P2前半 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
(読み)
元 禄 の比 可登よ南 部尓魯山 と天誹 諧 師
个゛んろく ころ 奈んぶ ろさん 者い可いし
げ んろくのころかとよなんぶにろさんとてはいかいし
阿り脚 行 尓出 多る比 日 向 の高 千穂と云 所 尓天
あんぎや いで ころひう可゛ 多可ち本 いふところ
ありあんぎゃにいでたるころひゅうがのたかちほというところにて
風 雅 の共 尓出逢ひ誘 れ天其 人 の家 尓泊 る尓
ふう可゛ とも で阿 さ曽ハ 曽のひと いゑ とま
ふうが のともにであいさそはれてそのひとのいえにとまるに
種 ゞ の馳走 阿りて後 主 人 と両 吟 の附 句をし多
志由\゛/ ち曽う のち志由じん 里やうぎん つけく
しゅじ ゅのちそうありてのちしゅじんとりょうぎんのつけくをした
(大意)
元禄の頃であったろうか。南部(盛岡市)に魯山という俳諧師がいた。
行脚に出ていたころのこと、日向(宮崎県)の高千穂というところで
俳諧の友に出逢い、誘われてその人の家に泊まった。
いろいろなご馳走のもてなしのあと、家の主人と両吟の附句をおこなった。
(補足)
「出多る」、ここの「多」は「さ」の横棒なしのかたちではなく「多」のかたちののこったほうです。
「所ニ天」、「ニ」はとても小さい。
「両吟の附句」、ふたりで連歌を付けあうこと。
元禄の頃のはなしですから1688〜1704頃のこと。岩手県は盛岡の俳諧師魯山が歩きに歩いて、途中船にのったかもしれませんが、宮崎は高千穂へ、日本縦断の行脚であります。歩くしか移動の手段がなかったとはいえ、それにしても健脚であります。