なりと

は    みどろ むらはしょうめんなりおづむらはななめなりと


爰 ニてハ嶋 遊 ひと云 なりさて亦 此 国 尓犬

ここにてはしまあそびというなりさてまたこのくににいぬ

(大意)

(補足)

「小津村」、尾津村のことでしょうか?岩国から東の浜の村名は海辺なのでみな「津」がついています。

「蜃気楼」、3つの島の名前があり、「上の関」は上関(かみのせき)のことだとすると、それら周辺に残り2つの島名がなければなりませんが、みつかりません。また小津村(尾津村)から上関の方角を見ることはできなそう。

「海土路(ミトロ)村」、海土路町(みどろちょう)。ここより13時半の方向の赤丸で見えにくくなっているところが尾津町。 

 蜃気楼の見える3つの島の位置や、「正面ハ海土路(ミトロ)村ハ正面なり小津村ハ斜なり」の位置関係が不明です。

「疱瘡」、江戸時代の疱瘡の医療に関する書物はたくさんあって、香港やバタビアから種痘の種を運んだり、医者が自分自身を実験台にしたりと、それらどれもが感動的です。

 

2025年4月14日月曜日

江漢西遊日記三 その46

P46 東京国立博物館蔵

(読み)

なりとぞ少  々  苦 味アリ夜 の八 時 尓帰 リぬ

なりとぞしょうしょうにがみありよるのやつどきにかえりぬ


廿   二日 天 氣此 日祭  アリ橋 を渡(ワタ)レハ陣 家アリ

にじゅうににちてんきこのひまつりありはしを  わた ればじんやあり


其 後 ロ能山 を城 山 と云 旅 客  ハ此 邊(ヘン)ヘハ行

そのうしろのやまをしろやまというりょきゃくはこの  へん へはゆく


事 を禁(キン)春祭 リ尓て之 をゆる春川 の邊 ニサン

ことを  きん ずまつりにてこれをゆるすかわのへんにさん


ジキをかけて見 物 春此 所  絹 服 を禁 ス

じきをかけてけんぶつすこのところきぬふくをきんず


縮 面 板 しめ染 緋ちりめん能如 く見ユる

ちりめんいたしめぞめひちりめんのごとくみゆる


物 皆 木綿 なり此 日祭  故 ニ宿(ヤト)よりも酒

ものみなもめんなりこのひまつりゆえに  やど よりもさけ


出春鮎 の春し其 鮎 巾 二寸 長 サ八 九  寸 アリ

だすあゆのすしそのあゆはばにすんながさはちきゅうすんあり


江戸ニハ無(ナ)き物 なりさて旅 館 主 人 ハ萬 兵(ヘイ)

えどには  な きものなりさてりょかんしゅじんはまんぺい


衛と云 話 シニ此 国 至  テ疱 瘡 をきろふ私

 というはなしにこのくにいたってほうそうをきろうわたくし

(大意)

(補足)

「夜の八時」ですから、夜中の二時ということで、ずいぶん遅くまで楽しんだ様子。

「廿二日」、天明8年九月廿二日。1788年10月21日。

「城山」、地図の岩國とある左に青い屋根がふたつあって、その上が城山。

「木綿なり」、江漢西国へ旅するこの時期、時代は大きな天災地変が続き、天明の打ちこわし(天明七年)、天明の大飢饉(天明二年〜天明八年)、そして松平定信がおこなった寛政の改革(1787年〜1793年)がありました。着るものなどもふくめて、贅沢も厳しく禁じられていてのですが、この日記全般から感じる日本の様子は、それほど切羽詰まった感はあまりないようにおもいます。

「其鮎巾二寸長サ八九寸アリ」、今でも有名らしい。

 そして、『錦川で天然アユが釣れるのは岩国市から錦町までのエリア。なかでも錦帯橋付近は数も多く釣れる可能性がある。また、錦川は大型のアユが釣れることでも知られ、お盆過ぎから9月下旬頃は、大もののひとつの目安である尺サイズ(およそ30cm)に届くアユがサオを絞ることも珍しくない』とありました。江漢さんグットタイミング👍

 日記の綴じの下側に「廿四」とあるのは丁数。24枚目ということ。一枚の紙の中央で山折りにして綴じます。

 

2025年4月13日日曜日

江漢西遊日記三 その45

P45 東京国立博物館蔵

(読み)

南 二十  余町  家 数 二万 余軒 多  ハ瓦  屋

なんにじゅうよちょういえすうにまんよけんおおくはかわらや


なり他国 能者 滞    居ル事 を禁 ス故 ニヤ盗(ヌスヒト)なし

なりたこくのものとどこおりおることをきんずゆえにや  ぬすびと なし


廿   一 日 天 氣旅 館 主 人 ハ排諧(ハイカイ)を好 ム画二三

にじゅういちにちてんきりょかんしゅじんは   はいかい をこのむえにさん


紙認  メ遣  ス錦  川 能川 原を二三 町  行 て見ル

ししたためつかわすにしきがわのかわらをにさんちょうゆきてみる


尓昔 シ獨 立  と云 唐 僧 爰 尓一 年 醫

にむかしどくりゅうというとうそうここにいちねんい


尓隠 レ居 し尓吾 カ生 レし処  能赤壁(セキヘキ)尓似

にかくれおりしにわれがうまれしところの   せきへき にに


多りと云ツて感 し多る所  何ンの事 もなき所

たりといってかんじたるところなんのこともなきところ


なりき日暮 より内 坂 氏ヘ行く酒 喰  を出

なりきひぐれよりうちさかしへゆくしゅしょくをだ


し馳走 春江戸尓無キ物 とて牛 茸(タケ)と云

しちそうすえどになきものとてうし  たけ という


菌(キノコ)を喰  セけり之 ハ傘 をひろけ多る大 キサ

きのこ   をしょくせけりこれはかさをひろげたるおおきさ

(大意)

(補足)

「廿一日」、天明8年九月廿一日。1788年10月20日。

「排諧」、俳諧。

「獨立」、独立 性易(どくりゅう しょうえき、慶長元(1596)年〜寛文12(1672)年。中国明末に生まれ、清初に日本に渡来した臨済宗黄檗派の禅僧である。医術に長け、日本に書法や水墨画・篆刻を伝えた。

 岩国藩3代目藩主である吉川広嘉に知り合いが所有する『西湖遊覧志』を見せ、錦帯橋造橋の重要な示唆を与えたと言われている。

「無」、このくずし字に似たものはありますが、ここのくずし字ほどにはなっていません。江漢流のくずし字。

「牛茸」、クロカワ、のことらしい。高級品とあったり、万人向けではないといったり、評価は人それぞれ、食べ物ですからね。

 

2025年4月12日土曜日

江漢西遊日記三 その44

P44 東京国立博物館蔵

(読み)

申  度 絹 地の画一 枚 个ん上  と書 付 上ケル

もうしたくきぬじのえいちまいけんじょうとかきつけあげる


夫 よりしてハ滞 留  中  上 ヨリ能まかなゐ(ヒ)

それよりしてはたいりゅうちゅうかみよりのまかな  い


ニて毎 日 三 度能喰  能時 先 吸 物 酒 を

にてまいにちさんどのしょくのときまずすいものさけを


出シて(テ)膳 を出ス者かまを者き多る者 き

だして   ぜんをだすはかまをはきたるものき


 うじを春る岩 国 ハ山 中  ニして海 ハ三 里を隔

ゅうじをするいわくにはさんちゅうにしてうみはさんりをへだ


ツ然  とも魚 多くさん北 の方 ハ石 見能国 也

つしかれどもうおたくさんきたのほうはいわみのくになり


橋 ハ廿   五間 能橋 五 ツ掛 ル中 三 ツは橋杭(クヒ)

はしはにじゅうごけんのはしいつつかかるなかみっつははし くい


なし河 巾 百  二十  五間 なり錦(ニシキ)河 尓掛

なしかわはばひゃくにじゅうごけんなり  にしき かわにかか


る故 ニ錦 帯 橋  と名 ク俗 ニソロバン者゛しと云

るゆえにきんたいきょうとなつくぞくにそろばんば しという


橋 能裏 ソロバン尓似多り人 家ハ橋 より西

はしのうらそろばんににたりじんかははしよりせい

(大意)

(補足)

「西遊旅譚二」に錦帯橋の画があります。 

 数十年前に錦帯橋の脇にある五橋という醸造所を見学したことがあります。明治4年(1871年)創業ということなので、江漢さんの時代にはまだありませんでした。

 このとき、社長さんが案内してくれたのですが、一番最初に醸造工程の最後に出てくる廃棄物を安全に処理するところから見せてもらったのがとても印象的でありました。試飲した日本酒もおいしくて、自宅に数本宅配しました。

 岩国よいとこ一度は訪れましょう。

 

2025年4月11日金曜日

江漢西遊日記三 その43

P43 東京国立博物館蔵

(読み)

尓宿(ヤト)る爰 ハ巡  禮 宿 ニて一 向 ニムサキ処  なり

に  やど るここはじゅんれいやどにていっこうにむさきところなり


外 ニも旅 商  人一 両  人 之 と枕(マクラ)を並  て寝(ネ)ル

ほかにもたびあきんどいちりょうにんこれと  まくら をならべて  ね る


廿 日天 氣此 岩 国 能江戸屋しきハ今 井

はつかてんきこのいわくにのえどやしきはいまい


谷 なり留主居役 内 坂 十  郎兵衛当 時ハ

たになりるすいやくうちさかじゅうろべえとうじは


爰 ニ居 个り因 て先 内 坂 宅 ヘ人 を遣  し

ここにおりけりよってまずうちさかたくへひとをつかわし


个連ハ迎 ヒ参 りて二三 町  行 て能き家 尓

ければむかいまいりてにさんちょうゆきてよきいえに


参 ル夫 より町 奉行  の下 役 の者 参 リて申  ニハ

まいるそれよりまちぶぎょうのしたやくのものまいりてもうすには


子細(シサイ)を書 付 差 出しなされべしと云 ニ付

   しさい をかきつけさしだしなされべしというにつき


私   此 度 肥前 長 崎 表  へ画修 行  能為

わたくしこのたびひぜんながさきおもてへえしゅぎょうのため


参  候   ニ付 此 地相 通  候   間  御機嫌 相 伺

まいりそうろうにつきこのちあいとおりそうろうあいだごきげんあいうかがい

(大意)

(補足)

「ムサキ」、『むさ・い① 汚れてきたならしい。むさくるしい。「―・いところですが足をお運び下さい」「―・い男」』

「廿日」、天明8年九月廿日。1788年10月19日。

「此岩国能江戸屋しきハ今井谷なり」、岩国藩の江戸藩邸上屋敷は麻布今井谷、下屋敷が芝区白金猿町61番地にあったらしい。

 ゆく先々でいろいろな方にあったり泊めてもらったりしているのですが、それがどのようにしてまとまるのかがひとつ疑問でした。

 江漢さんが来るそうだ、またはわが街へ来ているということを聞きつけて、会いにゆくということもあったでしょう。またここのように、自分から知らせて、迎えに来てもらうということもあることがわかりました。

 

2025年4月10日木曜日

江漢西遊日記三 その42

P42 東京国立博物館蔵
(読み)
山川好景暫同遊倶宿旅亭巌
嶋秋百八回桜分手処孤舟遥
見霊灯明 南湖鯤拝

倡  家三 軒 あり夜ル見世付 あり揚 代
しょうかさんげんありよるみせつけありあげだい

十  七 匁 雑 用 共 亦 昼 比間  旅 館 ヘ呼フ
じゅうななもんざつようともまたひるのあいだりょかんへよぶ

時 ハ六 匁  なり妓 子も同 多゛ん
ときはろくもんめなりげいこもどうだ ん

十  九日 雨 漸  クあか里て天 氣となる四 時 舟 ニ能り
じゅうくにちあめようやくあがりててんきとなるよつどきふねにのり

ておか多と云 処  尓津く夫 より六 里程 行 て
ておがたというところにつくそれよりろくりほどゆきて

関 戸ニ至 ル往 来 ナリ爰 より三 里入 て岩
せきどにいたるおうらいなりここよりさんりいりていわ

国 なり日暮(クレ)尓およひ个連ハ錦帯(キンタイ)橋 の許(モト)
くになりひ  ぐれ におよびければ   きんたい はしの  もと
(大意)
(補足)
「匁」、『もんめ。② 江戸時代,銀目の名。小判一両の60分の1』。何度も出てきてますが、いくらくらいかが曖昧なので毎回確かめます。17匁はざっと三分の一両、お高い‼️
6匁は十分の一両、安くはないですね。
「十九日」、天明8年九月十九日。1788年10月18日。
 宮島から舟で「小方」へ、地図では山間の路になってます。その街道を下って「関戸」そこから三里とありますけど、地図ではそれほどなさそうに見えますが曲がりくねった路だからかもしれません。
 

 岩国は数十年前に観光しました。そのときの誤った地図の距離感が今もすりこまれてしまっていて、岩国(錦帯橋)というと山口県の西部、防府・山口・宇部あたりを浮かべてしまうのです。
 新幹線で広島から岩国まではすぐでしたから、なんでそんな間違った距離感をもってしまったのかわかりません。距離にしてマラソンと同じ約42.2Km(横浜〜大磯くらい)。車でも90分かそれくらいです。

2025年4月9日水曜日

江漢西遊日記三 その41

P41 東京国立博物館蔵

(読み)

本 社 ハ半  ニアリ潮 能さし入ル潟(カタ)ニ造 リて回(クワイ)

ほんしゃはなかばにありしおのさしいる  かた につくりて  か い


廊(ロウ)能下 迄 潮 さし引春 平 相  国 清 盛

  ろう のしたまでしおさしひきすへいしょうこくきよもり


能創 立 と云 誠  ニ古(フル)ヒ多る事 い者ん可多

のそうりつというまことに  ふる びたることいわんかた


なし廊(クワロウ)能燈 火水 面 ニう川る此 嶋 ハ

なし  かいろう のとうかすいめんにうつるこのしまは


巡 里七 里人 家千 余軒 田畑 なし猿

めぐりしちりじんかせんよけんたはたなしさる


鹿 多 し其 比 市 まちとて芝 居あり

しかおおしそのころいちまちとてしばいあり


茶 ヤなと出テ多り

ちゃやなどいでたり


十  八 日 雨 降ル此 日爰 ニ滞 畄  して春 木

じゅうはちにちあめふるこのひここにたいりゅうしてはるき


氏尓別 ル詩を賦春晩秋与司馬君

しにわかるしをふす


暫同道別干藝州厳島


(大意)

(補足)

「平相国清盛(へいしょうこくきよもり)」、『〈相国〉は太政大臣の唐名であり、平相国とは平家の太政大臣という意味』

「い者ん可多なし」、『いわんかたな・し いはんかた― 【言はん方無し】(形ク)〔「ん」は推量の助動詞「む」の連体形〕言うべき言葉がない。何とも言いようがない。例えようがない。格別だ。「―・くむくつけげなるもの来て」〈竹取物語〉』

「十八日」、天明8年九月十八日。1788年10月17日。

 宮島の厳島神社は、1991年の台風被害で屋根がつぶれてしまった直後に訪れたことがあります。その後修復されてからも観光しています(何度も食した穴子丼がうまかった)。「猿鹿多し」とあって、当時は猿もいたようです。

 

2025年4月8日火曜日

江漢西遊日記三 その40

P40 東京国立博物館蔵
(読み)
夜半 亦 東風吹キ舩 を出ス
やはんまたこちふきふねをだす

十  七 日 天 氣小嶋 ニかゝ里北 ノ方 廣 嶋 能
じゅうしちにちてんきこじまにかかりきたのほうひろしまの

川口 見へ西 ノ方 宮 嶋 見ヘる程 なく廣(ヒロ)
かこうみえにしのほうみやじまみえるほどなく  ひろ

嶋 猫(ネコ)や橋(ハシ)と云 処  尓舩 を入ル舩 よりあが
しま  ねこ や  ばし というところにふねをいるふねよりあが

れハ城  下瓦  屋を並 へ冨商  多 し城 ハ
ればじょうかかわらやをならべふしょうおおししろは

左  ノ方 ニ見て右 ノ方 ニ入ル魚 市 場を過キ
ひだりのほうにみてみぎのほうにいるうおいちばをすぎ

町 者づれより海 邊へ出ツ海 上  嶋 数\/
まちはずれよりうみべへいずかいじょうしまかずかず

見ヘ草 津と云 へ一 里半 程 なく猪能口
みえくさつというへいちりはんほどなくいのぐち

と云 処  より小舟 ニ能る三 里渡 りて宮 嶋 ニ
というところよりこぶねにのるさんりわたりてみやじまに

至 ル雨天 なり先 宮 へ参 詣 春左右回廊(クワイロウ)
いたるうてんなりまずみやへさんけいすさゆう  か いろう
(大意)
(補足)
「十七日」、天明8年九月十七日。1788年10月16日。
「猫(ネコ)や橋(ハシ)」、『寛永年間広島城下絵図』のお城左下、川がY字になっている左側の支流にかかっている橋が「ねこやはし」。

『芸州厳島図会 六月十六夜広島本川口の図』では大賑わいの猫や橋。

「草津」、広島から西へ少し進んだところに「草津後田村」があります。
 
 江漢さん、広島から小舟で宮島に入るなんて、なかなか通であります。

2025年4月7日月曜日

江漢西遊日記三 その39

P39 東京国立博物館蔵

(読み)

十  五日 天 氣矢掛 を發(ハツシ)て神邊(カンナヘ)ニ至 ル能

じゅうごにちてんきやかけを  はっし て   かんなべ にいたるの


間  増 山 侯 能臣 春 木文 弥とて文 もあり

あいだましやまこうのしんはるきぶんやとてぶんもあり


画かく此 者 吾 を後 ロより呼ヒ可け之(コレ)も

えかくこのものわれをうしろよりよびかけ  これ も


主 人 能命 ニて長 﨑 へ行く者 なり同 道

しゅじんのめいにてながさきへゆくものなりどうどう


して路 十  余里行キて今 津の驛 尓

してみちじゅうよりゆきていまずのえきに


泊 ル此 路 福 山 能の城 見ユ

とまるこのみちふくやまののしろみゆ


十  六 日 天 氣能ク出  立 して二里行キて

じゅうろくにちてんきよくしゅったつしてにりゆきて


小野路 と云フ処  より舩 尓乗(ノ)る爰 ハ能 処

おのみちというところよりふねに  の るここはよいところ


尓て冨商  多 し西 能小江戸と云 とぞ東

にてふしょうおおしにしのこえどというとぞこ


風吹キて十  八 里程 走 リて小嶋 尓か〃る

ちふきてじゅうはちりほどはしりてこじまにかかる

(大意)

(補足)

「十五日」、天明8年九月十五日。1788年10月14日。

矢掛(画像の右上隅)・神辺・福山・今津(尾道の右上)・「小野路」尾道(画像の左下隅)、 

 矢掛から今津まで「十余里行キ」とあり、40〜50Kmを一日で歩いたのですから、健脚そのもの。

「増山侯」、増山正賢(ましやま まさかた)、伊勢長島二万石藩主。宝暦四年(1754)〜文政二年(1819)、江戸生、築地で死去。酒造統制違反となり大坂を追われた破産した木村蒹葭堂を自領に招き、窮地を救ったことは有名。風雅を愛でた文人大名で、特に虫類写生図譜『虫豸帖(ちゅうちじょう)』は本草学的にも貴重な資料。

「春木文弥」、南湖とも称し、谷文晁(1763-1840)と並び、「天下の二老」と称された春木南湖(1759-1839)は、伊勢国長島藩主・増山雪斎に抱えられ、その援助で京都、大坂、長崎に遊学、その道中日記「西遊日簿」に江漢との様子が記されています。少々長いですが引用します。

『翌十五日晴矢掛備中七日市ニテ休入口七日市川トテ舟渡シアリ

昼頃カンナベ驛ニ至故鄉ノ人司馬江漢ニ逢夫ヨリ同道ニテ大渡り川

トテ川アリ二十間斗ノ間一枚ノ橋ナリ駕ヨリ下リ渡ル山手ト云フ所ヨ

リ福山城ミエル備中備後境アリ海道/左ニ松永トテ湊アリ此日祭ニテ

角力アリニギヤカナリ此夜ハ國今ツニ泊藤屋源助尤江漢ト同宿ス

翌十六日今津出テホウシ山ヲ越テ山中ニ備後藝州境アリ山中松樹

多シ夫ヨリ尾ノ路ト云所至ル是ヨリ舟ヲカリ乘ル尤江漢同道ニテ九

時頃出帆

尾路ト云所ヨリ廣島ニ海上小島大島多クアリ誠ニ奥州松島ノ風

景如此ナラント思海上八九里ノ間人家ナキ所アリ岸穴ニ盜人今ニ住

居所モアリ其所ノ者夫ヲ其マゝ置トミエ普天ノ下ニモ如是此ナ所

アリケルニソト江漢ト語テ廣島ノ湊賣餘り至シニ俄ニ風起テ船ヲ宇島

ト云所ニ掛ル宮島アサ島眼下ニ望風景甚佳ナリ

翌十七日朝晴五ツ時過廣島ニツクネコヤ橋下ニ着御城下尤繁華ニシ奇

麗ナリ夫ヨリ江漢ト同道ニテ芸州イノロト云所ヨリ乗舟テ宮島エ行

暮七時前厳島着岸ス先明神礼拝ス丁ノ内ニ猿鹿イテ紙合羽ヲ着

シテアルケバ鹿コレヲクハントス奈良丁ノ如シ其風景相州江島/如

クニシテ廣

其夜折ヨク回樓燈明トホリ誠日本無双之勝景ナリ其夜宮島市中イヨヤ

久兵衛方ニ宿

翌十八日雨司馬氏此島ニテ風景フ寫トテ殘ル余用事アリテ別ナス

晚秋與司馬氏暫同道別干嚴島

山川好景暫同遊俱宿海天嚴島秋百八回樓分手處孤舟照見靈燈明

夫ヨリ司馬氏別テ朝六半頃舟ニノリ島々風景ヲ見ルニ太湖ノ如クナル

島アリ秋雨淋シク見ルニ鹿一疋浪打際ニ遊シ景誠ニ絶景言葉不盡此間

海上三リ餘ナリ四ッ時玖波驛ツキ夫ヨリ周防関戸驛ニ至リ岩国錦帯橋

ニ至リ名高橋ナリ』

 江漢と二人で観光する様子が映像になって、旅番組を見ているようです。

 

2025年4月6日日曜日

江漢西遊日記三 その38

P38 東京国立博物館蔵

(読み)

と云フ人 の方 ヘ行く酒 菓子を出ス

というひとのほうへゆくさけかしをだす


十  四 日天 氣朝 冷 氣五  時 過 尓出  立

じゅうよっかてんきあされいきいつつどきすぎにしゅったつ


して長 田村 と云 処  尓至 リ序 助 と云 者

してながたむらというところにいたりじょすけというもの


能家 ニよる菓子茶 を出ス夫 より窟 木

のいえによるかしちゃをだすそれよりくぼき


村 と云 を過 て岡 田と云 処  尓至 ル爰 ハ伊東

むらというをすぎておかだというところにいたるここはいとう


侯 能領  地なり藩 中  ノ醫者 熊 谷 連

こうのりょうちなりはんちゅうのいしゃくまがいれん


鱗 と云 者 能処  尓至 り爰 ニて昼  喰 春サウ

りんというもののところにいたりここにてちゅうじきすそう


ザと云 処  ヨリ人 家續 きて中 原 川 を渡

ざというところよりじんかつづきてなかはらかわをわた


里往 来 ニ出ツ此 路 尓吉備公 の墳 アリ

りおうらいにいずこのみちにきびこうのつかあり


矢掛 と云 驛 尓泊 ル

やかけというえきにとまる

(大意)

(補足)

「十四日」、天明8年九月十四日。1788年10月13日。

足守を五時(朝八時)に出立して、長田村、窟木村(窪木村?)、岡田村と村名が続きます。 

サウザは総社、そこから矢掛という駅で泊。

「伊東侯能領地」、伊東長寛(ながとも)。明和元年(1764)生。一万三百石余。備中岡田に住す。とありました。

 一万石以上の領主が大名ですから、この当時でも大まかに260〜270くらいあったので、江漢さんゆく先々は大名だらけというわけです。

「熊谷連鱗」、熊谷連琳(れんりん)。播磨守長寛(ながとも)の時代に、武助というものが奉公に出され、立身して扶持方給人までになった。とありました。

 

2025年4月5日土曜日

江漢西遊日記三 その37

P37 東京国立博物館蔵

(読み)

庭 尓径 二尺  余  丸 柱 ラ能礎(イシツヱ)在 之 ハ備 中

にわにけいにしゃくあまりまるはしらの  いしずえ ありこれはびっちゅう


足 守 賀陽 郡 溝 手村 賀陽 寺能

あしもりかようぐんみぞてむらかようじの


趾 ヨリ掘 出ス千 年 余の物 と云 亦口(クチ)五

あとよりほりだすせんねんよのものというまた くち ご


六 寸 生(ス)焼 の器  アリ同  ク岩 下 ヨリ堀

ろくすん  す やきのうつわありおなじくいわしたよりほり


出ス

だす


十  三 日 雨天 今朝先ツ雨 ナシ晩 方 雲  晴

じゅうさんにちうてんけさまずあめなしばんがたくもりはれ


月 漸\/ 出ツ日々秋 色 を催  し衣服 う春し

つきようよういずひびあきいろをもよおしいふくうすし


主 人 能衣をかり着(キ)春る俄  尓大 ツイ立

しゅじんのいをかり  き するにわかにおおついたて


を張 蘭人物(ランシンフツ)を描(カ)ク出来よし裏 ニハ

をはる    らんじんぶつ を  か くできよしうらには


山 水 一 日 尓出来上 ル日暮 ヨリ木 下男成(ヲナリ)

さんすいいちにちにできあがるひぐれよりきのした  おなり

(大意)

(補足)

「口(クチ)五六寸生(ス)焼の器」、『西遊旅譚二』には同じ箇所でその器の画があります。 

「十三日」、天明8年九月十三日。1788年10月12日。

 月がやっと出たとあります。じきに満月をむかえる月です。🌔

 

2025年4月4日金曜日

江漢西遊日記三 その36

P36 東京国立博物館蔵

(読み)

能堺  尓亦 吉備津の宮 アリ此 社 内 尓

のさかいにまたきびつのみやありこのしゃないに


湯立 能釜 あり銀 二十  目納 ムレハ釜 尓

ゆだちのかまありぎんにじゅうめおさむればかまに


湯を入 火を焚く忽  ち鳴 動 春る事

ゆをいれひをたくたちまちめいどうすること


奇妙  なり夫 より宮 内 と云 処  より入 て二

きみょうなりそれよりみやうちというところよりいりてに


里あり則  チ足 守 なり木の下 侯 未 タニ

りありすなわちあしもりなりきのしたこういまだに


御着 ナシ用 人 役 黒 宮 氏へ尋  ル

おつきなしようにんやくくろみやしへたずねる


十  二日 大雨 夜 ニ入 不止(ヤマス)藩 中  の者 か王る\/

じゅうににちおあめよるにいり   やまず はんちゅうのものかわるがわる


参 リ吾カ奇談 を聞ク四五枚 画を描ク

まいりわがきだんをきくしごまいえをかく


此 地松 茸 取 多て喰(シヨク)春る尓脂(ヤニ)能香(ニホイ)

このちまつたけとりたて  しょく するに  やに の  におい


あり江戸能松 多けハ此 香  ナシ此 家 能

ありえどのまつたけはこのにおいなしこのいえの

(大意)

(補足)

「堺」、境。

「吉備津の宮」、『きびつじんじゃ 【吉備津神社】

岡山市吉備津にある神社。大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)をまつる。1425年再建の吉備津造りの社殿は国宝。釜鳴(かまなり)神事で有名。備中国一の宮』

「湯立能釜」、『かまなり【釜鳴り・竈鳴り】

釜で湯を沸かしたり飯を炊いたりするとき,釜がうなるような音を立てること。古くは,その鳴り具合で吉凶を占った』

「銀二十目」、『め ㋐ 秤(はかり)で計った量。重さ。「―減り」㋑ 重さの単位。匁(もんめ)。「百―」』。

「銀目」、『ぎんめ【銀目】

① 江戸時代の,銀または銀貨を量る際の単位の名目。匁(もんめ)・貫(一〇〇〇匁)・分(ふん)(一〇分の一匁)などの名目があった。大坂を中心に行われた』、『匁』もんめ、② 江戸時代,銀目の名。小判一両の60分の1。

「宮内」、『宮内とは江戸時代の備中国賀陽郡宮内村のことです。備中国一宮の吉備津神社の門前町が起源です。江戸時代になると、宮内村は門前町として栄え、山陽道でも屈指の遊興街を形成しました。井原西鶴の著した『好色一代男』にも備中宮内として出てきます』とありました。

「木の下侯」、木下利虎(としとら)。明和元年(1764)〜享和元年(1801)。九世足守藩主。

「用人役黒宮氏」、黒宮献子、元文5年(1740)〜寛政6年(1794)。家代々足守藩の家老。浦上玉堂や古川古松軒とも交友があった、とありました。

「十二日」、天明8年九月十二日。1788年10月11日。

 家老の家へ訪ねたり、藩中の者たちがかわるがわる訪れてきたりと、江漢さん、やはり有名人?紹介状か何か持っていたのでしょうか?

 

2025年4月3日木曜日

江漢西遊日記三 その35

P35 東京国立博物館蔵

(読み)

浦 上 方 と同 シ事 也

うらがみかたとおなじことなり


十 日雨天 絹 地尓蘭画(ヲランタヱ)ヲ認  メル粋  吾カ側(ソハ)

とおかうてんきぬぢに   おらんだえ をしたためるせがれわが  そば


を不離  歓  フ事 限 リなし明(ミン)の季唐 カ画

をはなれずよろこぶことかぎりなし  みん のりとうがえ


軸 ニして精 妙  ナル者 也 亦 文 微  明 皆ナ以 テ

じくにしてせいみょうなるものなりまたぶんちょうめいみなもって


真 物 なり之 を珍 蔵 春

しんぶつなりこれをちんぞうす


十  一 日 雨 石 関 を出  立 して行キ个る向 フへ

じゅういちにちあめいしぜきをしゅったつしてゆきけるむこうへ


兵  右衛門来 リ先 々 滞 畄  い多し候  得と云 不畄

ひょうえもんきたりさきざきたいりゅういたしそうらえというとどまらず


して行ク尓往 来 ニ非  ミカドと云 処  へ出て

してゆくにおうらいにあらずみかどというところへでて


夫 より四里を過 て足 守 ニ行ク路 吉備(キヒ)

それよりしりをすぎてあしもりにゆくみち   きび


津の宮 アリ参 詣 春又 行 て備 中  能

つのみやありさんけいすまたゆきてびっちゅうの

(大意)

(補足)

「十日」、天明8年九月十日。1788年10月9日。

「粋」、倅。

「粋吾カ側(ソハ)を不離歓フ事限リなし」、江漢さんウホウホ喜んでいるのがわかります。

「明(ミン)の季唐」、宋の李唐。李唐(りとう、生没年不詳)は、宋の画家。

「文微明」、文徴明『ぶんちょうめい 【文徴明】[1470〜1559]中国,明の文人。名は璧,号は衡山など。詩・書・画に長じた。師の沈周とともに南宗画風の再興に尽くした』

「ミカドと云処へ出て夫より四里を過て足守ニ行ク」、岡山駅から吉備線で西へひとつ目の駅が備前三門、六つ目が足守。 

「往来ニ非」、前後のながれから意味を考えましたが、どうもよくわかりません。

う〜ん🤔