2022年7月31日日曜日

あさ可゛本物語(木村文三郎) その11

P8 国立国会図書館蔵

P9前半

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(読み)

○さう多゛可゛多づ奴るひと可゛

 そうだがたずぬるひとが


あるとてことさミをひ起

あるとてことしゃみをひき


このへん尓をるときゝあるじ

このへんにおるとききあるじ


を多のミよびよせ多る尓

をたのみよびよせたるに


つ満のミ由起奈れどどう

つまのみゆきなれどどう


やく多起多のまへを者ゞ可り

やくたきたのまえをはばかり


あるじとく右衛門尓めぐ春り

あるじとくえもんにめぐすり


(大意)

(娘)のようだが、尋ねる人が

あるとのことで、琴三味線を弾き(暮らしている娘が)

この辺にいるときいて、あるじに

頼んで呼び寄せました。

妻の深雪でしたが、同役の

多喜太の手前、名乗ることがはばかられ

あるじ徳右衛門に(盲目が治る)目薬


(補足)

 はなしがどうもこんがらがってきましたので、ネットでここまでの登場人物名で検索してみました。とても恥ずかしいことですがこの話は文楽(や歌舞伎)「生写朝顔日記」の短縮版でした。とても有名な文楽でありました。全く知りませんでした。その10以前をいろいろ修正しなければならないところがありますが、恥をしのんでそのままとします。

 ネットにあらすじがありましたので、そのあらすじのさらに要約を記しておきます。

まずは一番大まかな筋。

日向国(宮崎県)の城主秋月弓之助の娘深雪が一目惚れした、中国地方(山口県周辺)を治める大内家の家臣宮城阿曽二郎(後の駒沢次郎左衛門)をしたって家出し、目を泣きつぶし、盲目の門付芸人朝顔となって恋人の残した歌を琴三味線をひきながらうたい諸国を流浪する哀しいおはなしです。ちなみに阿曽二郎が深雪におくった歌は「露のひぬ間の朝顔に、照らす日かげのつれなきに…」。


あらすじがわかっただけでも、いままでのはなしがなんとなくわからなかったのがいろいろつながりました。

さて次は、この文楽「生写朝顔日記」にはいろいろな「〜の段」というのがありますが、この豆本では「蛍狩の段」「明石浦舟別れの段」「宿屋の段」「大井川の段」ということになります。

あらすじです。

 京都で儒学を修めていた宮城阿曽二郎は宇治川へ蛍狩りへ出かけます。折しもちょうどそのとき同じく蛍狩に来ていた秋月弓之助の娘深雪と知り合い、ふたりは恋仲となります。(ここまでは「蛍狩の段」)しかし宮城阿曽二郎は伯父駒沢了庵の命により大磯で郭遊びにふける主君を諌めるため、すぐに出発しなければなりませんでした。そののちふたりのすれ違いは何度もつづくのですが、「宿屋から大井川まで」(P6P7)の場面では役目をおえた阿曽二郎と島田の宿で出会いながら、目を泣きつぶし盲目の門付芸人朝顔となって琴を弾く深雪は、目の前の人物が阿曽二郎とはわかりません。

 阿曽二郎は駒沢次郎左衛門と名を変え、その同伴の岩代多喜太(お家乗っ取りをたくらむ悪者の一味で阿曽二郎を殺そうとねらっている)の手前名のれません。こののち、あのときの人が阿曽二郎と知った深雪は髪を振り乱し半狂乱となってあとを追い、大井川の渡しまで来たのですが川止めとなっていて泣きくずれたのでした。その後、忠義な家士に助けられ、目は回復して、阿曽二郎こと駒沢次郎左衛門と夫婦になり幸せに暮らしたのでした。めでたしめでたし。

天保3(1832)年、竹本木々太夫座初演とあります。

「ことさミをひ起」、「ひき」があるので琴三味線とわかります。「こと」は合字になってます。

「どうやく多起多の」、この話のあらすじがわかる前は、なんとく「多起多」は同伴者の名前だろうとはおもっていましたが、あらすじがわかって納得。

「めぐ春り」、さいしょは「めで春り」と読んでいて???でした。深雪が目をわずらっているので薬でした。

P8の武士はあらすじがわかったので宮城阿曽二郎(後の駒沢次郎左衛門)です。旅途中のため両刀は柄袋に覆われています。袴の柄がなんとなく朝顔っぽい。後ろの看板は「伊勢参宮」の一部分と「諸国御定宿」。

P9はあるじ徳右衛門(深雪の侍女の父)、顔の描き方が(阿曽二郎もそうですが)現在のの劇画ふうです。

 

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