2025年2月28日金曜日

江漢西遊日記三 その2

P2 東京国立博物館蔵

(読み)

延 慶  ハ人 王 九  十  四 代 花 園 院 ノ年 号 也

えんきょうはにんのうきゅうじゅうよんだいはなぞのいんのねんごうなり


天 明 戌   ノ年 迄 四 百  八 十  九年 なり

てんめいつちのえのとしまでよんひゃくはちじゅうくねんなり


石 塔 寺能大 塔 の後 ロ尓九輪 の塔 アリ

せきどうじのおおとうのうしろにくりんのとうあり


左右 ニも数 々 アリ嘉元 二年 とアル者 アリ

さゆうにもかずかずありかげんにねんとあるものあり


四 百  六 十  四年 尓なる

よんひゃくろくじゅうよねんになる


十  三 日 曇 リて後 天 氣画色 \/認   ル

じゅうさんにちくもりてのちてんきえいろいろしたためる


十  四 日天 氣夕 方 大 キナル雷   二 ツなる爰 能

じゅうよっかてんきゆうがたおおきなるかみなりふたつなるここの


ぢゝ様 の像 出来上 ル中  喰 センザイ餅

じじさまのぞうできあがるちゅうじきぜんざいもち


江戸ニて汁 粉餅 ノ事 也 色 \/中 ヘ津き込

えどにてしるこもちのことなりいろいろなかへつきこ


ミ多る柿(カキ)もちを出春夕 飯 ニハ鯉 乃さしミ

みたる  かき もちをだすゆうめしにはこいのさしみ

(大意)

(補足)

「延慶(えんきょう)」、1308年〜1311年。

「人王」、『じんこう ―くわう【人皇】

① 神武天皇を初代とする代々の天皇(てんのう)のこと。それ以前の神代(じんだい)に対していう。にんのう』

「九十四代花園院」、花園天皇は95代天皇。

「天明戌ノ年」、天明8年。1788年。

「四百八十九年」、1788-1308=480なので延慶年間は480〜483年前。

「嘉元二年」、1304年。嘉元年間は1303年〜1306年。

「四百六十四年」、485年〜488年前。

「十三日」、天明8年八月十三日。1788年9月12日。

「ぢゝ様の像」、どうもこの肖像画らしい。

「柿もち」、果物の柿とは無関係、音をあてただけ。今でもあるかきもちのこと。

 12日から13日のこの頁まで7頁を費やしていて、忙しい一日を過ごしていた模様。

 

2025年2月27日木曜日

江漢西遊日記三 その1

P1 東京国立博物館蔵

(読み)

此ノ人 魚 塚 アル処  ハ仙 臺 侯 八 千 石 能

このにんぎょづかあるところはせんだいこうはっせんごくの


領  地と云フ蒲生 郡 日野ハ古 キ処  ニて

りょうちというがもうぐんひのはふるきところにて


古跡 多 し由来 分 明  なら春゛此 家 ニも

こせきおおしゆらいぶんみょうならず このいえにも


記事アリ餘暇なく写 しか多し此 碑ハ

きじありよかなきうつしがたしこのひは


町 者川れ尓綿(ワタ)向 の社  の堺  内 神輿 の

まちはずれに  わた むきのやしろのさかいうちみこしの


庫 能南  能土手ニアリ

くらのみなみのどてにあり


 二親幽霊無法界

 采五仏得道也

 方卒都婆志者為

 延慶三年十月十六日

 願主日記重吉


(大意)

(補足)

「分明」『ふんみょう ―みやう 【分明】〔「ぶんみょう」とも〕→ぶんめい(分明)に同じ』。『ぶんめい【分明】〔古くは「ふんめい」とも〕

① はっきりしていること。明らかなこと。また,そのさま。ぶんみょう。「結論を―にする」「既に勝負は―にして」〈金色夜叉•紅葉〉』

「写しか多し」、「写」は「冖」+「与」。ここのくずし字は「宿」みたいに見えて、どうも異なる漢字ではないかと。

「町者川れ尓」、「町」を「可」と読んで、しばらく悩みました。

「綿(ワタ)向の社」、「馬見岡綿向神社(うまみおかわたむきじんじゃ)」のことか。日野町の最高峰である綿向山(標高1,110m)の頂上に鎮座の綿向大神(天穂日命)を、平安時代初期の延暦15年(西暦796年)に里宮として現在の地に遷し祀り、蒲生上郡の総社として信仰をあつめた。

その後、当地を支配し城下町を築いた蒲生家が氏神として庇護し、さらに江戸時代には日野商人が出世開運の神として崇敬した、とありました。 

「堺」、「境」。

「延慶三年」(えんきょう)、西暦1310年。

 三冊目にはいりました。

江漢さん、碑文などを見ると、どうしても写し取ってしまう気持ちをおさえきれないようです。

 

2025年2月26日水曜日

江漢西遊日記二 その57

P68 東京国立博物館蔵

P69

(読み)

P68

日野ヨリ二里乾  の方 石塔(ドウ)寺

ひのよりにりいぬいのほうせき どう じ


ニアル大 塔 の圖

にあるおおとうのず


惣 高 サニ丈  五尺  余

そうたかさにじょうごしゃくあまり


文字ナシ

もじなし


何ツノ比 ノ物 尓や

いつのころのものにや


其 由来 ヲ知 者

そのゆらいをしるもの


ナシ此 外 ニ小  キ石 塔 アリ

なしこのほかにちいさきいしどうあり


コレハ年 号 アリ古代

これはねんごうありこだい


文字ナキ時 ノ物 歟

もじなきときのものか


此 塔 崩 レ

このとうくずれ


テアリシヲ石 塔 寺を創 立 シテ

てありしをいしどうじをそうりつして


此 塔 ヲ組ミ建 タリト

このとうをくみたてたりと


一枚石

八尺

一枚石

九尺

五尺三寸

同ク

四尺二寸


P69

石 塔 寺

いしどうじ


大 塔 ノ

おおとうの



此 石

このいし


タン皆

だんみな


石 塔

いしどう


なり


此 邊 ノ石

このへんのいし


塔 ニ嘉元

どうにかげん


ニ年 ト

にねんと


彫 付 テアル

ほりつけてある


アリ

あり


本 堂

ほんどう

(大意)

(補足)

現在の石塔寺。

正面の階段はなくなってしまってますが、全体像に変化はなさそうです。

 大塔は長い石段を登って結構上の方にあるのがわかります。

江漢さん、この程度の石段は息ひとつ乱さないでさっさと登ったはず。

「嘉元二年」、西暦1304年

 

2025年2月25日火曜日

江漢西遊日記二 その56

P66 東京国立博物館蔵

P67

(読み)

P66

漸  ク初 更 尓かえりぬ

ようやくしょこうにかえりぬ


人 魚 塚 の圖

にんぎょつかのず


日野より二里余  寅 の方 なり

ひのよりにりあまりとらのほうなり


前 の川 ハニ間 程 アリ末 ハ大 ヒ

まえのかわはにけんほどありすえはおおい


なる川 原となる

なるかわらとなる


蒲生 川 是 也 不動 堂

がもうがわこれなりふどうどう


ガマノ木

がまのき

P67

人 魚 能墳 八 角

にんぎょのつかはっかく


文字ナシ 一 尺  一 寸 余   一 尺  三 寸

もじなし いっしゃくいっすんあまり いっしゃくさんずん


土民 救世菩薩 ノ墳 ト云フ

どみんぐぜぼさつのつかという

(大意)

(補足)

「初更」、『こう かう【更】

一夜を5等分した,時間の単位。初更・二更・三更・四更・五更とする。季節によって長さが異なる。中国・朝鮮の古い制度の伝わったもの』。初更は五更の第一。また,戌(いぬ)の刻。一更。甲夜。現在の午後8時頃。

「川原」、「墳」は西遊旅譚には「センゲン」、「ツカ」とルビがありました。

「寅の方」、干支の方位図。

「ガマノ木」、カマツカの樹木のことだろうか。気乾比重0.83 - 1.0と非常に重硬、緻密で肌目は精。強靭で弾力に富み、折れにくいので玄翁、鑿、鎌、鉈、斧など工具や農具の柄に利用されるが、主な用途は玄翁やハンマーの柄で、特に石工の玄翁の柄としての酷使に耐えるほぼ唯一の国産材として定評がある、とありました。

 

2025年2月24日月曜日

江漢西遊日記二 その55

P65 東京国立博物館蔵

(読み)

本 堂 能石 津へ踏(フミ)段 其 外 皆 石 塔 能古 キ

ほんどうのいしづえ  ふみ だんそのほかみなせきとうのふるき


を用 ユ石 階(タン)を二三 十 間 登 ル其 石 多んも

をもちゆいし  だん をにさんじっけんのぼるそのいしだんも


皆 石 塔 なり登 リ津くして上 平 地ニして

みなせきとうなりのぼりつくしてうえへいちにして


百  五六 十 間 もあるべし中 尓石 能塔 あり画

ひゃくごろくじっけんもあるべしなかにいしのとうありが


圖ニ出ス雨 降 出ス日野ヨリ迎  の者 来 ル雨 具

ずにだすあめふりだすひのよりむかえのものきたるあまぐ


傘(カラカサ)ワランジ迄テ為持 来 ル邊 土ニてワランジ

  からかさ わらんじまでもたせきたるへんどにてわらんじ


もなき所  なり夫 より日野までハ二里田舎

もなきところなりそれよりひのまではにりいなか


路 なり田畑 を過 て亦 山 ニ入 皆 かや生  して

みちなりたはたをすぎてまたやまにいりみなかやしょうじて


大 木 なし雨 ヤミ月 を戴(イタゝ)ゐて其 路 蛉(スゝ)虫

たいぼくなしあめやみつきを  いただ いてそのみち  すず むし


春多゛くなきかやを押 分 \/  山 々 を見渡 し

すだ くなきかやをおしわけおしわけやまやまをみわたし

(大意)

(補足)

「石津へ」、いしずえ ―ずゑ【礎】〔石据えの意〕

① 建物の土台となる石。柱石。土台石。礎石。「建物の―だけが昔をしのばせる」

「ワランジ」、わらんじ わらんぢ 【〈草鞋〉 】

「わらじ(草鞋)」に同じ。「やつちの糸の―をはき」〈幸若舞・山中常盤〉

 「日野ヨリ迎の者来ル」わけですから、客人江漢さんをたいそう気遣い、それ相応にもてなしていることがわかります。雨の中鈴虫なく風情はあっても、「かやを押分\/」の田舎路、大変なことに変わりありません。

 

2025年2月23日日曜日

江漢西遊日記二 その54

P64 東京国立博物館蔵

(読み)

能堂 アリガマの大 樹 アリて其 傍  ラ六 角 能

のどうありがまのたいじゅありてそのかたわらろっかくの


塚 アリ是 人 魚 ツカなり前 尓僅(ワツカ)の流 レアリ

つかありこのにんぎょづかなりまえに  わずか のながれあり


蒲(ガ)モウ(生)河 是(コレ)也 人 魚 塚 ハ八 角 ニして文

  が もう   がわ  これ なりにんぎょづかははっかくにしても


字見へ春゛高 サ一 尺  一 二寸 下 ノ臺 石 横 一

じみえず たかさいっしゃくいちにすんしたのだいいしよこいっ


尺  三 寸 位  亦 四角 の塚 ハ救世(クセ)ぼさ川能津可

しゃくさんすんくらいまたしかくのつかは   くぜ ぼさつのつか


と云 人 魚 ハ蒲生 川 よりあかる推 古帝 二十

というにんぎょはがもうがわよりあがるすいこていにじゅう


七 代 四月 四 日聖  徳 太 子崩 御 の時 と云 日本

ななだいしがつよっかしょうとくたいしほうぎょのときというにほん


記ニアリ夫 よりニ里程 行キて石塔(ドウ)村尓

きにありそれよりにりほどゆきてせき どう むらに


至 ル其 一 村 尓入 ルとそこらあ多り皆 石

いたるそのいっそんにはいるとそこらあたりみなせき


とう能片 和れなり寺ラアリ石 塔 寺と云

とうのかわわれなりてらありいしどうじという

(大意)

(補足)

「人魚ツカ」、日野小野(この)にある。この二つの単語で検索すると、いわれがわかります。

「石塔寺(いしどうじ)」、赤印のところ。そこから4時方向に人魚塚。10時方向はもう琵琶湖。 

「石塔」、石塔婆(せきとうば)、石卒塔婆(いしそとば)ともいう。石造りの墓塔、供養塔の総称。遺物では、ここ滋賀県石塔寺三層塔が最古、花崗岩の高さ8m前後。

 

2025年2月22日土曜日

江漢西遊日記二 その53

P63 東京国立博物館蔵

(読み)

喰フ能を見 物 春故 ニ煎 餅 を与  ンとて出シ

くうのをけんぶつすゆえにせんべいをあたえんとてだし


个連ハ四 ツ五 ツ能小童 ハ傍(ソハ)迄て来 リて

ければよっついつつのこどもは  そば まできたりて


取リ个る尓六 ツ七 ツ位  能者 ハおそれて逃(ニゲ)

とりけるにむっつななつくらいのものはおそれて  にげ


去リ个る誠  尓山 村 ニして地面 平(タヒラ)可なら

さりけるまことにさんそんにしてじめん  たいら かなら


春゛山 尓家 を建テ家 数 四十  余軒 と云

ず やまにいえをたていえすうしじゅうよけんという


夫 より田婦案内 して人 魚 塚 を見ンとて

それよりたふあないしてにんぎょづかをみんとて


行ク事 四五町  路 能傍  ラ尓四角 なる塚 ヲ

ゆくことしごちょうみちのかたわらにしかくなるつかを


指(ユビサ)して示 ス吾 聞ク尓六 角 なりと云 ニ亦 一 人

  ゆびさ してしめすわれきくにろっかくなりというにまたひとり


老 婦能来 リて爰 ヨリ西 能方 不動 堂

ろうふのきたりてここよりにしのほうふどうどう


の前 尓ありと教  ル行キ見ル尓小 サき草 婦き

のまえにありとおしえるゆきみるにちいさきくさぶき

(大意)

(補足)

「四ツ五ツ能小童」、西遊旅譚巻二に「小野村山中の小童」の挿絵があります。

 江漢さん、ほんとに年寄り・子どもに優しい。

 

2025年2月21日金曜日

江漢西遊日記二 その52

P62 東京国立博物館蔵

(読み)

六 七 町  行 て門 徒宗  此 寺 ニ至 ル本 堂 ノ

ろくしちちょうゆきてもんとしゅうこのてらにいたるほんどうの


天井(テンセ ウ)尓雲 龍  左右 十  六 善 神 を画ク

   てんじょう にうんりゅうさゆうじゅうろくぜんじんをかく


筆 太トニして雲 谷 風 なり此 所  能人

ふでぶとにしてうんこくふうなりこのところのひと


能描(カキ)多ると云 爰 ハ一 躰(タイ)人 能利口 なる所  ニて

の  かき たるというここはいっ  たい ひとのりこうなるところにて


画などかく者 数 々 アリ爰 ハ蒲(ガ)毛う(生)郡 ト云

えなどかくものかずかずありここは  が もう   ぐんという


水 口 佐渡 守 加藤 侯 能領  地なり人 家

みずぐちさどのかみかとうこうのりょうちなりじんか


千 軒 余と云フ夫 より山 路 尓入 リ一 里余  を

せんけんよというそれよりやまみちにはいりいちりあまりを


行キて小野村 と云フ尓至 ル井田助 右衛門此

ゆきておのむらというにいたるいだすけえもんこの


所  ニ少  々  能知ル人 ありてそれヘよる爰 ニてベン

ところにしょうしょうのしるひとありてそれへよるここにてべん


トウを開 キ个る尓小童(コトモ)四五人 来 リてベントウを

とうをひらきけるに   こども しごにんきたりてべんとうを

(大意)

(補足)

「十六善神」、『じゅうろくぜんじん じふろく― 5【十六善神】

〘仏〙「般若経」とその誦持者の守護を誓った一六の夜叉(やしや)神。薬師十二神将に四天王を加えたもの。異説もある』

「筆」が「華」に見えます。

「雲谷」、『うんこくとうがん 【雲谷等顔】

[1547〜1618]安土桃山時代の水墨画家。肥前の人。毛利家に仕え周防の雪舟の旧跡雲谷庵を再興。雄勁な筆法と大胆な構図で障屛画を描いた。雲谷派の祖。萩市を中心に作品が残る』

「蒲(ガ)毛う(生)郡ト云水口佐渡守加藤侯能領地」、地図では能登守となっています。 

「小野村」、関宿というところが三叉路になっていて、その近所にこの村がありますけど、なんか変です。

 日野大窪町が中井本家の所在地。水口藩は初期から財政的に逼迫していたらしく、安永4年(1775)以降、仕送り方を依頼し、中井家も江戸の藩邸と水口城に毎月の費用を仕送る重責を負わされていた、とありました。

 中井家がこの時期、大富豪であったのは確かなようで、それなのに三井三越のように現在に生き延びてないのが不思議でした。このような大名を支える資金援助(大名貸し)があり、それが先々すべてチャラにされるわけですから、存続は難しかったのでしょう。

 

2025年2月20日木曜日

江漢西遊日記二 その51

P61 東京国立博物館蔵

(読み)

此 圓(マルイ)と丸 と能間  か者なれてある処  ハ皆ナ

この  まるい とまるとのあいだがはなれてあるところはみな


天ンてござる爰 で活(イキて)歩(アルイ)ていかれぬ

てんでござるここで  いきて   あるい ていかれぬ


此 天 を飛(ト)フ尓ハ神(タマシヒ)尓なら袮ハ飛ハれ

このてんを  と ぶには  たましい にならねばとばれ


ぬと云ヒ聞カ春れハ其 婦人 至極 ニがてん

ぬといいきかすればそのふじんしごくにがてん


していよ\/阿弥陀様 をお頼 ミ申  事 とて

していよいよあみださまをおたのみもうすこととて


重  尓菓子ニシメを贈  个る此 婦人 此 ノ

じゅうにかしにしめをおくりけるこのふじんここの


家 より近 所 ヘ嫁して今 屋も女(メ)となり多

いえよりきんじょへかしていまやも  め となりた


るなりと只 極 楽 へ行ク事 能ミ願 ふ人 也

るなりとただごくらくへゆくことのみねがうひとなり


十  二日 上  天 氣爰 ノ親類(ルイ)尓助 右エ門 と云ふ

じゅうににちじょうてんきここのしん るい にすけえ もんという


人 其 比 五十  位  ニて此 日案内 して先ツ

ひとそのころごじゅうくらいにてこのひあないしてまず

(大意)

(補足)

「十二日」、天明8年八月十二日。1788年9月11日。

 御婦人の「極楽というところはどこにございましょうや。その極楽に私は生きて参りとうござります。死んでいてはその極楽も見ることはできません。どうぞ生きたまま参りたく、そしてその極楽はどこにござります」と、畳にしかれた「地球ノ圖」を見ながら、江漢さんに迫ったのでしょう。手を合わせて祈る民衆の根源的な問いかけであります。

 くそ坊主なら、「えぇ〜っい!信心が足りぬ、祈りが足りぬ、もっともっと無心になって祈るのじゃ。祈りが足りぬから、そのような邪念をもつのだ」とでもいって、煙に巻くでしょうね。

 「生きて歩いて行かれぬこの天を飛ぶには神(たましい)にならねば飛ぶことができない」との、江漢さんのこの説法は妙な説得力があって、御婦人は至極納得、お重にお菓子やら煮しめをつめて贈られ、江漢さんはしんみりしつつもうれしかったことでありましょう。

 何度読み返しても、今そこで、隣の部屋で行われている出来事のように思われて仕方がありません。

 

2025年2月19日水曜日

江漢西遊日記二 その50

P60 東京国立博物館蔵

(読み)

参 りとふござ里ま春死シでいてハ一 向 尓

まいりとうござりますししでいてはいっこうに


夢中  故 どふそ生 て参  度 其 極 楽 ハ

むちゅうゆえどうぞいきてまいりたくそのごくらくは


どこでこさりま春と云フ爰 ハ多 ク門 徒宗

どこでござりますというここはおおくもんとしゅう


ニて此 門 も其 宗  旨ニて皆 極 楽 ヘやるつ

にてこのもんもそのしゅうしにてみなごくらくへやるつ


毛里なれど生 ていき多以ニハ坊 主もちと

もりなれどいきていきたいにはぼうずもちと


困  入 多ると見得タリ我 等爰 ニ於 て申  ニハ

こまりいりたるとみえたりわれらここにおいてもうすには


さて生(イキ)て居てハ極 楽 ヘいかれぬ訳(ワケ)ハ此

さて  いき ていてはごくらくへいかれぬ  わけ はこの


世界 能圖ハ丸 ヒ物 シヤ其 外 ハ天ンでご

せかいのずはまるいものじゃそのほかはてんでご


ざる此 様 なる世界 可゛天 の中 尓いくつもご

ざるこのようなるせかいが てんのなかにいくつもご


ざりま春其 うちニ極 楽 世界 可゛ありて

ざりますそのうちにごくらくせかいが ありて

(大意)

(補足)

「門徒宗」、浄土真宗のこと。真宗、一向宗とも。鎌倉初期,法然の弟子の親鸞が創始した浄土教の一派。阿弥陀仏の力で救われる絶対他力を主張し,信心だけで往生できるとする。

 江漢さんは、御婦人の心からの真摯な疑問と希望に、「坊主もちと困入多る」とおもいつつも、御婦人が一番納得するであろう答えを、きっと「地球ノ圖」を指さしながら、説明したこととおもいます。

 御婦人は真剣な表情で、「地球ノ圖」と江漢さんの顔を交互に見つつ、かすかにうなずくさまが見えてきそうです。

じつに、生き生きとした会話と場面が、感動的です。

 

2025年2月18日火曜日

江漢西遊日記二 その49

P59 東京国立博物館蔵

(読み)

て龍  吐水 ニて庭 尓水 をかけさて其 比 中

てりゅうどすいにてにわにみすをかけさてそのころちゅう


年 能婦人 是 ハ京  大 火事ニて此 所  ヘ奉

ねんのふじんこれはきょうおおかじにてこのところへほう


公 ニ来 りし者 也 相 應 尓暮 し多る者 尓や之(コレ)

こうにきたりしものなりそうおうにくらしたるものにや  これ


尓琴 を弾(ヒカ)せ个り亦タ吾 所 持し多る地球  ノ

にことを  ひか せけりまたわれしょじしたるちきゅうの


圖を取 出し来 ル人 々 尓講 訳  して見セ个るニ

ずをとりだしきたるひとびとにこうしゃくしてみせけるに


歳 比 三 十  六 七 位  能婦人 か多和ら尓居て

としごろさんじゅうろくしちくらいのふじんかたわらにいて


話 シを聞 し尓や可゛て近 くへより只(タゝ)今 御咄  ヲ

はなしをききしにやが てちかくへより  ただ いまおはなしを


承    ル尓天 竺 お釈 迦さ満能おいでなさる

うけたまわるにてんじくおしゃかさまのおいでなさる


所  も承(セ ウチ)ちい多しまし多可゛極 楽 と云 処  ハ何(イツ)

ところも  しょうち ちいたしましたが ごくらくというところは  いず


く尓こざりま春私   ハどふそ活(イキ)て極 楽 へ

くにござりますわたくしはどうぞ  いき てごくらくへ

(大意)

(補足)

「水」のくずし字は読めるようになりましたが、その形は形を持たぬように筆の流れにまかせたよう。その上の「龍吐水」では「水」は楷書。

「京大火事」、天明8年1月30日(1788年3月7日)に京都で発生した史上最大規模の火災。御所・二条城・京都所司代などの要所を軒並み焼失したほか、当時の京都市街の8割以上が灰燼に帰した。被害は京都を焼け野原にした応仁の乱の戦火による焼亡をさらに上回るものとなり、その後の京都の経済にも深刻な打撃を与えた。

「地球ノ圖」、この画像は江漢が各地で見せていたものではなく、江漢が作成した銅版画です。 

「講訳」、講釈。

 この場面、御婦人と江漢さんの会話は何度よんでもグッとくるところで、江漢さん独特の優しさあふれる受け答えに、そして御婦人の対応に目頭があつくなります。

 

2025年2月17日月曜日

江漢西遊日記二 その48

P58 東京国立博物館蔵

(読み)

伊州(セイシ ウ)よりハ寒 し朝 夕 ハ給  小袖 を用 ユ銅 板

   せいしゅう よりはさむしあさゆうはあわせこそでをもちゆどうはん


能そき目か年ハ此 様 なる物 初 メテ見ル故

のぞきめがねはこのようなるものはじめてみるゆえ


甚  タ者ヤ里二 人嫁 出て壱 人ハ孫 三 郎

はなはだはやりふたりよめでてひとりはまごさぶろう


妻 と見ヘ歳 十  六 七 紫   色 能ちりめん

つまとみえとしじゅうろくしちむらさきいろのちりめん


振 袖 を着て吾 尓逢フ老 人 夫 婦も

ふりそでをきてわれにあうろうじんふうふも


不離  して者なし春る家 尓蔵 春る画色 \/

はなれずしてはなしするいえにぞうするえいろいろ


出し見セル中 尓ハ能キ画もあり

だしみせるなかにはよきえもあり


十  一 日 朝 曇  ムシ暑 シニ枚 婦春満山 水 亦

じゅういちにちあさくもりむしあつしにまいふすまさんすいまた


ツイ立 花鳥  ヲ認  メル茶 菓子ホ 出してもてな春

ついたてかちょうをしたためるちゃがしなどだしてもてなす


日も暮レ个連ハ庭 能石 灯 籠 尓火をと保し

ひもくれければにわのいしどうろうにひをとぼし

(大意)

(補足)

「伊州(セイシウ)」、伊勢が念頭にあったのでしょう、「勢州」です。

「給小袖」、袷です。江漢さん、やはりそそっかしい。

「壱人」、主人ではない。

「十一日」、天明8年八月十一日。1788年9月10日。

「石灯籠」、「籠」が二文字のようにみえます。なぜか竹冠の漢字(筋など)はくずし字だと二文字のようになってます。

 江漢さん、これ以上はなかろうというおもてなしで気分は上々、「ニ枚婦春満山水亦

ツイ立花鳥ヲ認メル」とたくさんの作品を仕上げたようです。

「紫色能ちりめん振袖」、髪型はともかく、こんな姿だったのでしょうか。 

 手持ちのちりめん本「朝顔」の挿絵です。

 

2025年2月16日日曜日

江漢西遊日記二 その47

P57 東京国立博物館蔵

(読み)

ニて之 ハ画も好キな人 故 夫 より色\/

にてこれはえもすきなひとゆえそれよりいろいろ


所 持の物 を取 出し能そき目か年を

しょじのものをとりだしのぞきめがねを


皆 〃 見 物 して感 心 春ぢ〃様 も甚  タ

みなみなけんぶつしてかんしんすじじさまもはなはだ


よろこび者〃様 も出て話  春夫 より

よろこびばばさまもでてはなしすそれより


膳 を出春茶 碗 も里焼 物 坪(ツホ)ひら

ぜんをだすちゃわんもりやきもの  つぼ ひら


皆 料  理手き王なる事 也 爰 ハ湖水

みなりょうりてぎわなることなりここはこすい


へ毛遠 く魚  一 向 尓得か多し夜 ニ入 休

へもとおくさかないっこうにえがたしよるにいりやす


ミ希る尓夜具ハどん春也 蚊屋ハモヱギ

みけるにやぐはどんすなりかやはもえぎ


能紗(シヤ)なり遍里ハ緋ぢりめんなりき

の  しゃ なりへりはひちりめんなりき


十 日朝 曇 ル後 天 氣此 日野ハ山 中  故 可

とおかあさくもるのちてんきこのひのはさんちゅうゆえか

(大意)

(補足)

「焼物」、鯛の尾頭付きの塩焼きが正式。箸をつけずに持ち帰るのが通例。「坪」、煮汁の少ない小煮物。蒸してあんをかけるような料理。「ひら」、鳥・肉・野菜などのうま煮などを3品または5品盛り合わせる。平皿・平椀ともいう。本膳料理というらしい。

 料理もさることながら、寝具もとびきり上等な最高のもの。

「湖水」、琵琶湖。

「十日」、天明8年八月十日。1788年9月9日。現在の9月上旬で標高もある山の中でも、蚊帳は必要だったみたいで、「モヱギ能紗(シヤ)なり」とあって豪華。

  文化八(1811)年の江漢の随想集『春波楼筆記』は、自筆本・書写本はなく、現存するのは明治24年の翻刻された本ということで、中井家に関するところだけそこから抜き出しました。 

 道中、掘っ立て小屋の蚤虱が飛び跳ねて眠れぬような宿にとまることもあれば、大富豪の申し分なく、きっと江漢さんも経験したことのないような豪華なところもあって、これも旅の醍醐味。

 


2025年2月15日土曜日

江漢西遊日記二 その46

P56 東京国立博物館蔵

(読み)

金 持 とハ見へ連と是 ハ困 り多る所  へ参

かねもちとはみえれどこれはこまりたるところへまいり


多ると思 ヒ先 奥 の坐しきへ案内

たるとおもいまずおくのざしきへあない


して通 シ个る尓此 間  出来多る坐しき

してとおしけるにこのあいだできたるざしき


と見へて至  てき連ゐなり先 能 茶

とみえていたってきれいなりまずよきちゃ


を出し菓子を出し夫 より茶 津けを

をだしかしをだしそれよりちゃづけを


出タ春爰 ニ於 て申  ニハ我 等所 持し多

いだすここにおいてもうすにはわれらしょじした


る珍 物 をご覧(ラン)ン尓入レんと云 けれハ

るちんぶつをご  らん んにいれんといいければ


ハイ只 今 倅  可七 弟   かえりまし春其 時

はいただいませがれかしちおとうとかえりましすそのとき


拝 見 可仕     と申  程 なく弟   孫 三 郎 返 り

はいけんつかまつるべしともうすほどなくおとうとまごさぶろうかえり


て我 等ニあゐさ川春二   五六 歳 能人

てわれらにあいさつすにじゅうごろくさいのひと

(大意)

(補足)

「此間出来多る坐しき」、江漢の来訪は新築9年目にあたる。このときの間取り図が現存している、とありました。

「倅可七弟」、「弟孫三郎」、光武の三男、正治右衛門。本名を武成といい、のちに京都店・尾道店をまかされ、京都中井家の当主となる、とありました。

 江漢さん、最初は困惑を隠せませんでしたが、「能茶を出し菓子を出し夫より茶津け」とすすむにつれて、ご機嫌になってきました。

 

2025年2月14日金曜日

江漢西遊日記二 その45

P55 東京国立博物館蔵

(読み)

へかえら春゛夫 故 老 人 出てあな(アナタ)ハどち

へかえらず それゆえろうじんでて   あなた はどち


羅からお出 と問フ故 尓私  ハ江戸の者 ニ

らからおいでととうゆえにわたしはえどのものに


て兼 て子息 可七 様 とハ御懇 意ニて

てかねてしそくかしちさまとはごこんいにて


此 度 長 崎 能方 へ参  候   可 是 より京  へ

このたびながさきのほうへまいりそうろうべくこれよりきょうへ


参  候   序  尓此 日野へお尋  可   申とお約

まいりそうろうついでにこのひのへおたずねもうすべしとおやく


束 い多しまし多可゛未 タお返 りハなきヤと

そくいたしましたが いまだおかえりはなきやと


申  け連ハ左様 なら先 お上 リなされま

もうしければさようならまずおあがりなされま


しと云フ然 し此 ぢゝ様 一 向 尓物 好キ

しというしかしこのじじさまいっこうにものずき


毛なさふ(ナササウ)ニ見へる人 ニて家内 を見れハ

も    なさそう にみえるひとにてかないをみれば


人 も春くなく然 シ家 ハ能 婦志ん尓て

ひともすくなくしかしいえはよきふしんにて

(大意)

(補足)

「子息可七様」、前頁「其子息ハ四十位」のこと、漢字は喜七のようです。

「家内を見れハ人も春くなく」、全国に出店をだし商網が整うと、江州日野の本家では商品を取り扱わず、光武自身がここで全国の出店から月次の営業報告を受け采配をふるった。現業から離れたため、本家にも支配人以下手代をおいた。二百数十年前とはいえ、現在の商社の体制とかわることがないのでした。

 『近江商人中井家の研究』(雄山閣)には「中井家コンツェルン」ともいうべき、当時としては極めて進んだ近代的合理的な経営方法によって営まれた、史上注目すべき存在であることが明らかにされている、とありました。

 文化八(1811)年の江漢の随想集『春波楼筆記』には、このときの訪問ことがかなり詳しく記されています。

 歴史上の大商人の会話や家でのもてなしの様子がタイムマシンに乗って時代を遡り、見ているよう。

 

2025年2月13日木曜日

江漢西遊日記二 その44

P54 東京国立博物館蔵

(読み)

二 ツ渡 ル夫 より山 尓登 る二里を経てかゐ

ふたつわたるそれよりやまにのぼるにりをへてかい


掛 と云 処  人 家アリ爰 ニて昼  喰 を春る未(イマ)多

がけというところじんかありここにてちゅうじきをする  いま だ


四ツ半 比 なり夫 より田能間 タを行クさて日野岡 本 町  ト

よつはんころなりそれよりたのあいだをゆくさてひのおかもとちょうと


云 処  尓至 ル尓爰 ハ家 並  てあれとも前 ハマサ

いうところにいたるにここはいえならびてあれどもまえはまさ


木能生 垣 ニして少 シ引 込ミて見世の様

きのいけがきにしてすこしひきこみてみせのよう


子あり薬 種 屋多 し爰 ニ中 井源 左

すありやくしゅやおおしここになかいげんざ


衛門 とて一 代 尓三 十  万 両  能金 持 尓

えもんとていちだいにさんじゅうまんりょうのかねもちに


なり多る人 也 源 左衛門 隠 居 して其 比 七

なりたるひとなりげんざえもんいんきょしてそのころなな


十  六 七 ニなる老 人 ニて其 子息 ハ四十  位

じゅうろくしちになるろうじんにてそのしそくはしじゅうくらい


ニて奥 州  仙 臺 尓見世ありて未 タ日野

にておうしゅうせんだいにみせありていまだひの

(大意)

(補足)

「四ツ半比」、午前11時頃。

「かゐ掛」鎌掛(かいがけ)。『鎌掛の屏風岩(かいがけのびょうぶいわ)は、滋賀県蒲生郡日野町にある国の天然記念物に指定された巨岩の露頭である』とウィキペディアにありました。

「日野岡本町」、近江蒲生郡日野。この辺一帯は、全国的に商網をはって活躍、商業界を制した近江商人の根拠地である、とありました。

 わたしはずっと長いこと近江商人の本拠地は琵琶湖南端大津付近だと勝手に思い込んでいました。大間違いでした、お恥ずかしい。こんな山奥だったのですね。先に松坂が三井越後屋から現在の三越になった本拠地と記しましたが、ここはまぁ海からも近いからなんとなくそうかと納得できましたが、ここ日野付近は山奥、とても不思議です。 

「薬種屋」、蒲生郡日野から甲賀郡一帯にかけては、今でも売薬業の盛んなところである。他に編み笠・麻布・蚊帳・漆器・畳表などが産物。

「中井源左衛門」、近江商人の中でも第一流の巨商。江戸時代を通じて近江商人中第一位の座を保ち続けた。江漢の随想集『春波楼筆記』(文化8(1811)年)にはこのときの訪問の様子がさらに詳しく記されています。

「一代尓三十万両能金持」、中井家の財産は、享和4(1804)年に11万5375両1分と計上されているので、これはうわさか、とありました。

「其比七十六七ニなる老人」、中井家初代源左衛門光武(享保元(1716)〜文化2(1805))はこのとき72歳。こののち寛政6(1794)年79歳で隠居。

「其子息ハ四十位」、光武の次男彦太郎。本名光昌。宝暦7(1757)年〜文化5(1808)年。長男が早世したので二代目をつぎ、仙台・相馬の支店をまかされた。

「奥州仙臺尓見世あり」、初代源左衛門時代には、全国に出店十店を開設した。仙台開店は三番目、明和6(1769)年。仙台店では、奥州地方から関東北部にわたる物産(ex.生糸・紅花」・青苧(あおからむし。麻の一種)・蝋・大豆・小豆・漆など)を買い入れ、おもに京阪地方に送り、奥州地方へは、古手・綿・木綿を送り、歓迎された。仙台店ではこの産物回しの商法で最も繁盛した店で、こうした出店は本家から派遣された支配人が統括した、とありました。

 

2025年2月12日水曜日

江漢西遊日記二 その43

P53 東京国立博物館蔵

(読み)

八 日天 氣西 風 六 軒 を正  六 時尓出  立 して

ようかてんきにしかぜろっけんをしょうろくじにしゅったつして


三 里程 過 て津尓出て夫 ヨリ窪田(クホタ)と云フ処

さんりほどすぎてつにでてそれより   くぼた というところ


ヘ一 里半 アリ亦 椋 本 と云 ヘ二里を経て松

へいちりはんありまたむくもとというへにりをへてまつ


山 な王手を過 て楠 原 と云 処  へ一 里あり

やまなわてをすぎてくすはらというところへいちりあり


亦 関 ヘ一 里坂 の下 ヘ一 里二十 町  余来 リ

またせきへいちりさかのしたへいちりにじっちょうよきたり


て坂 能下 尓泊 ル爰 まて皆 山 路 なり

てさかのしたにとまるここまでみなやまみちなり


九  日上  天 氣夜 の引 明 尓坂 の下 を出  立 して

ここのかじょうてんきよるのひきあけにさかのしたをしゅったつして


山 中 尓て明 ル往 来 皆 山 路 ニして土 山 尓

やまなかにてあくるおうらいみなやまみちにしてつちやまに


い多る宿 の者川れより右 尓入 日野へ行 路

いたるやどのはずれよりみぎにいりひのへゆくみち


なり山 路 ニかゝ里小川 ニ 瀬越ヘ亦大 河 を

なりやまみちにかかりおがわふたせこえまおおかわを

(大意)

(補足)

「八日」、天明8年八月八日。1788年9月7日。

「六時」、午前6時。

 津・窪田・椋本(むくもと)・楠原・関・坂下と宿場名が続きます。津より左斜め上に上る街道です。

 坂の下宿に泊まり、さらに山路を歩きます。坂下・山中・土山・鎌掛です。 

山路という言葉が何度も出てきてます。恐らくではなく絶対に山深き難所に違いありません。これだけの山路を歩いて、暑く汗でびっしょりな様子の記述がないのは、標高があってそれなりに気温が高くないからなのでしょうか。

 古地図の地名がいくつも上の画像にのっています。現在の地図でもそれらが、市町村合併で古い地名が失われているのですが、ほぼすべて残っているのに驚きました。

 

2025年2月11日火曜日

江漢西遊日記二 その42

P52 東京国立博物館蔵

(読み)

坂 と云 処  尓森 嶋 平 四良 と云フ者 能処  へ

さかというところにもりしまへいしろうというもののところへ


津能茶 人 の手紙 を添ヘ我 等尓よるへしと

つのちゃじんのてがみをそえわれらによるべしと


云 故 尋  け連ハ入 口 ニ札 を掛 多り曰  儒 者

いうゆえたずねければいりぐちにふだをかけたりいわくじゅしゃ


学 者 虚 名 の者 並  尓物 もらい不可入   と

がくしゃきょめいのものならびにものもらいいるべからずと


あり夫 故 よら春゛爰 ハ山 田への往 来 ニて

ありそれゆえよらず ここはやまだへのおうらいにて


埒 もなき色 \/能者 よ里て難ン義なる

らちもなきいろいろのものよりてなんぎなる


事 なるべし夫 より櫛(クシ)田川 を越へ又 よ程

ことなるべしそれより  くし だかわをこえまたよほど


行 松 阪 なり一 里手前 より三 宝 かう神 能

ゆきまつざかなりいちりてまえよりさんぽうこうじんの


馬 尓初 メて乗りて見多り漸  ク六 軒 茶 や尓

うまにはじめてのりてみたりようやくろっけんじゃやに


参  爰 尓てあしき家 尓泊 ル

まいるここにてあしきいえにとまる

(大意)

(補足)

「森嶋」、「森」のくずし字の下半分がへんてこりんです。調べてみてもなるほどこんな形でした。

「三宝かう神」、江漢さん、ほぼこれと同じようなものに乗ったのでは。 

「六軒茶や」、地元松阪市六軒町の説明板の内容です。

『六軒茶屋の賑わい

伊勢街道沿いの宿場町であった六軒茶屋はお伊勢参りの人々で江戸時代に大いに栄えた。文政13年(1830年)におかげ参りが流行した時には、日に数万人の人々が六茶屋を往来したとある。伊勢音頭道中歌にも「明日はお発ちか、お名残り借しや、六新茶屋まで送りしょ・・・」と唄われている』

 江漢さん、北上し亀山から琵琶湖方面をめざします。

 

2025年2月10日月曜日

江漢西遊日記二 その41

P51 東京国立博物館蔵

(読み)

七 日天 氣筥(トハ)より舟 ニ能里小嶋 数 々 能間

なのかてんき  とば よりふねにのりこじまかずかずのあいだ


を乗る尓景色 妙 也 飛 嶋 右 ニ見て左

をのるにけしきたえなりとびしまみぎにみてひだり


尓浅 間山 を望 ミ二里程 も走 リ二 見能岩

にあさまやまをのぞみにりほどもはしりふたみのいわ


を左  ニ見夫 より一 里程 過 て三 軒 屋と

をひだりにみそれよりいちりほどすぎてさんげんやと


云フ処  尓入 内 川 なり爰 ニて風 少  々  吹 出春

いうところにいるうちかわなりここにてかぜしょうしょうふきだす


沖 ニて風 出ルと甚  タ武川かしき処  なりと三

おきにてかぜでるとはなはだむずかしきところなりとさん


軒 屋と云 処  を五六 町  過 て川 﨑 なり爰 ヨリ

げんやというところをごろくちょうすぎてかわさきなりここより


宮 川 能渡 シへ一 里さて山 田ハ裏 \/まで

みやかわのわたしへいちりさてやまだはうらうらまで


草 婦きなし皆 瓦屋(カワラヤ)なり川 を渡 リて

くさぶきなしみな   かわらや なりかわをわたりて


一 里行キて昼  喰 春亦 一 里半 過 て金剛(コンコウ)

いちりゆきてちゅうじきすまたいちりはんすぎて   こんごう

(大意)

(補足)

「七日」、天明8年八月七日。1788年9月6日。

「筥」、笘(とま『①ふだ。 文字を書くふだ。 箋(セン) ②むち。 竹のむち』)の音をあてて鳥羽。前頁でも鳥羽の部分を白塗り(胡粉か?絵師なので手元にはいつもある)して修正してますが、鳥羽の漢字を思い出せなかったわけでもないでしょうに。

「浅間山」、朝熊(あさま)山。この古地図の底辺中央左寄りに朝熊獄(あさまだけ)があります。

「川﨑」、赤丸が河崎。この地図でも江漢がたどった航路や渡しを確認できます。

そして金剛坂は赤丸のところ。 

次頁に出てくる櫛田川が金剛坂のすぐ先に、さらにその先は松坂なり。


 

2025年2月9日日曜日

江漢西遊日記二 その40

P50 東京国立博物館蔵

(読み)

入 又 渚辺 を行キ磯 津多えへ行 事 なり池

いりまたなぎさをゆきいそづたえへゆくことなりいけ


の浦 と云 処  池 の様 ニ海 入 込ミ飛 嶋 亦 ハ七 ツ

のうらというところいけのようにうみいりこみとびしままたはななつ


嶋 と云 処  アリおもしろき処  なり夫 より松

しまというところありおもしろきところなりそれよりまつ


山 過 て鳥羽(トハ)尓至 ル八時半 比 なり爰 ハせま

やますぎて   とば にいたるやつはんころなりここはせま


き所  なれと大廻(マワ)し能舩 爰 ニ舩ナか〃里春る

きところなれどおお まわ しのふねここにふながかりする


所  なり旅 館 多 し爰 迄 五十 町  一 里にして四里

ところなりりょかんおおしここまでごじっちょういちりにしてしり


能路 ナリ旅 館 能裏 能口 より出テ四五町

のみちなりりょかんのうらのくちよりでてしごちょう


山 ニ上 ル即  チヒヨリ山 と云 山 上  ニ小 サキ亭 能

やまにのぼるすなわちひよりやまというさんじょうにちいさきていの


如 キありて四方 を眺 武ニ嶋 数 々見 ヘ能き

ごときありてしほうをのぞむにしまかずかずみえよき


風 景 なり爰 ニヒヨリを見定 メ舩 ヲ出タ春と

ふうけいなりここにひよりをみさだめふねをいだすと

(大意)

(補足)

「飛島」、上部中央緑色の島。

「八時半」、午後三時頃。

「大廻(マワ)し」、『おおまわし【大回し】

② 小さな港には寄らず,主要港間を行く航海。特に,江戸と大坂を結ぶ航路にいう』。紀州から鳥羽に入った舟は、ここから下田まで直行した。

「ヒヨリ山」、上の地図にも坂手島があり、その向かいの山が日和山。 

 現在の日和山の写真。 

 現在でも頂上には展望台があります。写真では登るのが大変そうに見えますが、江漢の日記では散歩がてらにちょいとと言う感じです。

 

2025年2月8日土曜日

江漢西遊日記二 その39

P48 東京国立博物館蔵

P49

(読み)

鳥羽浦

とばうら


ヒヨリ山

ひよりやま


爰 ハ諸 国 の舩

ここはしょこくのふな


港留(カ〃リ)て天 氣

   かかり でてんき


風 を見合 て

かぜをみあいて


舩 を出ス処

ふねをだすところ


なり

なり


小嶋 数 々

こじまかずかず


見ヘル

みえる

P49

北流到吾屋断橋幽人傍岸帰と夫

            とそれ


より五六 町  行 て浦 邊なり山 の根尓岩

よりごろくちょうゆきてうらべなりやまのねにいわ


二 ツあり其 波 うちニてこ里ヲ取ル処  聞 しより

ふたつありそのなみうちにてこりをとるところききしより


ハザツトし多る処  なり其 岩 能根を飛ヒ越シ

はざっとしたるところなりそのいわのねをとびこし


浦 邊津多へ尓と者゛浦 尓行く其 路 往

うらべつたえにとば うらにゆくそのみちおう


来 尓非 ス程 なく一 村 尓入 ル川 あり舟 ニて渡 ル

らいにあらずほどなくひとむらにはいるかわありふねにてわたる


夫 よりしてハ山 能腰 を行ク一 向 道 不知 して

それよりしてはやまのこしをゆくいっこうみちしらずして


路 を問フ人 もなき処  ヘ老 婆と小童  二 人

みちをとうひともなきところへろうばとこわらわふたり


行 を見付 其 者 能後 ニ付キて行ク尓山 一 ツ

ゆきをみつけそのもののあとにつきてゆくにやまひとつ


越して磯 邊へ出て岩 ニ飛 能り或  ハ海 ニ

こしていそべへでていわにとびのりあるいはうみに

(大意)

(補足)

 戯れの一句の意味は不明ですけど、あなた(月僊)とわたしは川の橋も壊れて、もう二度と会うことはないでしょうよ、といった感じか?

「こ里」、『こり【垢離】神仏に祈願する前に海水や冷水を浴びて,心身の汚れを落とし,清めること。水ごり』。伊勢神宮が近いのでこのあたりの川辺や海辺にいくつかあったよう。

「ヒヨリ山」、当時もそれからも風待ちの重要な港でありました。

 きれいですね。